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五章

彼は何をそんなに気に入ったのか、未架は誓の想像を超えるペースで遊びに来た。ほとんどが誓の家で一緒に時間を過ごし、そのうち数回は裏山へと散歩に出かけた。誓のシフトを共有しているため、彼は休みの前になると連絡を寄越してくることが増え、誓も未架の時間割や家庭教師のバイトのシフトに合わせて予定を組むようにしている。

いつだったかわからないけれど、未架は誓を自然に誓と呼ぶようになった。そしてそれは未架と呼ぶきっかけにもなった。

名前はただの記号だ。そうはいっても、名前を呼びあうのはやはりどこか親密さを感じさせる行為だった。苗字を呼び合うのは握手のように誰とでも出来るけれど、下の名前を呼ぶのは握手以上のことだった。すくなくとも誓は長らく、誓と呼ばれることから遠ざかっていた。

互いが意図的に相手に都合を合わせ予定を組むようになり会う頻度が友情の枠に収まらなくなってきたころ、誓の家に泊まりたいと彼が言い出した。断る理由もなかったので、誓は二つ返事で受け入れた。今までも家に遊びに来ることは何度もあったものの、泊りは初めてだった。そもそも未架は夜の解散は早めに切り出す方で、昼間だけ会うことも屡だった。

「家は大丈夫?」

 いつもより少し多い荷物をリュックに詰めている未架に尋ねると、彼は首を傾げた。

「大丈夫って?」

「門限とか?」

「そんなもんないよ」

「ないんだ」

「うん。帰ってこいって言われたことも、帰りが遅いって言われたこともない」

「へぇ」

 誓はてっきり箱入り息子で親から手厚く守られて育ってきたのだと思い込んでいたので、驚いてしまった。

 未架はリュックからDVDを取り出した。

「ね。今日、これ見よう」

 未架から渡されたパッケージのタイトルは知らない物だった。ただ、印刷された写真やタイトルから、海外の恋愛ものだということはわかった。

「見たことはあるの?」

「うん。お気に入りだから」

 未架は気に入ったものを繰り返す習性があり、一度好きだと思うと飽きるまでそれを繰り返すのだという。

「飽きるまで?」

「うん。服にしてもお菓子にしても本にしても、小さなマイブームが常に一個ある感じ」

 未架の拘りの強い感じや極端な潔癖性の理由がなんとなくわかった気がして、誓は曖昧に頷いた。

「じゃ、ご飯の後に見ようか。そこのラックにでも置いておいて」

 誓は立ち上がって、冷蔵庫からお茶のペットボトルを出す。一人の時は水出しの麦茶が定番となっているが、彼にどんな顔で水道水で煮出した徳用の麦茶を出せばいいのかわからない。未架が来るときはペットボトルの紅茶やジュースを出すようにしている。

 グラスに注いでいると、リビングの方で缶がフローリングに落ちる甲高い音と未架の甲高い悲鳴が響いた。

「ごめん、なんか落とした」

 未架は気まずそうな顔で床に散らばった手紙をかき集めていた。

「あぁ、それ、俺もよく落とす。大丈夫、気にしないで」

 誓もしゃがんで未架から渡される手紙を缶に戻す作業を手伝った。缶の蓋は少し緩く、落とすと中身が四方に広がってしまう。

「にしても、凄い量だね」

 全てを拾い集めてから、未架が遠慮がちに言った。いつも同じ茶封筒に入れられたいくつもの手紙は、束になるとちょっとした存在感があった。

「うん。北海道の祖母がしょっちゅう送ってくるんだ」

「おばあちゃんが?」

「うん」

「気にかけてくれるなんていいおばあちゃんだね」

 未架の言葉選びからは誓を気にかけている面と、誓に気を遣わせまいとする面の両方が窺える。祖母の愛情深さは一緒に暮らす中で驚くほど鮮やかであることは知っていた。だからこそ、その性質が母親に全く伝わっていなかったことが悲しい。

「未架」

 しゃがみ込んでいると視線はほぼ同じ高さにある。戸惑いながら視線を絡めてきた未架の方に手を伸ばし、その仕草の途中で我に返った。自分は何をしようとしたのだろうと冷静になって、誓は自分自身が信じられなかった。

