六章
未架を秘密主義だとは思わないし、ミステリアスさを纏っているかと聞かれればそうでもない。ただ、知り合って二カ月が経ちそれなりに連絡を取り合いともに時間を過ごしても、彼についての情報は断片的で、捉えどころがなかった。住んでいる場所や通っている学校、同じ年であることやジャンクフードを好んで食べること、好きな服の種類はわかるけれど、それは今現在の彼のことであって、彼に関する情報には奥行きがなかった。
天気のいい日、特に未架の空きコマの時間には、裏山の公園で待ち合せることが多い。誓は一カ月のシフトを未架に送り、誓は未架の時間割表を持っている。しっかりと約束をして何処かに出かけるような関係ではなく、それぞれの日常にお互いの息遣いが根差すような関係を続けている。
「本、好きだね」
昨晩、昼の十二時半に公園で会おうと誘われてジャストの時間につくと、既に来ていた未架は出会った日と同じ木の下で、同じ体勢で本を読んでいた。近づくと、誓の影に未架がすっぽりと収まる。
「唯一の趣味かな」
唯一という物言いが引っ掛かった。
彼を多趣味だと誓は思っているし、実際興味の幅も広ければちょっとした浮気性すら感じる。とても唯一なんて感傷的な言葉で言い表せる性格をしていないはずだった。
「今度、お勧めの本を教えてよ」
未架は立ち上がり、本は読むかと尋ねてきた。
「いや、全然」
そんな高尚な趣味はない。
「でも、読んでみようかなって」
「わかった。今度、良いのを見繕って貸すよ。ちなみに、ジャンルは何がいい?」
「SFかな」
というよりも、小説のジャンルなんてSFとミステリーくらいしか浮かばなかった。
「わかった」
彼は少し考えた後、幾つかのタイトルを唇でなぞっていた。誓でも読めそうなもの探して、必死に自分の本棚を物色しているのだろう。今までの付き合いで分かったことだが、未架はちょっとした隙間に一人の空間を作り出す。その空間から未架のほうが誰かを締め出すということはしないけれど、他人が入ろうとは思えない隙間だった。理知的であるせいでもあるし、興味が惹かれないせいもある。誓は後者だった。
「今は何を読んでたの?」
未架が人差し指を挟んで閉じた小説には緑のカバーがかけられていた。
「遠藤周作」
聞いたことのない作家だったので誓はふうんとだけ返したものの、聞いておいて素っ気ない返事はまずいと思い直し、どんな本かと尋ねる。
「四十年後に読みなおしたい本かな」
「四十年後?」
まだ二十歳の誓たちにとって四十年後は果てしなく遠い未来に感じる。
「うん。六十歳を超えてさ、定年をするわけでしょ。そして今みたいに時間を持て余したときに読んだら、今よりずっと理解できる気がする」
「働いたこともないのに、もう退職すること考えてるんか」
そう茶化してみるものの、四十年先に目的を持つ彼にたいして妙な羨望のようなものを感じる。恵まれている人々は大抵、未来という展望を持っている。誓は四十年後の自分なんか予想もつかない。いずれ来る未来なので特に足掻く必要もなければ、ありもしない妄想をする手立てもない。
「たいして生きてないけど、死ぬことばっかり考えるでしょ?それと同じだよ」
「いや、俺そんなに希死念慮ないからね」
恵まれている人ほど希死念慮を美化するというのは誓の偏見だろうか。結局のところ、少し距離を置いたものは粗が見えずに美しい。本質的に死を遠くに感じている彼らは、死ぬことを額縁に入れて飾っているのだ。お行儀よく距離を取って、時折優美な横顔で死を眺めている。
「この時代の若者としては珍しい」
未架が半ば本気の顔で言うので、誓は呆れた。
「この国で生きていくのって、そんなに難しくないじゃん」
こんな自分でも不自由なく暮らせているという事実に、誓は時々感心する。
「むしろ、死ぬ方がハードル高くないか?」
陽の角度が上がったせいか、周りの木々のきらめきが一層強くなる。真上から落とされた光に葉の緑が負け、微かに屈折しただけの日差しは真夏の暑さを彷彿とさせる。背中が汗ばみ、来ていたシャツが身体に張り付いた。
「そう。ハードルが高いの。そのくせ、死ぬときはきっと呆気ないよ」
