お節介な自覚はあるけれど
昨日までの地獄が嘘みたいと、それほどまでに涼しさに包まれた自分の部屋。
実に一年ぶりの稼働が上手くいってくれたことに安堵しながら、それでも勝手知ったる自室だというのにどうにも気が休まることはない。
「すう、すう……」
理由はたった一つ。
安心したように俺のベッドで眠るのは葵先輩。……そう、ここにいる葵先輩だ。
あれから二軒ほど周り、もうじき日にちが変わりそうというくらいまで飲み続けた。
彼女は飲んだ。それはもうごくごくと、最初の一杯の前に弱いと言っていたのが嘘のように。
あれほどバカスカとお酒を飲めば案の定というか何というか。
嫌な予感は的中し、ヘロヘロを通り越してすっかり沈没してしまった葵先輩を放っておけず、考えた末に俺の部屋で寝かせることにしたというわけだ。
先輩には申し訳ないが、ホテルにしなかったのは今月色々懐が心許ないせいでもある。
家賃に電気ガス水道代、色んな税の基本セット。更には食費に交通費に飲み代などてんこ盛り。
それらに加え、最近特に目立つようになったのは武器。上層に活動範囲を変えたせいで消耗が激しく、この一月ほどで安物の剣二本とお世話になっていたツルハシが折れてしまったせいでお金がないのだ。
いっそのこと武器の質を一段階上げたい気持ちもあるが、残念ながら中々難しい。
こちとら所詮学業メインの三級、エアコンさえ我慢したくなる程度の収入でしかない身。武器のグレードアップはもちろんのこと、あれば安心な補助薬にだって手が届きそうにない。まあ後者については三級風情が常備するものでもないけどさ。
……誓って言うが、決してエッチなことはしていないしそんな意図はない。
そういうつもりならもっと掃除してから招いているし、そもそもそういうことをするためのあれの準備もない。あくまで酔いつぶれたのを寝かせているだけ、それだけだ。
……いや、運ぶ際におんぶしたせいでちょっと背中におっぱいの感触が残ってはいるがそこは許して欲しい。決して他意はない、不可抗力なんだ。……誰に言い訳してるんだろう、俺は。
しかしよく眠っている。男の部屋だというのに、無防備もいいところだ。
火村さん同様に俺を男としては見ていないのだろうか。それとも信頼されているのか。……出来れば後者であって欲しいと思ってしまうのは、男として間違ってないはずだ。
あまりに初めて且つレアな体験なので、もう少し見ていたいと思う気持ちはあるものの。
女性の眠っている顔を見るのも失礼だと、ひとまず汗を流すついでに頭を冷やすべくシャワーでも浴びることにした。
……ユニットバスってのも、女性を連れ込みたくない理由の一つになるよな。
一人暮らしだと気にならないが、二人以上だと途端に窮屈で不便に感じてしまう。そういった意見をよくネットで耳にするが、今日やっと腑に落ちた気がするよ。
どうにか部屋に女性がいるという非日常感、そして若干浮かんでしまう性欲を落ち着かせながら。
シャワーで汗を流し、タオルで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かして服を着る。そういった行程が俺の心に平静さを取り戻させてくれた。
ふうすっきり。
あとは風呂上がりにコーラ飲んで一段落。ちょっと時間を潰したら歯を磨いて俺も寝ようかな。夏の床は冷たいし、案外ベッドよりも寝やすそうだ。
「……っえ?」
「……………おう」
すっかりいつも通りの気分で部屋に戻ってしまった、そのときだった。
ベッドで体を起こし、きょとんとこちらを見つめていた葵先輩と目が合ってしまったのは。
目を合わすこと、実に数瞬。
恐らく先に思考を取り戻したのは俺の方。頭を抱えたくなるのをグッと堪えながら、なるべく優しく微笑みかけてみる。
「おはようございます先輩。あ、水飲みます?」
「あ、いただきます……えっと、こ、ここは……?」
「俺の部屋です。あまり片付いてなくてすみません」