「誓?」

 未架に名前を呼ばれて、誓は中途半端に伸ばした手のやり場に困り、彼の肩にそっと触れた。

「ゴミが付いてる」

 肩の部分についていた糸くずをわざとらしく持ち上げてその場を濁す。

「ありがと」

 なにも疑わない笑顔に、誓は恐ろしさすら感じた。

 欲しいと思ったものはたくさんある。

でも、それらを手に入れようと思ったことなんてなかった。それがいいものであればある程、自分なんかの手には負えないとわかっている。守られた経験などほとんどないから、守り方もわからない。愛された実感がないから、愛し方もわからない。欲しいと思っても、それに伴う責任が何一つとれそうにない。

 パッケージからして苦手そうだと思っていた通り、未架が持ってきた映画は全くもってつまらなかった。つまらないという言い方は無論誓にとってというだけで、隣の未架はいつもの軽口なくじっとテレビを見つめている。誓は退屈に感じながらもこの映画に未架の趣味嗜好が隠されているのではないかと思うと興味をひかれたのも事実で、でもやっぱり途中で睡魔に襲われた。

「誓」

 未架に揺り起こされて目が覚めると、さっきまで電気を落としていた室内に煌々と蛍光灯の明かりが広がっていた。

「結構序盤で寝たでしょ」

 ほほに空気をためて呆れた顔の未架に、誓は

「電気消す方が悪い」

 と文句を言う。

「俺は普段映画を見るとき、電気は消す派なんだ」

 胸を張って言う未架に、誓は呆れた。

「目が悪くなるぞ」

「元からよくないもん」

 未架はコンタクトをしているという。じっと瞳をのぞき込むと、確かに青白いコンタクトが黒目を縁取っていた。

「うちさ、母親が結構厳しい人だったから、夜は早く寝ろって言われてたんだ。でも、俺、めっちゃ夜型でさ。布団入って電気消して目を閉じても、全然眠れないの」

「俺は寝つきいいからその感覚は無いな」

「メールもすぐ寝落ちするもんね」

 未架は口元に手を当てて笑った。

「眠れない夜って、結構辛いんだよ」

「うん」

 誓は同意はせずに頷いた。

 誓にだって眠れない夜の一つや二つはあった。このまま夜の闇に溶けてしまいたいと、明日が来ないで欲しいと思ったことだってある。ただ、その闇の深さや重たさや頻度を比較し合うのは健全ではないし、誓がそれをもちだすことで未架の告白が台無しになるのを恐れた。人間とは不思議なもので、抱えていたものを預ける先は可能な限り無垢なものであって欲しいのだ。自分を客観的に見ようとする人に、第三者は傍観者である必要があり、同じ悲しみも同じ喜びも、同等に話の腰を折る。共感という行為が必ずしも相手に好印象を与えるとは限らないのだ。

「そういう日は、何か他のことがしたくなる。でも電気を消さないと母親が煩い。だから、部屋で隠れて映画を見ていたんだ」

 この映画を辛い夜に見る未架を想像する。それは途方もなく遠い世界の出来事に思えた。少なくとも触れられる距離にはない。

「辛い夜はこういう幸せな映画を見る方がいいの」

「悲しい時は悲しいものを見て泣くとかっていう人もいるけど、そっちではないの?」

 自分のために泣けない夜に、泣ける映画や小説によって感情を浄化させる方法を聞いたことがある。誓が何気なく言った言葉に、未架は手入れされた眉をひそめた。

「自分より悲しいものを見て、どんな感情になればいいの?自分の方が幸せだっていう再確認?それとも意固地に不幸自慢でもするの?」

 未架は酷く真剣な目で問うてきた。

「いや、それはわかんないけど…」

 一般論を持ち出したつもりだったので、誓は言葉に詰まってしまった。

「冷静じゃない時に他人の不幸に触れると、結局自分を嫌いになる」

 未架の眉間に嫌悪感に似たしわが寄る。余計なことを言ったと自覚したときにはすでに遅かった。未架は引っ掛かりを覚えると納得できるまで他人を問い詰めるような悪癖を持っていると薄々感づいていたのに、中途半端な一般論を持ち出してせいでは話をややこしくしてしまった。

