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九章

深夜に数通の連絡を受けてそれに丁寧に返事を書いて送り返していたら、一時近くになってしまった。未架からは、七月の末に家に泊めて欲しいという連絡があった。夜型の彼は起きているだろうと意を決して、電話をかけた。

「あ、誓?」

 未架の声には眠気も夜の綻びもなく、ぱっちりと目を開けて過ごしていることがわかる。泊りに来るのと聞くと、うんと幼く返された。

「七月の月末の日曜日。いい?」

「いいよ。なんかあるの?」

「その次の日が試験なんだ」

 朝の早い時間帯の試験だから絶対に遅刻したくないからだと言う。

「朝、弱いもんね」

 以前泊まりに来たとき、彼が起きてくるまでに五回も声をかけ、三度身体を揺すった。最後はかけていた薄手のブランケットを剥ぎ取り、誓はなんだか一気に保護者の気分だった。

「そう。だから、起こしてね」

 当然のような言い分に呆れる。未架に限らず、環境に恵まれてきた人間は他人に物を頼みなれているので、頼み方に嫌味がない。その分、誓の方も世話を焼くのも気楽だった。

「それにしても、誓がこの時間に起きてるのは珍しいね」

「今日はちょっとね」

 誓は逡巡してから、電話を握る手に力を込めた。

「未架。今日、時間ない?」

「今日?」

「うん。ちょっと会えない?」

 彼が今日は大学の授業とその後にバイトがあるのを知っていたので、断られても仕方ないと心の中で予防線を張る。

 未架は何かをごそごそと動かしてから、

「授業後に二時間弱、バイトまで時間があるのと、バイト後かな。ただ、バイトの後は結構遅いよ」

 おそらく手帳を探していたのだろう。彼はいつも革の手帳を持ち歩いていて、小さな欄に予定を書き込む姿は何度も見てきた。この電子の時代にと思ったのを覚えている。小説も電子より紙媒体を好んでいた。

「じゃ、授業後、うちに来てよ」

 少し強引な誘いだったが、未架はわかったと頷いた。なぜそこまで無理をしてとは聞かれなかった。そのことに安堵と、少しの惜しさを感じた。




「誓ってかつ丼すき?」

だしの甘い良い匂いのするビニール袋を片手に尋ねられてしまうとたとえ好きじゃなくてもそうは言えないし、好きじゃないはずもなかった。

 約束していた時間ぴったりにきた未架は、真っ白いブイネックのトップスに薄い色のデニムを合わせていた。まるで映画に出てくる異国の美少女のような出で立ちだった。どちらもぴったりと身体に沿うタイプで、それが一層未架の未完成な体つきを強調している。足元はいつも通り、ヒールの高いブーツだった。それを脱ぐために、ビニール袋を渡された。

「いい匂いするな」

 ビニールをのぞき込むと、今時珍しいくらいシンプルなプラスチックケースに入ったカツ丼が見える。端に盛られた紫大根の存在感が鮮やかだった。

「でしょ」

 苦労して編み上げブーツを脱ぎながら、未かは大きな声で返事をする。

「駅からこのアパートとは反対側に、落ち着いた雰囲気の食堂があるの。なんか昭和テイストって言うか、こじんまりとしていて華やかさに欠ける外観のせいで、学生とか全然来ないんだ。だから時々いってるんだけど、今日はテイクアウトをお願いした」

 数年住んでいるが誓はピンとこず、そんな見落としそうな店を気に入って通う未架のセンスに驚いた。

「かつ丼ってさ、いつか死ぬほど食いたいって思ってたわ」

 さすがに食事中はお茶にしようとほうじ茶を入れて、温かなカツどんを食べる。だしの甘さに玉ねぎが溶け、どれだけでもご飯が食べられそうだった。

「お腹いっぱい食べたいってこと?」

「うーん」

 未架は上品にお箸でカツを割って口に運んでいる。こういう些細な仕草に、男とは思えない意識のようなものを感じる。彼の内側からにじみ出るものではなく、彼自身が意識して身に着けた、なにか。

