第7話 接近
バリケードの隙間からは、2か所の階段の上り口とそれに接続している渡り廊下までが見通せた。渡り廊下側から蒼貂熊が現れたとすれば、2階の職員室のバリケード前を通過したことになる。だけど、今のところ大きな音は聞こえてきてはいない。バリケードを殴り飛ばし、教職員を食い散らかしたのであれば、悲鳴の1つも聞こえてきているはずだ。
繰り返すけど、それは聞こえていないんだ。
やはり、蒼貂熊は喰って美味い僕たちを優先して襲うのだろう。
そんなことを考えている間にも、甘ったるい蒼貂熊の獣臭はさらに濃くなった。
「うごっ」というえずきを長尾が漏らした。この甘ったるい臭いは吐き気を呼ぶ。
僕も必死でこみ上げてくる吐き気に耐えた。居合刀はかがみ込む体勢からでも突き刺すことができるけど、弓は腰矢であってもきちんと上半身を起こしていないと引けないからだ。だけど、臭いという先制攻撃なんて、ぜんぜん想定していなかったな。
吐き気に耐え、必死で目を凝らしている視界の中に、すうっと青黒いものが横切った。一瞬すぎて、よく見ることはできなかったけど、ここから遠い方の階段から廊下を横切って、渡り廊下の方に駆け抜けた蒼貂熊がいたのは間違いない。
宮原の顔色がさらに白くなったことから、これは僕の見間違えではない。
「雅依、倒れるなよ」
僕はそう声をかけ、しまったと思った。
宮原も一瞬、僕に視線を向ける。なんで僕、名前呼びなんかしてしまったんだろう?
今まで心の中だけで、ひそかに呼んでいたのに。宮原の志望大学に対し、模試でB判定以上が取れたら告白するつもりだった。それまで隠れて勉強し、思いは隠しとおそうと思っていたのに……。
「倒れたらすべてがおしまいでしょ。私は絶対倒れないから」
「そうだな」
努力家の宮原らしい言い方だ。
そう僕が返事をしたとき、蒼貂熊が再び姿を現した。
遠くから一度素早く姿を見せ、それから堂々とその身体を晒す。これ、おそらくは僕たちに攻撃の手段があるかどうかを確認しているんだ。
遠い方の渡り廊下の角からだから、ここから50mほど先だろうか。矢は届くだろうけど、確実に当たらない。蒼貂熊が矢の動きを見切り、それがどういうものか理解したうえでゆうゆうと避ける余裕のある距離だからだ。そういう偵察のために、あえて遠くから姿を現したに違いない。
聞いている話のとおり、蒼貂熊は頭がいい。クマより賢いんじゃないだろうか?
もしかしたら、2階で職員室前のバリケードを見て、それがどういうものかも学習しているんじゃないだろうか?
ああ、嫌な予想が次々と頭の中に渦巻くな。
蒼貂熊が姿を見せたためか、甘ったるい臭いがはさらに強くなった。
窓はすべて閉まっている。これは、蒼貂熊対策のときに言われていたとおりだ。空気が動くと、逃げ遅れて隠れている生徒が嗅ぎつけられ見つけられてしまうからだ。だからって、これは相当に臭い。異世界の生物ってのは、こういうものなのか?
蒼貂熊が距離を10mほど詰めたとき、宮原が射法八節でいうところの「打ち起こし」の体勢に入った。
早すぎないか?
弓を引き絞ったあとの狙いを定める「会」は、間が短すぎてもいけないけど長すぎてもよくないんだ。
普段射ている弓道の的は、直径36cmで28mの距離。その距離は身体の感覚に染み付いている。だからわかるけど、ゆっくり近づいてくる蒼貂熊との距離はまだ40m以上ある。各教室の廊下側には組数を書いた標識があるから、冷静さを失いがちな今でも距離は掴みやすい。間違いはないはずだ。
あとがき
第8話 不審
に続きます。
校舎の構造は第1話の挿し絵の図面のとおりです。