男の夢がそこにあった
それから数日経ち、今日は日曜日。
最初こそぎこちなかった同棲生活にも少し慣れ始め、レポートもないテスト前の休日をどう過ごすべきか悩むべき頃、俺はもっと切実な問題に頭を悩ませていた。
「……やばい、どうしよう」
現在、我が家は非常に深刻な問題に直面してしまっている。
それは生存に関わる絶対の欠如。生活の基盤の欠損であり、生物の前提たる最低限度を損なうかの窮地である。
──平たく言えば、食糧難。つまりこの家にあるまともな食料が、ついに底をついたという事実だ。
レポートに専念したというのもあり、比較的ダンジョンにこもる機会の少なかった七月。
今月は一際金欠だと自覚していたが、まさか食料にさえ困るほどになってしまうとはおもわなんだ。
……ほんと、住む人が増えるって大変なんだな。
世の数歩先を行く大学生カップルや真っ当なファミリーのすごさを痛感するね。こんな部屋でなく、複数人で住める場所を探してお互いに妥協し合って……ぶるぶるっ、俺には絶対に無理だわ。
とはいえ、別に葵先輩が悪いなどとは思っていない。
むしろ逆。葵先輩からは当面の生活費だといくらかお金を渡されてしまっている。
そう貰ってる。貰ってはいるのだが、どうにもそれに手を付けとうとは思えず、自費でやりくりしているのが現状である。
だってあれ、多すぎるんだもん。
俺の一月の食費が高くなっても二~三万だとして、先輩から渡された額は実に十倍近い額。こんな狭いボロ部屋に住まわせることしか出来ない俺からすると、申し訳なくなるくらいのお金だ。
いやー、家賃だとしても高すぎるくらいのお金が収められた封筒をポンと出せちゃう先輩にはまいっちゃうね。流石は二級探索者、まだ学生なのに社会人顔負けレベルだよ。
到底貰うわけにはいかないので、この件が落ち着いたら全額返金するつもりだ。
だって本当に申し訳ないもん。むしろお詫び代と俺が払わなきゃいけないかもしれない。
……いやでもまじでどうすっかなこれ。
流石に外食する体力はないけれど、ただでさえ不便と不快を強いてしまっているお客人に空腹まで強いてしまうのは、この部屋の家主としてのちっぽけなプライドが許せそうにない。
かくなる上は、先輩の分だけは貰ったお金で工面するべきか。
……やはり、打てる手は一つしかないか。この状況を打破する事の出来る唯一の案、それは──。
「葵先輩。ちょっとダンジョン行ってくるんで、留守番お願いしても良いですか?」
──素直にダンジョンで金を稼ぐ。結局のところ、人間なんてこれしかないわけだ。
「っ、だ、ダンジョンですか?」
「ええ、まあはい。ダンジョン庁の方に用があるんですけど、ついでに軽く汗でも流してこようかなって」
すっかり寝心地を忘れてしまった、マイベッドの上でコロコロと。
最初の遠慮も抜け、半袖短パンでドキドキしちゃうくらい無防備に寛いでくれている葵先輩の足に
別にダンジョン庁に用なんてない。
ただ素直にお金稼いでくると言うのはなんか、俺のなけなしの意地が許してくれなかっただけだ。
「ど、どれくらいで帰ってきます……?」
「あー、あんまり遅くなるつもりはないですけど、まあ帰りに買い物もしてくるんで夕方は越えちゃうかもって感じなので、晩ご飯はこの前貰ったお金がそこにあるんで、それで適当に出前とか済ませちゃってください」
先輩は読んでいた本『蒼斧レナは戦慄かない』の六巻をベッドに置き、こちらを向いて少し心細そうに尋ねてくる。
流石に遅くなっては本末転倒なので、移動やら戦闘なんかは時間停止で短縮するとして。
帰りに食材の買い出しもすると考えれば、まあおおよそ夜になるかならないかって所だろうか。
それにこんな他人以上、友達未満の男の部屋に居候しているんだ。ストーカー被害も相まって相当なストレスが溜まってるだろうし、一人でリフレッシュする時間くらいは必要だろう。
「あ、あの! 時田くん! なるべく早く、帰ってきて欲しいです……」
「ああ、了解です。必要なものあったら連絡ください、買ってくるんで」
話しながら準備を済ませた俺は、わざわざ扉前で見送ってくれた先輩に一言告げてから部屋を出る。
相変わらず夏模様だと、熱気に満ちた外気に苦しみながら進み、久しぶりな気がするダンジョン庁へ。
『東京ダンジョン、現在調査につき閉鎖中』
「ええ、今日開いてないんですか!?」
「申し訳ございません。現在ダンジョンは調査につき閉鎖中でございます。どうかお引き取りを」
けれど結果は門前払い。
ゲート前に立っていた男職員の申し訳なさそうな顔での謝罪され、どうすることも出来ない。
どうっすかなぁ。いやまじでどうしようかなぁ。
ここに立っていたってお金は絶対に稼げない。ダンジョンが当てに出来ないとなると、あとは消費者金融で借りるか……いやいや、流石にそれはまずい。ここは恥を忍んで貰ったお金でひとまず手を打つ……うーん。
「あれ~? もしかして~、茜のお弟子く~ん?」
本当にどうするべきかと、封鎖されているゲートの前で頭を悩ませていたときだった。