何かの間違いでパン一とかじゃなくて良かったと。
内心で心の底から今日の俺を全力で褒め称えながら、予てからの予定通りになるべく平静を保ちつつ、下心なんて一切ないと安心させるよう心がけながら話していく。
あちらかすれば、知らないとは言わないけれど特別仲が良いというわけでもない男の部屋に連れ込まれたのだ。通報されないよう、不快に思われないよう、嫌われないように最善を尽くすだけだ。
……正直、こんな汚い部屋連れてこられたら巻き返しとか無理な気がするけどな。九回裏のツーアウトツーストライクって感じの心証だ。
「これどうぞ。未開封なんで安心してください」
「あ、ありがとうございます……」
冷蔵庫から取り出したペットボトルを先輩へ渡し、俺は缶コーラをごくごくと喉へ流し込んでいく。
ああ美味い。どんな場所、どんな空気でもコーラの味は変わらない。やはりコーラは最強だ。
──さて。
「……」
「……」
椅子に座り、コーラ片手にスマホを弄りながらの現実逃避はここまでにしよう。
気まずい。自分の部屋だというのに、学生寮の初日かってくらい気まずさでいっぱいなのだが、どうしたものか。
こういうとき、気安く隣へ近寄れるであろう叶先輩が羨ましい。
あの茶髪チャラ男ならもう一回戦始めちゃってるんだろうな。恐ろしい男だよ、あの人は。
「あの、なんかゲームでもします?」
「……あの、シャワー、借りてもいいですか?」
「え、あ、はい。ユニットバスですけど、それでも良ければどうぞ……?」
まあ見習うなんて出来ないしする気もないと。
とりあえず健全な提案してみれば、先輩が頷く代わりにシャワーを提案されてつい頷いてしまう。
ゆっくりとベッドから降り、そのまま浴室へと向かっていく先輩。
……思わず成り行きで頷いてしまったが、これはもしかしなくても、非常に危うい状況なのではないだろうか。
狭い部屋。交代で汗を流した若い男女二人。
どうしよう、どうしましょう。このまま流れで……なんて薄い本みたいな展開になっちゃったら!?
今日はそんな覚悟も準備も出来ていない。
そうだ、今のうちに例のあれを買ってきた方が……いやいや! そんなことしたらいよいよヤリ目で連れ込んだと誤解されてゲームオーバーだっつーの! 俺の馬鹿っ!
それに耳が拾ってしまう水音。ずっと聞こえてくるそれもまともな思考を許してくれそうにない。
こんなにもシャワーの音一つに心を揺らされ、ソワソワしてしまうことがあっただろうか。
いや、ない。あるわけがない。だってこの部屋に人招いたことなんてないもん。そもそも人のシャワー音なんて、まともに聴いたのは今日が初めてだ。
とりあえず落ち着こう。ビークールの精神で、こういうときこそ最推しでも見て落ち着かなければ。
そう思って青柳トワのアーカイブでも覗こうとしたが、ふと最近の疑惑から一層先輩が離れてくれずに逆効果になってしまう。
……あれ、そういえば先輩、着替えとかどうすんだろう。
流石に汗びっしょりな服を着させるわけには……やっべ、そういうの考えてなかった。
「あ、あの先輩! 扉前にジャージとタオルを置いておくんで、良かったら使ってください!」
高校の頃のジャージ、そして新品のタオルを準備して声を掛け。
その後どうにも座って落ち着く気にもなれず、何していいかも分からないので取り合えずベッドメイクをして先輩を待つことにする。
……ここにさっきまで、あの葵先輩が寝てたんだよな。……ごくり。
いやごくりじゃねえわ変態。駄目だ、このままじゃ変態の俺が時間を止めてまでくんかくんかしそうだから急いで消臭剤かけないと。
「あの、シャワーありがとうございます。おかげでさっぱり出来ました」
ベッドを整えては椅子に座り、落ち着かないからとソワソワしてもう一度座り。
もう何をやっても落ち着ける気がしなかったので、椅子の上で必死に座禅を組んでいると、先輩の少し気の抜けた声が聞こえてきたのでそちらを向いて──思わず、ごくりと唾を呑んでしまう。
ほくほくと。
