怖いのは彼女に限った話でもなく
ふと周りを見れば、そこは俺のいたはずの部屋ではなく。
大きなベッド以外何もない、空や床さえ淡いピンク色だけの空間に迷い込んでしまっていた。
『んう……どうしたの? とめるくん?』
何が起きたのかと、周囲を見回していると掛けられた女性の声。
急に名前を呼ばれて心臓がばくつきながら声の方に首を向けてみれば、そこで寝惚け眼を擦りながら、上目遣いで見てきていたのはなんと葵先輩だった。
何故か同じベッドの、それもほとんど密着した形で横になっている先輩は、下半身を毛布で隠しながらも上は何も着ておらず。
まるで愛し合う人達がそういうことをして一夜明かしたとか、そんな洋画でまれに見る事後のシーンみたいな状況に俺の思考はまったく追いついてくれなかった。
『あ、葵先輩?』
『もうとめるくん、寝惚けてるのぉ? いつものように、夕葉って呼んで欲しいな?』
そう言いながらのそりと起き上がるかと思った矢先、先輩はそのまま俺を抱き寄せてしまう。
ふわりと鼻を擽る甘い匂い。伝わってくる柔らかな感触。どくんどくんと鳴る鼓動。
服は愚か下着越しですらない肉の感触は、官能的と表現するしかないものだった。
『もうとめるくん? 葵夕葉にばっか構ってないで、こっちも構って欲しいなぁ』
だがそんな未知の快感に興奮さえ追いつかず。
ただただ呆然としていた俺を葵先輩から引き離され、同じように抱き寄せてきた。
新たに俺を抱きしめたのは、青柳トワ。
深い蒼の髪に蒼の瞳。俺が最も推しているダンジョン配信者である彼女が何故か同じベッドの上にいて、ぎゅっと抱きしめながら俺の頭を撫でてきた。
『ほらとめるくん。今日はもう一緒にゴロゴロしよ?』
『わたしたちと夜までゴロゴロ。とめるくんならどこだって、いつだって触っても良いからね?』
ベッドの上で二人の美少女に取り合われ、堕落への誘惑しながら迫ってくる。
そんな奇怪且つロマンすぎる状況に戸惑いながらも、動くことが出来ず、離れることさえ叶わない。
『葵夕葉も青柳トワも、みんなあなたのものだよ♡ だーいすき♡』
両耳から囁く囁き声。僅かな吐息さえズレることなく、息ピッタリに重なる二人の愛の言葉。
脳さえ蕩けてしまいそうな、所詮男子大学生でしかない理性などが耐えきれるはずもなく。
ごくりと唾を呑みながらも、そのまま桃色の空気感な中で二つの唇が近づいて、今にも触れそうになって──。
「……くん、きたくん……?」
そして目が覚めた次の瞬間、切り替わった視界に映ったのは覗き込んでくる人の姿。
寝癖からか少し髪を跳ねさせながら、きょとんと首を傾げるのは、ついさっきまで一緒に寝ていたはずの葵先輩だった。
「も、もう朝ですよー。……ふふっ、涎、付いてますよ?」
「……うえ?」
昨日と同じジャージ姿の先輩は、自分の頬を指差しながら小さく微笑んで、それからお手洗いを借りると部屋から出て行ってしまう。
そんな彼女の背に、ああ、さっきまでのは夢であったのだと。
日常へ戻ってきたそこそこの安堵と、どうせ夢ならもっと続きを見たかったという非常な残念な気持ちで一杯になりながら、涎を拭きつつゆっくりと立ち上がった。
泊まるための荷物を取りにいきたいので、一緒に来て欲しいと。
葵先輩にそう頼まれたのは、冷蔵庫にあった僅かな食料で朝食を済ませていたときだった。
まあ当然の話ではある。
何せこの部屋には、女性は愚か男の客人を招く準備すらない。
服や化粧品や日用品は当然として、来週にまで迫ったテスト期間に向けてなど、必要なものはごまんとあるだろう。
あとは数日空けるため、戸締まりなどもしっかりしておきたいとのこと。ストーカーが不法侵入してくる可能性も考慮すれば、そういう意識は大賛成でしかなかった。
「……っ」
「……大丈夫ですか?」
「い、いえ、大丈夫です。ちょっと視線を感じた気がしただけですから」
今日の講義が始まる前、先輩の家まで向かう最中。
少し様子のおかしかった先輩に大丈夫かと尋ねてみたのだが、強ばった笑顔で心配させまいと言った具合に振る舞われてしまう。
時間を止めて確かめてみるが、尾けていそうな怪しげな人の姿はなく。
手がかりがない以上、ひとまずは気のせいで片付けるしかないと、再び時の流れを戻しながら歩みを再開する。
見られていると。
街中を歩く今この瞬間において、そういった類の視線を俺では感じ取ることが出来ない。
言い訳するが、決して俺が鈍感というわけではない。
むしろ逆。曲がりなりにも探索者なのだから、常人よりはずっと優れていると自負してさえいるくらいだ。
けれどその察知能力は、あくまであるかないかを感じるもの、数多の意識や雑音が混在する街中で、特定個人だけの深い意思を発見することは不可能と言ってもいい。
二級、或いは一級であればそうではないのかもしれないが、そんな感覚は分からない。
部活動レベルの選手がプロの動きの内々まで把握出来ないように、級一つ異なる探索者の感覚など推し量ることさえ難しいのだ。