掛けられたのは、覚えのある甘ったるいほどのハニーボイス。
そちらに首を向けてみれば、そこには想像通りの人物。この篝崎君と飲みに行った際、火村さんと一緒に飲んでいた爆乳美女。名前は忘れたがその人で間違いなかった。
「えっと、確か火村さんと一緒にいた……」
「そうだよ~? 改めまして~白鳥沢なとりで~す。よろしくね~♡」
あざとい手振りと共に、白鳥沢さんに渡されたのは『株式会社シロナ 特殊宣伝部』と書かれた名刺。
シロナ。確かアパレル系大手の一つで、あのホムラが所属するダンジョン探索チームを所有している会社の名前だったか。
なるほど。随分と身なりや振る舞いが良いと思ったが、結構なエリート会社員だったわけか。それは納得だ。
……あれ、でも確かこの前火村さんを同僚とか言っていたよな。
火村さん、実は企業所属の社員だったのかよ。なんていうか、フリーの一匹狼ってイメージだったから手前勝手ながらちょっと残念だな。
「今日はどうしたの~……って、その恰好なら聞くまでもなかったね~」
「ええまあ。お恥ずかしながら、ダンジョンで今日の食費を稼ごうと来たんですが、見事に閉まってまして立ち往生って感じです」
「あ~。それは災難だね~。でも駄目だぞ~? 探索者に限らず体は資本、ギリギリで食いつなごうとするのは賢い選択とは言えないからね~?」
動く度にポヨンとなる大きなお胸に目がいってしまうのを懸命に堪えながら。
簡単に事のあらましを説明すると、人差し指を立てながら本当に当たり前のことを窘められてしまう。
実際、俺もあれだと思ってるのでぐうの音も出ない。
けど仕方ない。言い訳になるけど、先輩との同居生活がいきなりすぎたんだもん。どうしてこう考えなしに提案してしまったんだ、俺の馬鹿馬鹿バーカ!
「えっと、わたしはね~? 今やってる調査を任されたヒ……茜の補佐をする一人なんだけど~、もうじき帰還するから迎えに来たのよ~」
「……そういえば、これって何の調査してるんです? さっき窓口で聞くの忘れちゃったんですよね」
「えっとね~? 十八階層に赤いダンジョンタウロスが出たって報告があったから~、うちの茜にダンジョン庁から依頼が来たってわけなのよ~」
白鳥沢さんに尋ねてみれば、にっこり笑顔のまま説明してくれる。
ダンジョンタウロス。別に珍しくもない、比較的ポピュラーな牛みたいなダンジョン生物である。
ただしそれは中層でなら。暴れ狂いながら突進する黒い大牛は上層には生息しない、並の三級では手が付けられないダンジョン生物だ。
なるほどな。確かにダンジョンタウロス、それも特殊個体が発見されたのなら閉鎖せざるを得ない。
ごく稀に出現する、通常のダンジョン生物とは異なる特殊個体。
まだ観測例自体が少ないため断言はされていないが、通常個体と異なるのは外見だけではなく、何かしらの能力も秀でたりしているため、既存の固定概念だけで手を出せば相応の被害を被ることだろう。
……実は一回、一回だけ俺も相対したことがある。
あれはまだ駆け出しの頃。表層に赤いミニスライムと遭遇したのだが、当時は火村さんと出会う前のぺーぺーだったこともあり、若干パニクりながら時間停止で処理してしまったのだ。
今思えば随分と惜しいことをしたものだ。
特殊個体は生きたまま捕獲してダンジョン庁に渡せば相当のお金になっていたはず。こういう小さな収入の積み重ねがあれば、今日の一食に困ってなどいなかったというのに。
「でもそっか~、お弟子くんお金足りないんだ~。……じゃあこれ、お姉さんからの心付けだぞ~♡」
そう言いながら、懐のお財布から取り出して渡してきたのは何と一万円札。
はいどうぞで出すにはあまりに大きすぎるお金を気軽に出されてしまい、俺は固まる他なかった。
「本当はこの後ご飯でも奢ってあげたいんだけど~、会社に戻って作業しなきゃなんだよね~」
「い、一万……わ、悪いですよ! ここまでしてもらうような関係じゃ──」
「そんなつれないこと言ってるとモテないぞ~? この前迷惑掛けちゃったお詫びだと思って、この場はどーんと受け取って欲しいかな~?」
受け取れないと拒否しようとした俺の手へ、白鳥沢さんは柔らかい手で有無を言わさず握らせてくる。
白鳥沢さんのASMRで耳を蕩かしてヒモを数匹買っていそうな雰囲気のせいか、どことなく貢がれているような優越感さえ覚えてしまう自分がちょっと恥ずかしい。
……実際美女に貢がれるっていいよな。オデ、美人のヒモ、なりた……げふんふげん、思考放棄!
「それじゃまたね~。あ、今度わたしと飲みに行こうね~♡」
「あ、ちょ──」
そうして白鳥沢さんは俺の静止なんて意に介さず、手を振りながらするりと離れていってしまう。
残された俺は、手に残ってしまった一万円と彼女の背へ視線を行き来させながら、重いため息を吐いてしまう。
なんていうか、あの人は蠱惑的すぎてデンジャラス過ぎる。
この絶妙な距離感を越えたらドツボに嵌まって痛い目をみる、そんな気がしてならなかった。