少し濡れた髪をタオルで拭き、少し火照った頬で心地良さそうな緩い笑みを浮かべる葵先輩。
お風呂上がりだからだろうか。それとも俺のジャージを着ているからだろうか。
いずれにせよこれはやばい。控えめに言って童貞には刺激が強すぎる。深層級の破壊力だ。
こんな女性が俺の部屋にいるって事実だけで色々まずい。こういうときこそ一旦時間を止めてちょっと落ち着こう……ふうっ。
ひとしきり落ち着いた後に再び時間を動かすと、先輩は先ほど渡した水を手に取り飲み始める。
ごくごくと、普通に水を飲んでいるだけなのに艶めかしい。
もう何をやってもエロいと感じてしまうまっピンクな脳みそに恐怖さえ覚えながら、再び時間を止めて落ち着き、どうにか修羅場を乗り越える。
「……今日は情けない所ばかり見せてすみません。すごく鬱陶しかった……ですよね」
「そ、そんなことないですよ。逆に初めて頼ってもらえて、少し嬉しかったくらいです。はい」
そんな俺の葛藤など片鱗さえ掴めていないのだろう罪な女こと葵先輩は、ほっと小さく息を吐いてからベッドに腰掛けたと思えば、申し訳なさそうにそんなことを言ってきた。
「そ、そんなことないです! ……いつも頼ってるのはわたしの方です。蒼斧レナのこと話しても聴いてくれて、一緒にダンジョンに潜ってもらえて、助けられてばっかりです」
「いや、俺の方が助けられてますよ。ダンジョンでは当然として、大学で可愛い女性の先輩と話せるってだけで俺には値千金、この上ないご褒美ってものです」
「……ぷ、ふふふっ! なんですそれ……ふふふっ」
実際欠片も迷惑だとは思ってないので心の底からの本音を返すと、何が面白かったのか、先輩は少しきょとんと呆けた後に口を押さえながら笑いを零してしまう。
ボケてなんかいないんだが、今のが一体彼女の何に刺さったのか。
ちょっと不満はあるし、それ以上の疑問はあるけれど、まあ楽しそうなら別にいいか。
「……こんなに話を出来たの、時田くんが初めてです。一緒にお店でご飯食べたのも、お部屋にお邪魔させてもらったのも、こんなに笑わせてくれるのも、全部」
「そう思ってもらえてるなら、後輩冥利に尽きるってものです。事情は分からないですけど、辛いことがあるのなら今日みたいに頼ってください。ま、俺に出来ることなんて少ないですけどね」
葵先輩はその綺麗な黒い瞳をこちらへ向けて、真剣にそう言ってくる。
そんな彼女の真っ直ぐで少しだけ重い言い回しについ照れくさくなってしまい、首に手を当てながら目を逸らしてしまう。
「……なら、聞いてくれるだけでいいので、聞いてくれませんか。わたしの悩み」
そうして少しの静寂の後、先輩は再度俯き、両手に持つペットボトルを少し強く握りながらぽつぽつと話し始めた。
始まりは二週間ほど前。
先輩の利用しているSNSのアカウントに届いた一通のDMが原因だった。
『調子に乗るな。お前の正体を知っているぞ』
最初はただの迷惑メッセージとしか思っていなかったらしいのだが、何枚かの画像が貼られたことで認識を改めざるを得なかったらしい。
そしてつい三日ほど前、ついに一人暮らしをしている自分の部屋のポストにまで届き、張り詰めた緊張が限界を超えて今に至ると、そういうことだった。
「メッセージにも、手紙にも書かれているんです。俺はお前の秘密を知っているぞって、お前は人を誑かす売女だって」
「秘密?」
「はい。そういう写真が、何枚も」
そうして悲痛な顔で話し終えた先輩は口を閉じ、部屋に再び静寂が戻ってきてしまう。
……正直、えっちな空気だ何だと浮かれていた自分が恥ずかしい。
先輩がそんなにも重い問題に苦しんでいたというのに、ゴムやベッドの臭いなんて馬鹿じゃないのか。ほんとマジで反省しろよ俺。
しかしなるほど、合点がいった。確かにそれなら家に帰りたくないと思うのも当然だ。
如何に二級探索者と言えど、所詮は日本という国に属する人間の一人でしかない。暴力で解決出来る問題などほとんどなく、ダンジョンの外では普通の大学生でしかないのだから、怖いものは怖いに決まっている。