普段ははっきりと意思を示す未架だが、時折曖昧で相手を混乱させる物言いをする。そういう時の未架は胡乱で、彼の魂の輪郭がぼやけているようだった。こちらが気恥ずかしくなるくらい真っ直ぐに見つめてくる瞳が、果てのない何処かを見つめるように定まっていなかった。誓に見えない何かを見つめているというよりも、彼自身が見えない何かを探そうとしている瞳だった。透明を見つけたとして誰もそれを証明出来なのと同じように、彼の見つめる先にあるのは圧倒的な喪失感である気がした。
「お腹空いた。なんか食べに行こう」
何かにケリをつけたような顔で、未架は明るく言った。
「え?何処かって、この辺何もないよ?」
「うん。だから、どっか行こうって」
「未架はこの後大学だろ?」
「それがさっき確認したら、休講になっててさ。この後がっつりフリーなわけよ」
未架ははっとした顔で誓を見上げた。
「誓は予定があった?」
「いや」
こういう時に駆け引きができれば楽しいのかもしれないという邪な思いも浮かぶけれど、結局のところ時間を持て余している。忙しくない自分がカレンダーの上に点在している。そこに色を付けてくれるのは専ら未架だった。
「よし。じゃ、まずは何を食べるかを決めよう」
中華街に行こうという話になったのは何故なのか、ついさっきの会話だというのにもう分からない。木漏れ日が風に合わせて揺れるのを感じながらだらだらと会話を続けていたら、目的地が横浜にある中華街に決まった。
「中華街に行ったことはある?」
空いている電車に並んで座る。
「横浜のはないよ。高校の修学旅行で長崎で行った」
未架は癖のように髪を指先で何度も梳きながら言った。
「修学旅行か」
「いい思い出じゃないけどね」
未架はネガティブととられることも隠さず口にする。そしてその口調に躊躇いがないので、内容よりも軽く受け入れることが出来た。
「旅行もそうだけど、好きじゃない人と一緒にいるってだけで、もう苦痛でしかない」
彼の発言が間違っているとは思わない。誰だって馬の合わない人はいるし、そういう人と共にいるのは苦痛である。ただ、その苦手だと思う人があまりに多いのは、未架の明確な欠点だろう。少なくとも、彼自身の選択肢を減らし、彼自身の余裕を奪っている。
短い付き合いの中で理解したのは、未架はかなり内向的な自己理論を持っていて、人を寄せ付けない部分には冷たい鋭さがあった。自分の安寧を壊そうとするものに対して、徹底的な拒否と残忍さを持っている。何処かに選民思想じみた身勝手さを身に纏い、奔放さと怜悧さと純粋さを三権分立の柱にしている。本来、従順さと要領のよさと狡猾さが世渡りが上手な人にはある。正反対の性質を持つ未架はこれからきっと何度も傷つき、ぶつかり、傷み続けるのだろう。
「もし誓と同じ教室で出会っていたら、違う未来があったかもな」
未架は呟くように言った。そこに確かな好意と愛情が込められていて、誓は恐ろしいほどの感情の揺れを自覚した。嫌われてはいないと思っていたけれど、ここまで真っ直ぐな好意を向けられているとは想定していなかった。
反対方面の電車とすれ違う。何も見えないままに確かにすれ違った電車の残像が、目の奥に残る。
「俺たちに同じ未来はありえないよ」
ひどく暗鬱な悪夢を思い出して、気持ちが冷めていく。
「もしその過去があったとすれば、今この瞬間は存在しないと思う」
未架がもっと過去を美しいものに変えたいと思っているのなら、変えようのない過去を持つ俺と分かり合うことは無かった。誓はそう続けたいところを飲み込んだ。その感情を口にしてしまえば、今の誓の幸福を守るために未架の過去の幸福は祈れないということまで告白しなければいけなくなる。
もしも誓と未架が同じものを同じ場所から見ようとすれば、未架を自分のいる場所まで引きずり降ろさなくちゃならない。どう頑張ったって、誓には未架の所まで登っていける階段がないのだから。
「ま、そうだね。出会った時が出会うべき時だったってことにしよう」
未架の声は明るく、誓は薄暗く考えていた現実に明るさを思い出した。暗闇にぱっとライトをつけることが出来るときには簡単に出来るように、ある日突然ピースが集まることがないと誰が言えよう。
「黒い服は日光を集めちゃうね」
未架はそう言って、自分の脚を前後に撫でていた。電車の座った位置が悪く、直射日光が全身に注いでいる。眩しいし、彼が言うように日に当たり続けている個所がじりじりと焼けてくる。一度目線を向けると、隣に座った未架の細すぎる脚から目が離せなくなった。自分の脚の隣にあると一層その細さが際立っていた。
