突然の提案
八月。それは日本において、一年のうち最も暑いとされるホットな季節。
昨今は五月や六月から夏みたいな気温ではあるが、やはり本場の夏は日差しから別格とも言える。ついこの前まで苦しんでいた七月さえ、この八月に比べればましだったと思えるくらいだ。
それにしたって暑ぃ。いくらあちぃと言っても、やっぱり今年はあちすぎるよぉ。
流石は今年一番の猛暑日。不要不急の外出は避けるべき、なんて美人なお天気キャスターも言っていたくらいな暑さは伊達じゃない。
あーあ。こういう日こそ外より涼しいダンジョンで程々に動いてから、あの銭湯でさっぱり汗を流して、冷房のある部屋でコーラ飲みながらゴロゴロしたかったんだけどなぁ。
……にしても遅い。本当に遅すぎる。
スマホの時計は集合時間の十二時をとっくに過ぎている。急に連絡してきていきなり指定してきたのはあっちだってのに、どうしてこう時間にルーズでいられるんだか。
「おっ、中々早いじゃないか。感心だぞ、とめる青年」
パタパタと、無駄な抵抗だとは知りながらも手で自分で仰がずにはいられず。
いよいよ近場のコンビニにでもこもっていなければ、体内のお水が全部飛んじゃうんじゃないかなと。
多少の苛つきを覚えながらも日陰のある柱に寄りかかり、ハンカチで額の汗を拭っていたときだった。何の悪びれもないとばかりに、けろりとした女性の声が俺の名を呼んできたのは。
「……そういうの、散々待たせた人間が言う台詞じゃないと思うんですけど。夏場の待ち合わせで三十分以上待たせてくる人、フィクションの中だけじゃないんですね」
「悪かった、悪かったって。今日は完全オフのつもりだったのに、つい仕事が入っちまったんだ。……だがこれでまた一つ、人生の師匠から大事なことを学べたな? 世の中には自分から誘っておいて、平然と遅刻してくるクズもいるんだってよ」
せめて暑さ分の嫌味を贈ってやるが、さらりと返されてはそれ以上何も言えずにそちらを向けば、そこにいたのは白のパンツに黒のノースリーブ、首筋の傷を隠すように巻かれたチョーカーを身に纏った赤みがかった茶髪の美女。
街中で目を引くほどの、この前会ったシンディさんに決して引けを取らないスタイルを持つ彼女。今日誘ってきた張本人──火村茜は、にやりと笑みを浮かべながら手を挙げてきた。
「お、どうした? さては休日の大人な私の魅力に惚れたか? んん?」
「……そうだとしても、遅刻と言動で台無しですね」
「辛辣だなぁ。……さてはお前、真面目そうな面して相当なドSだったりする?」
「今日はプライベートなので。まあ大丈夫ですよ。火村さんの私生活がどんなにあれだったとしても、ダンジョン内では尊敬出来るかっこいい師匠のままですから」
ちゃんとした理由があるのなら、連絡してくれればそれで十分なのにと。
ダンジョンの中でとは違う美人師匠の姿に、思わず目を奪われてしまったなどと思ってしまいながら、わざわざ言葉にするのも負けた気がするので素であろうと心がけ、ともかくちゃんと来てくれたことに一安心しながら歩き始める。
とはいっても、目的地はすぐそば。見えていた大規模な施設──競馬場に到着し、そのまま中へと進んでいく。
「にしても……競馬場って初めて来ましたけど、思ってたよりずっと大きいですね。それにイメージと違って、なんていうか──」
「女子供が多い、だろだろ? 馬券買って見るだけの汚い場所なんてのは、所詮は一昔前の固定観念でしかない。今や初心者やキッズ連れ、更にはファミリーにだって優しいアミューズメントパーク! 最早ここに住んだって不足はない場所ってわけよ!」
中を歩きながらのキョロキョロしていた俺の反応に、火村さんはそれはもうにやつきながら饒舌に語ってくる。
