第98話 修羅の道
鴻巣は生徒会長として、まずはこの学校の生徒を守るべきだったのは間違いないとは思う。
だけど、鴻巣は高校生なのに、人類の未来までが視野に入っているやつだった。だからこそ生じた誤ちだったし、裏を返せば鴻巣が大学を出て社会に出ていたら、世の中を変えるだけの才能があったのかもしれなかった。僕たちがこれから生きるの世界を、チンパンジーの社会ではなく、ゴリラの社会にしてくれるだろうって夢を見れるほどの逸材だったのは間違いないんだ。
「並榎くん」
そう宮原に呼ばれて、初めて僕は自分が泣いていることに気がついた。途方もない喪失感を僕は味わっていたんだ。
気がついたら、1年生が5人、僕たちの周りでアルトリコーダーの袋を差し出していた。1年生たちも、この光景に出くわして、どうしていいかわからなかったんだろう。
誰もなにも言えない中、北本がアルトリコーダーを受け取って、ただ一言、「走れ!」って1年生たちに指示を下した。きっとそれ以上声を出したら、泣き出しちゃったからに違いないんだ。
1年生たちの足音を背に、宮原がそっと鴻巣を横たえた。そして、身体の前半分が血まみれになったまま僕に言う。
「並榎くんっ、鏑矢を。蒼貂熊が戻ってくる。校舎の外を走られたら、一年生が全員喰われちゃうっ」
鴻巣を悼む時間もないってことだ。僕たちが進んでいるのは、文字どおりの修羅の道だな。
だけど、宮原。君はこんなときでも女神の風格があるよ。鴻巣の血に染まった制服が、人間離れした存在に見えている。
僕は弓を握りなおした。
僕がここで座り込んでしまったら、鴻巣は無駄死にしたことになってしまう。それだけは許されない。宮原の言っていることはどこまでも正しいんだ。
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。負傷者たちは間に合うだろうか。いいや、間に合うと信じて、僕たちは殿の役目を果たそう。
北本が1年生の置いていったアルトリコーダーの袋から、吹口のパーツを取り出す。僕はそのうちの3本を受け取って、替わりに宮原に真っ直ぐな矢を渡した。僕の手には曲がった矢が2本と蒼貂熊から抜いた3本の矢が残っている。この本数からして、アルトリコーダーの吹口が5本あっても仕方がないんだ。
そして僕、みんなに下駄箱を指差した。
鏑矢を射るのは僕だけで十分。鏑矢が効かなかったら、死ぬのは僕だけでいいのだから。僕だって、そのときには鴻巣に負けないだけの時間を稼いでみせよう。
「鴻巣のこと、囮にはするけど、絶対に喰わせねぇよ」
坂本の小さい、だけど決然とした宣言に僕は無言で頷いた。そして、そのままみんなに背を向けて階段の下り口から女子トイレの前を通って、校庭へ直接出られる出入り口から外を窺った。
帰れるときが来るまで、もう鴻巣のことは考えない。僕はそう決めていた。
そっと引き戸を開ける。
それだけで、閉め切っていた校舎の1階の空気が流れ出す。
うん、いい。鼻を殴りつけるようだった蒼貂熊の悪甘い獣臭が薄れていく。僕は小さく深呼吸をして、無臭の空気を貪った。これくらいの贅沢は許してもらっても、罰は当たらないよな。
第99話 狙撃
に続きます。




