いつまでも緩やかとは言いがたく
「……ふうっ」
カコンと。
この耳が小気味好い音を拾いつつも、湯気漂う熱湯の中で、だらりと足を伸ばしながら寛ぎの時間を勧めていく。
こんなにも湯に浸かったのはいつ以来か。基本的にシャワーで済ませてきた人間だが、やはりだらりのんびりと風呂に入るのはこれ以上ないくらいの安らぎだ。
ここは銭湯、鈴野の湯。
自宅からおおよそ徒歩十分。昔馴染みでうるさくない、良い意味でザ・銭湯って感じの銭湯だ。
葵先輩からのメッセージを受け、買い物も早々に終えて帰宅して事情を聞いてみた所、シャワーを浴びようとしたらお湯が出なくなってしまったらしい。
それで管理人に相談したらどうやら古かった給湯器が逝ったらしく、すぐに対応してくれるとのことだった。
いやーグッジョブ管理人、ありがとう管理人。
アパートやマンションの管理人って家賃収入でゴロゴロしてるだけの勝ち組かと思っていたけど、実はちゃんと仕事してるんだね。オーナー本人なのかは知らないけどさ。
ともあれ、流石に今日は厳しいとのことで。
こんな夏場に汗を流せないのは死活問題だと、パッパとカレーを作りながら悩んだ結果、こうして自宅から徒歩十分ほどの銭湯まで足を伸ばしてみることになったわけだ。
ま、財布的にはちょっと痛手だが問題ない。だって俺には貢がれた一万円があるのだから、特別にコーヒー牛乳だって買えちゃうくらいだ。
あんなシャワーしか取り柄のないクソ狭ユニットバスじゃせっかくのバスタイムもきつかっただろうし、先輩にとってもいい息抜きになるだろう。……やっぱり俺の部屋、女性を泊めるべき部屋じゃないよな。
それに、どんなストーカーも女湯にまで潜り込むことは出来ないだろう。
……いや、犯人が女だって可能生もあるな。そうだったらどうしよう、まったく考えてなかったわ。
「よおあんちゃん。見ない顔だな、初めてか?」
一抹の不安が湧き出てしまうも、まあ流石に大丈夫だろうと謎の過信で水に流しつつ。
頭にタオルを乗せながら、だらだらと風呂に浸かっていたそのときだった。ザバンと、並ぶように湯に入ってきた男が声を掛けてきたのは。
浴槽はそこそこ広いのだから、もう少し離れて欲しいものだと。
心の底から不満に思いながら、ちらりと隣の男を一瞥してみれば思わず驚愕してしまう。
右目に傷を引いた男を一言で表すのなら、益荒男だろうか。
身長は俺よりも頭一つ、いや二つ分くらい上だろうか。
だが身長以上にでかいと思えたのは体格。ガッシリとした肉付きに丸太のような手足は、まさに筋骨隆々としか言い様がない。おまけに見えちゃったあれも大砲サイズだ。
……どんな職業かは知らないが、多分俺より強いな。
薬で作った見せかけでも、ボディビルダーのような魅せ特化でも、特定の格闘技を修めたようなものでもない、何かと戦うための肉体。
それにどことなく、帯びる気迫が一般人のそれではない。ここまで仕上がっているとなれば軍人か警察か裏社会の人間か……或いは探索者か?