妙だと言えば、証拠付きとはいえ知っているぞとだけ告げるだけで、何かしらの要求がないことか。
或いはストーキング自体が目的なら存在の誇示で十分なのか、それとも他に目的があるのか……駄目だ、情報がなさ過ぎてまるで分からんなぁ。
「……警察に頼りません? それが一番早いと思いますよ?」
「だ、駄目です……! 警察の類に相談したら秘密を晒すって、手紙に……!!」
恐らく一番真っ当な打開策を提示してみたが、両腕を抱きながら震える先輩に拒否されてしまう。
脅迫か。どうしようもないくらいにありがちだが、これほど効果的な手は中々ない。
相手側が本当に把握出来るのかは定かではないが、通報への牽制としては充分過ぎる。現にこうして効果覿面、先輩は確証のない言葉一つで雁字搦めにされてしまっている。
「何か心当たりはありますか? 恨みを買ったとか、元彼とか、」
「な、ないです。彼氏は愚か、同性の友達だっていたこともないですから……」
手がかりなしで警察には頼れない……となれば、やっぱり現行犯で捕まえるしかないか。
ストーカーの特定と確保。言葉にするのは簡単だが、これは非常に難しい問題だ。
例えば俺だったらあえていつも通りに動き、止まった世界の中で怪しいやつに目星を付け、数度タメして確証が出来てから確保で終わりだが、これは時間を止められるから出来ることでしかない。
実際のストーカー対策なんてものは、終始後手に回ってしまうものだ。
特別賢くなんてない俺では、それこそ警察に頼る以外の手段を思いつけないのがもどかしいな。
「葵先輩、送られてきた写真を見せてもらうことって出来ませんか?」
「……ごめんなさい」
一応駄目元で頼んでみたが、葵先輩は数秒悩んだあと、やはり首を横に振ってしまう。
犯人を特定するヒントに繋がるかもしれないから見ておきたいのだが、流石に無理強いは出来ない。
他人に知られたくない秘密。自分だけの大切な何か。
如何に信頼している相手であろうと、秘密を語るのは相応に勇気のいること。所詮一月そこらの関係でしかない俺達の距離感ではあまりに遠すぎだ。
しかし、それだけ守りたい秘密とは何なのだろうか。
元彼はいないらしいからリベンジポルノの線は薄い。暗い過去、犯罪歴、誰かの愛人、或いは何かの正体──。
「……ありがとうございました。時田くんに話せたから、少し楽になれました。わたし、もう少し頑張れそうです」
「え、葵先輩!」
力のなさを誤魔化しきれない笑みを浮かべ、そのまま立ち上がって部屋から出て行こうとする先輩。
このまま帰ろうとしている姿に俺は思わず椅子から立ち上がり、引き止めるために彼女の手首を掴んでしまった。
「えっと、時田くん……?」
引き止められるとは思ってなかったのだろう、困惑を声に乗せながら首を傾げてくる先輩。
一瞬後ですぐに我に返りながら、それでも手を放すことが出来なかった。
ジャージ姿というのもあるが、今の先輩をこのまま帰しちゃいけない気がしてならない。
今の先輩は酷く危うい。火が消えかけた蝋燭みたいで、目を離したらいなくなってしまいそうだった。
恐らくここが分水嶺。
この手を放して明日から元通りか、それとも握ったまま厄介事を背負うか。俺がこの件に関与すると決められるのは、この瞬間だけだ。
……馬鹿か、悩むなよ。答えなんてとっくに決まってるだろ。
こうして見て聞いてしまったのだから、見なかった振りなんて目覚めが悪くて仕方ない。
そんなことをしたら、俺は二度と自分を誇ることが出来なくなってしまうし、明日から先輩と笑顔で話すことなんて出来ない。それは、それだけは嫌だった。
「一つ提案があります。先輩が良ければですが、しばらく俺と一緒に暮らしませんか?」
そうして数瞬、時を止めることさえ忘れて悩んだ末に出した結論。
手を放さないと決めて口に出してしまった提案は、あまりに浅はかでしかないものだった。