もう大丈夫
うだるような夏の暑さ、かんかん照りな空模様。
まさに真夏日と言うほかない空の下にいながらも、俺の心はどんよりと沈みきっていた。
「……時田くん? 朝から調子悪そうですけど、本当に大丈夫ですか?」
「あ、はい、大丈夫ですよ。テスト前だからか、どうもちょっと寝不足みたいで」
重い瞼。気怠さを振り払えない頭と体。
夏場の過酷な朝には辛い寝不足が顔に出てしまっていたのか、心配そうにこちらを向いてくる葵先輩にいつも通りを務めながら苦笑いで返していく。
テスト前だから眠れなかったなんて、あまりに雑な言い訳過ぎて笑えてしまう。
一夜漬けなんてしたこともない。普段から普通にやっていれば落第なんてしないし、最悪時を止めて教室中の全てを参考にすれば良いのだから、いちいち無意味な苦労をする必要もない。
ここまで苦しめられている悩みの種はもちろん一つ。
昨日ポストの中から見つけてしまったあの赤い封筒。その中に封入されていた写真と脅迫文についてだ。
打開策なんて浮かばなかった。
自宅を特定され、先輩の秘密を盾に脅迫されてしまった時点で、俺に選択肢など残されていないのだ。
あの写真に写っていたのは俺の自宅前。それも物陰ですらない、目と鼻の先から撮られたものだった。
あんな至近距離での撮影に探索者が二人して気付かないなんて失態、普通ならばまずあり得ない。
ジャングルや洞窟、ダンジョンの中でなら有り得るかもしれないが俺の部屋の前は一本道。人の気配が充満するわけがなく、視界を阻むものさえないのだから認識できないわけがないのだ。
となれば、思いつける可能性は一つ。
先輩のストーカーは何かしらの魔法を使っている。どんなに至近距離でも気付かれることのない、一方的に監視し続けることの出来る厄介な反則を。
考えが甘かった。俺の選択は間違いだった。
探索者、それも二級と知ってなお害そうというのなら、何かしら対策があるのは当然。思いつかなかった俺が情けないとしか言い様がない。
……いや、そうじゃない。
心のどこかで油断していた。時間停止を持つ俺ならば、いざその機会が来れば現行犯で捕まえて終わりに出来ると、愚かにも慢心してしまっていたんだ。
クソめ。どこまで傲慢で、考えなしで、愚劣なんだ。
人の人生が懸かっていたんだぞ? それなのに何も考えず、先輩の家よりも遙かにセキュリティの甘い部屋なんぞに泊めて心の安寧に役立っていたなんて、最低としか言い様がないじゃないか。
「……っ」
「……やっぱり辛そうです。ベッドは時田くんが使った方がいいです。今日からそうしましょう」
「え……そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、正直そっちの方が寝不足になっちゃいそうですよ。あははっ」
身勝手な自己嫌悪でいっぱいになってしまっていたのが顔に出てしまっていたのか。
更に心配そうに俺の様子を心配してくれる葵先輩に、何とかいつも通りの笑顔を作ったつもりで言葉を返す。
俺は今、普通に笑えてるだろうか。先輩にどこか不審がられていないだろうか。
……いや、きっと酷い顔だろう。安心させたいのに、逆に不安にさせてしまっているだろう。
助けどころか迷惑になって取り繕うことさえ出来ないのかよ。
「本当に大丈夫ですから心配しないでください。どうせテストをパッパとと終わらせたら、時間までぐっすり休むつもりなので」
「そう、ですか。……分かりました! 時田くんがそういうのなら、わたしは信じます!」
「……えっと、そうだ! 今日はちょっとやることがあるので、先に帰りますので!」
「っ、一人で大丈夫ですか?」
「もちろんです! これでもわたし、時田くんの先輩なので!」
何故俺が後輩だったら根拠になるのだろうかと。
心なしか胸を張りながら言ってくる先輩を不思議に思ってしまいながら、今一人で歩くのは危ないと理解しつつも止める言葉が思いついてくれず、「気をつけてください」と頷くしか出来なかった。
葵先輩と別れて、とぼとぼと学内を歩く。
今日のテストは二つ。復習なんてまったく出来ず、そんなことをする気にもなれず。
「おはようとめる……って、酷い顔だぞ? どうした、さては一夜漬けでもしたか?」
「……おはよう。まあちょっとね」
適当な席に座ってもなお、頭の中ではグルグルと
どうするべきだったのか。どうすればいいのか。
深く考えたいなら時を止めて悩めば良いのに、それさえ忘れて頭を抱えていると、今来たらしい篝崎君が笑顔で挨拶しながら隣へと座ってきた。
「……本当にどうした? もしかして、この前の話関係か?」
