二章
誓の働くアパレルショップは何方かというとモノトーン系のスタイリッシュな系統の服を多く取り扱っている。パンツにしてもシャツにしても身体にぴったり沿うタイプのものが多く、そうなると自然と客も華奢な人に絞られる。色合いも黒や白を基調としているので、店内に流れるモダンな洋楽や筆記体の店舗ロゴまでもが、計算されたスタイリッシュさというように思えてくるのだ。
それでも、今期のトレンドがブリリアントカラーと言われれば、本社は時代に歯向かったりはしない。あくまでブランドイメージは損なわない程度に流行を取り入れた服を、それらしく用意する。ただの販売員に過ぎない誓にはわからないところで、社会というものは複雑に存在している。誓に出来るのは完成された洋服を店舗に並べることだけだ。そこに時代があると眺めながら。
「こちらは今期のトレンドの袖のデザインになっているんです。ほら、微妙に長さが違っているでしょう」
背後で客に新商品のシャツを勧める石田の声を聴きながら、誓は黙々と服を畳み直す。日曜日はやはり買い物客が多くて、店内は朝からずっと賑わっている。特に春物の服を求める客の購買意欲は高く、石田は調子よく客を捌いていく。誓は人当たりはいい自信はあるのだけれど、客に声をかけるのはあまり得意ではなかった。相手に求められている気がしないからだ。どうしようかと悩み考えている客に、無駄に声をかけて思考を止める必要があるのだろうかと考えてしまう。
「こちらとこちらですね。ありがとうございます。新しいのあるか確認しますね」
石田が客を抱えているのに気づいて、誓はそれらの服を受け取った。
「在庫確認?」
「うん。頼める?」
「了解」
小声で仕事を引き受け、内心ほっとする。雑多とする店内で、誓は何となく居心地の悪さを感じていた。バックヤードで在庫の山からサイズとカラーを間違えないように探し出す。この狭い、服と段ボールの独特な匂いに囲まれたバックヤードの方が、自分に合っている。別に人嫌いなわけでも、人から強く拒まれたことがあるわけでもない。ただ、必要以上に近づきたくないと考えてしまう。だから真剣な人に声はかけたくないし、自分から距離を詰めるようなことはしない、出来ない。
「はいよ」
見つけ出した洋服を石田に預け、店頭用の服をもとの場所に戻す。広げたシャツは丁寧に畳み直して、商品として一番綺麗に見えるようにと端まで整える。
「あ、すみません」
乱雑に台に戻されていたニットを畳み直そうとした手を伸ばしたとき、同じように服を取ろうとした客と腕を交錯させてしまった。咄嗟に謝って相手を見て、誓は少し驚いた。見知った客だった。頻繁に店に来る客はよく覚えてしまうものだが、この客を覚えているのはそれだけではなかった。
おそらく同じくらいの年齢で、妙に綺麗な顔をした男だ。普段は客の顔などあまり見ないようにしているけれど、彼だけは別格だった。服を見つめる真剣な表情にはいくら不躾な視線を送っても、何の反応も示さない。小さな手で洋服を撫でる仕草に、いつも妙に心を惹かれてしまう。彼はいつも一人で来ていて、その静かに洋服を見に来る姿にも好感を持っていた。
「すみません」
彼はこちらの目も見ずに小声で謝ると、誓が何を言う間も与えずにすっと身をかわすように去ってしまった。ニットのことなどすっかり忘れたようなその背を見つめ、誓はどうしていいのかわからないまま立ち竦んだ。
彼が見ようとしていたのは今季人気の腰まで隠れるニットだった。少しオーバーサイズに出来ていて、ボトムスにスキニータイプのデニムを合わせるのが本社の推している組み合わせだった。人気商品のためにカラーが既に赤だけになっていた。
似合っただろうな。誓は苦い思いで目を逸らす。仕方なくニットを畳み直し、出来れば彼がもう一度これを手に取ってくれればいいなと思った。
