忘れものは何だっけ?
電車を降りて、改札を出て、家路を歩き出そうとしたところで不安に襲われた。
『あたし……。なんか、忘れてるな?』
何を忘れているのかは忘れていた。
でも間違いない。こういう時はいつも、必ず、本当に何か重大なことを忘れている。
「あれっ……? 何だったっけ?」
声に出して、首を傾げてみても、周りの人波は無関心に流れていく。
「あー……。何かを、さっきの電車の中に置き忘れてきたかも!」
なんとなくだが確信した。
自分が持っているものを確認する。
バッグの中を覗くと、会社にいつも持っていってるものはすべて入っているようだ。空のお弁当箱もちゃんとあった。
「何か……今日は特別な書類か何か……会社から預かったような……」
そんな気がしてきた。
課長の言葉が頭に蘇る。
『大切な、大切な書類だ。これを必ず、◯▲に渡せ。そして生きて帰れ』
◯▲のところが思い出せない。
思い出そうとしたら、課長の声が、最後のセリフをリフレインする。
『生きて帰れ。……必ず、生きて帰れ』
「えー!? なんか命懸けの使命だったっけー!?」
声に出して叫んでしまった。
周囲の人たちがちょっと振り向いたが、見ないフリをして通り過ぎていった。
駅前の交番に駆け込んだ。
「すみません! 忘れものなんですけど……」
四角い顔のお巡りさんが首を傾げた。
「落しものじゃなくて? 忘れものですか?」
「落としてはないです、たぶん。どこかに置き忘れてきたみたいで……」
「どこにです? そこを探してみられては?」
「どこに忘れたのかわかんないんです! 何を忘れたのかも……」
「だ、大丈夫ですか?」
「頭は大丈夫なんですが……、健忘症っていうのか……こういうこと、あるあるじゃないですか?」
「えーと……めんどくさいな……とりあえずお名前とご住所、それとご職業を……」
「はっ!? これってもしかして、アレかも!」
「アレ……とは?」
「PKディックの『追憶売ります』ですよ! 読んだことないですか? 映画『トータルリコール』の原作にもなってるんですけど!」
「は……、はあ……」
「あたし……そうか! 敵に記憶を操作されて……書き換えられてるんだわ!」
「ど、どういうふうに?」
「あたしは自分が平凡なOLだと思い込んでいたけど……本当は地球を救う重要な使命を授かってたんだ!」
「そ、壮大ですね!」
「だってそうとしか思えないじゃないですか! あんな……『必ず生きて帰れ』なんてセリフ……日常じゃ……あたし、きっと火星レジスタンス軍の活動員なんだわ!」
「あっ、来た来た。救急車呼んだのが来ましたよ」
「離して! 火星を解放しなきゃ! あたしが行かないと……みんなが!」
「はいはい。行ってらっしゃい」
あたしは救急車に乗せられた。
救急車はけたたましいサイレンの音を鳴らして走り出した。
「離して! 離して!」
小さなベッドに縛りつけられたあたしは身をよじった。
「あなたたち……誰!? もしかして……敵!?」
救急隊員の格好をした二人があたしを見下ろし、ニヤニヤしてる。
「やっぱりそうなのね!? あたたちの背後にはきっとハリウッド映画によく出てくるような、偉そうにふんぞり返った老人が……火星を統治する組織の親玉がいるんだわ!」
救急隊員の一人が、言った。
「お姉さん、忘れものですよ」
そう言って、何かを持ったその手を、あたしの眉間に向かって差し出してきた。
「やめて! それは何!? もしや……模造記憶!?」
救急隊員の指が、あたしの眉間に、強く触れた。
思い出した。
何を忘れていたのか。
あたしの名前は田宮麗子。28歳独身。硝子瓶会社に勤めるOLだ。趣味はインターネット。不穏なサイトなんかには関与せず、健全にSNSや動画サイトの健全な投稿を閲覧している。小説投稿サイト『小説家になりお』では民衆の自我を揺さぶるようなSF小説を書いている。それは火星を統治する悪い支配者による洗脳を解き、模造された記憶を──
「いかん。まだ忘れてやがらん」
救急隊員はそう言うと、あたしの意識を遠くさせる薬の染みたガーゼを口に押し当てた。