七章
予定のない平日の午後、誓は小説を片手に山に登った。雨期の休息日のように良く晴れた穏やかな午後、外に出なければ勿体無いような気がしたのだ。茂った緑が昨晩の雨粒を養分に瑞々しく輝いていた。まだ地面は濡れているところが多くぬかるみに足を取られそうになったが、差し込む光は青葉を通すことで柔らかな広角の光になって世界を照らす。自然のアーケードの下で木漏れ日が手持ちの小説に降り注ぐ。
数日前、未架から借りた小説だった。
「夏への扉」
有名なSFだよと未架は言った。
「タイムトラベルとかタイムパラドックスとか、今では主流の題材を一番最初に開拓した小説だね。ちょっと小難しくて疲れちゃうかもしれないけど」
未架の予感は的中し、誓は借りた日から読み始めているがまだ十数ページしか進んでいない。世界観に入り込むことや純粋に文章を読むということ、想像力を働かせることが得意ではなかった。目の前にある真実以上のことを掴むということが出来ない。
それでも、どうにかして最後まで読みたいと、休日を小説にあてている。未架から渡された小説は綺麗で、彼の読み込んだ跡などは微塵もなかった。それでも小説を手に取るだけで、未架の思いがそこにある気がして素通りできない。家にいるとほかのことに気を取られるので、何もないところに行こうと考えた。初めて出会ったとき、待ち合わせをするとき、彼はここで必ず小説を読んでいた。その姿を思い出して、未架がするのと同じよう、大きな木に背中を預けてページを捲った。
七月に入ると、じっとしているだけでも汗ばむ日と冷気に長袖を引っ張り出す日が交互に訪れた。夏が来そうだと予感させる日照りと、まだまだ梅雨の気配の消えない肌寒さの繰り返しに、未架は風邪をひいたらしい。喉が痛く熱があるという未架から、週末の予定のキャンセルの電話がきた。一緒にサッカーを観に行こうと約束していたのだ。
「ごめん」
電話口で謝る声だけで、鼻声だとわかった。
「いや、気にしなくていいよ」
チケットもまだ買ってなかったし、と付け加える。
「サッカーは野球と違って雨でも中止にならないから、この時期に見に行くのは結構リスキーなんだよ」
「でも、年に一回しかないんでしょう?」
誓が贔屓にしているチームは本拠地が北海道なので、試合を見に行けるのはこの周辺のアウェイ戦になる。
「いや、この辺ならいける試合はいくつかあるよ」
こういうとき、都会に住んでいるのだなと実感する。選択肢が多い。何かの計画が頓挫してもすぐに代替案が出せる。便利だし、何かに執着しなくて済む。
「行ってみたかったな」
「また計画しようよ」
悔しそうな未架に明るく答える。サッカーが何人でやる競技かもわかっていなさそうな彼が真剣に悔やんでくれたことで、誓は予定がなくなったことなどどうでもいいことのように思えた。また行けばいいという自分の言葉にも励まされていた。
未架は性質の悪い風邪だったらしく、その後三日間寝込んだ。咳が酷く会話ができないとお見舞いを断られ、連絡も一日に数回、その時々の体調を知らせるものだけだった。一週間後に誓の家の最寄りの駅で会った彼はげっそりと痩せていた。ぴったりと身体に沿うはずのスキニーパンツに余裕があって、筋肉がごっそりと落ちたのは明白だった。
駅のロータリーで少し話をした。誓はこの後バイトがあり、未架は大学からの帰り際だった。ほんの十分くらいの逢瀬だった。
「どんだけ痩せたの?」
「元の体重がわからない」
彼は首を振って答えた。本当にわから無さそうだったので、追及はやめた。代わりに近くのコンビニで、二カットセットで売られているケーキを買った。偽物にしか見えないくらい赤いイチゴの乗っかったショートケーキ。マスク姿の未架に差し出す。
「太りなさい」
未架は呆れたような顔をした。小さな顔のほとんどをマスクに覆われているにもかかわらず、彼の表情は手に取るように分かる。
「女の子には言っちゃだめだよ」
「どんなに痩せてても?」
「どんなに痩せてても」
彼は誓の不満げな口調まで真似た。
「絶食後にケーキって、身体に悪そうだよ」
それでも未架はケーキを見てうれしそうに笑った。差し出したビニールを受け取った彼の手首の細さに心配を通り越して呆気にとられた。人間の身体はこうも簡単に壊れるのかと感心するくらいだった。掴むと骨の硬さを掌にはっきりと感じた。骨はしっかりとした硬さをしていた。
