八章
どうしたものかと考えあぐねて数日が過ぎた。それなりに日々を過ごしている間に、特別未架のことを考える時間などは無かった。例えば流行り曲やドラマの科白で恋愛に四六時中気を取られる表現は何度も目にしてきたし、実際に恋愛を何よりも重要視した母親との別れを経験しているせいか、相手のことが頭から離れなくなるという現象がいつか自分にも訪れるとばかり思っていたので、あれだけ感情を揺さぶる相手に出会ったところで日常は日常として機能していることに拍子抜けする部分はあった。仕事中は仕事に集中しているし、石田や同僚たちと遊んでいるときはそれなりに楽しく過ごしているのが現状だった。つまりこれはそこまで本気の思いではないのかもしれないという疑いが生じ始めている。それでも、店で手が空いたときや家で一人でご飯を食べているとき、シャンプーをしているときの束の間の暗闇の中で、未架に出会う。
彼の存在を意識する度、対になるようないくつもの感情が降り注ぐ。純粋な好意の為だけに生きていけるわけじゃないだろうと閉じ込めたい思いと、不意にすべてをなげうって走りだせそうな衝動性がいつも同じ力で押し合いを続けて、梅雨前線が停滞しているように、縺れ合って複雑な模様になった思いを、誓はどうしようもない気持ちで見上げることになる。何も俺のせいじゃないだろうと、責任逃れというよりも免罪符があるはずだという思いに縋りながら、引き出しの一番上を引いたり閉めたりを繰り返す。通帳や印鑑や現金などの貴重品と共にしまった、家の鍵。
シフトのなかった夕方、久々に映画を見てから昼寝をしていると、家のインターホンが鳴った。
「はい」
滅多に荷物の届かない、そして誰のことも招かない家だから、そうかもしれないという予感はあった。
「俺」
「未架?」
「うん」
インターホン越しの声がドア越しにも感じられる。つくりの脆い家だと改めて思う。
「話したいことがあって」
未架がそう言ったので、誓はドアを開けた。大人しくドアの前に立っていた未架は、しょんぼりとして見えた。
「入りなよ」
促すと彼は躊躇う様子を見せたので、誓は強引にその腕を引いた。
彼の為に買っておいたコーラをグラスに注ぐ。しゅわしゅわと泡のはじける音が響くと、クーラーのつけていない室内にも僅かな爽やかさが訪れた。
「話って?」
窓から入ってくる強い風がレースのカーテンを揺らす。
この前のことについてだというのは直ぐにわかる。だから本当はこんなに仰々しく向かい合わずに、無かったことにすることも誓の方から気楽な解釈を提示することも可能ではあった。それでもあえてそうしないのは、未架がどのように解釈をし、誓に話をするのかには純粋に興味があるからだった。
「俺さ、友達って本当にいないんだ」
不意に切り出されたので、誓は頷くことも否定することも躊躇った。気の利いた言葉が出てこないときは、無理に言葉に頼らない方がいい。
未架は自分自身に苦笑するといった様子で、口元に無理やり作った笑みを浮かべる。
「地元には少しはいるけど、こっちにきてからは本当にダメで。誰も信用できないし、仲良くなりたいと思うことも出来ない。大学で仲良さそうな人とか見ると羨ましい気持ちにもなるけど、あれって無理して仲良くしているわけじゃないでしょ。頑張ったら誰かと打ち解けることは出来るかもしれない。でも、頑張って他人と一緒にいることに意味があるのかどうかも分からない」
未架は淡々と吐露する。隠そうとしていたつもりはないだろうし、傍から見ていても十分にわかることばかりでも、本人がそれを自覚していると知るのはまた別の感覚になった。
少し話し出したことで身体の力が抜けたようで、未架は足を崩し両腕でその脚を抱えた。
