第6話 蒼貂熊 vs ヴァンパイア
とはいえ、下着はなかった。
これには、別の理由があるのを瑠奈はわかっていた。
コウモリの姿で飛んできた若い男、ヨシフミは相変わらず奥手だ。「服を大至急持ってきて」というメールに、手近にある服はバッグに入れられるだろう。だけど、瑠奈のクローゼットを掻き回し、下着を漁って持ってくることなど最初からできるとは思ってしていない。
だが、それは裏を返せば安心材料でもあった。
服を着て、身体が隠せると安堵のため息が漏れる。獣のときと違って、人間の身体はあまりにむきだしで頼りない。
こうなったら、一刻も早くこの場を離れた方がいい。次の車が来て、うずくまって動けない蒼貂熊を見たら、すぐに警察なりに通報するだろう。厄介事に巻き込まれるわけにはいかなかった。
そしてその前にと、さらにもう一つため息をついて子鹿に近づこうとしたとき……。
瑠奈の感傷は一瞬で吹き飛んでいた。
不意に空が暗くなったのだ。夕暮れで、太陽自体はもう沈んでいる。とはいえ、残光はまだあったのだが……。
瑠奈が視線を上げると、蒼貂熊が太陽の残光を遮って、空から落ちてくる。
ヘビのような腕はうねうねと無駄にもがき、空中のどこかで身体を支えようとあがいていた。だが、そんなことが叶うわけもない。
落下地点を見切り、墜落に巻き込まれないよう素早く避ける。その1秒後、瑠奈の眼の前に重々しい音と共に蒼貂熊が落ち、身体をひしゃげさせた。後頭部の装甲の部分が割れており、アスファルトの舗装路面も5cmほど凹んでいる。どれほどの荷重と衝撃だったのか、想像するだに恐ろしい。
これにはさすがの蒼貂熊も、何回かの反射的痙攣をしたのみで動かなくなった。
それを横目でちらりと見て、瑠奈は子鹿に向かって歩く。
今起きたこと自体はあまりに凄まじいが、そこにはなんの謎もない。瑠奈にとっては、日常と言っていいほどのあたり前のことだ。今さら驚くに値しない。
それより今は、子鹿の容態が気になっている。
だが、どうやら間に合わなかったようだ。子鹿は路面に頭を落とし、こと切れていた。
ただでさえ重傷を負っていたのに、瑠奈と蒼貂熊の戦いをすぐ横で見たのだ。恐ろしさのあまりに限界が来たとしても不思議ではない。言葉が通じるわけでもないし、瑠奈と蒼貂熊が自分を取り合って争っていると思ったかもしれない。そうなれば、それだけで生きる意思を手放すだろう。
可哀想だが仕方ない。これもまた、自然の掟だ。たとえ、蒼貂熊という生態系への闖入者の行いの結果だとしても、だ。
瑠奈は、子鹿に対する感情を振り切るために軽く頭を左右に振り、それから振り返った。
先ほどの若い男が立っている。あれほどの勢いで遠くに投げ飛ばしたのに、怪我一つしていない。まぁ、いつものことだ。コイツは殺したって死なない。まともに戦ったら、瑠奈にすら勝ち目は一切ない。寿命は一万年を超え、生物として完全に瑠奈の上位にいる。
「その子、生き返らせようか?
まだ間に合う」
「やめて、ヨシフミ。冗談でもそんなこと言わないで」
男の提案を、瑠奈は一蹴した。だって不死にするというのは、厳密には生き返ったと言える状態じゃないからだ。ヴァンパイアは不死ではなく、すでに死んでいるからもうこれ以上死ねない存在だ、という考え方だってあるのだ。
子鹿を、そんなややこしい存在にはしたくない。
だけど、これはこれで、ヨシフミが瑠奈の感情を救うために言ったのはわかる。
だって、今までヨシフミが他の生き物に噛みついたことはないのだ。ヴァンパイアとしての生は、真紅の薔薇の生気を吸うことだけで繋いでいる。そのヨシフミが、子鹿とはいえ、血を吸うなんてありえなかった。
「だいたいね、見世物にするなら獣同士の戦いより、ヴァンパイア対蒼貂熊の方がいいんじゃない?
意外性は絶対にその方があるよ。今のだって、他の存在にはできない戦い方だった。実況のアナウンサーだけでなく、解説の人まで仕事が増えて喜ばれる」
瑠奈の戦いは単なる肉弾戦だが、ヴァンパイアが戦うとしたら、怪力だけでなく、身体を霧にしたりコウモリに変身したりと多彩な戦術が取れる。それを瑠奈は揶揄したのだ。
「やめて。平穏な生活ができなくなる」
案外、素のままでヨシフミは返した。
ヨシフミは単なるヴァンパイアではない。真祖のヴァンパイアなのだ。
第7話 ヨシフミ
に続きます。