先ほどと同じようにいつも通りを心がけながら挨拶を返すも、前年ながら誤魔化されてはくれず。
やはり取り繕えていないんだろうなと、心の中で他人事のように納得してしまった。
……そっか。篝崎君にはふわっと話したんだっけか。なら別に、いいか。
「……例えばのつもりで訊きたいんだけどさ。もし誰かを助けようとしたとしてる状況で、自分が意地張ったせいでその人に迷惑掛かるけどその誰かには相談出来ない……なんてことがあったら、篝崎君はどうする?」
「ははっ、なんだそれ。ほとんど誤魔化せてすらいないじゃないか」
弱っていたのだろう。誰かに聞いてもらいたかったのだろう。
自業自得にもかかわらず身勝手にも弱っていた俺の口は緩み、例えになりきれていない例え話を漏らしてしまう。
篝崎君はペンケースやレジュメを出しながら、どこが面白かったのか軽く笑ってから考えるように顎に手を当てた。
「……そうだなぁ。即決しなければならないのなら意地を張るかもしれないけど、そうじゃないならその誰かにちゃんと相談するかな」
「……話聞いてた?」
「聞いてたさ。だけど自分一人が粋がった所でどうにもならない、そういうのはこの前嫌というほど痛感させられたからね。一人より二人、三人寄れば文殊の知恵って言うだろ?」
まるで俺の悩みがちんけなものでしかないと。
篝崎君はそう思えるほどあっけらかんとそう口にして、イケメンお似合いの微笑みさえ向けてくる。、
「ま、とめるなら心配ないさ。きっと上手くやれる、お前はそういうやつだろ?」
「……気持ち悪ぃ、そこまで信頼されることした覚えなんてないけど?」
「さあな? ただお前なら出来る、そんな気がするだけだよ」
どこから湧いたのかよく分からない謎の信頼に嫌な顔をしてしまうも、篝崎君は変わらず大丈夫だと軽く肩を叩いてくる。
どうしてそこまで大丈夫だなんて言えちゃうんだか。信頼自体は悪い気はしないが、他人事だと思って自分勝手だな、もう。
「ま、テストは自分でどうにかしないといけないんだけどさ……って、ああごめん。最後にいっぺん復習したいから、これ以上は後でいいかな?」
「……いや、ありがとう。おかげで大分解決したよ、時間取ってごめん」
「おう。礼がしたいなら、今度飲むときにでも奢ってくれよな」
篝崎君は軽く手を上げてから話を切り上げ、真剣な表情でレジュメと睨めっこを始める。
……きっと俺が抱えてる問題など、篝崎君が当事者だったら上手く解決していたんだろうな。
でも、そっか。それでいいんだな。そうすべきなんだな。
自分だけで抱え込んでちゃ何も解決しない。先輩が俺に打ち明けてくれたみたいに、例え先輩が傷つくとしても、俺も先輩へ相談して共有すべきだった。結局の所、それだけの話か。
バシバシと、紅葉後が付ける勢いで頬を叩き、強引にでも弱気な自分を切り替える。
頭は眠いと叫んでくるし、体は未だに怠いと文句を言ってはくし、隣の篝崎君はちょっと驚いたようにこちらへ視線を向けてくるけれど。
それでも随分と心は晴れやか。ついさっきまで悩んでいたのが独りよがりの馬鹿みたいだと、そう思えるほどには軽かった。
ちなみに今日のテストは三つとも時間停止せずとも簡単で、寝る余裕さえあった。やったね。
テストを終え、それからケーキでも買っていこうと寄り道して、時間はすっかり四時頃。
自室には葵先輩の姿はなく、
妙だな。先輩はテスト一つだけと言っていたし、先に帰ってると思ったんだが──。
疑問と心配は湧けど、一人で帰ると言っていたし、強さにおいては心配する方が失礼だろうと。
一応連絡だけは欲しいと思いながら、ひとまずケーキを冷蔵庫へとしまおうとした。
「……え」
だが玄関から進み、視界に入ってしまったそれに目を大きく見開き、声を漏らしてしまう。
ご飯を食べるくらいしか用途のない、折りたたみ式の小さなテーブル。
先輩が泊まるようになってから使う機会の増えたそれに置かれていたのは、隠しておいたはずの赤い封筒と一枚の紙であった。
『今までありがとうございました。わたしはもう大丈夫ですので、気にしないでください』
手に取った紙に書かれていたのは、僅かその一文のみ。
綺麗でも汚くもない、普通の文字にまるで雫が数敵落ちたみたいに滲んだ、それだけだった。
読み終わったと同時に時を止めながら紙を放り捨て、ケーキを冷蔵庫にしまうのさえ忘れてそのまま部屋から飛び出す。
手がかりなんてない。どこへ向かえばいいのか分からないし、彼女がそれを望んでいるわけでもない。
それでも、そう分かっていても、俺の足が止まることはなかった。