この人はいつみても幼さが隠せていない。何がと言われると明確に指摘できる何かがあるわけではないのだが、常に彼から幼さを感じてしまう。大学生という社会経験の無さもあるにはあるのだが、同じような大学生に感じる世間知らずとはまた違う、未熟さ。それの一端を担っているのが容姿の幼さであり、野暮ったいわけじゃないのに洗練されている感じのしない雰囲気や男性的な魅力を一つも備えていない外見、無垢すぎて近寄り難い瞳に、誓はそれでも惹かれてしまって仕方がない。
「じゃぁ、なんで俺と友達でいられる?」
誓は表情を崩さないように意識しながら尋ねた。
「誓が俺を対等に見てくれるから」
そういえば同じことを聞いた気がする。
「だからって調子に乗ったね」
抱えていた脚に身体を寄せるように、未架は一層小さくまとまっていく。まるで何かから身を守るようで、見ているだけで痛々しい気持ちになる。
未架はおそらくかなり恵まれた環境で育ってきている。何不自由なく、そりゃあ両親の離婚の話などを聞けば完ぺきではないのかもしれないけれど、それにしても苦労して生きていたという瑕疵のようなものは見当たらない。なのになぜこんなにも不安定なのだろう。本人の性質にしては彼は孤高の理想主義者だし、人を寄せ付けない性質とかみ合わない。きっともっと深いところに、ある意味何者にも侵略されることのない場所に、それは勿論彼自身にも触れられないような場所に、彼は絶望感や諦観や喪失感を仕舞い込んでいるのだろう。全てを切り札に変えて生きてこなくてよかった生育環境が、彼の秘匿性を育て上げたということになる。
「俺にとっては誓がすごく大事だけど、誓には友達がたくさんいて当然だってこと忘れてた」
小さくなった身体を何も考えずに抱き締めることが出来ればどんなに良かっただろう。伏せがちな顔に手を添えることも、力の加わった手を解くことも、目の前の机に妨げられている。
清水と一緒にいるところを見て、未架は動揺していた。清水にとられるとでも思ったのだろうか。たとえ誓が清水と懇意にしていて、もっと言えば男女の関係だったとしても、未架との友情に変わりはないだろう。
そうだろうか。
誓は瞬時に自分の考えを疑った。
息子よりも大事にしたい男がいれば、子供など簡単に捨てていく女がいる。その事実を何故、失念していたのだろう。
「この家に他人をあげたのは、未架が初めてだよ」
「え?」
「俺、そんなにオープンな性格じゃないから」
どちらも手を付けていないグラスのコーラがいくつもの気泡を逃がしている。未架と仲良くなる前は飲むことのなかったコーラには正直未だに慣れず、喉を刺激する炭酸は少しきつい。でも、気の抜けたコーラなんて飲めたもんじゃない。
「俺は未架と知り合えてよかったよ」
言ってから、なんだか別れ際の一言みたいに乾いた言葉だと感じた。未架から受け取った言葉の重さや素直さに比べて、無難であろうとし過ぎているし、不誠実と取られてもおかしくない。
それでも未架は微かに笑って、ありがとうとだけ言った。静かな口調や静謐な雰囲気は上品で、子供の早熟さに似た近寄り難さがあった。何方に扱うのも気を揉むような、境界線を自意識だけが行き来しているような姿だった。
どちらも話しようがなくなって沈黙が訪れると同時に、未架は立ち上がった。
「帰るね」
いたたまれなくなったのだろうと、彼の必死の無表情に対して愛しさと申し訳なさを感じた。
「未架」
振り返った未架の表情に、ごちゃ混ぜになった喜怒哀楽の欠片のすべてを見ることができた。彼自身がコントロールできていないのはすぐにわかった。問題はその複雑に入り組んだ感情に、誓自身が付き合っていけると思ったことだろう。
誓は立ち上がって未架を追い越し、戸棚から悩み続けていた合鍵を取り出して、未架に差し出した。彼は口をあんぐりと開けて戸惑っていた。
「誓。俺が悪人だったらどうする?」
「悪人なのか?」
芸のない返事に、彼は左の下の神経をひきつらせた。
「そういうことじゃなくて。こんなもの、あんまり他人に渡していいもんじゃないぞ」