「別に一食食えば、腹は満ちるんだけどさ。なんていうか、もういらないって思うくらい肉を食いたいって思ってた。そういう我儘を言える環境じゃなかったからね」

 貧乏ではあったが食うに困るという程ではなかった。幸い祖母には持ち家があり、年金も少ないけれど清貧な生活を二人でするくらいなら困らない程度にはあった。誓もバイトを頑張れば二人でなんとか、所謂最低限度の生活は送れていたと思う。母親と暮らしていた時の方がよほど、金がないという現実が横たえた刃のように心臓を脅かしていた。

 ただ、そのぎりぎりのラインを保つことに必死で、前も後ろもないという生活だった。漠然とした不安と隣りあわせの生活をしていたせいか、羽を伸ばすとか贅沢をするという非日常を演出できない。常に何かに対して限度というものを意識して生きてきた。これ以上はだめだというラインが、経済不安によって低い位置に落ちてくる。語れるほどの不幸はない。でも、いつも何処かに自分の限度のようなものを意識して生きてきた。

「子供の時、お菓子に対しては思ってたな。うち、母親がお菓子とかも嫌いだったから」

 未架はそう苦笑してから、誓の丼にカツを一つのせた。

「一個じゃ大して変わらないと思うけど」

 未架は明るい笑顔を作る。そして話を広げる気はなさそうに、また自分の分を食べるのに集中していた。

 未架のこの手の思いやりのようなものに触れる度、誓は持て余すような昂ぶりを覚える。彼は他人に対してオープンではなく、所謂良い人とは少し違うように思う。それなりに自由に生きようとし、その実現のための取捨選択は激しい。ただ、彼は心の奥底に相手への好意をきちんと眠らせているように思う。敬意と言い換えてもいい。

 軽く流すように言うけれど、経済的な問題でかなえられなかった夢は妥協の範囲内だと誓は思っているが、親の方針でかなわなかった夢はいつまでも引きづる。叶わなかった夢ではなく、取り上げられた夢になってしまうからだろう。彼は母親から指南されてきた人生訓を、片っ端から否定している。それなりに筋の通った理論でさえ、未架は自分の選択として蹴散らそうとする。なのに、たったひとつ、むしろこれからは離れるべきだろう理論から、離れることができない。彼自身が、自分自身の選択なのかどうかもわからないまま、こんなファッションで何かを貫き通そうとしている。

「お礼に、これをあげよう」

 誓は机に置きっぱなしになっていたチョコレートを未架に渡した。

「店長がお土産に配ってたんだ」

 お土産というにはいささか手抜きな商品だ。土地の名前が袋に記載されているだけのチョコレートで、名産品でもなければ下手すれば県外で生産されていたりするレベルの代物だ。未架はそれを面白そうに眺めていた。

「そういえば、誓は北海道の出身なんだよね」

「うん」

「夏は帰省するの?」

 半分ほど残っているカツ丼を置いて、未架はぐっとお茶を飲んだ。細い喉が上下に動くのを見て、なんだか見てはいけない物を見た気になった。

「するよ」

「おばあちゃん一人なんでしょう?」

「うん」

「優しいね、誓」

 未架はもう一口お茶を飲み、もういらないどうしよう食べきれないやと呟いた。

 優しいね。誓は未架の言葉を反芻する。

 なんで祖母を置いてまで東京にと誓を責めたのは、ほとんど常識がある大人たちだった。学校の担任、バイト先の店長、お隣さん。皆、誓の家庭環境を熟知し、ある種の気遣いをくれた人ばかりだった。良い人ぶりたいわけでも説教を垂れ流す大人なわけでもないと知っている。それでも、誓には、東京に行かないという選択肢はなかった。

 母親が自分を捨ててまで生きていたかった街を、知りたかった。なるほどこんな素敵な場所なら仕方がないと納得したら、帰ろうと思っていた。

 祖母は反対しなかった。東京に行くと告げた夜、彼女はそうか分かったとだけ答え、嫌な顔も悲しそうな顔も、困惑すら見せなかった。おそらく納得はしてくれるだろうけれど少しばかりは責められる覚悟を決めていた誓は拍子抜けをし、引き留められたわけでもないのに、数年だけ、長くても五年で帰ってくると、条件を自ら提示した。それは反対された時に提示する予定だった制約であり、既に担任や店長に伝えた条件だった。

