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四章

連絡先を交換してから三日間は、特に変化はなかった。誓は三連勤で体力を削られ、久々の日曜日の休みをしかし予定もなく、すこしばかりの寝坊をした。目覚まし時計に起こされてうつらうつらしながら、カーテンと床の隙間から反射する日差しから逃れようと布団にもぐり直した。三十分ほどの寝坊をしてから起き上がり、カーテンを開けた。覚悟していたよりもまばゆい日差しを浴び、反射的に目を閉じた。薄い瞼を超えて感じる光に、気分が鬱々とするのがわかった。

 洗濯機の回る音だけが響く部屋で、誓は今日は何をしようかと考えた。日曜日の休みは好きじゃなかった。世界の何処に行っても幸せそうな人しかいないし、だからと言って家にいるのも惨めな気がしてくる。クリスマスも正月も誕生日も、回避できない忙殺に従事している方が心が死ななくて済む。

 朝ごはんにいつもと同じようにおにぎりをレンジで温め、掃除機をかけながらそれを食べた。行儀が悪いとは思ったけれど、家の中で行儀よくするメリットも特にない。掃除機を押し入れに閉まって部屋に戻ると、携帯電話に通知が来ていた。通知や連絡の少なさとは対照的に、誓は仕事中以外は携帯電話を手放さない。祖母からの連絡があったときに必ず電話を取りたいからだった。

 連絡は未架からだった。差出人の名前を見た瞬間、寒気と発汗を同時に身体に感じた。挨拶もそこそこに、いつ空いているかと短い文で問うてくる。直近の休みを調べてメッセージを送ると、電話がかかってきた。誓は大きく深呼吸してから通話ボタンを押す。

「今、仕事中?」

 彼の声はひんやりと甘い、砂糖菓子のようだった。声変わりを忘れたみたいな高さでわりにはきはきとしゃべるから、凛とした響きがある。

 まさかと返すと、だよねと返ってきた。

「じゃ、デート?」

「だから、あの日もデートじゃないんだって」

「うん、そうだよね。彼女がいるのに自分に気がある女と会うようなタイプには見えないもん」

 いったいこの人は何が言いたいんだと、誓は気圧される。勢いのあるタイプに見えなかったが、彼はかなり突っ走るタイプらしい。

「暇だったりする?」

「まぁ、暇と言えば暇かな」

 強がって少し含みを持たせる。暇だときっぱり言えるのは、暇じゃないときを持つ人間の言葉だと思う。田舎から出てきた青年に日曜日の東京は使いこなせなかった。

「じゃぁ、そっち行くから会えない?」

 聞けば、大学に行く用事があるのだという。

「ただ、日曜日は食堂がやってないんだ」

 未架は残念そうに言った。

「じゃぁ、うちに来る?」

「いいの?」

 誓自身も社交辞令で言い未架もそう受け取っていた事案が現実になろうとして、お互い探り探りだった。思えば、つい最近まで他人だった相手にこんなにも近しさを感じている自分が不思議だった。

「洗濯物干してるけど」

「今日、天気いいもんな」

 言葉につられて、窓の向こうに目をやる。見たことがないような空にもありふれた空にも思える景色が広がっていた。

「じゃぁ、お邪魔する。お土産は何がいい?昼飯でも買っていこうか?」

「あ、それいいな」

 ついさっき朝食を食べたばかりということは頭になかった。

「何喰いたい?」

「キミのセンスに任せるよ」

 誓の冗談に、未架はくすりと笑った。

「了解。ちなみに、大食漢だったりする?」

「え?」

「大食漢。大食いってこと」

「人並みだと思います」

「良かったです」

 アパートの住所を目印伝いに伝える。

「あぁ、そのアパートなら見たことあるかも。本当にあの山の真後ろなんだね」

通話を終えてから、さっき着替えたばかりの部屋着を脱いでクローゼットを開けた。代り映えしないまでも、よそ行きの格好に整えなければならない気がした。

あれだけ鮮やかに誘い出したというのに、今更になって緊張で落ち着かなくなってきた。彼に会えるのだという高揚感でいっぱいになりながら、そのくせ約束がなくなればいいのにという億劫さも感じる。彼を待つ時間の長いことといったら、職場で暇なときにひっきりなしに時計を見ているときと同じ気分だった。誓はさっき掃除機をかけたばかりの床を磨いた後、ウエットティッシュで家具という家具を無心になって拭いた。無心にならないと煩悩ばかりで、何も捗らなかった。汚れているとは思わなかった机やドア、キッチン台を拭いたティッシュに色がついていて、誓は慌てて片っ端からウエットティッシュで磨いた。数少ない持ち物をしまっているスチールラックの一本一本を磨いていると、隙間に一通の手紙が落ちていた。普段貰った手紙をおかきの入っていた大きな缶にしまっているのが、先日の祖母からの手紙をしまうときに手を滑らせて缶ごとひっくり返してしまったのだ。そのときに落ちたものだろうと指先でつまみ上げてみると、白地にクローバーのデザインの散らばった封筒だった。誓はそれを缶に戻した。

