第85話 変化球
本当なら僕は、宮原雅依と北本珠花、この2人の志願を止めたかった。この2人には死んで欲しくない。それはもう切実に。僕の感情は、そんな事態を絶対容認しない。
だけど、考えた末に僕は止めないと決めたんだ。
うぬぼれたことを言うなら、2人は僕が残るから残ると言ってくれた。その真意は深くは追求しないけれど、2人が志願したのは、言わば公私の混同をしているからだ。だけど、それを僕が認めたら、宮原と北本を侮辱することになる。だって、僕がいなかったら、殿とてみんなを守る意志を持たなかったってことになりかねないからだ。これは、彼女たちの志願の思いの純度を疑うことになる。
そして、それだけじゃない。
僕がこの2人を止めたら、他のみんなからはどう見えるだろう?
さっきの井野の「モテる男は、他の男子からしたら敵なんだよ。並榎は今、全男子を敵に回した。その自覚は持て」ってのは半ば冗談だとしても、義勇兵に残る者は完全に無償の意思によってだ。そこにこんな事情が紛れ込み、それで参加不参加が決まるなら、馬鹿らしくて他に立ってくれる人がいなくなってしまうかもしれない。文字どおりの生命が賭かっている場なのだから、みんなに要らぬ疑念を抱かせてはいけない。
で、僕はその考えに潜むジレンマに気がついて、さらに混乱した。
殿はまず生きて帰れない。そして、犠牲者は1人でも少ない方がいいのは自明のことだ。だけど殿が少すぎたら、足止めできないまま蒼貂熊に無為に喰われるだけってのもまた事実なんだ。
つまり、ある程度のまとまった数の人身御供を出すことで、はじめて1年生を含めた多くの生徒の生命が助かる。
そして、その数の見切りはきわめてシビアなものとなる。で、そんな方程式、どうやっても僕には立てられない。
こうなると、義勇兵に立ってくれた人を、誰ひとりとして断らない方がいい。なんらかの理由で1人でも断ったら、連鎖的にこの残ろうという意思が崩壊する可能性がある。この危険は冒せない。
万が一のときは、僕が宮原と北本の両親から責められるのもわかっている。自分だけが生き残ることは考えられないけど、そんな事態だってないとは言えない。それに耐えることも含めて、僕は考え、覚悟を決めたんだ。
「……俺も」
次に手を挙げたのは野球部の奥と陸上部の吹上。
「私も残る」
最後に手を挙げてくれたのは、テニス部の佐野亜姫だった。
奥が言う。
「北本。
残された時間、逃げるために走らねばならない状況を考えたら、罠を仕掛けるのは絶対無理だ。だから、ゆかりを粉にして、布で包んでボールにしてくれないか?
蒼貂熊の口の中に放り込んで見せてやる。野球には変化球ってのがあるんだからな」
「そう、テニスだって変化球はあるのよ」
さらに佐野もそう言う。
僕は野球の変化球といっても、カーブぐらいしか知らない。テニスに至っては、どんな変化球があるかすらまったく知らないし、あのラケットで打って球筋をどう変化させられるのか想像もつかない。だから、それがどういう意味を持つのかわからない。
蒼貂熊は、変化球の球筋を見切ることは不可能って言いたいのだろうか?
まぁ、最初の1回目は通用するだろう。だけど、すぐに対応してきちゃうぞ。
「どういうこと?
変化球って、そんなに有効?」
僕の質問に、奥と佐野は揃って表情を緩ませた。
「変化球ってのは、球のコースが変わるってだけのものじゃない。その本質は、それによって相手の予測を外す技なんだよ」
「えっ、そうなの?」
僕は奥の言葉自体は理解しても、その言いたいことは未だ理解しきれていなかった。
第86話 フェイント
に続きます。




