それぞれ進む
地上で時間を止めてから、一体どれくらいの時間が経過したのだろう。
餞別の橋を越えた後、休みつつも迷いながら下層を抜けて、途中で見かけたナナシへ一言置いてから横切って。
時計の針さえ動かず、太陽も月もなく、自分の足音と口から出る音だけしかない世界。
自分の体内感覚を信じるしかないこの空間の中が苦痛になるくらい、ただひたすらに歩き続けた。
そうしてついに辿り着いた四十階層。
深層。ダンジョンの中でも人類未開領域、本来であれば三級探索者なんぞには縁の欠片もないはずの場所。
星屑が散りばめられているみたいの壁と天井、そして淡く発光する石レンガの床はさながら天然のプラネタリウム。こんな状況でも、止まった世界であったとしても、幻想的と目を奪われてしまうほどだった。
「……っ、こっからが、本番」
疲労か緊張か、或いはその両方か。
どれにせよ、少々荒くなってしまっている息を整えながら、四十階層を亀ほどの速度で進んでいく。
ここまで戦闘など一度もなく、俺がしてきたのは、ただ深層へ向かって歩いてきただけ。
だというのに、心身共に想像を遙かに上回るほどの疲労が溜まってしまっている。足も心もとっくの昔に、下層を歩いていたときには辛いと自らの浅慮を悔いていたほどだ。
気を抜けばふらつきそうになって、ちょっと休んだら立ち上がりたいって思えないくらい。
数日ダンジョンに籠もるような遠征に慣れていないのもあるのだろうが、それにしたって想像以上に疲弊してしまっている。これでまだ、ようやく本番を迎えたって所だなんて嘘だと問いただしたくなるほどだ。
まるでダンジョンに、或いは世界に時間停止なんて大層な反則を持ち合わせていようが、お前はどこまでも三級側でしかないのだと。
この能力を得てから散々自覚させられた事実を、ここに来て改めて突きつけられているようだった。
それでも、だからといって足を止めていいわけではない。
そもそも、ここに来てまでもう止めたしてたんじゃ、何のために来たんだって話だ。
だから進め。進め。何も考えずに、ただ目的だけを見据えて進んでいけ。
それが無意味だったとしても構わないから、ただ彼らの……あの人と被ってしまう赤髪の偶像の下まで、止まることなく歩いて──。
「──ッ!?」
終わりの見えない、幻想的な通路をあてもなく進み続けていた。そのときだった。
また一歩と、振り下ろした右足が変わらず床を踏んだと。
そのはずだったのに何故か足はレンガをすり抜け、グチャリと、鈍く不快な音が無音の世界で嫌というほど耳に、その先の脳みそにまで響いてしまう。
「あ、アア、アアあアッッ!!」
一拍。何が起きたのか分からず困惑してしまうも、次の瞬間には激痛という現実が追いついてくる。
野太い悲鳴を上げながら、衝動のままに右足を上げようとすれば更に激痛が走る。
まともな思考でなく、半ば本能から歯を食いしばりながら引き抜き、勢いのままに倒れ込んでしまう。
引き抜いた右足にはすっぽりと、穴が開いてしまっている。
骨はひしゃげ、ドクドクと、大量に血の抜け出る不快と快楽の混じった奇妙な感覚が。
何が起きたのか。なんでいきなり、何をされたのか。
そんなまず回すべき思考もままならぬまま、立ち上がろうとして上手くいかず。
苦悶に満ちた数秒を過ごした後。本当に前触れなく、ぷつりと糸が切れたように呆気ないほど、俺は意識を手放した。
四十階層、暗闇の次元道。
宝箱の罠によって飛ばされた一同は今、無数に押し寄せてくるうさぎ達と熾烈な戦闘を繰り広げていた。
「あはは、あハハハッ!! いいじゃんいいじゃん! こういう血まみれ泥まみれ、ほんっとに久しぶりッ! もう楽しすぎて絶頂ってくらい最高だよッ! ほらそこッ! アハッ、なんかわんこそばみたいなんだから、私が蓋するまでおかわりちょうだいよねェ!! ハハハハッ!」
恐るべきは比嘉みつき。戦場を縦横無尽に駆け巡り、鉤爪と足でうさぎ達を屠っていく褐色の悪魔。
うさぎのようなダンジョン生物からの強烈な蹴りに直撃し、血を吐きながらも平然と立ち上がり、弾丸を優に超える速度で跳ね回るうさぎを鷲掴み、お返しとばかりに膝を入れて絶命させてしまったのだ。