 床に膝をついて夢中で掃除をしていると、家のインターホンが鳴った。

「よ」

 大きな荷物を持った未架はお使い帰りのようで、誓は思わず手を伸ばして荷物を受け取った。

「こんなに荷物あるなら呼んでよ」

 まるで祖母に言っているみたいだ。誓はビニール袋が手に食い込む感覚に驚きながら、一体何を買ったのかと袋を覗き込む。

「いやぁ、何も考えずに買ったら、こうなるよね」

 未架は重たかったとこぼし、ビニール袋から二リットルのコーラを取り出した。

「コップ借りてもいい?」

 グラスを一つ渡すと、彼はきょとんとした。

「え、飲むよね?」

 二つ渡せと催促されたのだと気付き、誓はもう一つグラスを渡した。

「あー、生き返る。外、死ぬほど暑かったよ」

 そういう未架の額にはうっすらと汗がにじんでいて、前髪が乱れて張り付いている。

「着る服を間違えた」

 未架はスキニーデニムに黒のシャツを合わせ、更に黒のロングカーディガンを羽織っていた。このファッションは確かに陽の光をたくさん集めただろう。

「ハンガーあるよ」

 クローゼットからハンガーを取り出すと、彼は躊躇なく脱いだカーディガンを預けてきた。受け取ってハンガーにかけると、彼の付けている香水が強く香った。

「で、なんでこんなに大荷物?」

「お菓子とか飲み物とかを買い込んだからね」

 そう言って、彼はローテーブルに袋の中身を広げ始めた。誓が食事をするときに使っている、木製の折り畳み式のローテーブルは真四角でそんなに大きくはないが、存在感があって気に入っている。その上に次から次へとお菓子やらジュースやらお惣菜やらが取り出される。

「ちょっと買い過ぎじゃない?」

 ポテトチップスの下敷きになっていたレシートを引っ張り出して値段を見てから、この関係は今日で清算済みになりそうだと思った。

「だって、駅前のスーパーなんて、大学に行く前には寄れないだろ。お菓子なんて結構持つし」

 そこまで言ってから、彼ははっとした表情でこちらを見た。

「もしかして、お菓子全般が食べられない?」

「いや、そんなことないよ」

 誓は頭を振ってこたえた。

「むしろ、結構好き」

 お菓子の山から滑り落ちた箱入りのチョコレートをあけて、一つ口に入れる。べったりとした甘さが口に広がってきた。

 金銭的に厳しいとお菓子は贅沢品になる。当然と言えば当然のことで、チョコレートやポテトチップスをお腹いっぱいに食べたいという願いは子供の頃に何度も抱いた。今の金銭状況ならば不可能ではないが、いざやるとなると妙に覚悟が必要な気がしてきて、実現していない。何にも遠慮せずただお菓子を抱えて食べる自分を想像しても、幸せになれそうな気がしなかったのだ。長きにわたって抱き続けた欲望を現実に押し出すことで、輝きを失ってしまうのが怖かった。

「じゃ、俺がいないときも、食っていいよ」

 未架の言い分をきくところ、彼はこれらのお菓子をこの先分割で食べるつもりということらしい。

 未架の好みはわかりやすかった。買ってきたお惣菜やファストフードやお菓子はどれも味の濃いものばかりで、食べている傍から喉が渇く。コーラを間に挟むんだところで喉の渇きは収まらなかった。