仕事柄、どんな相手にでもどんな組み合わせにでも、お世辞は言える。お似合いです、素敵ですねと何度も口にしてきた。本心から伝えたことも、仕事だと思って言ったこともある。極論を言えば、誰が何を着ていても誓は本当はどうだっていいのだ。好きなものを好きなように着るのがファッションであり、自己表現だ。だから服の値段から質からデザイン、組み合わせ。言い出せば無限にある組み合わせの中から自分の思うように選ぶしかない。
誓は職場で洋服に囲まれていると意識する度に、自分の家の小さな洋服ダンスのことを考える。ここに来る人達のうち、どれだけの人が洋服というものが好きで、どれほどの情熱と意識と、それからお金をかけているのだろう。
「大学にあんま同じ服は着ていけないだろ」
石田がそう言って、社割を最大限活用して毎シーズン新しい服を購入している横で、誓は途方に暮れる。東京に出てきたのは間違いだったかもしれないと疑うのは、そういうときだ。この街にあふれている飽和と絶望感と刹那的衝動と欲求は、誓の心に壁ばかり作っていく。まるで外側から粘土を塗りたくられているように、分厚い壁になっていく。
石田に呼ばれ、レジの手伝いに入る。購入品を袋に詰めていると、目の端でさっきの客が店を出ていくのが見えた。先ほどのニットは候補から外れたのかと、落胆の感情のまま見送った。
好意とは別に、誓が彼に興味を持っているのは。よくユニセックスから女性物に熱い視線を送っているせいだった。彼は誓よりもずっと背が低そうだし身体付きも恐ろしく華奢で、女性物でも十分着こなせるポテンシャルをもっている。商品展開やブランドコンセプトを考えても、それがおかしなことだとは思わない。彼ならば美しく女性物を着こなし、彼らしくいるのだろうと思う。でも、彼はあくまで熱い視線を隠しはしないくせに、手に取ることも、まさか買っていくこともない。男性用の無難な服ばかりを選んでいくのだ。
いつか彼が女性物を着こなそうと決心したとき、誓は声をかけようかと考えたりしてみる。きっとできないとわかりながら、あの華奢で上品な佇まいの彼が着こなす服はどんなものでも美しいだろうと思うだけで、心にときめくものがあった。
今住んでいる築十二年のアパートは驚くほどアクセスが悪い。というのも、駅から大通りを使っていく本来のルートだと歩いてニ十分を超える距離があり、走っても道が狭いせいで必ず人に道を塞がれるので、やはり時間を短縮することは出来ない。さらに途中にそこそこ大きな大学があるせいで、細い道がパンク状態になる。裏道を通るルートだと大学の大きな敷地の分を遠回りしないで済むため時間を短縮できるのだが、車がすれ違うことも出来ない細い裏道の為、何となく歩くのに落ち着かない。おまけに夜になると街灯の一本もない砂利道なので、足元がおぼつかなくなる。ただ、その不便さにさえ目をつぶれば、都心へのアクセスもしやすく、大学のグラウンドから運動部の声が聞こえてくる以外にはほとんど騒ぎ声のない閑静で過ごしやすい街だった。
夕方までのシフトを終わらせてから、駅前のスーパーに寄った。お米とカレールーと醤油を買ってそれを抱えて歩きながら、お米と醤油を同じ日に買ったのは失敗だったと、肩にかかる負荷に後悔をした。そういう日に限ってポストにチラシが乱雑に突っ込まれていて、取り出すのに苦労した。家の中に入ってからチラシと必要書類を分けていると、ヨガ教室やクリーニング屋のチラシの中に茶封筒が紛れていた。
買ってきたものを食品庫にしている引き出しにしまってから時計を見ると夕食の時間だった。あまりおなかがすいていなかったので、冷蔵庫に余っていた白米と卵でチャーハンを作った。窓を開けて夜風を部屋に取り込む。ひんやりとした春風は昼間の穏やかさと違ってまだ冬の冷たさを残していて、季節の変わり目を意識させるものだったが、誓は気にせず窓を全開にした。カーテンさえ閉めなかった。アパートの裏が小さな公園になっていて夏場は虫が遠慮なく侵入してくるのには辟易とするが、夜の静けさと冬の寒さは気に入っている。森林に洗われた風は澄んでいて、田舎を思い出すのだ。
