第60話 帰還
上着を羽織って教室を出ると、小声での協議が始まっていた。
「合唱部でまた低い音を出してもらえば……」
「いいや、なんでもなかった場合は藪蛇になるかもしれない。同じ手は通用しないのだから、この手の回数を稼いじゃダメだ」
ぼそぼそと、だけど深刻に話している。それを聞くともなしに聞いていると、ついに動きがあった。カーテン越しにでもわかる。家庭科室が明るくなった。つまり、廊下側の戸が開いたということだ。これで、なにごともなく帰ってきてくれればいいのだけど。
僕は来客用玄関にいる蒼貂熊から見えないよう窓に近づかず弓を握り、バリケードに寄れるだけ寄って耳を澄ました。宮原が矢を6本持って行ったから、僕の手元には2本しか残っていない。その2本のうちの1本を僕はつがえた。残りの1本は、坂本のためにとっておかねばだけどな。
さぁ、3人分の足音が聞こえるか、だ。それとも、はるかに重い蒼貂熊の足音か……。
「走れっ!」
不意に響いたのは宮原の声。
「死んだ蒼貂熊を乗り越えてっ!
その方が早く逃げ込める!」
同時に、ぱたぱたという体重の軽い女子特有の足音が迫ってきた。
女子2人の焦った声と足音に、僕は声を上げず、ただ打ち起こしの体勢に入った。うん、ベルトを巻いた脇腹、さっきよりは痛くない。
「電気トラップのコンセント、入れる準備を」
後ろから鴻巣の声が聞こえる。そうだな、宮原たちが感電してしまったら身も蓋もない。3人が机のバリケードを乗り越えたらすぐに電気を流したい。その時間は、死んだ蒼貂熊が稼いでくれるだろう。間違いなく宮原はそのつもりで走っている。
「今っ!」
再び宮原の声が響き、次の瞬間、蒼貂熊の咆哮が響き渡った。なにが起きたんだ? なにをしているんだ?
不明な状況に気をもんでいると……、見えた!
北本だ。蒼貂熊の死体で塞がれた廊下を、身体をねじ込むようにして通ってバリケード前にたどり着く。手には大きなバッグを持っていた。
小柄な北本に続いて宮原も戻ってくる。その手にすでに弓はない。
「まだ電気は流してない。登れっ!」
その声がけに、北本はバッグを肩に掛け、机の足の逆茂木を登り始めた。その後ろから宮原も登りだす。だけど、宮原は北本自身が落ちることと、北本が持っているバッグを落とすことを考えて、後ろから慎重に登っているようだ。
バリケードのこちら側からも長尾が登っていた。蒼貂熊に木刀での突きを入れ、命からがらバリケードを乗り越えて戻ってきた長尾の顔は未だに疲労の色が濃い。というより、文字どおり、生命を削ったって顔になっている。
江戸時代の斬り合いの記録で、怪我もしていない勝った方がそのあとすぐに死んでしまうってのがあるけれど、こういうことなのかもしれないな。精神へのダメージの蓄積がヤバいんだ。一昔前なら、一晩で白髪になったとか言われているやつなのだろう。
でも、その長尾が再びバリケードを登るのは、北本の手の大きなバッグを受け取るためだ。自分も乗り越えたこのバリケードを、荷物を持った女子が登るのは大変だと思ったのだろう。その底なしの勇気と責任感を僕は尊敬する。
積み重なっている蒼貂熊の死体が揺れた。
このすぐ向こう側に、新手の蒼貂熊がいる。通れないことに苛立って、仲間の死体を揺すっているんだ。体当りしてくるならまだしも、咥えて引きずり出そうとしたら、再び対面での戦いになる。それまでに、北本と宮原がバリケードのこちら側に来ていないと、とんでもないことになる。それまではバリケードの電気トラップに電源が入れられないからだ。
「赤羽はどうした!?」
鴻巣の声が飛んだ。
だけど、宮原も北本も、どうしたって答えられる状況じゃない。
第61話 再度の命中
に続きます。