「冷凍のピザってうまいな」

 薄いピザを割りばしで一口ずつ口に運ぶ姿は上品だが、口に詰め込む姿はリスやハムスターのような小動物にみえた。よく頬がそこまで膨らむものだ。

「いつもこんな食事なの?」

 だとすれば中々に乱れた食生活だと思い尋ねると、彼は首を横に振った。口に詰め込み過ぎて、話せなかったのだ。

「こういう食事が好きなの?」

 誓は重ねて尋ねると、今度は肩をすくめてみせた。

「別に。ただ、母親がこういうのをあまり好まない人だったから。悪いことしてる気がして楽しいだけ」

 それだけ言うと、彼はポテトに手を伸ばした。深く追及されることを拒むような目線のそらし方をするので誓はそれ以上は聞かずにおいた。

ハイカロリーの食べ物は食べ始めてすぐに満腹感をもたらした。それでもだらだらと惰性で食べ続けるていると、そこに幸福がある気がした。

「あ」

 ふいに何かを思い出したように未架はリュックから荷物を取り出した。

「これ」

 清水からもらったクッキーだった。

「え、持ってきたの?」

「うん。開けてみたらあまりに素敵だったから、あなたにも見てほしくて」

促されて缶を開ける。ファンシーなデザインと同様に箱の中に所狭しと並べられたクッキーはかわいらしいピンクや黄色のアイシングに縁どられていた。隙間を埋めるように入れられたメレンゲや金平糖もカラフルな色をしている。女の子の宝箱を開けたみたいだった。

「なんか食べるのがもったいない気分になるでしょ」

 彼は嬉しそうに言うけれど、クッキーなのだから食べなきゃしょうがないのではと考えてしまった。

「どれから食べる?」

 好奇心を抑えられない顔で聞かれ、あまりに嬉しそうなので誓は笑った。

「そんなに気になってたなら、家で食べてよかったんだよ」

「そういうわけにもいかないじゃん。こんなにかわいいんだから、見せたかった」

 彼は悩みに悩んで、小さな星の形をしたクッキーをつまんだ。それを食べて、やたらと感動している。食べなよと促されて誓も同じものを食べた。さすがに高級なお菓子らしく、しっかりとしたバターの風味があった。美味しいと言うと、誓の反応をうかがっていた彼は嬉しそうに笑った。

「ピアス、似合うね」

 缶をのぞき込んでいる彼の横顔を眺めていると、長めの髪が前に落ちて形のいい耳たぶに金色のピアスが輝いているのが見えた。

「あぁ。つい最近あけた」

 彼は耳に左手を添えた。手も顔も小さいので、小さめのピアスでも十分に存在感があった。

「でも、服を脱ぐときなんかにひっかけて、直ぐに落としそうになるんだ」

 彼は困ったように笑った。手のひらで耳を包むような仕草をする。

「母親がよくそれを言ってたな。だから高価なものはつけられないって」

 誓は懐かしさに目を伏せる。時折母親のことを思い出す。寂しさや悲しさは大分薄れ記憶の住人になりつつあるけれど、ふとした時に母親の存在を意識してしまう。

「俺もそうしたいのはやまやまなんだけど、金属アレルギーがあってね。安物を付けると真っ赤に腫れるんだ」

「なんでわざわざあけたの?」

「ピアスってさ、自分では見えないアクセサリーなんだよね」

「確かに」

 ネックレスや指環などは、見ようと思えば自分でも見ることができる。でも、ピアスは見えない。自分の耳を鏡越しにならともかく、直接見ることは不可能だろう。

「なんかそれって、すごくお洒落って感じしない?」

 未架は同意を求めるように輝いた瞳をこちらに向けてくるけれど、誓は理解ができずに戸惑った。その姿を笑ってから、未架は続けた。

「お洒落なんて自己満足なのに、他人にどう見えているのかを意識するだけのアクセサリーを付けるという倒錯が好きなんだよね」

 彼はにこやかにそういうと、コーラをグラスに注いだ。誓にもいるかと尋ねてくれたので、もう一杯貰うことにした。

「そういえば、新作はいつ入る?」

「新作?」

 未架は着ていたシャツの袖をくいくいっと引っ張る。

「そろそろ夏服が入荷する頃じゃない?」

「北條君、服好きだね」

 頻繁に買い物に来ている頃から彼を見ていたけれど、彼の服のレパートリーは本当に多い。きっと家の中に大きなウォークインクローゼットがあるのだろうと、誓は勝手に思っている。