「未架はそういう、すっきりとした服が似合うね」
緑のトップスは七分袖の厚手ニットになっていて、ゆったりとした袖口から信じられないくらい細い手首がのぞいている。手だけ見たら成長過程の子供のようだった。
「これも、実はレディース」
未架はあっけらかんとした口調だった。
「最近、ネットで服を買うことを覚えた。思っていたのと違ったりサイズが合ってないこともあるから本当は嫌なんだけど、背に腹はかえらんないって感じ」
「うちの服は、店舗に来てね」
「それは、勿論」
屈託ない笑顔で頷いたので、誓は安堵した。べつに店以外でも未架に会う手段などあるし、実際今だってこうして一緒に県を跨ごうとしているのだ。それでも、繋がりはいくつだってあった方がいい。
「未架はなんでレディース物が好きなの?」
電車がトンネルに入り、レールを走る音がこだまして会話が出来ないくらいに響いた。未架は咄嗟に耳を塞いで、顔を伏せた。キンとした音は確かに耳障りだった。トンネルを抜けて顔をあげた未架の表情は、乱れた髪に邪魔されて見えなかった。
「レディース着てるのって、やっぱりおかしい?」
たっぷり間を取ってから、未架はそう訊ねた。少し目線の高い誓に合わせようと顎を上げる姿は好戦的にも思え、でも瞳は不安げに揺れていた。他人を信用しない迷子みたいだった。自力じゃ何もできないと悟りながら、誰かに身を委ねられるほどオープンでもなく、途方にくれながら相手を味方にしたいという思いを隠せない子供の瞳。いつかの自分がこんな目で世界を見ていたのだろうかと、誓はぼんやりと考えた。
「おかしくないし、俺はむしろ好きだよ。似合ってるし」
誉め言葉は本心であるときの方が伝えにくい。誓の持っている言葉では、自分の持つ気持ちを完全に表現しきれないせいだ。そんなありふれた言葉で未架の魅力を制限したくないのに、誓にはそう言うのが精いっぱいだった。
「前にも名前の由来については言ったと思うんだけど」
未架は前を向いて切り出した。
「母親がちょっと少女趣味なんだよね。いい年しても花柄とかピンクとか好きなタイプでさ。だから女の子が生まれるって言われて大喜びだったんだって。名前だけじゃない、服とかベビーグッズとか、とにかく女の子の為に準備してたんだよ」
知らない話のはずなのに何故か妙に身近な気がしたのは何故だろう。親が子供が思うよりも自らの幼さをのぞかせている瞬間を振り返る度、誓は全身に悪寒と絶望を思い出す。
「お陰様で、俺は長い間母親の少女趣味に付き合わされる羽目になった。髪を長くさせられたり女の子みたいな服を着せられたりね。家中がファンシーなもので囲まれていたりして、ランドセルも薄いラベンダーだったんだ」
未架の手が服の裾をぎゅっと握り込んだ。小さな手を握り込むと、一層手が小さくなる。誓はなんだか見ていられなくなって、未架の手の甲を薬指でつついた。
この指先から何かを得られればいいのに。一瞬触れただけの指先にどんな思いを灯したところで、未架に届けようがないのだ。
三度未架に触れた指先を離したその時、未架の手が誓の指先を握り込んだ。温かい手のひらだった。誓はそこで初めて、自分の手が随分と冷えていたことに気が付いた。
「小学校に入るとさ、やっぱり揶揄われたわけよ。男のくせにみたいな揶揄い方なんて、何度されたかわからない。嫌だった。でも、今思うと、俺は母親の少女趣味そのものを嫌悪したことは一度もなかったんだ。家の中にピンクや花柄が溢れていることにも、自分の髪が長いことにも、ランドセルの淡いカラーにも、嫌だとも感じたことがなかったんだ。おかしいとも思わなかった。むしろかわいいって、ずっと思ってた」
「うん」
誓は先を促すように軽い相槌を打った。
「揶揄われるのだけが嫌だったんだ。小学生なんてそんなもんじゃん。自分が悪いことをしている気分にすらなってた。だから、持ち物をすべて男っぽく変えたんだよ。ランドセルも黒を買いなおしてもらった」
「ランドセルって高いよね」
二個目のランドセルという概念に、誓は軽い眩暈がした。