チャーハンを口に押し込んだまま、先ほど郵便受けから取り出して玄関に置きっぱなしにしていた手紙を取りに行った。定形の茶封筒に書かれた自分の名前を、誓は三度読んだ。広原誓という名前を、誓は時々思い出したように呟きたくなる。封筒の裏には、広原恵理子の文字。祖母の名前だった。
時々スプーンを動かして、便せん二枚の手紙を読んだ。元気かという確認と自分は元気だという念押しはいつものことで、本題らしい本題はない。近所の犬が良く吠えるだとか最近買った大根が美味しかっただとか、今年は雪が良く降っただとか、共に住んでいた時は当たり前に会話に挟んでいた些細な日常を、彼女は律儀に教えてくる。その細やかさは日々メモを取らなければ忘れてしまうようなものだったけれど、だからこそ誓は手紙を良く読み返している。一人になりたいと思って上京してきたが、孤独になりたいわけじゃなかった。孤独は結論であり、選択肢ではない。
食べ終えた食器を流しにおいて、やかんを火にかける。夕食の後は緑茶と決めている。食事中はたいして飲み物を取らずに食後に必ず緑茶を入れるのは、きっと祖母がいつもそうしていたからだ。他人の習慣をなぞって真似るのは、何もその人への好意だとか愛着だとかそんな愛情的感傷の為ではない。自分の欲望だとか怠惰だとかを遠ざけるための手続きに過ぎない。
手持無沙汰に髪の毛を触り、かなり痛んできたなと毛先のバリバリとした感触を手に馴染ませる。自分で染めた髪の色は、いつも想像と違う色になる。今は金に近い茶髪で、もっと白っぽい金色にする予定だったが、風呂場が寒くて時間よりも早くに染液を洗い流してしまったせいか、中途半端な茶髪になってしまった。店長には少し困惑されて、石田には笑われた。でも、誓にはそんなことはどうだってよかった。母親によく似ていると言われ続けた黒髪を疎んだいただけだ。黒じゃなければ何色でもいい。
お茶を入れてから、誓は窓を閉めて電話をかけた。祖母は家の中でも携帯電話を持ち歩いている。誓がそうさせているからだ。あんな広い家の中で一人、何かあった時に直ぐに助けが呼べないのは危険だからと、いまいちピンと来ていない祖母を時間をかけて説得した。
「はいはい。ちかちゃん」
「うん、誓。手紙有難うね」
誓は祖母ののんびりとした口調といつもの自分を子供にみる呼び方に内心呆れながら、返事をする。
「元気かい?」
彼女が話すとき、時間が止まる感覚がある。
「もちろん」
そっちはと聞き返して、元気だよという言葉を待った。
「元気だよ」
この白夜みたいな時間を嫌いなわけじゃない。
忙しなく生きるのは簡単だった。予定のない休日に暇になることはあっても、何かと心をばたつかせるのは造作のないことだった。そうして生きていると、生きているような気がした。ちゃんとした社会生活を送る社会人であり、そうすることで社会という場に居場所を与えられている気がした。
「雪は降ってる?」
「もう降ってないよ」
「寒い?」
「寒いねぇ」
「膝の調子はどう?」
そうだねぇと、祖母は言葉を選んだ。
「痛いこともあるけど、心配はないよ」
嘘はつかない人だと思う。でも、中途半端な気遣いによって、誓は自責の念に駆られる。
祖母のひざの状態が良くないと知ったのは先月のことだ。やはり今日と同じように誓からの電話を出ようと慌てたせいで、家の階段を踏み外した。幸い二段程度だったから痣ができた程度ですんだが、問いただせば膝が痛くて踏ん張れなかったからだと言う。よくよく話を聞けば、誓が家を出るまえから膝の調子は良くなかったのだというから、もう三年近くということになる。
「なにかあったら大石さんに相談してね」
大石さんとは隣の家に住んでいる五十代の夫婦だ。うちの事情を何となく察したうえで祖母には勿論、誓にもよくしてくれた。子供のいない夫婦だったので子供がいれば誓くらいの年だっただろうという思いがあったようだが、誓の母は大石さん夫婦よりずっと若い。父の年齢はわからない。