「俺も泣ける映画ってのは苦手だからさ」

 誓は未架の真剣さを前に、白状する。そもそも作り物のお話自体が好きじゃないのだ。泣ける、というのはつまり感動やら悲しみを意図的に作り出すということで、そんなものに心を許したくなかった。

「未架は感受性が強そうだから。映画とか見ると直ぐに泣いてそうに思えたんだ」

 心を開かない性格のくせに、一度心を許した後の距離の詰め方や信じたものへの傾倒の仕方を見ていると、未架は何処か不安定さがあって、その根本は彼の感情のふり幅の大きさにあると誓には思えた。

 未架の感情は本当に複雑で、かつバリエーションに富んでいた。驚くほど単純な時と、辟易とするほど面倒くさい時の差が広く、優しく穏やかな青年と思わされる時と衝動的で手に負えないと思える時の差も酷かった。そして一番の問題は、それを隠せずに全ての感情を表情態度で表してしまうところだ。

 とはいえ、彼の思考回路自体は決して複雑ではなかった。ある意味素直で純粋で単純であることには変わらず、それが妙な方向にも力を発揮すると、考えが彷徨い、出口を見失ってしまう。例えば未架はこの世のすべての人間に正義感が通用すると思っていたし、心の何処かで性善説を支持していた。そのくせこの世の楽天性を信じずに、救いの無さを理解するだけの賢さも持っていた。平和や平等に対して広い心を持ちながら、彼の許容範囲を超える悪意や非常識に対しては容赦がなかった。

「俺ってそんなに泣きそうに見られているの?」

 心外だと言いたげな未架に、誓は呆れた。

「まぁ、イメージはあるよね」

 映画に限らず、小説やテレビにも気持ちを持っていかれている場面はよく目にしているし、それを隠せていると本気で思っている視野の狭さには唖然とするけれど、愛しさも感じる。

「よく見てるね」

 未架に指摘され、今度は誓が慌てた。

「見てなくてもわかるだろ」

 ムキになって言い返すけれど、その態度に未架は余裕のある笑顔を返しただけだった。

「映画、つまらなかった?」

 DVDをケースに戻しながら未架が尋ねた。

「共感しにくかったかな。身分違いの恋とか、女の方に既に婚約者がいるとか、それを打破して結婚するハッピーエンドとか、わりに展開が読めちゃったから」

 誓は言葉を選びながら、正直に話した。綺麗な主人公の女性が寄せられる好意よりも自分の心に正直な恋愛をする姿は、傍観しているだけでこちらが疲れてしまった。愛される権利を捨てて他の愛を得ようと飛び出してしまう主人公を見ていると、愛情にしてもお金にしても、ある人の所にばかり集まる物なのだと気が付いた。愛情に恵まれた人は愛情を惜しみなく配れるから、また新たな愛情に巡り合える。

「俺は恋愛をそんなに重要視できない」

 重要視できないし、なくたっていい。抱えた愛情が愛情のままでいてくれればどれ程いいだろうと思う。

「俺もだよ」

 未架は映画中に飲んでいたコーラの残りを流し込み、気が抜けていると呟いた。

「こんなの半分は略奪婚だし。本当に自分勝手な主人公だと思う」

 でもさと、未架はつづけた。

「それくらい好きでほしくて大事な人がいてそれを手に入れるために全部投げ捨てるんだよ。そのバイタリティとかメンタルがいっそ清々しい気がするんだよね」

「バイタリティとメンタル、ね」

 横文字を多用することで会話の内容を少しばかり高尚なものにしたつもりなら、それは思い違いだった。誓にはそこまでの学はないので、会話が浮遊して掴みどころが無くなるだけだ。