レストランにフードコート、更にはコンビニやグッズショップなど。
確かにイメージしていたような、たばこと酒がそこらかしこに落ちているギャンブル場のイメージとは異なる、ちょっとしたスポーツ観戦に近い雰囲気ではある。
獣特有の臭いはあれだが、これは偏見を改める必要があるかもな。
しかし色々ある……はえー、馬との触れ合いコーナーもあるんだ。……どうしよう、ちょっと行ってみたいな。
「ま、特別でかくて綺麗なのはここくらいだけどな。あっちはあっちでむしろ趣きがある、みんな違ってみんな良いってな?」
「ええ……」
前言撤回。別に改めなくても良さそうだ。
……しかしあれだ。どことなく視線が集まっているような気がするのは、やはり気のせいではないだろう。
原因は恐らく、というか間違いなく隣の美女師匠こと火村さんだ。
街中にいたらちょっとくらいは見ちゃう気持ちはよく分かるし、隣にいる間抜け面の平凡男に嫉妬を向けるのも理解出来る。だからあえて心の中でドヤ顔してやろっと。
そうして軽食やビールの購入を済ませた俺達は、何故か下ではなく上へ上へと上がり最上階へ。
先に馬券を買うのかと思ったのだが、そうではなく。
疑問のままついていけば、なんかスタッフがいたゲートを越えて辿り着いたのは清潔さのある、ゆとりのある指定席だった。
「どっこいせ! そんで……プハア! あー最高っ! 席まで買ったのに急に仕事入ったときは最悪の気分だったが、この一杯のためと思えば悪くなかったな!」
「ひ、火村さん? この席、いくらしたんです……?」
「縮こまるなって、別にそこまで高くねえぞ? しかしまあ、こういう暑い日は良い席取って上からビール片手に見るに限るわ! 外はもちろん下にだってそれぞれ魅力があるんだが、あっちだとたまに胸や尻触られそうでうざいんよな!」
待ち遠しかったとばかりにごくごくと、先ほど買ったビールを喉へ流し込んでいく火村さん。
最上階から見下ろす緑のターフ。眼前に大きく設置されているモニター。背もたれが高く、ゆったりとした座り心地のシート。
そして何と、ガラスで仕切られた大きな空間は何と冷房で快適に過ごせるようになっており、更にはコンセントまであるといった優遇っぷり。
てっきり下の立ち見で多くの人々に混ざりながら観戦すると思っていたが、流石は大手企業勤めの財力といった所か。
まあ席代や途中で買ったたこ焼き、更にはビール代の一切を出してもらってしまった身としては、とても醜い嫉妬なんて抱く気にはなれず。
むしろゴマすって更に恩恵を預かろうとしてる自分に呆れながら、自分もまた買ってもらったビールを一気に流し込む。
……プハア! あー美味しいっ!! 散々待たされて汗掻いた後のビールは最高だわっ!!
しかし競馬場に指定席あるのも初めて知ったが、まさかこんないい席でゆったり観戦出来るとは。
見ろ、下で席なくうようよしてる人達がゴミのよ……俺の金じゃないんだ、やめておこう。
「で、火村さん。俺ズブの素人なんですけど、おすすめな馬とかいます?」
「そこは男であり、私の弟子であるならバシッと勘で行くもんさ。まあ気楽に選びな! 小難しい理屈ガン無視なビギナーズラックで大当たり、なんてのは初心者だけの特権だからよ!」
どうせまだ何レースかあるからよ、と。
隣でえらく饒舌に競馬のいろはを語りながら、慣れた手つきでマークシートを埋めていく火村さんに心の中でため息をつきながら、言われたとおりマークシートと向き合ってみる。
……駄目だ、さっぱり分からん。
そもそも馬の名前さえ書いてないただのマークシートだぞ。何をどう決めればいいんだ?