「じゃぁ、女じゃないからいいよな。太れ」
誓ははっきりと言った。
未架はにやりと笑った。心からの笑顔とは違ったけれど、誓が未架らしいと感じる笑い方だった。
人の流れというのは不思議なもので、忙しい時は息つく暇もなく声をかけられるのに、ある時ぴたりと客がいなくなってしまう。波打ち際のように、一気に押し寄せて一気に去っていく。それを数十分のスパンで繰り返されると傾けた集中力が急ブレーキをかけられて、一瞬行動力が鈍る。レジから客のいなくなった店内を眺め、この涼しい店内にいると暑さも寒さも遠いことのように感じてしまう。風も日差しも雨もない室内で、やれ気温がどうだ天気がどうだと客にアピールしていると、何も知らない人間がデータと理想論を照らし合わせているだけのように思えた。分析とは何かを細かく切り刻むことで本質に近づくことだろう。ただ、元々が小さなものを切り刻んでしまうと、分析する前に壊れてしまう。誓のメンタルはそういうものだった。
客のいない束の間にレジの周りに埃を見つけて掃除をしていると、店の中に明るい声が響いた。
「ヒロ君」
よく通る声だった。顔をあげると、清水と飯田が顔の横で手を振っていた。
「いらっしゃい」
内心うんざりしながら、営業スマイルを辛うじて引っ張り出す。
「服を見に来たよ」
デニムに明るい細身のシャツを合わせた飯田はともかく、相変わらずの上品ファッションの清水は店内の雰囲気と毛色が違い過ぎて場違いに思えた。英字新聞にでかでかと載せられたモダンアートみたいだった。
「石田、呼びますね」
誓はそそくさとバックヤードにもどり、石田を呼んだ。彼は裏で只管段ボールを潰す作業をしていた。
「お前も来い」
石田に引っ張られて、仕方なく誓は清水の接客をすることになった。
「どんな服をお探しですか?」
誓の白々しい口調を上品に笑ってから、清水はどうだろうと首を傾げた。
「あまり着るタイプの服じゃないかな」
当然だろうという呆れを見せないだけで精一杯だった。今日の清水は白いブラウスに花柄のスカートを合わせた完璧なお嬢様スタイル。若さと美しさの相乗効果で、清水はとても素敵だった。
「カラートップスとかなら、清水さんにも合わせやすいと思う」
最近入荷した鮮やかな色合いのニットシャツは身体に沿うぴったりとした作りで、清水が好むひらひらとしたスカートと合わせても似合うだろうと考えて紹介すると、彼女は数多にあるカラーの中から白いシャツを選んだ。
「これなら、この前買った紺色のスカートに合わせられるかな」
清水が立場上一枚くらいは買っていこうとしただけなのは明らかで、誓もまた無理に物を勧める気にはなれなかった。
買っていってくれるなら誰でもいいやという思いを持っていないと接客業は務まらないということを、この数年で学んだ。唖然とするような客や骨の折れる客、二度と来て欲しくない客にも出会った。ここは決して楽園ではなく、時には物を売る以外の感情や使命を完全に排除する必要がある。
「花火?」
清水とは対照的に飯田が買ったワイドなデニムや厚手のインナー、キャップを包みながら、誓は聞き返した。
「そう。八月にみなとみらいであるから、四人で行こうよ」
隣の石田を見ると、彼は露骨に目を逸らした。
「予定確認しないと」
誓が苦い思いでなんとか言い訳を吐き出すと、彼女たちは理解した様子で頷いた。
「後で日程送るね」
遠回しで断ろうと思っていたところに前向きな言葉を貰ってしまい、齟齬に顔が引きつった。
「ヒロ君」
店頭で彼女たちを見送ると、清水は別れ際に振り返った。
「選んでくれてありがとう」
見慣れた紙袋の中に入っているあまりに無難な服のことを想い、誓は何とも言えない思いになった。
「お前。花火の話、知ってたな」
女の子二人が店の角を曲がったところで手を振ってきたので、二人でお辞儀をした。立場上そうしたのだが、手を振り返す必要のない状況に内心安堵した。
「なんか、断れなかったんだ」
「そこをどうにか断ってくれよ」
そもそもあんなつまらなさそうに店内を見渡す女を連れてくるな、という言葉はさすがに飲み込んだ。
これ以上何を言えばいいのだと頭を抱える。その肩を石田が抱いた。長い腕を身体を小さくさせた誓に巻き付ける。子供が大人の機嫌を取るような好意的な接触に、僅かに心が引けるのがわかった。他人に触れられると、一歩自分が引いてしまいたくなる癖がある。そこまで許していないのだと、相手を遠ざけて閉じこもってしまいたくなる。