「この世に欲しい物なんかたくさんあったけど、結局何かを言い訳にして諦めてきた自分に気付かされる」

 未架は唇を舐めた。

「誰かの理想になりたいって思いがどうしても抜けない。自分の思いよりも他人の思いを自分に重ねたくなる」

「ねぇ、未架」

「うん?」

 未架は少し虚ろな瞳で誓を見た。寝起きみたいだったし、寝落ちる寸前みたいでもあった。意志の強そうないつもの瞳とはかけはなれていて、それは誓までをも不安にさせた。

「なんで俺に声をかけた?」

「なんでって?」

 細い声はそれでも凛とした響きがあった。声の綺麗な人だ、と思う。柔らかいというよりもひんやりとしているのだけれど、それは突き放すような冷たさと違って、雪の独立した玲瓏さを思い出させる冷たさを含んでいた。

「どちらかと言えば、俺が店で声をかけてた時は無視してただろ。なのになんであの日、そっちから声をかけたんだ」

 いつか聞こうと思っていた。でも、こんな風に問い詰めるように聞くつもりなんてなかった。

 未架は唇を歪めるように笑った。そんなことをもわからないのかと言いたげなその表情には、まぎれもない優性思想が現れていた。

「誓は、俺がなりたいと思っている俺を支持してくれそうだったから」

 未架の口調は浮遊するように身勝手だった。

「あなた、俺のこと凄く好きそうだった」

「え?」

「俺みたいに他人に舐められやすいタイプはね、他人がどういう思いを向けているのかわりにすぐわかるんだ」

「舐められやすいって」

「なんとなくわかるでしょ。大人しそうで意志の弱そうな感じがして、都合よさそうでしょ」

 なんてことを言うのだと言いたくなる思い以上に、そういう軽視の態度を受け続けた未架に対して、言葉を失う。他人が自分を軽んじているときの態度、視線、言動。確かにそれらは陰湿で軽薄で、そしてとてもわかりやすい。

 未架がそそっと誓の隣に移動し、背中に背中を合わせてきた。背中合わせ。見えていない分、未架の体温を強く感じた。

「何してんの」

 未架はそれには答えず、誓の方へと体重をかけてくる。重くはないが、強く推されて前につんのめりそうになった。

「未架」

「店に行くとさ、どんな店でもね。店員にいつも、カモっぽい扱いされるの。服とか靴とか店員が寄ってくるとさ、こいつは簡単に買いそうだって顔をされるわけ。で、頼んでもいないのにあれこれ持ってきて押し売りされる。あれがもう苦手でさぁ」

 過去の自分の行いを思わず振り返ってしまう。やはり、あの手の押し売りは客に見抜かれている。うまくいったところで、何処かで虚しさを覚えるものだ。

「でも、あのときの誓にはそういう態度が一切なかった。むしろ、俺の意図を汲もうとしてたよね。あの態度見たときに、この人は俺を軽く見ないんだってなんかすごく嬉しかったんだ」

 指摘されて驚いた。全くそんなことを意識したつもりはなかったし、そういう人間になろうとしたつもりもなかった。思い当たる節があるとすれば、誓自身も似たような思いがあったからかもしれない。

 親がいないということ。厳しい経済状況にあること。恵まれない幾つかの条件を揃えていた誓も、その類の軽視にいくつも出会ってきた。同情をアクセサリーにしようとする汚い正義感だとか、道徳を免罪符にすれば何にでも土足で踏み込む権利があるという勘違いにだって、うんざりするし苛立ちも覚える。

「あの公園で出会ったのは本当にただの偶然だよ。でも、あのとき、この人に声をかけなきゃ後悔するとおもった。珍しく俺の勘が当たった」

「普段は当たらない勘なの?」

 茶化すように言えば、彼は大まじめな声で、

「本当に当たらない。悉く後悔してきた」

 それはその選択自体が間違いだったわけじゃなくて、彼が自分自身を信じ切れていない迷い故の思い込みだろうと思ったが、それを指摘するわけにはいかずに飲み込んだ。迷いは時に大きな足かせになるけれど、安易な発想でただ前に進んでいくだけの未架を見たいとは思えなかった。