そうして危機は過ぎ去ったと思えた矢先、口火を切ったかのように襲来してきたうさぎの群れ。
他の一級達が戦き警戒を強める最中、それでも、比嘉みつきが一切恐怖を浮かべず。
むしろ喜悦に満ちながら口元を歪め、舌なめずりの後に盾役であるマリアの前から飛び出し、開幕の合図とばかりに数匹を同時に蹴散らすほど。
戦闘狂。異常者。凶戦士。
平時の配信や沖縄の地域発展を願う際に見せる、どんな子供にも好かれそうな愛嬌溢れる笑顔とはまるで真逆。
残虐、獰猛、闘争。獣よりも獣。
口から血を吐きながら、傷つき傷つけられながらも悦に浸る比嘉みつきの笑顔は、まるで情事の最中に垣間見せるような恍惚とした、人の道理からは外れたものであった。
「……こっわ。あの人あないキャラだったでありんすか。地上帰ったらちょっと付き合い考えなきゃいけないでありんす」
「知らねえよ! それより手ぇ動かせ! もっとドバーって、派手に丸ごと凍らせられないのか!?」
「疲れるし調整大変だから嫌でありんす。ほらマリアはん、盾が鈍器に成り下がってしまったんでありんすから、せめてもぐら叩きみたいに健気に頼むでありんすよ?」
そんな比嘉みつきの姿を遠巻きに眺めながら、若干どん引きとばかりに顰めるありんす丸。
尾を揺らす彼女がそばでうさぎと受け止めていたマリアの叱咤にも何処吹く風と、一切悪びれもないまま扇子を振るえば、マリアが受け止めていたうさぎ数匹は一瞬でカチコチに固まり、そのまま地面に転がってしまった。
そしてもちろん、抵抗できているのはありんす丸やマリアだけではない。
「ふうっ。にしても、いつまで倒せばいいんだろうね。これ」
「……キリがないな。これでは、進んでいる気がしない」
炎を宿した剣を流麗に振り、迫るうさぎを数匹纏めて斬り伏せるホムラ。
マリアの治療と自身が持参した札によって、完全に腕を修復し槍を振るう紫電夜叉。
更にはこの場で唯一一級でない南雲クリスもまた、マリアの魔法に手足を完治させ、地味ながら短剣にて一匹一匹確実に葬っていく。
出だしこそ崩れかけたものの、むしろ開幕を調子は上がってきたのか、彼らの勢いは増すばかり。
一級探索者。日本に三十一人しかいない、探索者の最高峰。
配信という枷がなくなったのもあるかもしれないが、それ以上に彼らの力は、深層という魔境であってもただ跳ね返されるものではなかったのだ。
──だが、彼らがいるのは深層。
未だ人類の領域にあらぬ世界。傑物たる一級探索者とて常識を知らぬ、不可解の奥底なれば。
「次、次、はい次ィ! ダメダメダメ、みんな小粒過ぎるって! もっとあの日のハブみたいに、私を暑く滾らせてぶべッ──!?」
右手と左手でそれぞれ鷲掴みにしたうさぎを打ち付け合わせて絶命させ、更には掴んだうさぎを振り回し、鈍器として無数のうさぎを殴り潰していく比嘉みつき。
そんな興奮絶頂真っ只中な彼女の認識をすり抜け、影の如く懐へと潜り込んだのは白うさぎ達の二倍ほどの大きさをした、瞳さえも真っ黒なうさぎだった。
「比嘉ぁ!!」
「……げほっ、げほッ。……いいねいいね、君さいっこうだねッ! 骨太でごん太でとても大きい! そんなの見せつけられちゃったら女はさ、もう涎出ちゃうほど滾ってきちゃうぐふッ──!!」
「……比嘉てめえ! だから前出過ぎるなって言っただろうがッ! 少しは反省しやがれ!」
「ちょっと邪魔しないでよ! その玩具、私をご指名なんだからさ……げほっ!」
まるで砲弾にでも直撃したかのように、音の壁を突き抜けた一撃。
もろに喰らった比嘉みつきは、勢いのままに地面を跳ね転がりながらも受け身を取り、自身の内側の破損を自覚しながら、好機と攻め寄ってきたうさぎを地面で叩き潰す。
大量の血と液体を吐き出し、常人なら発狂する激痛を抱えながら、それでも欠片とて闘志を失わず。
むしろ口が裂けてしまうのではというほど笑みを深める比嘉みつきは、追撃に割り込んだマリアに不満を漏らしながらも彼女の横を抜けて黒うさぎへ反撃しようとした。
その瞬間だった。マリアの盾を上へと弾いた、その同時に黒うさぎ。
予想外のパワーによって生じた絶好の隙だというのに、黒うさぎは盾を蹴って後ろに退いてしまう。