「大学に入って自分の好きな服を着られるようになってから、服ばっかり買ってるかも」

「うちの服、よく買ってくれてるよね」

「うん。好きだね」

「そういえば。なんであのとき、俺が勧めた服を買ったの?」

「え?」

 未架は眉をひそめた。

「買わない方が良かった?」

 そんなわけはないと頭を振って、

「でも、気になるじゃん。最初に買おうとしてた服に比べたら、大分イメージ違ったよね。服に拘りがあるのに、なんで俺の提案をのんだのかが不思議だったんだ」

 自分の行動が間違っていたというわけではないし、未架の選択も率直に言えば嬉しいものだった。つまり今のは自然な問だった。

 問われた未架は少し真面目な顔になった。

「似合うよって勧められた服が自分の好みに近い。だから買ったんだ」

 それの何がおかしいのだと言われているような気分になって、誓は少し身を引いた。彼が不意に見せる鋭利さは、見た目の品のよさに反して攻撃的だった。

「そうだね。よく似合ってた」

 なんだかいいわけでもしているような気分で、誓は気疲れした。言葉を交わすだけで相手を怖気づかせてしまう性質に、誓は既視感があった。

 未架自身もその空気を感じたのか、こわばった表情に努めて明るい笑みを取り戻し、誓についてあれこれ尋ねた。いつから店で働いているのかとか趣味は何なのかとか実家は何県だとかの質問にたいして、誓は一つ一つ答え、同時に同じ質問を相手にした。相手から聞かれる質問は、相手にとって応えられる質問であることが多い。お互いがまだ手探りではあるけれど、妙な親密さを感じながら話をした。

 夕方になると、未架は帰っていった。

「お菓子もジュースも好きに食べて。残ってたら、次回俺も食べるから」

 そう宣言されたので、誓は食品庫というには小さいが一応乾物をストックしている棚に、封を切っていないものをすべてしまい込んだ。

部屋を片付けて再度掃除機をかけなおしてから、外に干したままですっかり冷たくなった洗濯物を取り込んだ。暖かな時期になってきたとはいえ、朝夕はまだ冷たさに触れる時期だ。




 ヒロというあだ名をつけたのは小学校の同級生だった。名前は勿論、容貌もおぼろげにしか思い出せない。クラスでも人望のある、お調子者な性格をした子だったのだけは覚えている。転校してきたばかりの相手にわかりやすいあだ名をつけてクラスに馴染むきっかけをくれた時点で、悪い人でなかったことは直ぐにわかる。二十歳になった今何をしているのかを知ろうと思えば知れる時代だけれど、知る必要は感じなかった。他人の幸せには可能な限り触れたくない。それは他人の幸せが妬ましいのでも喜べないわけでもなく、まさか他人の不幸を望んでいるわけではなくて、自分の知らないところで幸せになってくれていればそれでいいのだ。自分を疑ってしまうきっかけは可能な限り排除したい。

小学校を卒業してから中学校でも高校でも、誓はヒロというあだ名を意図的に浸透させて、ヒロと呼ばれて過ごした。誓を誓と呼ぶのは祖母だけで、その祖母も誓ではなく、ちかちゃんと呼ぶ。呼び名などただの記号だ。そんなに大儀な意味はない。それでも彼が付けてくれたヒロというあだ名のお陰で、誓は広原としての生き方を子供心に誓えたのだった。

 祖母の家に引っ越したのは小学校三年生の夏休みだった。長引く梅雨の憂鬱を世間が引きずったまま突入した夏休みの初日、母親が蒸発した。仕事に行くと言って手を振って別れた彼女は、次の日になっても帰ってこなかった。それまでの蒸し暑さとは種類の違う強い日差しによる刺すような暑さに目覚めた朝、いると思っていた母親の姿を見つけることができないことに不安を覚え、何かあったら連絡できるようにと冷蔵庫に貼ってあった母親の携帯に電話をかけた。思えば当然のことだが、いつまでもコール音が鳴り響いていた。一分おきに掛け直し、数十回かけたあたりで諦めた。耳の奥に、無情な呼び出し音がこだまし続けていた。その下に書いてあった祖母の家にかけた電話は数コールで通じ、誓は母が帰ってこなかったことを告げた。

 その後のことはよく覚えていない。迎えに来た祖母は初め、夏休みの間はおばあちゃん家においでと言って北海道へと連れ帰ったのだ。幼い頃から長期休暇には祖母宅の世話になっていたし、どうせ学校も休みで母親も家を空けがちだとわかっていた誓は、喜びすら覚えた。東京と違って北海道の夏の過ごしやすさも好きだった。一抹の不安はあるにはあったが、それは母に別れの言葉を言っていなかったからで、まさかあれから一度も会えずに成人するだなんてあのときの誓にわかるわけがなかった。




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