「誓」

「なに?」

「ありがとう」

 未架は静かに言った。感情の読めない口調に思わず振り返りたい気持ちを、何とかして収めた。わざわざ背中合わせにした理由は、この妙に素直な告白の為だったのだ。

 背中合わせはこの世で一番近くて遠い。未架の確かな体温を背負いながら、しかし彼の表情も視線も何もわからない。地球を一周分離れた場所にいる未架に出会うために、このまま真っ直ぐに歩き出したとしたら、次に俺たちが出会うのは地球の真裏ということになる。そんな空想も、確かに出来る気がした。地球の裏側に行ったとしてもちゃんと未架に出会える気がした。探し出せる気がした。

未架の背中がもぞもぞと動き、言葉なく訴えかけるようにのしかかってくる。誓は背中を預けているのか貸しているのか、よくわからない気分だった。



 六月になると雨の日が段々と増え始め、梅雨が早く明けて欲しいという気持ちと東京の夏は好きじゃないという気持ちが拮抗して、感じる心を失ってしまう。誓は意識的に重たい感情を排除している。こうしたいとかこうなりたいとかこうしないとだめだという強靭な感情を遠ざけることで、なるようにしかならない日常をただ受け流し続けている。天気は、そのなかでもとりわけどうにもならないものだと思っている。天気について心を乱されるのが嫌で考えないようにするけれど、でもこの雨粒が窓を打っている間は何処にも行けないことへの大義名分になる気がした。

 あれ以来清水からの連絡はなったのだが、顔を合わせる度に石田からどうしたいかと尋ねられる。

昼休憩中、バックヤードで持ってきたおにぎりをかじっていると、コンビニの袋を手に持った石田が近づいてきた。案の定、清水さんと連絡しているかと聞いてきた。

「俺には彼女はレベルが高すぎるでしょ」

 誓はいつも同じ言葉で返していた。言い訳として角が立たないし、本音でもあった。誓には清水は上品すぎるし、可愛らしすぎた。

「でも、あっちがヒロに興味があるんだから、そこはクリアしてるでしょ?」

なにより、価値観がまるで違うのを言葉の端々や仕草に感じ取り、誓にとっては最早関わりたくない相手ですらあったのだ。綺麗で可愛らしい女の子に対する羨望の気持ちを、卑屈さ抜きで持ち続けることなど出来るわけがない。

ただ、それを石田に説明するつもりはなった。彼自身も清水側だから、おそらく誓の思いを汲むことは出来ないだろう。万が一できたとしても、それはそれで癪だった。

「そっちはうまくいったんでしょ?」

 誓は面倒になり、話題を逸らす。

「お陰様で」

 石田は目じりを下げて、如何にも幸せですという顔をした。それに対して嫌悪感を抱かいのは何故だろうかと考えて、そうか一度だって味わったことのない幸せなんて、別にどうでもいいのだと思った。どこかの国の誰かが、虫やウサギやハトを食べているとは知っているけれど、この国の誰が羨ましがるだろう。求めていないものに嫉妬はしない。欲しいとも思わない。消極的な感情に戸惑うことはあるけれど、欲がないことを恥じる必要などおそらくない。

