第5話 決着
蒼貂熊の牙が、ジェヴォーダンの獣の首筋を襲う。
獣は首を強く振ることでその牙を躱し、同時に、咥えた蒼貂熊の腕をその動きで強引に噛み潰した。
単純に身体の大きさだけを比べるなら、蒼貂熊の方が倍は大きい。ジェヴォーダンの獣は2.5mにも及ぶ巨体の狼だが、蒼貂熊は5mを超えるのだ。こうなると体重差は8倍にも及ぶ。普通なら勝ち目はまったくない。
だが、ジェヴォーダンの獣である瑠奈には、250年を超える経験があった。自分より大きく力の強い相手を制する技も心得ている。
なんといっても瑠奈は、否、ルーナは日本に来てすぐに、最後の剣客と言われた榊原鍵吉、さらにはその内弟子になったばかりの13歳の武田惣角にも会っているのだ。
さすがは榊原鍵吉。ルーナをただの人間ではないことをひと目で見破った。そして、人間からしてみれば剛よく柔を断つことしか知らぬルーナに、柔よく剛を制する技を伝えたのだ。
これはなにも珍しいことではない。来日したシーボルト一家の次男も、榊原鍵吉から剣を習っている。「日本奥地紀行」を書いたイザベラ・バードの来日に先立つこと6年、来日者の社会は極めて狭かったのだ。
蒼貂熊の牙が、瑠奈の赤い毛を噛みちぎる。
瑠奈の見切りは、毛を噛ませてもかすり傷一つ負わない領域に達していた。
単なる速さ、単なる見切りであれば、蒼貂熊の方が確実に優れていた。だが、瑠奈の動きには無駄というものがまったくない。常に最短距離を動く。それも、全身の関節のすべてのポイントが、さらに牙や爪の先のポイントが、個別にすべて最短距離を動いた結果としての全身の動きなのだ。武道の高位段者にしかできぬ理想の動きである。
どれほど速くとも、生まれたままの動きの蒼貂熊の牙が、瑠奈に届くはずもなかった。
蒼貂熊の連撃を、いずれも紙一重で避け続け、瑠奈はチャンスを待った。
この場合のチャンスとは、瑠奈に伸し掛かって攻撃を続ける蒼貂熊が、上半身の自重に耐えかねて前傾姿勢を解く瞬間だった。
異世界の生物であっても、水生生物でもなければ真下と真上からの攻撃には弱いものだ。重力がある以上、地面の下や天空からの攻撃される機会は少なすぎて、生き物の身体はそれに対応するようには進化しない。
20回も攻撃を躱し続けただろうか。ついにその時は来た。
頭上の視界が広がり、暮色の空が覗く。
瑠奈は蒼貂熊の下から垂直に跳ね、その目に後ろ足の爪を立てて、縦の宙返りで道路の擁壁に向けて跳ぶ。そして、急斜面の擁壁に同時に4本の足で着地し、そのままさらに跳んだ。
三角飛びの動きで、瑠奈は蒼貂熊の背中に着地したのだ。
真下から予備動作なく跳ばれた蒼貂熊は、為すすべなく目を強く引っ掻かれ、瑠奈の意表を突く動きによってさらに対応が遅れた。
その間に瑠奈の牙は、蒼貂熊の後頭部の装甲と背中の分厚く硬い筋肉との継ぎ目に深々と潜り込んでいた。
蒼貂熊の後頭部の装甲と背中の筋肉は共に硬い。そして硬いもの同士の継ぎ目は硬くなりようがない。その瑠奈の予想は間違ってはいなかった。
もっとも、同じ発想で、同じくその位置へ槍を突き込んだ高校生がいることなど想像もしなかったが……。
蒼貂熊は完全に動きを止め、それを確認してから人間の姿に戻った瑠奈は、深々と安堵のため息をついた。
勝った。
だが、決して楽な戦いではなかった。100戦して100勝できる相手ではなかった。確実に何戦かは落とす。そして、一度でも落とせばそれで瑠奈は終わりなのだ。
峠道で全裸。替えの服はない。
瑠奈は、再びため息をついた。これでは、車に乗っても対向車からは丸見えだ。
服の残骸を掻き回し、スマホを取り上げて確認する。眉間に寄っていた眉が、安堵に離れた。
それから待つほどもなくぱたぱたという羽音が響き、それに合わせて瑠奈は獣の姿に戻った。
獣の姿でも全裸であることに変わりはない。だが、人の姿での全裸は見られたくはなかったのだ。
「猛獣同士の戦い、見たかったなー。
入場料取ればよかったのに」
飛んできたコウモリが、若い男の姿に変わる。そしての第一声が脳天気なこれだった。
無言で瑠奈はぱくりと男の上半身を咥えこみ、ぶんぶんとふりまわした。そして、容赦なく思い切り遠くに投げ飛ばす。生まれてから20年そこそこの若造に、生意気を言わせておくつもりはなかったのだ。
もちろん瑠奈は、男が持ってきた小ぶりなバッグに気がついている。そして、それは一緒に投げ飛ばしたりはしていない。
瑠奈はふたたび人間の姿に戻り、バッグから服を取り出して急いで身につけた。靴まではないが、コウモリが運べる大きさと重さには限界がある。服だけでも良しとしなければならない。運転していて不審がられないだけで十分ではないか。
第6話 蒼貂熊 vs ヴァンパイア
に続きます。




