第103話 たとえドブの中でも、前のめりに死にたい
僕は一瞬考えたけど、ロッカーからモップ取り出して、開いている扉の蝶番のところに当てた。それから扉を蹴飛ばした。もちろん、閉める方じゃなくて、より開ける方に、だ。
モップの柄を支点としたテコの原理で、力点となる僕の蹴りは何倍もの力になってロッカーのドアの蝶番に作用点として負荷を掛けた。さすがに耐えきることができず、ロッカーの扉は簡単に外れてぱたんと床に落ちた。抜けた木ネジが、ぱらぱらと落ちる。
一呼吸おいて扉が落ちるのと同時に、僕の膝も抜けた。
びしょびしょのトイレの床に座り込んで、ただただぼーっと気持ちがいい。
なんかもう、ぜんぜん寒くない。
気がつくと、ホースを持つ手が落ちてしまって、床に水を流しているだけになってしまう。そのたびに、僕は必死で手を上げて放水を続けた。目を開けているのにあまり見えないし、激しくしているはずの水音も全然聞こえない。
僕はのろのろと、だけど必死に僕の背中の上に外したロッカーの扉を乗せ、長い方のホースで僕の身体に巻き付けた。座り込んでいたのが却ってよかったのかもしれない。期せずして、頭まで守る形に縛り付けることができた。
単なる板だったらうまく固定なんかできなかっただろうけど、扉に付いていたノブと外れきらなかった蝶番がひっかかる形でなんとか固定できたんだ。
僕はのろのろと、四つん這いで蒼貂熊に向かって前進する。ホースを持ちながら床に手をつくという、それだけのことが難しくてわけわからなくなりそうだったけど、それでも蒼貂熊の顔を狙って放水を続けた。蒼貂熊は腕で水をブロックしようとするけど、近づくたびにそれを掻い潜るのが楽になった。
濡れた床の上を這う手も膝も、なぜかもう全然冷たくなかった。むしろ、暑いくらいだ。背中にロッカーの扉をくくりつけていなかったら、服が脱げたのに。
いや、そうだよな、そもそも初夏なんだから、それが正しいよな。こんなことしている場合じゃない。
僕は、のろのろとホースをほどき出した。
泳ごう。
それがいい。
せっかく、こんなに水が溜まっているんだ。
なんか忘れているような気もするけど、夏だから宿題のことかもしれない。そんなの放っておいて、かぶとむしも捕まえなきゃ……。
僕の身体に衝撃が走った。
蒼貂熊の腕が、僕の身体を襲ったんだ。気がついたら僕、四つん這いじゃなくて、床にうつ伏せに寝そべっていた。だけど、ロッカーの扉がその腕とそこから伸びる爪を防いでくれた。そして、蒼貂熊が腕を振り回してくれれば、放水がまた顔を狙えるってもんだ。
なにやってんだ、僕は。しっかりしろ。これじゃ、喰われちまうぞ。
なんか、すっかり気持ちよくなっていたな。
まだだ。まだ終わりじゃない。
蒼貂熊は相変わらずトイレの入口に挟まったままだ。今しか僕には対抗できないんだ。トイレに入りこまれたら、放水なんかなんの役にも立たない。ただただ食べられて終わりだ。
だから、今は頑張れ。死んでも頑張れ。
「たとえドブの中でも、前のめりに死にたい」って言ったのは誰だっけ。
僕の方がすごいぞ。女子トイレの床の水の中だからな。
頑張れ、僕。
頑張れ、頑張れ……。
なんかもう、蒼貂熊は全然怖くなかった。再び、ひたすらにふわふわと気持ちが良かった。
天国がこんなところなら、なんで僕は生きるために頑張るんだろう?
もういいんじゃないか?
僕は十分に戦ったし、十分に足止めしたよ。
もういいんじゃないか。
おやすみなさい……。
第104話 保健室
に続きます。