「父親が味方してくれたんだ。未架が嫌なら買ってあげるべきだって。もともとが母親の趣味で買ったランドセルだからね。父親はむしろ健全なほうに行っているって思ったんだと思う。持ち物とか服とかを、如何にも男の子っていうデザインを欲しがるようになって、内心安心してたんだよ」
手を繋いだまま、未架は誓を見て笑った。
「母親はもちろん、がっかりしてた。ときどきさ、母親をみていて気の毒になるんだ。女の方が良かったんだろうなって、そんなの母親の趣味を見ていればわかるし。医者に女の子ですよって言われたせいで、期待が高まっちゃったわけじゃん。男が生まれてショックだったんだろうね」
誓は何も言えずに俯いた。期待を裏切られた母親よりも、無駄な期待を背負わされた未架の方がどう見たって気の毒に思えた。
「こうなると、俺の中は天使と悪魔状態。さらに悪いことに、そのどちらにもパトロンがいるってわけだ。可愛いものを選べば母親が喜ぶ。男の子っぽいものを選べば、父親が金を出す。どちらも正しいことに思えて、混乱した。混乱している間に、両親の喧嘩が増えていったんだ。最終的には父親が出ていった」
未架の手に力が加わる。力を抜けとその手を解したいのに、彼の力が誓にそうさせなかった。
「お父さんとはそれ以来?」
「ううん。今一緒に暮らしているよ」
「うん?」
「出身は千葉なんだ。母親と高校卒業まで千葉で暮らしてて、大学進学を機に上京して、父の家に転がり込んだ」
窓の向こうに立つ高いビルがいくつも流れていく。人の多さは建物を高い場所へと誘う。人口にあわせて高い建物が建設されたというよりも、人の多さに耐えかねて地面が沈んでいっているみたいに思えた。
「これが、俺が女物が好きな理由かな。別にフリルがいいわけでも、ピンクとかリボンとかそういう女の子っぽいものを身につけたいとかいうわけじゃないんだ。ただ、レディースものを着こなしたいって欲がどうしても消せない」
それが母親から純粋な愛情を得ようとした結果だというのなら、未架はあまりに恐ろしいことを言っている。
でも、それを指摘にして何になるのだろう。そもそも未架は自分よりよっぽど賢くて、おそらくそれらの違和感はずっと抱えて懊悩してきたことだろう。そのうえで誓に話してくれた。
横浜駅で乗り換えだった。同じ名前の駅でも大きいと端から端までで大分距離がある。出口が分からずに右往左往していると、急ぎ足の人にぶつかりそうになる。忙しない駅だと思った。そんなの新宿や渋谷で慣れているつもりでいたが、本能的な部分がいつまで経っても都会のスピードに慣れない。
乗り換えた電車は想像よりもハイテクな車内をしていて、次の駅を案内する表示板に点滅するように切り替わる言語の多さに驚いた。英語ならともかく、その他言語の表示時間が長いと乗り慣れない身からすれば、自分がどこに向かっていないのかが分からなくて正直不便に思えた。
「誓は、結構いろんな服を着るね」
誓の着ていたシャツの長い袖を摘まむので、肘に未架の手が当たる。黒いインナーにカーキのシャツを合わせたのは、持っている服の中で未架が好みそうな服に寄せたからだ。派手なわけではないが拘りをのぞかせる未架の隣で無頓着すぎるのは気が引けた。
「拘りがないからね。店の決まりで新作を社割でいくつか買っているけど、それ以外は安物で誤魔化してる。今日も、トップスは最近買った新作だけど、下は何年も前から履いてる」
履いていたデニムは長年履き続けたせいで、逆に古着のような味が出ていたのではないかと思い始めている。
「自分のお店で全部揃えるとかはしないの?」
「染まりすぎる感じが苦手で、必ず別の店のものもいれるようにしている。同じブランドの服だけで全身揃えてそこのデザイナーとかポリシーに染まりすぎるのって、なんか癪だから」
お金がないからとはっきり言った方が、格好はつかないけれど嘘くさくはならない。少なくとも、誓の持つ微かな嫌悪感が染色という社会的行為にあるのだと自ら切り出す必要など、本当はない。なのに未架には何でも素直に言ってしまう。理解や共感して欲しいわけじゃなく、どっちみち彼には理解できないだろうし、ただ彼に対して嘘や誤魔化しを弄して関係性を紡いだとして、それが引き金となって失うことがあれば目も当てられないと思う。未来は信じていないし、未架を手に入れられるとも思ってないくせに、未架との終わりをどうにかして先延ばしにしたい。