まるで無知な子供を諭すような口調だったので、誓は反発心を抱いた。
「この家に勝手に入られて困るようなもの、無いんだよな」
空き巣に入られても困らないと言おうとしたけれど、俺を空き巣に見立てるなと言われるのも嫌で、飲み込んだ。
「そうは言ってもそうじゃないでしょ。だめだよ、安いこと言っちゃ」
誓はまだ正直納得がいっていない。誓の未架への信頼感を未架自身に軽視されたのも不満だったし、この空っぽの家に未架の存在があるだけで嬉しいのだと素直に言えない自分にも腹が立った。誰かのいる家に帰りたいだけだったのに、それを言うのは妙に躊躇われた。重たく感じられることも怖かったし、そんな風にこの狭いアパートに未架を閉じ込めるのも忍びない。
「未架も知っての通り、俺、東京で頼れる人っていないんだ。北海道の祖母の家にこの合いかぎなんて置いておいたら、出ていくときに取りに行くのも面倒だしね。だから、俺に何かがあった時に助けてよ」
アパートを契約したときに渡された二つの鍵。大家からは、親御さんにでも預けるといいよと言われたけれど、片割れを預ける先がなかった。あの時味わったのは絶望感や孤独感ではなく、敵愾心だった。いったい何に対する抵抗だったのか、今でもわからない。ただ、抗う気持ちだけが突っ走っていた。
「わかった」
未架は何かを受け入れるように二度頷いて、誓の手から鍵を引き取った。渡す気のある手から、奪い取るような乱暴さで鍵を掴む。
もしかしたら未架はもうこの家には来ないつもりだったのかもしれないと思い当たったのは、彼が帰った後だった。当たり前に思い始めた存在がふと手を零れ落ちそうな危機だったのではないかと、身体中から血の気が引いて行くのが分かった。
熱烈な思いを受け取った気がする。同じかそれ以上の思いを自覚しているけれど、未架には示さなかった。見透かされているのだろうけれど、自分から口にするのはまた違う。何より、誓自身がまだ戸惑っている途中で、抜け出す頃にはきっと、何もかもが元通りになっているはずだと思っていた。
受け入れてもらえると分かっていた。未架は誓の弱さに触れることを恐れ、誓の欠片を避けている。力の及ばない場所に手を伸ばさないのは、力が自分に向かって走ってきている側の生き方だ。それでいい。そのことを責めようだなんて思ったことは一度もない。ただ、遠いのだ。
反応も、言うことも、どうするかも大抵わかるのに、彼の心の奥底に眠らせた純真な信条には、どうしても手が届きそうにない。それがもどかしい。もどかしいけれど、無理やり深追いして掴もうとしたら、彼はきっとふさぎ込み、誓を拒否するようになるだろう。それは誓が一番恐れていることだった。我儘でいいし、扱いにくくていいし、面倒くさくていい。何も働きかけてこなくなるのが怖い。
意味が分からない、と正直思う。
未架との未来なんてほとんど信じていないくせに、それが侵されるとなれば躊躇いが生じる。そう遠くない場所に明確な岐路を感じながら、いつかという将来に未架の存在を夢想する。
未架に座り直すように促す。
「言い訳するから」
誓はそう宣言してから、清水について話した。どういう知り合いなのかから、会ったのはこれでまだ数回目だということ、そして彼女をほめることで、自分がいかにどうしようもない人間であるのかを話した。未架は黙って聞いていた。すっと背筋を伸ばす姿に、この人は他人に対して随分と真剣な向き合い方をすると思った。痛々しいくらい真剣に。こちらは可能な限り気楽にいたいのに。
その日の夕方、シフトのなかった石田から花火の件だけどと電話がかかってきた。その時誓は夕食の買い出しの帰りに一人で裏山の公園へと歩いていた。
「いいよ。行く」
無意味に空を見上げて、誓は答えた。
「ほんとに?いいの?」
懇願してきたのは自分の方なのに、石田は何度もいいのかと確認をした。
「うん。ただ、これが最後かな」
