いつか別れるとしても
沈む夕焼けの色に染まった河川敷。
遊ぶ子供の声。走り去っていく大人の息遣い。そしてガタンガタンと、電車の通り去る音。
そんな郷愁と物寂しさに包まれた場所にて、ぐすりと鼻を啜り目を腫らす黒髪の少女。
葵夕葉。偶然にも赤い封筒を見つけてしまったことで、同居していた男の家を飛び出してしまった彼女は、傾斜のある緑の芝生の上で、まるで行き場を失った小さな子供のように蹲っていた。
「どうしてわたしだけ。……わたしって、やっぱり疫病神なのかな……」
光のない瞳で夕日の映る川の水面を見つめながら、沈みきった声色と息を漏らすばかり。
思い出してしまうのはかつて言われた、自身の中で最も心に傷つけた言葉。
疫病神。与えることなんて出来ず、いるだけで大事なものを奪っていく汚物だと、今はもう顔さえ朧気でしかない母が鬼の形相で頬を叩きながらぶつけてきた、あの甲高い叫びはいつまでも忘れることはない。
結局の所、葵夕葉の人生なんてそんなもの。
人見知りで、引っ込み事案で、間が悪くて、いるだけで誰かに迷惑を掛けるだけの女でしかない。
小学校ではからかわれた。中学ではいじめられた。高校では一人だった。
それでも大学に出れば、初めて読んだときから心の支えにしていた蒼斧レナになりきれば、少しは何かが変わると思っていたそんな淡い期待をまだ抱いてしまっていた。
だというのに……いや、だからこそ結果はこの様。
落とし物を拾ってくれた黒髪の後輩。同じ作品が好きだと言ってくれて、押しつけるだけの熱さえ優しい笑みを浮かべながら耳を傾けてくれた、人生で初めて出来た親しい男の子。
誰にだって知られたくない秘密をネタに脅迫され、どうしていいかも分からなかった自分に手を差し伸べてくれた彼に、むしろ返せたのは仇だけだった。
「……楽しかったなぁ」
それでも目を閉じれば、すぐにでも思い出せてしまうこの数日。
彼に提案されて始まった同居生活は、配信活動以外で初めて心の底から楽しいと思えた日々だった。
二級試験の勉強を見てあげた。なるほどと頷いてからお礼を言ってくる彼に少しドキッとした。
一緒に料理をした。小さなテーブルで、一緒に食べたご飯は本当に温かった。
一緒に銭湯に行った。あの帰り道でお礼を告げたら、ありがとうと返されてしまったのが少しおかしくも嬉しかった。
お風呂上がりを見られてしまうのは少し恥ずかしかったけど、彼であればあまり悪い気はしなかった。彼だったら、寝顔を見られてもいいかなと思えてしまった。
彼との日々は全部がキラキラとしていて、まだ父が家を出ていくよりも前、母に笑顔があった頃のよう。
幼い少女を間に挟んで両手を握ってくれる両親がいた、あの日のような温かさがそこにはあった。
彼を巻き込んでしまった時点で、信条を曲げて警察に相談すべきだったのは理解している。
けれど躊躇ってしまった。もしかしたら、わたしなんかに構ってくれる後輩の親愛があまりにも心地良かったから、このままずっとこんな風に過ごせたらなと目を背けてしまったのかもしれない。
なんて弱い。なんて情けない。──嗚呼、なんて醜い。
彼はこんなわたしを先輩と慕ってくれたのに。助けてくれようとしたのに、わたしは枷になろうとしてしまっていた。
……けれど、そんな日々はもう終わり。
あんな手紙が彼に送られてしまった以上、これ以上迷惑は賭けられない。そもそも、こんな危ないことに巻き込むべきではなかった。何もかもが間違いだったのだ。
「もう疲れちゃったな……。わたし、もう死んだ方がいいのかな──」
「何言ってるんですか。生きてちゃ駄目な人なんて、よほどの悪人以外いるわけないでしょう?」
もうこれ以上、生きている意味なんかないのかもしれない。
彼女の口からつい出てしまった、或いはようやく出せた心の底からの弱音。
まるで本当に行動に移してしまいそうな、そんな気持ちのこもった呟きを吐いたときだった。そんなわけがないだろうと告げるかのように、誰も聞いていなかったはずの葵夕葉の声を遮られたのは。
「よ、ようやく見つけましたよ。葵先輩」
「と、時田くん。ど、どうして……?」
「そんなの、探したからに、決まってる、じゃないですか。はあ、はあっ、ふーっ……あー疲れた」
まるで瞬間移動してきたかのように、どこからともなく現れたのは黒髪の青年。