えーっと、とりま一番当たりそうな単勝でっと。
そもそもどんな馬が出るかさえ分からないから適当にっと。……へー、賭ける額もマークシートに書くもんなんだ。そういうのは券売機で指定するのかなと思ってたわ。
それでどうしよう。確か財布に入っているのは千円札二枚に小銭がポロポロ。
……まあ最悪電子マネーのお金で電車乗れるだろうし、例え足りなくとも時間止めれば歩いても夜が明けることもないんだから、今日は好きに使ってしまおう。
無知とは思えない財布の紐の緩さに、やはり自分はギャンブルしちゃ駄目な人間だなと再認識しつつ。
出来れば当たって欲しいと切に願いながら適当な馬を選び、小銭をお試し価格にして馬券を購入した。
手元に残った馬券こそ、俺がこつこつダンジョンで稼いだ血肉の成れの果て。
これが紙くずに堕ちるか、賭けた額より多い銭となるかは神様の気分次第ってわけだ。うーん、ギャンブルってのは怖いね。
お金の儚さを実感しつつ、馬券も買って一息つけばすぐにレースが始まろうとしている。
ついにゲートが開き、我先にと駆け出す十数匹の馬。
激しい足音と歓声に面食らいながらも、自身の賭けた番号の馬と騎手を勝利を願って見守り、ついには最終コーナーを曲がり、鞭打たれ速度を上げた馬達はゴールへと突き進んでいく。
「あーくそっ! 最後捲られやがって! 三着合ってりゃ三連単だったのによぉ!!」
順位が発表されるよりも前に、隣で心の底から悔しそうに台パンする火村さん。
俺の方も選んだ馬ではなかったため、手にある二百円の馬券は無事紙切れへとなったわけだ。ちくせう。
「どうだ? 乗り気でなさそうだったギャンブルも、やってみりゃ意外と熱くなれるだろ?」
「……ええまあ。思ったより、ずっと盛り上がれそうです」
たった二百円の損失ではあるが、それでも悔しいものはどうしようもないほど悔しく。
ぐしゃりと馬券を握りつぶしてしまった所で、こちらに顔を向けていた火村さんはにやりと笑みを浮かべてきたので、そっけなく返してからビールを飲んで誤魔化しておく。
……楽しいけど、素直に認めるのは癪なんだよな。楽しいけどさ。
「そういえば火村さん。彼氏いるらしいですけど、男と二人で遊んでいいんです?」
「ああ? ……ああ、まあいいんだよ別に。知るもんかよ、あんな馬鹿のことなんか」
照れくささを誤魔化すように、強引に話題を切り替えてみようと尋ねてみると、火村さんは浮かべていた笑みを消し、ターフへと目を向けながら冷めた目と口調で話してくる。
まるで思い出したくもないことを思い出してしまったと。
そんな風に見えてしまい、楽しい時間に水を差す質問をしてしまったことを後悔していると、隣から伸びてきた手にわしゃわしゃと頭を撫でてから、ビールを買いに席を立ってしまう。
……ここまで子供扱いされると、ちょっとというか結構悔しい。
確かにあの人は社会人で俺は学生で、成人してようが大人と子供でしかないけどさ。
それでも火村さんほどの美女、普段お世話になっている師匠に少しくらいは男として思われたと思ってしまうのは、間違っていることだろうか。
「ほれ、ビール追加だ。さっきデリカシーのないこと言ったから、罰としてありがたーく受け取りな?」
「……ありがとうございます。罰としては、随分生温いものですけどね」
「ハハッ、ブツ自体はキンッキンに冷えてるけどな!」
笑いながらどさりと席に座り、せっかく買ったビールを瞬く間に空にしていく火村さん。
敵わないと思いながら、受け取ったビールを口に付け、アルコールの力も借りて気持ちを切り替えていく。
その後もレースは続き、要領を掴んでちょこちょこ賭けていくも、大穴狙いなせいで一勝さえすることは出来ず。
そしてついに第十一レース。ラスト二回のレースに差し掛かった途端、競馬場は今日一番は湧き上がる。
「お、来たな来たなー? 今日のレースの大一番、私の本命七番ヒカリジュエルちゃんのご登場だ!」
注目を浴びながら登場したのは、模様の一つさえない真っ白な馬。
どうやら人気な馬らしい。まあ安定らしくオッズが低かったから、俺は賭けてないんだけどね。