「わかってる、ごめんって。でも、どうしてもって言われたら断れなくて。俺だってヒロには好きな人がいるっぽいよって彼女に匂わせたんだよ。でも、それをまた飯田から清水さんに伝える際にニュアンスが変わったらしくて、是非一緒に行こうって話を彼女たちで決めちゃったらしいんだ」
要するに相手にとって都合の悪い部分を濁して伝言を繰り返した結果、原形をとどめないどころかよもや向こうにとって都合のいい形で伝わってしまったということらしい。そもそも誓の本心が言葉に出来るものではなかったのだから一概に誰が悪いということでもないだろうけれど、誓にとってはとても都合が悪い形になってしまった。
石田の機嫌伺のじゃれつきに付き合いながら顔をあげると、店から少し離れたところのベンチに未架の姿を見つけた。ラウンド型の小さなベンチで足を組み、未架がそこに長い時間いたことが何となく察せる。さっと血の気が引いていくのが分かり、心臓の周りに強い衝撃が繰り返される。鼓動の一つ一つが大きく身体を波打たせる。
未架の表情は何ともいえないものだった。ベンチに腰掛けた小柄な未架に、時折通り過ぎる人が一瞥をくれる。じっと誓を見つめる未架の瞳には何を感じさせるものも宿していなかったけれど、ぎゅっと結ばれた口元には確かな軽蔑があるように思えた。
誓は石田の手を振りほどき、未架に近づいた。彼も徐に立ち上がって誓を待った。
「今日来るって言ってた?」
店員としての立場を忘れ、誓は未架の腕を取った。そうしなければ、あの意味ありげな瞳で一瞥をくれた後、さっと踵を返してしまう気がしたのだ。着ている長袖のパーカーは緩く彼の身体を覆っていたが、掴んだ二の腕の部分は想像よりも細くて、思わず掴む力を緩めた。
「いや。シフトあるみたいだったから、この前のケーキのお礼でも言おうかなって」
振り払われるかもしれないと思っていた誓の手を未架は解き、わざとらしく握りなおした。むき出しの手首を未架の指先が柔らかく撫ぜる。体温の高い彼の指先に自分の感覚全てが奪われていく。
「でも、来ない方が良かったみたいだね」
未架の声はいつも通りの甘さと冷たさを同居させていて、しかし言葉選びには意図的な棘があった。
「そんなことない。来てくれてありがとう」
未架の中に滾った感情がどんなものなのか、誓には手に取るように分かる。必死に感情を抑えている未架の表情には、子供じみた意地が見て取れた。
誓は言いようのない優越感に浸っていた。自分が清水といるところを見て、こんなにも未架が動揺をしている。痛々しくて可哀そうなのに、この表情を作っているのが自分なのだと思うと堪らない気分になった。
「仲のいい人?ただのお客さんって感じじゃなかったね」
一体どこから見ていたのだろう。誤解を解きたいような、このまま泳がせたいような、誠実と邪が交互に過る。
「何度か会ったことがあるってだけだよ。未架のほうが仲いいよ」
未架を試している自覚はあった。
未架はあまり話さない。自分の深淵をのぞかせたりはしない。でも、彼の瞳は雄弁だし、仕草や言葉尻はいつだって正直だった。だから、誓にはわかる。自分が求められ、必要とされているのがわかる。その感覚に酔ってしまうと、その可視化できない綱渡りに身を投じてしまうのだった。
「ヒロ。店長が呼んでるよ」
店になかなか戻らない誓を石田が回収しに来た。
「今行く」
誓は近づいてきた石田に短く告げて、もう一度未架に向き合った。
「新作が結構あるんだ。見ていかない?」
誓は妙な優越感に浸りながら、笑顔で誘った。
「ありがとう。でも、今日はやめておくよ」
未架も、にっこりと笑顔を作った。強靭なプライドが作り出した最後の切り札みたいだった。
踵を返して去っていた未架を見送ってから、店に戻った。
「知り合い?」
店頭で待っていた石田が尋ねてきた。
「そんな感じ」
「あの人、綺麗だよね」
石田は何気ない口調だった。
「よく来てるでしょ。ヒロの知り合いだったんだ」
「まぁね」
誓は説明する気になれず、なあなあに返事をした。
未架の酷く傷ついた表情と、それを悟られまいとした気丈な対応がいつまでも頭を離れなかった。未架にとって誓はすでにそこまでの存在なのだと知れて、欲張りになる感情が抑えきれなかった。