家を出る前、誓は大石家に行っておばあちゃんをお願いしますと頭を下げてきた。東京に行くと告げると残念がってくれたが、引き留められなかったことに誓は内心安堵していた。あのとき、高齢のおばあちゃんを一人置いて東京に行くなんてどうかしていると、一緒にいてあげなさいと誰かに叱責されたら、誓は東京には来なかっただろう。
「ちかちゃんは今度いつ帰ってくるの?」
誓は言葉に詰まり、どうだろうと誤魔化した。
「仕事が忙しいの?」
「まぁ、そんな感じ」
「そうかい。大変だね」
あからさまに悄然とした声に、誓は胸が痛くなる。
「夏には帰るよ」
短い挨拶に名残惜しさを滲ませてから電話を切り、もう一度窓を開けた。誰もいない真下の道路を眺めながら、この時間に人が歩いていないことはむしろ健全なことなのだろうと考えた。ネオンライトの輝きが夜空の星の輝きを食いつぶし、人々の眠らぬ騒ぎ声が静寂を住処から追い出すこの街の雑然とした存在感に、時々酷くうんざりする。
もしかしたら、引き留められた方が良かったのかもしれない。あの小さな町に閉塞感を感じながらも他に言い訳や理由をたくさん抱えて飛び立つことを諦めることで、苦しさにも辛さにも向き合わずに生きていけたのかもしれない。流されて生きて行けば、浮浪の民として社会に居座ることが出来ただろうに。中途半端にのぞかせた自我が結局、その芯の無さに手折られている。
シフトの関係で、朝に時折時間ができる。朝は必ず七時の目覚ましで起きるようにしていて、顔を洗って歯を磨いて布団を畳んで掃除をして、部屋を整えてる。その規則正しい生活によって、誓は秩序と安寧は表裏一体だと改めて思った。面白みのない日常を自らに課すことで、それ相応の幸せを知れているのだ。
朝ごはんに昨日買っておいたロールパンを齧り、コーヒーを片手に着ていく服を決める。窓の隙間から外に手を伸ばして、風の有無と気温と湿度を確認する。職場に着ていく服は必ず今期の服を取り入れなくてはいけないルールがあり、週に五日もシフトを入れているとバリエーションが無くなってくる。
太陽がまぶしく降り注ぐ窓の向こうには青々とした木々が広がり、毎日見ている景色に瑞々しさが増えたことを感じた。名前も知らない大木の葉に跳ね返る太陽の光が、北向きのこの部屋に僅かばかりの光を与える。
洋服を考えるのが面倒になる度、ありのままでいられる木々に羨望の眼差しを向ける。感情的なものは苦手だし、自分が感情を持っていることにも時々どうしようもない嫌悪感を抱く。何かに対して肯定的に捉えることも否定的にあることも、後々冷静になって嫌悪感がわいてくる。感情を持っている自分というものが酷く苦手だった。
いつか自分が自分自身をコントロールできなくなるときがくる気がしてならない。その引き金は、先天的な衝動性のためだろう。生まれ持った自分の性質には全く信頼を置けないでいる。
結局、先月買った薄手の黒いニットにいつ買ったかもわからない濃い色のデニムを合わせて、全身鏡などないので風呂場の鏡で服を確認する。三日くらい前にもした組み合わせな気がしたが、考え直す気力はなかった。
シフトまで時間があったので散歩をすることにして、家を予定よりも早く出た。家の裏にある小さな山道の上るのがいつものルートだ。誰の力も借りずにただ歩いているだけで、世界に新しさが差し込んでくる感じ。趣味らしい趣味を持っていない誓にとって、散歩は体のいい暇つぶしだった。家にいてもすることが特にないのだ。
趣味なんて時間と金がなければ最初から手に持てるものじゃない。もっというのならば、この世界への肯定的な感情が必要になる。他への好奇心と積極性がなければ好意を持つことは出来ないし、継続性がなければ趣味は趣味として成り立たない。趣味があるということは、精神的にも肉体的にも健全だという証拠だ。