夕方六時を過ぎても、明るい季節になった。雪国で育った誓にはとって夜は明るくない方がいい。しっかりと陽が落ちて紺青の空に星が見えるようにならないと夜になったという気持ちになれなくて、暗いのが好きなわけじゃないけれど、こんなのっぺりとした明るさと蒸し暑さの中にいると、明るさに閉じ込められる気がする。ふさぎ込みたい思いを抱えているときに降り注ぐ明るさが、良いものだなんて誰が言えるだろうか。
ちょっとした山道だ。登ったところで自然を感じるという程でもなく、空気が澄んでいるわけでも眺望がいいわけでもない。人が滅多にこない理由には十分だろう。
一人の夜は辛くないと知っている。夜は眠りにつくための時間で、誰といようが一人だろうが、眠ってしまえば孤独など存在しない。母親が夜の仕事に行くことを幼かった誓はそう理解していた。
一番寂しさを感じたのは、休日の昼間の明るさだった。明るさと暗さを対にしてどちらかを幸福の象徴にしたら、何方かには負の印象を与えることになる。光と影と言い換えてもいい。いずれにしたって、誓にはどちらも必要だった。ただそれだけのことだった。
七月の終わり、梅雨がピリオドでも打ったみたいにぴたりと止まり、うだるような暑い日々が始まった。
目覚めた布団の上で、誓は寝返りを打った。カーテン越しに強い日差しが降り注いでいることがわかって、全身が汗をかいていた。身動ぎするだけで体力を消耗しているような蒸し暑さだった。冷房は節約の為に寝る前に一時間のタイマーをかけるだけにしている。眠りは深い方なので夜中に目を覚ますようなことは無いが、朝は蒸し暑さで目が覚めることが多々ある。このままこの部屋に居たら干からびてしまうと思うくらい、毎朝大量の汗をかいている。
早く窓を開けて着替えたいと思いながらも、布団から起き上がれずに天井を眺めていた。妙な夢を見てしまった。脈絡なく、唐突に落っこちていく夢。落ちる先は様々だ。池のこともあれば崖のこともある。一番酷かったのは砂漠の蟻地獄。落ちる瞬間に目覚めるときの恐怖心は中々に気持ちがいいものではない。でもそれより悪いのが落ちた先で途方に暮れるところまでがセットになっているときで、その方が割合としては多い。今日もそうだった。一人で街を歩いていたら唐突に心許ない橋に繋がれた山奥へと出てしまう。案の定、渡っている最中に橋が崩れ、海へと続く急流に流されて大海に一人投げ出された。そしてその先にある妙に静かな海の底で、まるでクラゲにでもなったように漂い続けた。幸福にも不幸にもなれそうにない海底に、光が射さない事実を受け入れることだけが生命への宣誓のようだった。
首に手を当てると手のひらが濡れるほどの汗をかいていた。夢の中で静謐さと身体に染み込むような冷たさに身を委ねていた分、このギャップも苦しいものがある。
何がといわれると言いようのない、どうしようもない虚しさを覚えた朝、目覚めた理由を誰が教えてくれるのだろう。今日を何とか乗り越えたところで、明日に何を得られるというのだろう。失うばかりの人生だった。手持ちのカードは少ない方で、それで満足する方法を探していたはずが、その少ないカードすらあるとき手から滑り落ちる。守るのに必死で、欲しいからと得る方法が分からない。それを教えてくれる大人にも、知る機会にも、学べる能力にも、何一つに恵まれなかった。だから、最低限に満足する自我を守り続けている。未来なんか信じちゃいないから、過去を守るのに精いっぱいだ。
それでも、欲しいと思った。息が苦しくなるくらい蒸した部屋で、浅い呼吸を繰り返す。喉が酷く乾いて、何故ただ夢を見るだけでこんなにも疲れるのかが不思議だった。
欲しくないと言えば嘘になる。確かに、欲しいと思った。可能性が目の前で浮遊していて、それを掴んでいいのならば掴んで一生離さずにいたい。でも、どんなに強く抱き締めていたって、手をすり抜けるのは呆気ない一瞬のことだと知っている。