息を荒げ、膝に手を置き、格好なんて付かないくらい疲弊した様子を見せてくる、もう会わない方がいいと遠ざけようとした大事な人。
「少し、話しませんか? 別れるのは、それからでも遅くはないはずですよ」
可もなく不可もない、どこにでもいそうな黒髪の青年。
葵夕葉の後輩である時田とめるは困ったような顔をしたあと、優しく笑いかけた。
どうにか先輩を見つけることが出来た俺は、彼女から一人分空けた隣に腰を下ろした。
ふー疲れた。
やーっと休憩できる、もうお膝が笑っちゃうくらい走りまくってくたくただよ。
もちろん手がかりなんてなかったので、自宅の周辺から先輩の家の間を虱潰しでやる他なく。
時間の止まった世界でひたすら足を動かし続け、それでも見つからなかったと落ち込みながら歩いていると、ふと目に入った近場の河川敷に気まぐれで足を運んでみれば、何とびっくり今に至るというわけだ。
……いやまったく、灯台下暗しってのはこういうことなんだろうな。
本当、マジで疲れた。時間を止めていたから定かではないが、先輩捜しを始めてから何時間くらい経ったんだろうな。
「……昔から、こうやって辛いときは、近くの川を見るようにしていたんです」
そうして何とか合流するも、コミュ力なしの俺にはどう切り出して良いかなんてまるで分からず。
何か話してくれないかなと。
そんな情けないことを願いながら、無言の時を過ごしてしばらく経って夕日が落ちだした頃、ぽつりと葵先輩が話し始めた。
「小さなときからずっと友達なんて出来なくて、中学ではいじめられて、お母さんともあんまり仲が良くなくて。ずっと変わらない水の音が、何もかも忘れさせてくれないかなって願ってました」
上手くいった試しはないですけどね、と。
葵先輩はへにゃりと自嘲気味に笑いながら、どこか遠くへ思いを馳せるかのように話してくるが、俺はどう言葉を返せばいいか分からずそのまま考え込んでしまう。
過去、先輩に何があったかなんて知らない。
そういうのを話す仲ではなかったし、進んで深いことを聞く機会などなかった。先輩にどれほど暗い過去があろうと、俺にとっては大学で会った先輩でしかないし、彼女だって同じはずだ。
……いや、単純に俺が臆病だっただけだ。
彼女が抱える秘密について、尋ねる機会はいくらでもあった。少しだけでも踏み込む機会など、この数日でたくさんあったはずだ。
それに気付かず、それが正しいのだと見ない振りをしながら、今は先輩の心を安めるべきだと自ら言い訳して近づこうとしなかった。そのツケが今回ってきた、それだけのことだ。
「……ごめんなさい。昨日の夜、ふと目を覚ましてしまったときにあなたが何かを隠しているのも見てしまって、ちょっとそれでようやく、わたしは最低なことをしていたって気付きました。わたしと一緒にいれば、時田くんに被害が行くのは分かりきっていたはずなのに。……ほんとうに、最低です」
そうして謝ってくる先輩は、ここ数日見せてくれていた笑顔とはまるで遠く。
まるで全部が自分のせいかのような物言いと、自分を否定するかのような諦観の表情に、俺は血が滲みそうな程強く拳を握ってしまう。
……嗚呼、わかった。これは、この心占めるどうしようもない熱さの名は、きっと怒りだ。
何も悪くないのに勝手に自分が悪いと決めつけて、手紙一枚でいなくなってしまう先輩へ。
先輩をここまで追い込んで、苦しませている現実へ。
そして何よりも見られちゃいけないものを杜撰に隠し、更にはこんな顔で謝らせる状況まで追い込んでしまった自分自身への強い怒りでいっぱいなんだ。
「先に謝ります。ごめんなさい先輩。あの封筒を見つけたとき、まず貴女に相談するべきでした」
けれど、だからこそ。
ようやく見つけた先輩の顔を見て、改めて覚悟を決めた俺は、先輩の方へ体ごと向けてから深く頭を下げる。
「そ、そんな……!! 謝るべきなのは、巻き込んでしまったわたしの方です……!! 時田くんには初めて会ったときから、ずっと助けてくれてばっかりで……!!」
「かもしれません。けど、先輩に協力すると決めたのは俺自身です。だからあんな不手際で先輩に迷惑を掛けてしまった。だから謝るべきは先輩ではなく、軽はずみに提案した俺の方です」
悪いのは自分だけだと。
悲痛な顔で必死に否定してくる葵先輩に、俺は首を横に振りながらはっきりと反論する。