「なら、もう俺を担ぎ出すこともないだろ」

「そこはほら、女の子たちの友情への忖度だよ」

 要するに、可愛い女の子二人組の彼氏事情に抜け駆けは無しということらしい。

「大丈夫だよ。同じレベルの男を直ぐに捕まえられるよ。彼女なら」

 清水の纏っていた雰囲気、醸し出す多幸感、溢れ出す可愛らしさ。それらの魅力を欲する男などいくらでもいるだろう。なにより、彼女の期待に応えきれる男。

「なんでそこまで嫌がるの?」

 石田は不思議そうな顔で首を傾げた。

「もしかして、ヒロ。本命がいる感じ?」

 何かを思いついたという顔になった石田に、誓はふっと笑いがこみ上げてきた。心臓を直接くすぐられたみたいに、ぞくぞくとする感情が湧いてきた。

「そうかもしれない」

 誓は話題を変えたいというその場凌ぎの感情で適当に答えた。そして本当にそうだったらどれほどいいだろうと考えた。

 その日の帰り、シフト終わりの帰り道に大雨にうたれた。起きたときから降り続いた雨が、室内で外の天気を見ていない間に土砂降りに変わっていたのだ。

「梅雨の時期はしとしとと降るイメージだけど、これは酷いな」

 一緒に建物から出た店長はそう言って、大きな黒い傘を広げた。

「送ろうか?」

 彼は車通勤で、職員用の駐車場を使っている。最後の締めまでシフトが入っているときは店長は必ず誘ってくれるのだが、誓はいつも断っている。あの粗末なアパートまで送ってもらう気にはなれないし、そんなことをしたらきっとお互いへの感情が崩れるだろう。あくまで店長との関係は上司と部下で終わらせたい。それは店長を拒否したいからではなく、むしろ変に気を遣わずにいてくれる姿に助けられているからだ。

 家庭環境の複雑だった誓は、それを知った大人のべったりとした優しさが好きではなかった。意識的にさしだれた優しさはまるで常温のチョコレートを口の中で溶かすみたいで、べたつく味と匂いがいつまでも口に残る。気遣われることのすべてを否定したいわけじゃないけれどスポイルされたいわけじゃないし、頼れる大人は必要だったけれど寄り掛かれる先は必要としていなかった。

「気をつけてな」

 店長は断れるとわかっていた顔で頷き、誓たちは別れた。

 駅までの道は僅か数分であるにも関わらず、道の至るところにできた水たまりのせいで直ぐに靴の中までじっとりと濡れる感覚があった。

 誰かを想う感情というのは、何処のラインを越えたら恋愛感情になるのだろうか。自分に恋愛という行事がまるで結びつかないことを、誓はこの頃ひどく意識してしまう。

誰かと親密な関係になる必要性を感じないし、そうすることで失いえる存在になってしまうのは困る。誓にとって恋愛とは壮大な景色を目の前にするのと似ていて、あくまで眺めるものなのだ。景色や歴史的な建物や美術品を自分の物にしたいわけじゃない。そうしようなどと考えたこともない。でも、天災や人災で失われたこの世の財産に対する途方のない感情は誓の中にも確かにあって、恋愛とはその類のものに思えた。

雨は思いの外冷たく、一粒一粒が重たく傘を叩いた。それでも、その重さ故か真っ直ぐに落ちてくる雨粒は規則的で、外気の冷たさに晒されながらも妙に閉塞的な気分だった。この小さな傘の中が安全地帯だとして、静かにゆっくりと歩くことでしか、この冷たさから逃れる方法がないと言われているようだった。

 恋愛に対する思いと同時に、女性性への嫌悪を自覚している。それは性差としての女性ではなく、恋愛というフィールドで女を演じている女を見ると、子供の時の記憶が蘇ってしまうからだった。母親の、女としての姿を見過ぎてしまった。そして、最後に母親としてではなく女として生きていく決断を下され、誓は切り捨てられた。列車から切り離された車両は自力では動けない。誓の魂はあの夏からずっと同じところで光を失ったままだ。記憶というのは遅効性の毒薬みたいなもので、その時は何も感じなかったような経験が、いつかの痛みに変わってしまう。一度得た痛みは知り尽くした痛みであり、真っ新な記憶には戻らない。

 こんな冷たい雨の日は皆足早に帰っていく。駅前に人は少なかった。傘をもっていた手が信じられないくらい冷えてかじかみ、傘を畳むのに苦労した。

 雨に濡れているときは自分が濡れていると感じにくい。早く帰ろうと逸る気持ちと、懸命に急ぐ身体が噛み合っているせいだろう。すいている電車に乗り込んで窓に映った自分を見ると、裾は泥跳ねで汚れているし、肩にかけていた鞄には水滴がついて湿っている。思いのほかボロボロの自分を見て、もの悲しさを覚える。無意識に自分のことがおざなりになるのは、自分をじっくりと理解することから遠ざかっているからかもしれない。大人になってから身に起こる変化は大抵悪いことの方が多くて、知りたいと思わなくなり、知ろうとしなければ気付けない変化によって、いつしか取り返しがつかなくなる。

 俯いた先に泥と落ち葉に汚れたスニーカーを見つめて、誓は小さくため息をこぼした。





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