「何年でも好きなだけ行っておいで」

 祖母は丁寧な口調でそう言った。

「帰りたくなったら、帰ってくればいい。それだけだよ」

 十年以上も一緒に暮らした孫を雪国で、七十歳近くなってから失うのは恐ろしいことだっただろう。娘の記憶も脳裏をかすめただろう。それでも祖母はそれ以上のことはなにも言わず、東京に何をしに行くのだとかどうしたいのだとか、具体的な話は何も求めなかった。青写真すら持っていない誓を見透かしながら、それを責めるようなことはしなかった。

叶える夢や大志を抱いてきたわけじゃないから、何かを得たいと思ったわけじゃない。煌びやかに賑やかな街の一か所に自らが背負い続けた劣等感を置いて、振り返らずに祖母のもとに帰ろうと思っていた。それなのに、こんな小さな雑踏の世界で、違う業が重ねられていく。

 祖母とのあの会話を強烈に覚えているのは、帰っておいでと言う言葉に最大の優しさが込められていたことに気付いたからだ。勝手にしろと出ていけというのは簡単で、一等親を超えた子供の面倒などこれを機に放り出してもいいはずなのに、祖母は帰る場所であることを約束してくれたのだ。

帰らなければ、とは思う。帰りたいかどうかはわからない。

「じゃ、来週、よろしく」

 未架はスナック菓子を置き土産に、きっかり一時間半で帰っていった。時間に正確なのはいつものことだった。来るのも帰るのも身体に長針を張り付けているみたいに正確で、誓には別れ際の未練が逆算して滞留するようになった。

「うん。コーラは準備しておくよ」

 誓が言うと、彼はじっと誓の瞳を見つめてから、くしゃっと相好を崩した。

「ありがとう」

 未架が帰った後の部屋はいつもきれいで、彼の綺麗好きのお陰でそれはとても喜ばしいことだけれど、あまりに存在感を消していってしまうものだから、失われた夢のような虚しさを覚える。せめて体温くらい知っていればなと考えるけれど、身体の覚えた温もりは寒い時にしか思い出せないものだから、持っていない方がいい。

 未架が食べるつもりだったけれどお腹いっぱいだと言って残していった二つのシュークリーム。二個は要らないと言ったけれど、もってかえるのは面倒だと断られた。純白の箱を開けただけで、甘い香りが漂ってくる。蓋のように添えてあった固いシューの部分を摘まんで齧ると、口の周りに粉砂糖がたっぷりとついた。中に詰まっていた生クリームとカスタードは量が多く、スプーンですくって二口食べて、飽きた。

 北海道に帰るのかと聞かれ、一緒に帰ろうというかどうか、悩んだ。あの雪国に、未架を連れて行きたいと思う。息をするだけで身体の芯まで冷たさの染み込む季節に、混じり気のない雪景色の中に、未架を連れ出したい。人気のない雪道は何処までも広大に見えるのに、雪国に閉じ込められた気持ちになる。そんな世界で、未架だけを感じていたい。真冬の冷たさに交わる未架を見たい。彼が躊躇いなく触れる雪に、一切の純真さがなくてもいい。この世界が綺麗である必要などない。ただ、自分から少しでも遠ざけていたいだけだから。

 その日の夜、祖母から電話があった。いつものようにのんびりした口調で、おめでとうと言われた。ありがとうと返してから、カレンダーを見た。何の印もない、平日の一日の夜のことだった。





七月の終わり、梅雨が明けたというニュースが全国にいきわたる前に、台風の情報が上がってきた。毎年日本の上空を、大地を荒らしながら去っていく台風の情報は皆の不安をあおり、そして被害は想定を超えていくものだった。九州で集中豪雨と台風の影響で幾つかの川が氾濫し、ダムが決壊した。土砂崩れもあちこちで起こり、突風による被害まであった。当然テレビはこの天災についての特別番組一色になり、流され浸水した家の映像を何度も目にした。

募金を呼び掛けるアナウンサーの言葉。街中で見かける募金箱。給料日まで逆算している財布の中身。

同情とは何だろうか。夕食のお茶漬けをすすりながら、誓は考えたくないと思いながらも考えずにはいられない。冷蔵庫に入れていたお米が古くなったせいで水分が抜けて硬くぼそぼそになってしまっていたので、お茶漬けにした。お湯でふやかしてお茶漬けの出汁が冷蔵庫独特のにおいを消したことで、なんとか無駄にせずに済んだ。

