第2話 蒼貂熊 vs ジェヴォーダンの獣
今の瑠奈は、戸籍上24歳となっている。
服もそれなりのブランド品だし、薄くメイクもし、髪もきちんとセットして耳を隠している。生足も控えていた。JKのときのようにツインテールで済ませられればいろいろな意味で楽なのだが、さすがにそういうわけにもいかない。
とはいえ、メイクを落とせば外見自体はJKのときとまったく変わっていないし、当然のことながら150cmちょいの身長が伸びているわけでもない。左目の泣きぼくろもそのまんまだ。2000年の寿命を考えれば、10年間という時間は瑠奈にとって半年に満たない。中高生時代と外見が変わるわけがなかった。
小さな身体だが、腕組みし縁石に足をかけての波止場立ちが大きく見えるのはいつものことだ。友だちから「態度がデカい」と揶揄されたこともあったが、その正体の迫力は滲み出てきてしまうものらしい。
まして今の瑠奈には、弱みと言えるような弱みはまったくない。経営しているフランスのワイナリーの経営も変わらず順調で、金にも困っていない。今だって、ワインを扱ってくれるという小売店との打ち合わせのためのビジネストリップだったのだ。萎縮とは無縁なのだから、さらに一回り大きく見えていても不思議はなかった。
ただ、特段に惜しいとは思わないけど、それでも今着ているこの服はお気に入りだ。それが粉々になって道路に飛び散ってしまったら悔しいし、猟奇事件の完成になってしまう。それはそれできっと問題になるだろう。
だからといって、こんなところで自分から事前に脱いでおくなんて選択肢があるはずもない。
瑠奈は腕組みを解いた。覚悟を決めたのだ。
この蒼貂熊は狩るしかない。喰わない獲物を狩るのは不本意だが、喰われるのはもっと不本意だ。
獣に正当防衛なんて考え方はない。自分を喰いに来た者は倒す。倒せねば喰われる。ただそれだけの日常のことだ。ただ、死体を放りだしていくには蒼貂熊はちょっと大きすぎるかもしれないし、そこが申し訳ないと言えば申し訳ない。
瑠奈はそっと地面に片手をつく。太腿の筋肉が、張り詰めていく。
やっぱり、この姿のままというのは無理があったかもしれない。現に、ちょっとだけ短めのこのタイトスカート、瑠奈の下半身の筋力に耐え切れなさそうだった。そのスリットはすでに先ほどの跳躍によって少し裂け目が入っている。今も、瑠奈の足の筋肉が太くなっていのに、耐えられてはいない。すでに180°まで開き、少しずつ裂け目が広がっていく。でも裂け散ってしまわなければよしとしよう。
蒼貂熊の目に瞳はない。
表情のない板のような目から、攻撃をかけてくるタイミングを掴むのはあまりに難しい。瑠奈は受けに回るリスクを冒さないため、自分から仕掛けた。
真っ先に悲鳴を上げたのは靴だった。
小柄な瑠奈は、ハイヒールまではいかないものの底の厚い靴を履いていた。だが、跳躍の強い力に耐えられなかったのだ。その厚い靴底は一瞬で剥がれ落ち、焦げ臭いニオイが空気に混じった。
瑠奈の跳躍を、蒼貂熊も跳躍で迎え撃った。蒼貂熊の動体視力と反射は、瑠奈のそれを超えていた。
2つのあまりに大きさの違う獣は、恐ろしいまでのスピードのまま複雑な動きで空中で交差した。空中で蒼貂熊の爪を避けた瑠奈は着地しそこなって、道路脇の擁壁に全身を叩きつけられた。巨大なヘビのような腕は瑠奈の予想を超えた動きを見せ、体勢を崩さざるをえなかったのだ。
蒼貂熊は容赦なく、擁壁から落ちた瑠奈にのしかかった。駆け引きや間というものが一切ない、肉食動物のどこまでも押し一辺倒の攻撃だった。
瑠奈は軽く首を振って頭を傾ける。そのすぐ横のアスファルトに、蒼貂熊の爪が深々と食い込んだ。耳があったら裂かれていただろう。今の瑠奈の耳は、頭の横ではなく、三角形のが上に生えている。ここまでの戦いとなると、完全な人間の姿で居続けることにリソースを割く余裕がないのだ。
どうやら瑠奈のスピードでは蒼貂熊は撹乱できないし、攻撃を躱すのも余裕なく紙一重だ。
瑠奈は自分の甘さを後悔していた。
先ほどの空中での交差の際、瑠奈も蒼貂熊に爪と牙の攻撃を試みはしたのだ。だが、あまりに身体の大きさが違ったのと、蒼貂熊の筋肉の壁の硬さに通用しなかった。
瑠奈は諦めるしかなかった。
お気に入りだったけど仕方ない。服はあきらめよう。150cmそこそこの人の姿のままでは、5mを超える蒼貂熊とは戦いきれない。
蒼貂熊は再び爪を振るう。今度は瑠奈を逃さないように、両手の爪での攻撃に牙まで組み合わせている。上からの立て続けの連撃に逃げ場はない。
次の瞬間、蒼貂熊の片腕が宙に舞った。
空を飛びながらもその腕はうねうねと動きを止めず、地に落ちてからものたうち回った。
そして、もう片方の腕は瑠奈に噛み止められていた。
本来の姿に戻った瑠奈の身体は、巨大な牛ほどもの大きさがある。
赤く長い毛が全身を覆い、黒い縞が背中を走っている。牙は太く鋭く、鋭い爪の生えた足はどこまでも太い。その身体は狼のようでいて、狼と言うにはあまりに規格外だった。
これぞ、18世紀のフランス・ジェヴォーダン地方で、100人を超える人間を貪り食ったと語り継がれているジェヴォーダンの獣の姿だった。
第3話 薔薇十字の秘儀
に続きます。
瑠奈のような存在が、現代の日本で生きているのにはそれ相当の理由があったわけなのです。




