第28話 対等の交渉
男が話したのは、瑠奈とヨシフミに対してではなかった。
「慧思、録画を切れ。ここから先は記録を残すな」
「もうとっくに切っているよ。俺も歴史家の端くれとして、話に加わりたいな」
スピーカーから、先ほどまで尋問していた声が響いた。
「……あとでな」
男がそう言い、スピーカーからの声は沈黙に戻った。
「我々は、この件についてはなにもしないことを約束しよう。もちろん、便宜を図ることもしない。君たちもわかっているとは思うが、便宜を図る特例を作ることは簡単なことだ。だが、それを維持することは果てしなく難しい。なにを約束しようとも、政治体制の変化で容易に反故にされてしまうだろう。そして、そのときに私はいないから、なにも手助けできない。なら、なにも記録を残さず、我々は君たちの組織のやり方に一切タッチしない。その方が君たちもよいのではないか?」
「そのとおりよ」
瑠奈は答える。もちろん、それには然とした理由があった。
瑠奈は、フランス革命後の血なまぐさいゴタゴタをその目で見ている。ギロチンでいくつの首が刎ねられたか、瑠奈の知る限りでも数え切れないほどだ。
その後、二次大戦下のフランスでも苦労をしている。ドイツに占領された中でのシャトーの経営は、困難を極めたのだ。まして、瑠奈本人は日本にいたのだから。
そして、日本でも大正デモクラシーから軍部の台頭、そして戦後を見てきている。
だから瑠奈は、政治体制というものに最初から期待など抱いていない。瑠奈からすれば、ルイ王朝の王制は決して悪いと言い切れるものではなかった。それに比べたら、民主制はその利点も認めざるをえないが、動きの鈍いことは怒りを覚えるほどだ。そしてそのどちらも、外敵から攻められれば簡単に機能を失う。
そもそも、人類の考える人類自身への統治方法など、その存在自体が矛盾しているのだ。
この男もその辺はわかっているからこその、この物言いなのだろう。
「じゃ、話すわ」
瑠奈のあっさりした言い方に、男は逆にストップを掛けた。
「この部屋ではやめよう。こちらに来てくれ。茶かコーヒーくらいは用意しよう」
そう言って、男は瑠奈とヨシフミに背を向けた。尋問部屋から出て、対等の立場での交渉したいということなのだろう。
だが、これもまた、瑠奈からしたら信じられないことだった。どれほど鍛え上げられていたとしても、人間は人間に過ぎない。対人武器を持ってすら、瑠奈やヨシフミに敵うはずもない。なのに、背を向けて見せたということは、生殺与奪の権利を預けたに等しい。
精一杯の誠意を表したというところだろうが、それがテクニックだとしても命がけのパフォーマンスである。内心怖くないはずがないのだ。
部屋を出て、20歩も歩かなかった。
男がドアを開け、無機質ながらもどこか生活感のある部屋に瑠奈たちを招き入れた。小さなガスコンロではお湯が湧きつつあり、やかんの口から湯気がもやもやと漂い始めていた。
「内山さんはカフェ・オ・レでよいかな?」
部屋の中にいた男が、瑠奈に声を掛ける。その声はスピーカーを通して聞いていた声だ。瑠奈は、無言で頷く。頷いたが、困ってもいた。
全員が同じものを用意されるのであれば、毒殺の危険は少ない。隙を見てカップを入れ替えてしまえばいいだけだからだ。だが、個々に好みのものと淹れられると、小細工が効かない。
だが、部屋の中にいた男は、瑠奈の内心に気が付かなげに牛乳を温めだした。
第29話 双海と菊池
に続きます。