それにそもそも人間の悪意というのは、自然の中で生きる獣やダンジョン生物とは根本から異なるものだ。
どす黒く粘つくほど強固なくせに、非合理極まりなく、理性と笑顔を以て周到に誤魔化すことの出来る異質な感情。
そんな弱肉強食とはかけ離れた、不必要な悪意の塊。
感情や本能を持ちながら、常識と理性が社会基盤の前提になっているからこそ起きる矛盾による衝動の爆発。それを脳や心の専門家でなく、ましてや同じ境地に至っていない俺では思考を読むなんてことは不可能だろう。
せめて、せめて相手の動機さえ分かればやりようはあるんだが求めすぎか。
結局の所、この件最大の鍵である送られてきた画像を見せてくれるかは先輩次第でしかない。
無理強いしてはそれこそ粘着ストーカーと同類のクズに成り下がってしまう。だからひとまず俺の役割は、先輩の心が少しでも落ち着くように努力することだ。
……誰に言い訳するわけでもないが、別に俺がお人好しというわけではない。
むしろ逆。例えどれだけ困っていようと、相手が赤の他人だったら警察に相談しなよで終わりにしているくらいには薄情な人間でしかないと自負している。
だから決して先輩を助けるためだけではない。どこまでいっても俺のためだ。
『大変申し訳ございません。手前勝手ながら、諸事情にてしばらくの間活動を控えさせていただきます。青柳トワ』
思い出したメッセージはちょうど今朝、SNSに通知された青柳トワの休止宣言。
あくまで疑惑でしかなかったというのに、こうも重なってしまえば少し勘ぐってしまう。というか心の中ではもう九割近く確定と踏んでしまっている。
仮に、仮にそうだとして。脳の中で浮かび、集まり、紐付いた仮説が正しいとして。
もしそうならば、この問題を解決することが青柳トワ活動再開に繋がる。そんな人でなしな打算ありきでもあるのだから、隣を歩く先輩にどの面して善人ぶれるというのだろうか。
……本当に最低だな。最低だから、せめて知られないように心がけなきゃな。
「あ、あそこです」
「はえー。いいとこ住んでますね、流石です」
そうしてしばらく歩いた後、やがて先輩が指差したのは五階以上はあろう綺麗なマンションだった。
……流石は二級探索者。俺の部屋がある安アパートと違って小綺麗なマンションだこと。
エントランスには管理人室と繋がる小窓や自動ドア、ポストのそばには監視カメラも搭載済み。
今になってエントランスさえないうちの部屋に泊めたのが恥ずかしくなってしまうくらい、そのくらいにはグレード差があった。
もしストーカーがこの規模のセキュリティでポストに投函したのなら、管理人にでも相談すれば監視カメラでも見せてもらって特定出来そうなものだが……今むやみに動くのは得策ではないか。
浮かんだ案を放り捨てていると、先輩が解錠して自動ドアが開かれる。
若干強面の管理人の視線を受けながら、先輩の背に続いてエントランスを通過し、そのまま階段を上って歩いていけばやがて辿り着いたのは三階の一室だった。
「ちょ、ちょっと待っててください! 色々準備するので!」
先輩はそれだけ言い残して、逃げるように部屋へと駆け込んでしまう。
しばらくの立ち往生。ジリジリと、夏の暑さに汗を掻きながら荷造りをしている先輩を待ち続ける。
……時間を止めて部屋に入り、盗聴器や隠しカメラの類がないかを調べるなんて案もあった。
けれどそんなことをやってはストーカーと同じになってしまう。何より先輩の信頼を裏切ってプライバシーを、彼女の守りたい秘密を暴くなんてしてはいけないとすぐに自省した。
……或いは、俺が暴きたくないだけかもしれないな。
青柳トワに、俺の最推しであるダンジョン配信者に繋がる決定打を。知ればそれまでと同じ関係にはいられないという、自らの漠然とした不安を。まったく、女々しいことだ。
「……くん? 時田くん?」
自身の浅ましさ、情けなさを自嘲していると、いつの間にか先輩は戻ってきている。
まだ中を見せるのは恥ずかしいのか、扉から顔を出しながら、こちらを心配そうに覗き込んでいた。
「え、あ、はい。終わったんですか?」
「い、いえ! それより大丈夫ですか!? まさか、熱中症!?」
「だ、大丈夫ですよ。ちょっと考え──」
「こ、こんなに暑い所で待たせてごめんなさい! 今飲み物持ってきますからー!」
「──事を……行っちゃった」
パタパタと、扉越しだというのに聞こえてくる彼女の音。
そんな彼女の様子に慌ただしい人だと、思わず毒気抜かれてしまったと苦笑いしてしまう。
ま、今は考えても無駄か。
どんな事情であれ、首を突っ込んだのだからやるべきことをしっかりと。余計な雑念や思考なんてのは、解決してから好きなだけすればいい。
「こ、これどうぞ! うち今、これしかないので、すみません……!!」
「……いただきます。先輩、ありがとうございます」
音が鳴るほど勢いよく扉を開けて、コップを差し出してくる先輩。
そんな先輩に、少しだけ軽くなった気持ちで礼を言いながら。
心の中で、あまり紅茶は好きではないと謝りながら、顔に出さないよう勢いよく飲み干した。