「半端な覚悟で踏み入ってました。俺が先輩を助けるなんて上から目線で、ヒーロー面して気取って、自分なら守れるだろうと女性に泊まってもらうなんて自信過剰にもほどがある。先輩が自宅まで特定されているのなら、こうなるなんて分かりきっていたのに」
「……ええっと、最後のは別にそこまででもないんじゃ……?」
「そんなことないです。とにかく驕ってました。不肖時田とめる、末代までの恥の一つです」
困惑する先輩に、俺は少し苦笑しながらもはっきりとそう告げる。
例え客観的に見て、先輩が悪かったとしても。
あの封筒は俺が招いた不始末。いくら先輩にだって、先輩の方が悪いなんて認めるつもりはない。そこだけは、例え神様が否定してきたって譲ってなんかやるもんか。
──そして当然、このまま先輩を見捨てて引き下がるなんて真似、出来るわけがなかった。
「だから改めてお願いします。もしこんな大馬鹿者を許してくれるというのなら、一緒に家に帰りましょう。今度こそ本気で、先輩の日常を取り戻すための、力にならせてください」
ゆっくりと立ち上がり、先輩の前へと立ち、再び頭を下げながら手を伸ばす。
根拠はないが、それでも何となく分かる。
きっとあのストーカーは、先輩から離れた俺を狙うことはない。言葉どおり、先輩のみを天誅とやらを与えるためにこのような非道に手を染めているのだろう。
だがそれがどうした。
俺に平穏が戻ろうと、先輩を犠牲にしたんじゃ意味がない。そんなことをして生きるのなんて真っ平ごめんだし、大学だって気まずくて行けたものじゃない。
例えいつか喧嘩別れするかもしれない。どこかで仲が拗れて、訣別することがあるかもしれない。
それでも、それは今じゃない。少なくとも、こんなクソストーカーのせいで先輩との縁がなくなるのだけは、更に苦しむと分かっていて手を放すのだけは、絶対に嫌だった。
「……本当に、頼ってしまって、いいんですか?」
「はい。むしろ頼ってください。その方が、後輩としては嬉しいです」
「わたし、一度近づくと面倒臭いですよ? 多分嫌になるほど重たいですよ? いつか見捨てておけば良かったって、後悔するかもしれませんよ?」
「それでもです。例え未来がどうなったとしても、俺は今困っている先輩の助けになりたいです」
顔を上げて、縋るような声で何度も確認してくる先輩に、俺は負けじと答えを返す。
なんかちょっとオーバーな気もするが、そんなことはどうでもいい。
俺は先輩を助けたい。ストーカーなんて理不尽のせいで苦しんでいる先輩が、一日でも早く心の底から笑えるようになって欲しい。推しだからとか関係ない、今動く理由なんてそれだけで十分だ。
「……わたしが隠している秘密。それはわたしがやっている、配信活動についてです」
しばらくの静寂。
考え込むように俯きながらも、やがて覚悟を決めたように顔を上げた先輩は、懐からスマホを取り出してからおもむろに語り出してくれた。
先輩が見せてくれたスマホの画面に映っていたのは、俺にとって縁のあるあの人物。
蒼い髪と紺色のセーラー服が特徴のダンジョン配信者、青柳トワ。
葵先輩がストーカーに脅されるに至った秘密は彼女の正体についてであり、そのことで悪意をぶつけられていると。
……やっぱり、青柳トワの正体は先輩だったのか。
これで謎は解けた。配信者の身バレ、及び自宅特定。確かにそれは人によっては、脅迫さえ成立するほどに隠し通したい秘密に成り得るだろう。
ペンは剣より強しとは少し違うかもしれないが、如何に力溢れるダンジョン探索者であろうと、悪意や情報という凶器に抗う術は常人と大差ない。殴って蹴って、それで解決するのは原始時代だけだ。
そしてはっきりしたことがある。俺が出した手は、やはり悪手中の悪手でしかなかった。
女配信者が男と同居しているなんてスキャンダルは、ストーカーが脅す格好の材料でしかない。
アイドル売りしていなくとも相手がいれば即荒れる、時代問わずそういうファンを抱えて初めて成り立つのが水商売というもの。配信者に限らずとも、それが大前提の共通認識だ。
……ま、それでもやってしまったことは仕方ない。
やらかしたお前がどの口でと糾弾されそうだが、切り替えていかなければ始まらない。こちとら悲観し、懺悔するために先輩を捜していたわけではないのだから。
「それにしても、やっぱり先輩が青柳トワだったんですね。びっくりです」
「……その割には、驚いてるようには見えませんけど」