アパート裏に乱立した木々は緩やかな森になっていて、鬱蒼と茂る青には人工的な色合いが少ない。道中も申し訳程度に整備されているだけで、ここにいるときだけは都心に移り住んだことを忘れてしまう。山頂の真ん中は開拓地のようにちいさな広場になっている。少し気怠く感じた足を屈伸してから、ゆっくりと深呼吸をする。
勿論ベンチなんて気の利いたものはないから、木の傍によって寄り掛かって一息つく。狭い場所だけど、そのこじんまりとした場所に目いっぱいの光が差し込んでいるのを感じると、不意に幸福な気持ちになる。台風の目が穏やかであるように、地球の中心もきっと、文明の手の届かない満ち足りた場所なのだろう。
不意に蘇る、母親と暮らしていたときに過ごした一人の時間。あの頃は常に孤独と隣りあわせだった。同じ東京でも荒廃した町として悪名高い地域に暮らし、母は掛け持ちした仕事で昼夜を問わず家を空け、誓は一人家に残されていた。まだ一人で外に出られる年ではなかったし、幼稚園に通っていなかったせいで友達もいなかった。話し相手もいない部屋で一人何をしていたのかを、今となってはもう思い出せない。きっと、何もしていなかったから思い出せないのだと思う。昼間はそれでもよかった。外が明るかったから。流れ込んでくる人の気配も音も話し声も、昼間のそれはやはり少し健全さがある。
問題は夜だった。暗く、静まり返ったボロアパートは、子供には少し心許無い場所だった。いくら見慣れた天井でも、冷えた冬の夜、一人で寝ていると飲み込まれそうな不安が襲ってきた。柄の悪い地域の夜は、やはり柄の悪い大人の、下品な声や騒ぎ声が静寂を割ってくる。それもまた、幼い誓には怖かった。
寝なければいいのだという思い付きは大人の視線からすれば短絡的にも映るが、まだ小学校に上がるが上がらないかくらいの年の頃に思いつき更に実行に移したことを考えると、我ながら感心してしまう。母親と一緒にいたいからと不在のときに眠るのではなく、母親がいるから安心して眠れるという日々を過ごした。そもそも不規則な生活をしていた母親にとって家に帰ってくるというのはつまり、眠るために帰ってくるということだった。
そんな生活は続いていると、子供の慣れというのは恐ろしいもので、電気さえついていればどんなに夜が更けても平気になっていった。母のいない夜、一人で眠るよりも、一人で電気の世界に佇むほうが幾分か幸せな気がした。カーテンの裾を持ち上げて除く世界の暗さに反し、煌々と明るさを降らせる、古いアパートの一室。小学校に上がれば多少は遊び相手もいたが、夜になればやはり静寂に身を委ねるしかなかった。繰り返し読んだ数冊の本だとか、真っ先にちびた赤い色鉛筆だとか、いつも夕食に使われたプラスチックのワンプレートの食器だとか、断片的だけど鮮明な景色が瞼の奥に焼き付いていて、記憶と切り離せない。記憶というよりも、写真が脳にそのまま刻まれたみたいに、描写以上の感情が何も伝わってこない。そんな、風景画のような一コマ。
例えば今だって十分厳しい家計で、それでもあのときの自分に何かを渡せるというのなら、赤い色鉛筆くらいあげたいものだと思う。鮮やかでも何でもない、平べったい色をした赤い色鉛筆を。あの頃の誓は赤で何を書いたのだろう。繰り返しみたアニメのヒーローものは赤が好きだった。いつも真ん中にいて正義感に溢れた人気者。彼を中心に物語が進んでいくのを、子供ながらに理解していた。
腕時計を見て、誓は寄りかかっていた木から背中を離した。来た道を下り、駅へと向かう。誰の存在も感じなかった山の深淵から吐き出されたように、徐々に人の波にのまれていく。
職場を此処に決めたのは、建物が好きだったからだ。至る所にテラスの広がる外観はヨーロッパの裏通りから見上げたマンションのようで、煉瓦造りに見えるデザインがお洒落さを増していた。メルヘンな趣味があるわけじゃないけれど、こんな家に住んでいたらせせっこましい悩みなんてすぐに忘れられそうだと思った自分の直感を信じた。