 テレビを消したのは、避難所生活を余儀なくされた人々へのインタビューを聞いていられなかったからだ。家を流されたと涙ながらに語る老人を見て、家があるだけましだと思わなければいけない気分になって、気が滅入った。




試験が終わったと嬉しそうに遊びに来た未架の鞄からテキストが取り出され、誓は首を傾げた。

「試験が終わったんだよね?」

「そう。でも、まだ来週提出のレポートがいくつか残っているし、夏休みの間は資格のために勉強をする予定だから」

 未架は背負ってきたリュックから取り出したテキストを勝手に部屋を見渡し、ラックの傍に寄った。

「ね、誓。ここにテキスト置かせてもらってもいい?」

「別にいいけど。なんで?」

「ん?此処に遊びに来た時に勉強できるよううにね」

 平然とした顔で言い放ちテキストをしまうために場所を作っている未架の背中を、誓はまじまじと見つめる。肩幅が狭い。着ている半袖のニットは肩の部分が編み込みになっていて、透けた部分から、覗く肩から腕にかけての華奢さが際立つ。たいして力があるわけでもない誓でも、力業で何とかできそうだった。何とかできそうだったけれど、何とかしたいという気力もあるけれど、何とかしてしまえという衝動性はなかった。

「そういうものは家に置いておいた方がいいんじゃない?」

 次から次へと取り出される分厚い参考書に、誓は眩暈がしそうだった。

「夏休みになったら、誓ともっといたいから、しょっちゅう来るつもりだったんだけど。ダメ?」

 しゃがんだまま振り向いた未架は、下唇を軽く噛んでいる。彼の困ったときの癖だった。照れたときも、焦ったときも、戸惑ったときも、彼はそうする癖があった。

「駄目なわけない。いつでも大歓迎。ずっと泊まっていってもいいよ」

 未架は嬉しそうにテーブルに戻ってきた。

「とりあえず、明後日までのレポートやろうかな」

「じゃ、俺は夕食でも作るか」

 特別得意というわけでもなければ苦手でもない料理がいつしか趣味のようになったのは、未架が度々家に来るようになってからだ。二人並ぶには手狭なキッチンで、ああでもないこうでもないといいながら料理をする。それは純粋に食費を浮かすためと、特に目的もなく時間を合わせて共に過ごすにあたって料理という趣味は決してマイナスな行事にならなかったためだ。どちらかというと誓のほうが手際が良く、細かい作業にも向いていた。未架は不器用で忍耐力にかけていたうえに豪快な性格が災いして、大抵焦がしたり味付けが狂っていたり見た目が散々だったりとうまくいった試しがない。そのせいで未架の中では料理は苦手なことに分類されてしまったらしい。

「俺、鍋がいい」

 未架は手をあげていった。

「この暑いのに?」

「暑いからこそだよ」

 未架は一度言い出したら聞かない。誓は食糧庫から冬の残りの鍋つゆを見つけ出し、鍋をコンロにセットした。

 おそらく、と誓は考える。おそらく未架は料理を手伝わない身として楽なメニューを選んでくれたのだろう。鍋は切って煮込むだけだから、数ある料理の中でも簡単なメニューに分類される。

冷蔵庫からニンジンや白菜などの野菜を取りだして洗っていると、静かな空間に不意に背後が気になる。ちらりと目線だけリビングにやると、立ち上げたパソコンと大量の書類を広げた未架が真剣な表情でマーカーを動かしている。必要な部分にマーカーで線を引き、テキストに付箋を貼り、時折キーボードを鮮やかに打つ。これまでも何度かこの部屋で勉強をしている姿を見てきて思うのは、彼は勉強をする姿がしっくりくる。慣れているという言い方が適切かどうかはわからないが、机に向かう姿が様になっていて、彼がそうしているときの真剣な雰囲気を見ていてると、洋画に出てくる手紙を書く主人公のようだと思った。羽の付いた万年筆で言葉に詰まることなくすらすらと滑らかな筆記体が繰り出されるように、彼は一度勉強の世界に入り込むと、その世界に馴染んでしまう。