「まあ薄々感づいてはいたので。前々から思ってましたけど、先輩って結構脇が甘いですよね。貴女の大ファンを前に武器も戦闘スタイルも一緒だったり、技の練習なんてしたら疑わないわけないじゃないですか」
「……あっ、うう……」
軽く指摘してみれば、先輩は顔を赤くして俯いてしまう。
さては気付いてなかったな。俺が言うのもあれだが、やっぱり抜けてる所あるよなこの先輩。
ちなみに結構取り繕ってるけど、先輩=最推し確定で内心普通にドキドキしちゃってる。
平時だったらサインとか握手とか厄介ファンみたいなことねだってたかも。そう考えると、こんな状況でしれたのは怪我の功名なのかもしれないな。
「一応確認しますけど、誰にも話す気はないんですか?」
「……わたしにとっての青柳トワは理想であり憧れなんです。常に毅然とした態度で、臆することなく目の前の強敵に挑む蒼斧レナへの情景そのもの。ダメダメなわたしが、わたしを誇れる最後の砦なんです。混同させるのも、失うのも、わたし自身が許せそうにないです」
まず二級探索者の時点でダメダメなんてことはないだろうと。
人によっては嫌みに聞こえるであろう謙遜は置いておくとして、こちらを真っ直ぐ見ながら言葉にしてくれた先輩の確かな意思を受け止めた俺は、ゆっくりと目を瞑って思案する。
別に特定されたからといって、じゃあ配信をやめなければならないかとそう言うわけではない。
配信は配信、プライベートはプライベート。
当たり前すぎる社会の常識をないがしろにするアホも多いが、そんなやつらだけでこの国が構成されているわけでもない。
安全面やプライバシーの問題はあれど、テレビで見る芸能人だってこそこそ隠れて生きているわけでもない。男女問わず本名や自宅を公開しながら活動する配信者だっているくらいなのだから、立ち回り次第でどうにかならないわけではないのだ。
それでも、合理的な判断と心に抱く不合理なんてのは別の話。
青柳トワのリアルがバレたくないというのが先輩にとっての譲れない一線なら、それは誰にだって否定することは出来ない絶対なのだから、それはもう仕方ないことだ。
……俺にだってあるから分かるさ。
誰に言うつもりもない、人が聞けば些末な事と笑うであろう、絶対に譲れない一線が。
先輩がここまで来てもなお俺以外の誰にも知られず、この件に蹴りをつけたいと願ってくれるのなら。
絶対に譲れない、だから助けてくれと俺にはっきり言ってくれるのなら。
今度こそ俺は本当の意味で力になりたい。それが、一度関わった者としての意地であり矜持だ。
「それに送られてきた写真の中には、ダンジョンの中で青柳トワに着替えてるときの一枚もあるんです。だから──」
「ああ、それは駄目です。絶対処しましょう。何としてでも、消させないと、駄目です。はい」
ううん、困ったな。ただでさえ限界レベルに高かったヘイトが、一気にインフレしちゃったぞ。
「……って、ダンジョンの中で着替えてるんですか? ソロで?」
「は、はい。物陰でこっそりと……あ、もちろん周辺には気を遣ってますよ! 本当ですよ!?」
着替え、着替えかぁ。
パーティならまあ珍しくはないけど、ソロでやる人は中々いないんじゃないかなぁ。人対策でテント立てるにしても、見張りがいないとダンジョン生物の方に襲われるだけだし。
「……先輩、送られてきた写真の中に、自宅の中で撮られたものはありましたか? 脅迫文の中に青柳トワ以外についての言及はありましたか?」
「え、いえ、確かなかったはずです。脅迫の材料は、わたしの正体についてだけだったはずです」
俺の質問に、先輩はたじたじとなりながらも思った通りの答えを返してくれる。
短くない期間、要求なしでひたすら写真と文で脅すだけのストーカー。
俺達の索敵に引っかからずストーキングし、ダンジョンの中での着替えさえ撮影出来るほど隠密に特化しているというのに、自宅の中での写真はない。
……そうか、そういうことなのか。
所詮は俺の頭で導いた説なので断言は出来ないが、それならすぐにでも解決出来るかもしれない。
「……先輩、俺に策があります。正直危険な賭けですが、それでもまだ俺を信じてくれるなら、一緒にこのクソみたいな事件に決着を付けるために協力してくれませんか?」
真っ直ぐに先輩を見つめながら、今思いついた作戦を話し始める。
上手くいけばこの一件に蹴りをつけられるであろう、先輩頼りの最低最悪な作戦を。