「……ナンパならお断りですよ。昔、少し嫌な思いをしたことあるんで」
「ん? ……ああ、ブッハッハ! 誤解させちまったな! ここは発展場じゃねえから安心しな!」
湯船の中で蕩けさせていたかったというのに、警戒せざるを得ない状況に出てしまうため息。
そんな俺の、自分でも失礼だなと自覚している言葉と拒絶混じりに冷めた態度に男は一瞬面食らったような顔をするも、すぐに豪快に笑いを上げながら、バシバシと、大きな手で背中を叩いてきた。
……ま、鬱陶しいが悪い人ではなさそうだ。
俺の勘はそこそこ当たる。銭湯は集合浴場、こういう世間話をしたがる手合いだってどこにでもいるわな。
「……えらい鍛えてますね。何されてるんです?」
「おっと、例え俺が立派な刺青入れたヤクザの親分様であろうと、内閣総理大臣様であろうと、ダンジョンの最下層にいるかもしれない主様だろうと、チンコと金玉丸出しにしながら威張ったってみっともないだけだ。そうだろ?」
男は唇に立てた人差し指を当てながら、歯を見えるほどニカリと笑みを作ってくれる。
遠回しに濁されたが、まあ言いたくなければそれでいい。どうせこの場限りの関係なのだから、どんな世紀の悪党でも関係ない話だ。
……それに、急に心変わりして喧嘩が始まったとしても俺は負けない。
これは決して油断でも慢心でもない。俺の時間停止能力は対人戦なら最強、そしてどんなに化け物染みたマッチョでも人間は所詮人間でしかないのだ。
実際その気になれば、今頭に乗せているタオル一枚で殺して山や海に捨てたりだって出来てしまう。時間停止とはそういうチートだ。……ま、殺人とか本当に勘弁だけどね。
「風呂はみんなが裸になれる自由の場だ。だから俺はヤシロ、ただのヤシロでいいのさ。な?」
「……先ほどは失礼しました。俺は時田です、よろしくお願いします」
頭を下げながら名乗ると、ヤシロは気にせず手を差し出してくるので手を交す。
ガッシリとした大きな手。偏見極まりないが、熊と握手したらきっとこんな感じなのだろう。
「いいだろこの銭湯? 湯の熱さ、後ろの冨士山、古めかしくも清掃の行き届いた店内、何より番頭の奥さんがべっぴん! 俺も長いこと風呂場巡りを趣味にしていたんだが、気に入りすぎてつい近場に引っ越しちまったくらいだ」
「……最後のはノーコメントですけど、趣あって悪くないのは同意です」
「だろ? 良い風呂でたっぷり汗を流してから、サウナでじっくり整えて、最後に入り口にある瓶のフルーツオレを腰に手を当てながら一気に飲み干す。俺にとっては、それ以上の贅沢はねえのさ」
ヤシロの饒舌な語りに、ついその光景を想像してみてしまう。
……うん、確かにいいな。ありきたりだが、それ以上に幸せなことなんてそうはない。ただし俺はフルーツオレではなくコーヒー牛乳派だけどな。
「なら、サウナ行きます? 別に勝負とかはしないですけど」
「おっ、いいね……といきたいが、もうちょっと浸かってからにするわ。風呂は自分のペースで入る場だからな」
「……そっすか。じゃ、俺は行きますんでこれで」
「おう。……なんかあんちゃんとはどこかで会いそうな気がするから、今回はまたなと言わせてもらうぜ」
一応の誘いを断られてしまえば、ならばこれ以上の会話もないだろうと。
どっこいせと立ち上がると、ヤシロは軽く手を上げてきたので同様にして返し、そのままサウナへと向かっていく。
また会う気がする、か。残念なことに俺もそこには同意だな、主に厄介事の中でさ。
ともあれ今考えることでもないと。
運が良いことに誰もいないサウナで無言で一人十分ほど耐え、水風呂を浴び、最後に一度流して風呂は終了。
予定どおりにコーヒー牛乳を飲んでから、適当なベンチで体を冷ましていると先輩が出てきたので、先輩が落ち着いてから銭湯を後にした。
「良いお湯でしたね。そっちはどうでした?」
「あ、はい! とても良いお風呂でした!」