「誓はマージナルマン気質ってことだね」
「マー…なんて?」
「マージナルマン」
のちに辞書を引いて、それが境界人を指す言葉だと知った。用語としては多義性を持つ言葉だったから未架がどこまで誓を見透かしていたのかは分からない。表面的な言葉に反応しただけにも思えたし、誓の出生の何かに勘付く鋭さは持っていたようにも思う。
中華街で降りてから、まずはふらふらと歩いてみることにした。立派な門を前に未架は歓声を上げ、写真を撮っていた。取ってあげようかというと、彼は首を振って、むしろ誓にカメラを向けて止める間もなくシャッターを切ったらしい。携帯をポケットに滑り込ませて誓の腕を引く未架に、誓は写真を消すように言うのを忘れた。初めて来た中華街は思ったよりも狭かった。もっと広々とした大通りなのかと思っていたが、狭い道の両端に小さなお店が所狭しと並んでいて、辺りに気を取られているとすぐに人にぶつかる。案の定未架は落ち着きなく歩き回り、誓は未架の斜め後ろから彼を見守った。平日にもかかわらず人が多く、観光地らしく日本人以外の姿も多くあった。あちこちから中華の香ばしい匂いがしてきて、朝ごはんのおにぎり以外口にしていなかった胃が直ぐに鳴った。
結局手ごろな定食の店で未架はエビチリを頼み、誓は八宝菜にした。
「エビって一番好き」
未架は嬉しそうにエビチリを食べ、一尾を誓の皿に寄越した。
「好きなら食べなよ」
驚いて言うと、彼は少し笑って、
「いや、なんか美味しかったから」
そういえば初めて家に来た時もあげたはずのクッキーを持ってきたなと懐かしいことを思い出した。
「じゃ、はい」
誓は未架の皿に、八宝菜のエビを渡す。
「交換で」
未架はにこりと笑って、ありがとうと言った。エビチリのエビには衣が付いていて、甘辛い味付けだった。先に食べると八宝菜は味が薄く感じた。
その後、またふらふらと入り組んだ道を歩いていると、手相占いの店を見た未架が、当たるのかなと言い出した。
「手相占い?」
誓は意味もなく自分の手を見つめる。至って普通の、少し乾燥気味の手のひら。未架はその手を取って、まじまじと見つめた。
「俺にも分かる。生命線、短くない?」
「うん。うち、短命な家系なんだ」
母親が今何処で何をしているのかは分からない。俺を足蹴にして幸せになんてなられてたまるかという思いと同時に、彼女の不幸は必ずどこかで誓が払うことになるのだ。
「見てもらおうか」
未架はそう言って店の方へと歩いて行く。
「占いとか信じるタイプ?」
「いや。血液型占いと星座占いは火あぶりにしたいくらい嫌い」
未架の言い分は時々本当に意味が分からない。
「でも、手相占いは統計学っていうだろ。少なくとも、手相は自分の持ち物の一つだからな」
意味も分からないし手相を見てもらうことに意味があるようにも思わなかったが、未架が楽しそうにしているので付き合うことにした。
細い階段を上がった二階の一室に案内され、恰幅のいい女性占い師にどのコースが希望かと言われた。タロットだの姓名判断などのさまざまなオプションを勧められて、エキゾチックな世界観の中にきっちりとした商売っ気を感じてしまい、誓は何となく敬遠する気持ちになった。
「あ、手相だけでいいです」
押し売りを断れないタイプかと勝手に思っていた未架だが、意外にもきっぱりと断りを入れて、会話を切り上げるように二人分の代金をさっさとトレイに出した。
「この前のクッキー分ね」
未架がそっと耳打ちをした。
「いや、あれはこの前のお菓子で十分だったでしょ」
「俺がほとんど食べたから」
実際、未架が買い込んだお菓子の山に誓は手を付けていなかったにもかかわらず、もうほとんど残っていない。小食に思っていた未架は何かといつも食べている性質で、一体その細い体の何処にカロリーをしまっているのかが不思議だった。
「ね」
未架の媚びるような目に押し切られ、誓は曖昧に頷いた。まあいい。これがまた新たな口実に出来そうだと考えれば、人前で押し問答をする必要もない。
担当してくれた占い師は四十代くらいの女性で、貫禄のある身体を白い布みたいな服に包んでいた。きっちりと塗られたファンデーションと口紅の存在感が強く、顔立ちはよくわからなかった。最初に誓の手を取りあれこれ説明をするのだけれど、どれも早口で聞き取れない。おまけに興味もないので、うんうんと適当に相槌を打つ。