地上五階地下二階のショッピングモールに入っているテナントのほとんどがファッション関係で、他にお洒落な文房具店や雑貨屋、地下にはフードコートが入っていて、テラス沿いにはカフェが軒を連ねている。初めはカフェでのバイトにしようと考えていた。厨房に入ってホットサンドやフレンチトースト、コーヒーを淹れられるようになりたいという野望を持っていて、その知識を田舎に持って帰れたらいいなと淡い期待をしていたのだが、希望に合う求人とめぐり合えなかった。経済的な問題で誓は正社員と変わらないくらいのシフトに入る必要があり、そうなると雇ってくれる職場は決して多くなかった。結局、丁度バイトが一斉に抜けて悲鳴を上げていた店長に熱心に誘われて、此処に決めた。ぜひ来てほしいと言われた時、何も考えずにわかりましたと二つ返事をした自分のことを、誓は苦い気持ちで振り返る。他人に求められたという事実に、誓は行く末を預けてしまった。それが自分である必要がないことなどどうでもよく、目の前の人に手を取られながらまっすぐに誘われたら、断りようがなかった。
週明けの月曜日は、休日の売り上げによって忙しさが変わる。挨拶をしながら荷物をロッカーに仕舞うと直ぐに、社員さんから新商品のチェックを頼まれた。またかと思いながらも段ボールの匂いが広がるバックヤードに入ると、何故かほっとする気持ちもあった。トレンドカラーに囲まれながらの作業は単調だけれど、規則的な分気持ちを切らさずに没頭できる。誓は単純作業は割に好きな方で、只管栗の殻をむいたり風呂場のカビ取りをしたりと、子供らしからぬ家事が得意だった。
「ヒロ」
店長の声が背後から降ってきて、誓は驚いて肩をびくりと跳ねさせた。
「びっくりした。急に呼ばないでください」
顔をしかめて言うと、彼はもっと渋い顔をして、店に出ろという。
「お前はバックヤードに住んでるのか」
「寝袋おいていいなら、住みます」
それで寝に帰るだけの家の家賃が節約できるのならどれ程良いだろうと半ば本気だったが、当たり前につまらない冗談として受け流された。
「このシリーズ、再入荷したんですね」
ハンガーにかけられたロング丈のニットを指さすと、店長はあぁと気の抜けた返事をした。
「そりゃ、今期の看板商品だからな。どこぞのアイドルがテレビで着たおかげで、とんでもない数売れて、とんでもない数再生産してるんだよ」
以前、売りそこなったニットだった。赤の他に、白や緑のカラー展開があった。四月の爽やかな日にこれ一枚で街を歩いたら目を引くだろう。
「それより、お前は少しは服を売ってこい」
そういってバックヤードを追い出された誓は仕方なく、人のいない店内を巡回した。
時間帯のせいで客などほとんど来ないし、並んだ新品の洋服をちょこちょこと手直ししながら店内をうろうろしていると、目の端でふらっと客が入って来たことが分かった。
「いらっしゃいませ」
よく通るといわれる声で定型の挨拶を口にしながら客に目を向けて、誓は身体中の血が一瞬止まった気がした。二の腕から下あたりに血が巡らなくて、冷たくなる感覚。緊張感などという言葉では生ぬるい、全身で心の異変を感じ取っていた。
彼だった。名前は知らない。年も、住んでいるところも、わからない。どんな人なのかなんて知る由もない。
白い肌が綺麗で、目にかかる前髪のせいでいつも表情が分かりにくいが、少し愛想のない雰囲気が妙に魅力的に見える。
彼は他には目をくれずに、あのニットのところまで真っ直ぐに歩いて行った。買おうと決めてきたとしか思えない無骨ささえ感じるその仕草に、誓は咄嗟に声をかけた。
「あの」
驚いたように身を引いた彼に、誓はつい笑いたくなった。警戒心丸出しの猫のようだ。場違いな思いを認めつつ、誓はにっこりとほほ笑んだ。
「そちらの商品の色違いもあるのですが、ご興味ないですか?」
「色違い?」
怪訝そうな口調で誓いを見つめる。重たい前髪から覗いた黒い瞳が大きい。やはり猫のようだと思った。