ちなみに俺が賭けたのは三番のニシキエボシ。
その倍率、なんと二百三十八倍。残っていた千円を賭けたので勝ったら二十万ちょいの大勝利。負けたら今日の夕食は冷蔵庫に残っている何かだ。
「いけ、いけ、いけっ!!」
俺にとっても今日一番の大勝負の始まりに、
手に汗握るとはまさにこのこと。必死に走るニシキエボシに全神経を注ぎ、目に焼き付けるように見続けながら結果を祈る。
……いや嘘。ごめん、やっぱりそんなに集中出来てない。
まったくエロスな意図なんてないのは分かっているのに、催眠ASMRの終わりみたいな台詞がエッチだとびくびくしちゃう自分が憎いや。
邪念まみれの俺の祈りなど、当然天に届くことはなく。
別段大番狂わせもないまま、一番人気なヒカリジュエルが結構な距離を離して圧勝してレースは終わる。
「いよっしゃー信じてたぜジュエルちゃん! お前はいつだって私の天使だわ! ちゅっちゅ!」
時間を止めれば勝てたのかもしれないが、ぶっちゃけそこまですることに意味も価値もない。
ここは地上。誰にも知られずなダンジョンの中ではなく。
例え時間を止めて馬を動かしたとしても、モニターやカメラとズレてしまえば即審議でレース無効になるに違いない。そもそも無理矢理ズラしたせいで馬が転んでしまったら罪悪感で眠れなくなりそうだから、ギャンブルで不正するなら自分でバレないときだけだ。
「なんだよとめる青年。そんな落ち込むなって、大穴狙いで当たる方が珍しいんだからよ!」
うるせえやい。どうせ千円だし別に悲しくなんかないやい。……本当だいやい。
「ま、今日は愛弟子の初競馬初敗戦の記念に、このお師匠お姉さんが美味い肉をたらふく奢ってやるさ。んじゃ、そろそろ撤収すっぞー」
「あれ、まだもう一レース残ってますけど?」
「いいんだいいんだ。私的に今日のメインは終わったし、規模も今のが一番のレースだからな。それより腹減ったなぁ」
あんなに色々肴にしてビール飲んでたのに、どうしてお腹は空くのだろうか。
そんな疑問は浮かんでくるも、俺もお腹は減っていたので焼き肉に思いを馳せつつ、ゴミをきちんと処分してから競馬場を後にする。
奢ってもらえるというなら、弟子として遠慮なくありつかせてもらうとするとも。……しかし不思議なだな、火村さんだと他の人と違って遠慮せずに集りの心を発動できる。どうしてだろうか。
「……で、火村さん。今日はどうして俺を競馬場まで連れてきたんですか?」
「そりゃ競馬の沼に嵌まらせて同好の士を作ろうと……わかったわかった、冗談だって。仮にも師匠相手にそんな冷たい目つきすんじゃねえよ。まったくもう」
徒歩で店を向かう間、いい加減気になっていた本題を尋ねると、火村さんはやれやれと大げさに手振りを添えて首を振ってくる。
もちろんそれも嘘じゃないのだろうが、今日の目的がそれだけじゃないのは何となく分かる。
この人は競馬の付き添いが欲しいだけでわざわざ呼び出すような性格じゃない。悪意があるとは思わないが、必ずなにかしらの意図がある……はず。多分。違ったらごめん。
「とはいっても、同好の士が欲しかったのだって本当だぞ? 飲みに誘うついでに、この機にどっぷり嵌まってくれればなーって……どう?」
「悪くはないですけど、やっぱり今はなしです。今の俺の稼ぎだと、こんな席代払ったら賭ける余裕ないですから」
「そりゃ残念。……ま、でも望みがありそうで良かったよ。思ったよりギャンブル好きそうだ」
うんうんと頷いた火村さんは、ぴょんぴょんと軽い足取りで一歩先へと進んでいく。
「それで第二の本題だっけ? ……なあ我が唯一の弟子、とめる青年よ。一つ提案なんだが、お前もボランティアーにならないか?」
くるりと振り返って両手を広げ、作ったような声と笑顔でそう尋ねてくる火村さん。
なんだボランティアーって。ふざけてんのか酔ってんのか分からねえな、このギャンカス師匠は。
今回から三章開始です。前もって言っておきますが、今章にシリアスはないです。
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