黒うさぎ──白の群れに紛れた異物は、その個体だけにあらず。
ちょうどホムラと対峙していた青うさぎ。
まさに今、紫電夜叉の繰り出した刺突を紙一重で交わし、器用に槍の穂先へと乗った深緑のうさぎ。
未だ戦闘に絡まず。一級探索者の感覚にも引っかからない間合いにて、じっと戦況を窺う黄色うさぎと赤うさぎ。
白以外のうさぎ達の立つ場所は、それぞれちょうど星を為す頂点の位置。
五匹が指し示したように同時に軽く跳ねたその瞬間、白うさぎ達が一斉に、起爆スイッチでも押されたみたいに眩く発光し始める。
「んだこいつ……おいやばいぞ! なんかしてくるっ……!?」
最初に気付いたマリアの警告だったが、声を上げるにはほんの数瞬遅い。
何か巨大な、発動されれば全員が為す術もなく命失うほどの何かだと、一級達の経験と本能が警鐘を鳴らしながら、半ば無意識的に各色のうさぎ達へ仕掛けようとして──届かない。
「まったく、奥の奥の奥の手ありんすが……ま、この状況だと仕方ないでありんす」
その瞬間だった。
億劫そうに扇子を捨てたありんす丸が、僅かに白い尾をざわつかせたと思った瞬間、狐の雄叫びが周囲一帯に響き渡ったのは。
コン、と。
よく透る狐の遠吠えが轟いた瞬間、黒も青も深緑も黄色も赤も。
そして残っていた百に近い白うさぎの全てまでもが、一瞬にしてこの場から姿を消してしまい、同時にバリボリと骨でも砕くかのような咀嚼音が数度鳴って、やがて止まった。
「先手必勝。小動物は狐に狩られるのみでありんす……んんっ」
ぺっ、と血でも混じったみたいな赤黒い唾を吐き捨てるありんす丸。
うさぎ達の全滅によって静寂を取り戻した真っ黒な空間の中で、扇子を拾おうとした彼女だったが、まるで糸の切れた人形のように倒れ込んでしまう。
「大丈夫ありんすちゃん!? 攻撃受けてなかったはずだけど……!?」
「……みつきはん、あないに獣やってたくせに、存外周り見えてるでありんすねぇ。てっきり、魂まで野生に帰ったとばかり……」
「無駄口叩くな。ほらじっと……おいなんだ、止めるなよ馬鹿狐」
戦闘が終わり、まるでスイッチを切り替えたように、人として恐ろしいほどに綺麗さっぱり元の雰囲気へと戻った比嘉みつき。
自身も額や口から血を出しているにもかかわらず、駆け寄ってきて心配そうに覗き込んできた彼女に、ありんす丸は気丈に振る舞いながら立ち上がろうとするも上手くいかない。
見るからに傷だらけの女性よりなお疲弊した、そんな状態だというのに。
次に近寄ってきたマリアが治療しようと手を翳すも、それには及ばないと力の入っていない真っ白な手でマリアの手首を掴んで首を横に振ってしまう。
「はあっ、はあっ、やめるで、ありんす。これは言うなれば摩耗。負傷や消耗とは別物でありんすから、そういうのは、効果ないでありんす。だからわっちに構わず、まずみつきはんの頭の治療から……って、な、うそっ、体が軽く……?」
ありんす丸の制止を無視したマリアは、逆にありんす丸の手首を掴み返し目を瞑る。
経過すること、ほんの数秒。
目を開き、大きく深呼吸した後に「もういいぞ」と手を放せば、ありんす丸は驚くほどあっさりと立ち上がれるほどに回復していた。
「ぐっ、その摩耗とやらを私が貰ったんだが……すげえなお前、こんな状態で他人優先できるであり……口調まで移りそうなのは何なんだ……?」
「な、何で無茶したでありんす!? こんな状況じゃ、どう考えてもわっちよりマリアはんの方が優先度高いでありんすに、なんで──」
「るせえ、耳に響くから怒鳴るなって。私の前じゃ誰も死なせないってのが信条なんだ。借りだと思ってんなら、その分働いてダンジョンの中で返しきりやがれ」
ありんす丸の叱咤を耳を指で塞いで流しながら、すぐさま他の治療に当たりだすマリア。
けれどその顔は少し青ざめており、気を張っていないとふらついてしまいそうになっている。
この場の、或いは当人以外の人類全てが与り知らぬことではあるが、ありんす丸は探索者の中でも異質。
魔法の発現によって獣の特性や容姿に変化が出る者はいるが、彼女はその例に当てはまっておらず。