「なあに?」

 つい見つめていると、視線に気づいた未架が振り返り、にやりと笑った。持っていたシャープペンをくるりと手の中で回す。

「いや。勉強している人って、俺見たことなかったから」

「は?」

 鍋の火を一番小さくして蓋をする。未架の傍によると、彼は隣に座る場所を作ってくれた。

「未架には信じられないかもしれないけど、うちの高校の半分は就職をしているんだ。進学した奴らも専門だったり短大で、勉強をしようとして四大に進んだ奴なんてほとんどいない。俺はそういう環境で育ったんだよ」

 無論、授業やテストは普通にあったわけだから勉強をしている姿というだけなら見たことはある。ただ、そこに展望的な真剣さを伴う姿を見たことがなかった。

「俺自身、真面目に勉強したことなんかない」

 コンロからじゅわっと火の消える音がする。慌ててキッチンへ飛んでいくと、鍋が噴きこぼれていた。蓋を外して火を消す。透き通った色をした野菜を確認してから、豆腐や魚や肉を入れていく。

「誓」

 キッチンとリビングちょうど中間あたりに移動した未架を一瞥し、何かと尋ねる。

「勉強ばっかしている俺のこと、あなたは軽蔑する?」

「え?」

 豆腐を切る手を止める。冷蔵庫から取り出したばかりの豆腐はつめたく、手のひらの感覚を奪っていく。

「どういうこと?勉強するのはいいことだろ?」

 勉強をする価値というのを誓が理解できないのは、誓が勉強をしてこなかったせいだ。きちんと勉強すればよかったという大人は要るけれど、その逆には出会ったことがない。

 未架は壁に背を預け、俯いた。誓は豆腐をそっと鍋に落とし、手を洗うと未架に向き合った。

「勉強が出来るだけじゃ社会の役に立たないって言うのが、うちの母親の言い分だったんだ」

「うん?」

「うちの両親が離婚した話はしただろ?原因の一つが、両親の学歴の差だったんだ」

 未架はため息を零し、遠い目をする。鮮明に浮かぶ景色があるという顔で、でも誓にはその景色は見えていない。

「父親が結構頭良くて、いい大学出てるんだ。会社もそこそこ大企業だし、そういう意味では優秀なんだと思う。でも、口下手でコミュニケーション能力はあまり高くないし、とにかく家のことが出来ない人だった。それが母親にとっては納得がいかなかったらしい。母親は家の事情で大学には行けずに高校出てから働いているから、条件ばかり揃えている父親の方が評価されているのが嫌だったんだと思う」

 誓は頷いて、話を促した。

「離婚してから、結構父親の悪口を聞かされて育ったんだ。母親はファンシー趣味のくせに根に持つタイプの人で、俺は理想と現実を同時に浴びて育っていた」

 苦笑いを浮かべた未架は、何故だろう、良く知っている未架のような気がした。

「ずっと言えなかったんだけど、俺、浪人してるんだ」

「え?年上ってこと?」

「うん。誓より一歳上」

 誓は驚きのあまり言葉が出なかった。

「年上扱いとかしないでね。そうされたくなくて隠してたんだから」

 隠していたといわれると気が楽になった。未架といると、理解できないことがある度に劣等感を抱くようになった。知らないということ、わからないということ、理解が出来ないということ。それらを重く受け止めたことなどなかったし、物々しく考えたところで救済はないと覚悟をして生きてきた。知らない方がいい現実を傍に眠らせながら生きてきた。その根幹が揺らぐ。漠然と生きていることが、賢い誰かに支配されている感覚に陥る。

「なんで浪人を?」

 聞いていいのかわからなかったが、聞かないと話が進まない気がした。

 未架は軽く笑って、

「普通に受験に失敗しただけ。行きたかったレベルに届かなくて、一年ならやり直した方がいいかなって。結局今行っている大学も希望の一つ下だからうまくいったとは言えないけど、ま、及第点かな」