ほくほくと、頬を手で仰ぎながらこちらへ笑顔を見せてながら隣を歩く葵先輩。
鼻を擽ってくる石けんの匂いと風呂上がりの艶やかな肌、それに湿り気のある黒髪にドキドキしてしまう。
女性との銭湯帰りという初めての体験だからか。同居を始めてから数日経ち、少しは少しは慣れたと思ったのに、こうも心を揺らされてしまうとは我ながら不覚だ。
「……給湯器が直ってからも通いましょうか。お金は俺が出すんで」
「え、悪いですよ! これくらいは出させてください! 出させてくれないと申し訳なさすぎて死んじゃいます!」
「そうは言っても、もう生活費は貰ってますからね。今日のカレーだって先輩のおかげで食べられるんですから、感謝してるのはむしろ俺の方ですよ」
両手を振って駄目だと言ってくる先輩へ、俺はありのままで言い返す。
実際、一人暮らしだと料理なんて滅多にしない。やるとしても精々肉を焼くくらいで、大多数が料理と認めてくれない程度。誰かに作ろうと思うから、面倒臭くても料理をしようと思えるのだ。
「……時田くんには頭が上がりませんね。わたしが不甲斐ないばかりに、こんなにも迷惑掛けてしまって」
「どうでしょうね。女友達にさえ縁のない身ですし、期間限定でも先輩みたいな可愛い女性と過ごせるんだから、逆にご褒美だと思ってますよ」
「か、かわっ……!? も、もう、からかわないでください……!」
九割本音で残りはちょっとしたからかい。
そんなつもりでそう言ってみると、先輩は数秒の後に顔を真っ赤にし、少し早足になって先へと行ってしまう。
……やっぱり可愛いなぁ、あの先輩。こんな状況でもなければ、もう少し欲で動けるんだけどなぁ。
「……時田くん。本当に、ありがとうございます。この数日とても、とても楽しいです」
「……なら良かったです。
こんな状況だというのに、ちょっとだけやましい気持ちを抱いて微笑んでしまいながら。
緩んだ口元を直しながら隣へと追いついた俺に、先輩は真っ直ぐこちらを見つめながら、にへらと柔らかい笑みを浮かべてお礼を言ってきた。
ドキリと、彼女の笑顔に胸の奥にある心の臓が強く跳ねたような気がしながらも。
ちょっと驚いただけだと無理矢理に切り替えて、たわいない会話をしながら歩いていけば、すぐにアパートが見えてきてしまう。
「先に上がっててください。俺はポスト見てから行くので」
「あ、はい。カレー温めておきますね!」
楽しい時間ほどあっという間に過ぎてしまうものだと。
少しだけ名残惜しく思いつつも、一度先輩と別れた俺は、ポストを確認しに行く。
とはいっても、何が入っているわけでもない。あるとしても大学と探索者絡み、あとはスーパーの特売のチラシくらいだろう。
「ふふっ……ん?」
つい口元を緩めてしまいながらポストの中を確認すれば、そこに入っていたのは一通だけ。
おどろおどろしいほど真っ赤で、厚みのないぺらっぺらの封筒のみ。
まるで古の赤紙、或いは税金未払い者に送られるらしい最後通告の赤い封筒みたいだと。
そんなどうでもいいことを思いながらも、風呂上がりで緩んでしまっていたからか、たいして警戒もせずに中を確かめてしまう。
『あのアバズレと関わるのをやめろ。さもなくば、あれの秘密をネットにバラす。これは正義の追求であり、人を弄ぶ悪魔への断罪だ』
赤い封筒に入っていたのは一文のみの手紙、そして部屋へ入ろうとしている俺と葵先輩が写る写真が数枚。
それらを目が捉え、やがて脳が認識した瞬間、苛つきから封筒ごと握りつぶしてしまいながら周囲を確認し、誰の気配もないと分かると無意識に強く舌を打ってしまう。
「……クソだな。本当に」
銭湯や先輩との会話で得た心地良さなど、最早この身のどこにもなく。
今の俺に残ったのは夜でも変わらず肌を撫でる夏の暑さと、そんな気温の中でも体中に走ってしまった、楽しい時間は終わりだと突きつけてくるかのような寒気だけだった。
本日は二話投稿です。