構成要素全てが特別。既に人ではなく、人を素体に用いた何か。
時田とめるの時間停止と同類のそれを器とした神秘性は、今回集いし一級達の中でも群を抜いており、致命傷さえ癒やすマリアの魔法を以てしても治療はかなわない。
──ただしそれは、あくまで普通に治療しようとすればの話に過ぎない。
マリアが使ったのは治療ではなく強奪。
本来生命力を奪うしか出来なかった魔法を己が精神によって強引に解釈を広げ、他者の治療や負担、更には対象の消耗を奪うことを可能にした。その力で、ありんす丸の摩耗さえ奪ってしまったのだ。
無論それは、本来人に耐えられるものにあらず。
マリアがありんす丸から受け持ったその疲弊は、ありんす丸の言葉どおり魂の摩耗。
本来普通の人間がどうあっても経験することはなく、また気張った程度で背負えるものではない疲弊。多少顔に出しながらも平然と活動しているマリアこそ、最も異常と断言していいだろう。
「どうクリス君。外との通信、少しは繋がるようになった?」
「……いえ、残念ながら。外も中もまるで手応えなしです」
そんな三人から少し離れた場所で、無傷で剣を収めながら安堵の微笑みを浮かべるホムラ。
槍を構えたまま、周囲の警戒を続ける紫電夜叉を一瞥だけしてから、南雲クリスへと近づいて尋ねてみるが、肝心の返事は芳しくない。
未だ地上と連絡はつくことはなく、更にダンジョンの中にいる特別二級とさえ交信出来ないのが現状。
生存自体は灯火のおかげで把握されていると理解しながらも、それでもひとまずの報告をしておきたいとのだが、残念ながら、次元違いの場所でそれが叶うことはなかった。
「ほら、進むぞって……何だよ、自分で歩けるっての」
「いいから、乗るでありんす。マリアはんが駄目になったら、わっちらどうしようもないでありんすから」
「……ま、楽出来るならお言葉に甘えておこうかね。さんきゅ、ありんす丸」
ありんす丸によって用意された一人乗り用の氷の、マリアはやはりきつかったのか、多少文句を言いながらも殊の外素直に深々と腰を下ろす。
氷で出来ているのに冷たくなく、むしろ眠ってしまいそうなほど温かく柔らかく。
極上のクッションの上のようだと感心するマリア。
そんな彼女に、ありんす丸は霞みほどの薄い声で「……お礼を言うなら、わっちの方でありんす」と呟くが誰一人拾うことはなく。
ひとまず一段落した一行は、再び終わりの見えない暗闇を進み出そうとした──そのときだった。
「な、なにこれっ!?」
「また転移か、みんな、はぐれないように寄って!」
突如彼らを円で囲むように、強く光り出す床。
彼らが身構えるよりも早く周囲を覆い尽くして数秒、光はまるであたかも存在しなかったように消失する。
「……無事、のようだな。今度は……」
「うええ、目に悪いよこれ……」
困惑。怒り。辟易。
動揺はなくとも、各々が異なる反応を示しながら、いち早くホムラが周辺を確認し──言葉を失ってしまう。
部屋の様相は、まるで第五階層の隠し部屋と瓜二つ。
そして部屋の奥に存在していたその生物もまた、ホムラの記憶には新しいものだった。
それはいつかの第五階層にて、ホムラを死の目前まで追い込んだのとほとんど同じ姿を……否、それ以上の大きさを誇るダンジョン生物。
鮮血に塗り潰されたみたいな赤色の鱗に覆われた、人が小粒に見えるほどの巨躯。
喰らえば大型トラックでさえ麩菓子のように噛み砕いてしまうであろう顎。
何者をも引き裂くであろう豪爪。地にを叩けばその震動で人を戦かせるであろう、ごん太な尾。一つはためかされば、鉄筋コンクリートのビルさえ吹き飛ばしてしまいそうに思える両翼。
歓喜も仰天も、そして恐怖も、全てがあの日を呼び起こしてならない。
無意識に、鮮烈に過ぎってしまった記憶のせいか、全身に力が入ってしまうのは仕方のない、むしろ生物としては当然とも言える反応であった。
「……赤竜」
ホムラが呟き、一級探索者達が最大級の警戒を前に臨戦態勢に入らざるを得なかった。その部屋の主の名は赤竜。
まるで永き眠りから目を覚ましたと。
ゆっくりと目を開けた赤色鱗の巨大な怪物は、その黄金の眼を突然現れた六人の人類へと向け、確かに認識してしまった。