「そっか」

 誓は曖昧に頷く。受験に疎く、何を言っても余計なお世話に思えた。

「母親は浪人に対して大反対だったよ。父親と同じ大学に行きたがった俺を否定しまくった。俺のことを溺愛してたから、裏切られた気分だったんだと思う。それで…」

「それで?」

「それで父親に引き取られるようになった」

 未架は無理やり作った笑顔の下に何かを隠したまま、話を推し進めた。

「こっちに来てから受験をし直して、今の大学に通うことになったんだ。これが俺の、勉強をしないとダメな理由」

「でも、別にそこまで必死にならなくても、十分なんじゃ…」

 誓は思わず口にしてから、余計なことを言った気がして続きを失った。それに気付いた未架は首を横に振った。

「振り返ってみるとね、俺ってホントに何もない」

 我儘で気の強い、いつもの純粋すぎる幼さを何処にやったのか、未架は不安げな瞳を空にさ迷わせる。

「就活の時に何を頑張ったのかって言われて、言えるものがない。長所はって言われても何もない。思えば人付き合いも苦手だし誰かに合わせるってことも出来ない。友達もいないし集団行動は全部だめ。真面目な性格ってわけでもないし、器用なわけでも気が利くわけでもない。ほんと、時々うんざりするよ」

 何を言っているんだと言いたい気持ちがこみ上げてくるけれど、誓は何も言えなかった。

 未架を初めて見たとき、誇り高いと感じた。潔癖な雰囲気や聡明さを感じさせる横顔が堪らなく美しいと感じた。その印象は今も変わっていない。想像よりも好奇心が強く柔軟性に欠けるところはあるけれど、自由な想像力と真っ直ぐな感受性に従って生きようとする未架を、ずっと好ましく思っている。でも、その鮮やかな魅力を、一体誰が他人にアピールするだろうか。どんな言葉で評価するのか。評価できるというのか。

 自分だけが知っている未架の魅力。

 不意に閉じ込めてしまいたくなる感情を、人は独占欲というのだろうか。

「だからせめて、学歴だけでも様になっていてくれたらって思ってた」

 苦い笑顔で言う姿を見て、誓は納得をした。

 未架は彼自身の特性をそれなりにきちんと把握している。謗るようなことは言っていても、未架は未架自身を嫌いなわけではない。自身の感性や考え方を理解し、置かれた立場を理解して猶、それでも自分自身が変わらなければいけないなどとは考えていない。ただ、それを他人が欲している物だとは思っていないのだ。いうのなら、自分は好きだけど他人に勧めはしないニッチな映画を好み、その映画が大衆受けを狙って陳腐な物語にならずによかったと安堵するように、自分自身を受け入れている。随分と損な自己自認だ。他人が自分を好かない理由を把握するなんて、そんな不幸なことがあっていいのか。

「生きていくことがものすごく難しく感じる」

 薄いドア越しに、誰かがハイヒールを鳴らして通り過ぎていく。こつこつと響く一定の足音にすら個性的な音階が存在する。

「それは俺だって同じだよ」

 誓は理解したような口で言ったけれど、重さがまるで違うと自分でわかっていた。真剣さを傍らに自覚的に生きてきた未架の人生や生き方への責任感が、彼の人生をより困難なものにさせている。誓は、自分の人生は他人が捨てたものでしかないと思って生きてきたから、頑張らなくちゃいけないだなんて必死さを胸に生きた日なんてない。今日より明日を良くしようだなんて、未来を飾ろうだなんて、考えたこともない。いくら命の価値が平等だと保証されたところで、人生の価値までは均すことが出来ない。

「誓」

「なに?」

「一緒に生きてよ」

 少し鍋の方に逸れていた気持ちを、目の前の男に戻した。壁に頭を預けて不安げな瞳を、それでも未架は逃げようとしない。彼の人生には正義と空想が必要で、それらを同時に成り立たせるためにいくつのものを排除してきたのかを考えると空恐ろしい。この世にありふれた幸福には積極的になれないくせに、溢れた不幸のすべてに自分を重ね合わせようとする。

「未架がいてくれって言うのなら、一緒にいるよ」

 自分でも卑怯だと感じる返答を、それでも誓はそういうしかないのだ。未架の背中を追うことは出来ない。手を引くことはもっと出来ない。誓は置かれた場所で生きていく以上のことは望まないし、頂上を目指したりはしない。雲を見下ろす生活など必要がない。ただ麓に咲く花を愛でるだけだ。頂上からでは見えない、雑草みたいな花を。

「十分だよ」

 小さな唇でゆっくりと笑う。きっと彼は母親に似たのだろうと、勝手な想像をする。女性的な笑顔をする人だ。相手への肯定を自分の愛情にのせて分け与える。誓がもらえなかったもののうちの一つ。