「ここは結婚線。ちゃんとありますね。良い人と出会えますよ」
そう言って小指の下の当たりの線を指さした占い師に、誓は
「結婚するんですか?」
と問い返した。自分でも無茶な質問だと思ったし、向こうも面食らった表情になった。
「良い縁に恵まれるはずですよ」
彼女はやや表情を取り戻し、安心させるような口調で言った。それはまるで誓が、結婚できないかもしれないという不安を抱えていると考えている顔だった。
結局、手のひらを預けてあれこれアドバイスを受けた。基本的に悪いことは言わないので、仕事運はあるだとか人間関係にも恵まれるだとか、答え合わせのできない漠然とした言葉ばかりが浮遊していた。
次に手を出した未架は、何を占いたいかと聞かれ、仕事についてと迷いなく言った。
「来年就活があるんで、どんな仕事が向いているか教えてください」
真剣な未架の横顔に、誓は納得した。
未架は今大学三年生で、来年卒業になる。彼の将来はまだ可能性がたくさん広がっていて、何者にだってなれるのだ。憲法の上では命の価値は同じかもしれないけれど、可能性の幅は違うし、選択肢の数も違う。同じ土俵になんか立てない。
「満足した?」
帰りは横浜駅まで歩くことにした。中華街とはまた味の違う異国情緒のある街を歩きながら、誓は尋ねた。店を出てから、未架は度々自分の手を見つめている。
「うん」
センスがいいから営業に向いているとか何とか言われていた未架は嬉しそうだった。
「どんな仕事が向いているかを手相で知ろうなんて無茶だってわかってんだけどね」
内心で疑問に思っていたことを言われ、誓は押し黙った。
「真剣に相談しようと思っているんじゃなくて、選択肢の一つと知っておきたかったんだよね」
そういう未架から悲壮感が感じられた。
「自分ではどういう仕事が向いているとか、そういうのはないの?」
「全然。何もでき無さそうで嫌になる」
卑下をしているというよりも期待できないでいるという口調だった。普段は幸せそうな雰囲気を纏っている未架が時折見せる冷たさ。世界に絶望しているのではなく自分に絶望している、そんな薄暗い瞳。
「あれが赤レンガだね」
山下公園から一本に続いている大桟橋を抜けると、景色が一気に近代的になる。未架の指さした先には、有名な赤レンガ倉庫が夕日をバックにきちんと並んでいた。観光感覚で海沿いを歩くことにした。
「いい街だね」
少し低い手すりに寄り掛かって、未架は髪を手ですく。海沿いは風が強く、すいてもすいても靡くので、まるで何かの撮影でもしているみたいだった。
「千葉はどんなところ?」
「家はすごく都会の住宅地だったからね。ベッドタウンっていうの?何でもそろっていて生活には全く困んない。でも、何にも特徴がないって感じ。今もそんな感じだから、どっちで暮らしていても変わんないよ」
未架は履いているブーツのかかとを二度鳴らした。小気味のいい音がする。
「面白味はないかな」
「でも、いいな。都心で生活に不便しないってのは」
「北海道は?」
「北海道も、札幌の駅周辺とかなら生活に困ることはないと思うけど、うちは本当に田舎だった。不便も不便な田舎」
脅すような口調で言うと、彼は軽やかに笑った。風になびく髪に表情を隠されていても、彼の笑う雰囲気はよく伝わってくる。鮮やかな雰囲気のある人だ、と思った。背負った夕日で表情は見えなかったけれど、可愛らしい雰囲気を感じた。
うっかりラッシュの時間に乗り込んだ電車は言うまでもなく大混雑していて、身動きも会話もままならず、気を抜けば未架との間に知らない人のリュックが割り込む。人の波というものを東京に出てきて理解した。一人一人の人間は大した大きさに見えないけれど、群れると巨大勢力のように押し寄せてくる。隣ともいえないところにいる未架を見ると、彼は小柄な身体を人波に押しつぶされながら、何とか必死に踏ん張っている。誓自身も何とか人の隙間に立っているような状態で、携帯すら触ることができなかった。すっかり手持無沙汰になり、ふと思い出したように掌をみた。あるといわれた結婚線をなぞる。こんなものに振り回されてたまるかと淡い期待を打ち消して、ぐっと手を握りしめた。