 でも、未架が去っていった時に追いかけたりはしないとは言えなかった。来るもの拒まず去るもの追わず、としか思われない気がした。未架が高みを目指そうと歩き出した時が自分たちの分かれ道だということを誓が告げたとして、未架がこの下流の戯れに満足してしまうのが怖かった。彼は今はモラトリアムを免罪符にして停滞の余暇に身を委ねているけれど、やがて置かれた立場に気付く時が来るだろう。その時、誓の存在が彼を引き留めるのだけは避けたい。飛べる羽があるのなら何処までも飛んでいけばいいし、歩ける足があるのなら何処まででも突き進んでいくがいい。今いる場所の幸福は今以上にはならないのだ。

 未架は口元に笑みを残したまま、誓の傍に寄った。少し下からじっと誓を見つめ、何かを決心したようににっこりと笑顔を作ってから背伸びをして誓の頬に口づけをした。一瞬、本当に瞬きする間もないくらいの素早さだった。その後気が遠くなるくらい悩み続ける事象もその場では一瞬のことで、実際未架は余韻もないまま身を翻して課題に戻ってしまった。意味を問うことも真相を問いただすことも拒む背中に、でも彼が衝動でそうしたわけじゃないと確信を持つ自分が怖い。

何事も起こらなくなった室内で、誓は何事もない顔をして料理に戻る。内心では幸福感と焦燥感がせめぎ合っていたけれど、その感情の起伏に付き合うつもりはない。どうせ行きつくところは決まっている。

 鍋の中身を時折交ぜながら、幸せになりたいと漠然と考えた。それ以上のこともそれ以下の思いもなかった。ただ、幸せになりたいという一辺倒の思い。でも嘘はなかったし、強欲に考えたわけでもない。世界平和も人類の平等もどうでもよかった。ただ、幸せだと思える人生の上を歩きたい。

はじめはそれなりに均等に揃えて入れたはずの食材がいつの間にか混ざり合ってしまい、何がどこにいるのかが分からない。せめて豆腐が崩れないようにと大きくかき混ぜ、火を止めた。

 その夜、寝つきが悪かった。電気を消してからもさっぱり眠気がこない。明日も早いからと眠ろうとすればするほど、目が冴えた。何も考えまいとすればするほど、冷蔵庫の残り物のこととか、職場のシフトのこととか、今考える必要のないことばかりを考えてしまう。あまりに複雑な思考になってきたので、誓はトイレに行くついでに諦めて電気をつけた。ぼんやりと部屋を見渡して、少し模様替えをされたラックの前に座り込む。

未架の荷物の並べ方はお洒落だ、と思う。順番がきっちりしているとか、取り出しやすいかとか、そういうただの几帳面な性格と違い、置くものの存在感を一番こなれた形にするセンスがある。

こんなに持ち込んで、とは思わない。殺風景な部屋だ、好きに使えばいい。誓は並んだ参考書の一つを手に取る。想像よりもずっしりとした重さで中身の重厚さを感じる。同じ厚さでも漫画の軽さに比べると違いは明らかだった。パラパラとページをめくってもみても、内容はさっぱりわからなかった。読んでいて、日本語だからさすがに読むことは出来るのだけれど、聞いたことのない単語が喉を滑っていく感覚に陥る。読めない漢字すらいくつかある。英語に関しては一文目から読めなかった。

未架はこれらを読んで理解して、頭に入れるのだと思うと、気が遠くなった。途方もない差が生まれていくのがわかる。テキストを読んでいるときの未架の静かな横顔。柔らかな頬にかすかな影を作り、長いまつげが目線に合わせて上下する。あの横顔に、誓は声をかけることができない。張り詰めた糸に触れると指先が弾かれるように、あの緊張感をまとった未架は、誓の侵入を拒んでいる気がする。

届かない、と言ったら、未架は寂しがるだろう。ただ、未架を取り囲む時間の速さは、誓のそれとは明らかに違っている。吹いている風が違う。纏った湿度も、温度も、まるで違う。今はいい。でも、すぐに、埋められない差になる。

元あった場所にテキストを戻し、ベッドに戻る。まだ眠気は傍にない。それでもやはりすることもないかと横になると、水平に続く静かな夜に溶け込むように眠っていた。



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