「はい。店頭にはまだ出せていないんですけど、緑や黄色、白もあります。もし気になるカラーございましたら、お出ししますよ」
本当なら、何も言わずに全色を持ってくればいいのだ。そうすれば品出しも終わらせることが出来るし、必要以上に干渉をしないで済む。
「白とか、お似合いになると思うんですけど」
華奢な身体をオーバーサイズの服が包み込むところを、その服が鮮やかな白のニットで彼の白い肌や印象的な黒い瞳を引き立たせることを、誓は容易に想像できた。無理強いは出来ない。ただ、白に導きたいという思いがあった。彼の好みに合うかは分からないけれど、彼には似合う。
十センチとは言わないけれど、見下ろす程度の身長差があった。元々小さい顔をしていると思っていたが、近くで見ると比較する物が無くなったにもかかわらず、不思議とその印象が強くなった。魅力的に思えるポイントのほとんどが、彼を幼く見せている。
「ユニセックスの商品だと色のバリエーションが多くありますし、サイズの展開も様々にあります。メンズはフリーサイズのものが多いので」
彼の視線がちらりとユニセックスの商品の方へと動く。誓が指をさしたわけでもないのだから、つまりは、彼はそれがどこにあるのかがわかっているのだ。
「少しお待ちください」
彼が逃げずに誓の話を聞こうとしているのを感じ取り、誓は足早に服を取りに行った。ユニセックスの商品の中から彼に似合いそうな幾つかを選び、ニットを指先で撫でて弄んでいる彼のところへと戻った。
「ニットをお探しでしたら、此方はいかがですか?お似合いになると思うのですが」
さっき彼が選んだのと似たデザインのニットや、着丈の似たトップスなどを彼の前に広げて見せた。
「あと、これは少し趣向が違うんですけど」
そういって、誓はカーディガンを見せた。
「カーディガンなんですけど、前を閉めればニットと同じ感覚で着ていただけると思います。この色合い、お客様にすごくお似合いになるかなと思ったのですが」
反応は芳しくなかった。表情を変えないのだ。ぷっくりとした小さな唇を動かすことなく、きつく結んでいる。誓は押しが強すぎただろうかと後悔した。せっかく気に入っていそうな服があったのに、余計な提案をしたかもしれないと唇を噛む。人は選択肢が増えると逆に選びきれなくなるという。普段は干渉しないようにとなるべく客との距離を取っているのに、大事なところで出しゃばってしまった。
「じゃ、これにします」
彼の手が白のカーディガンを指さした。
「こちらですか?」
誓は驚いて素っ頓狂な声で聞き返してしまった。つい好きだったから持ってきたけれど、彼が買おうとしていたトレンドタイプのニットとは用途が違う気がした。
「使いまわしが出来そうだし、色も好きなので」
妙にきっぱりとした口調でいった。
「サイズはどれがいいですかね?」
てきぱきと話を進めるので誓のほうが置いて行かれそうになって、慌てて意識を呼び戻す。今までに出会ったことのない高揚感に浸ってしまいそうだった。
「三サイズ展開なので、お客様の身長でしたらエムくらいがいいかと思います」
誓は持っていた服のサイズを確認して、丁度エムサイズだったので彼に手渡した。
そこからの彼はやはり妙に前のめりで、試着もせずに服を買って帰った。会計の際に持っていたショルダーバッグから取り出した財布がブランド物で複雑な思いもあったが、そんなことはどうでもよかった。
「ぜひたくさん着てください」
店の前で商品を手渡して告げると、彼は硬い表情のままだったが、それでもきっちりとお礼の言葉を残して帰っていった。
「またお待ちしています」
頭を下げて丁寧に見送ってから店内に戻ると、にんまりとした店長と目が合った。
「ちゃんと店員してるな」
「ちゃんと店員ですよ」
ムキになって返す。勤務態度は真面目だろうと自負している。ただ、店長の言わんとしていることはわかっていた。
今まではただ服を売るだけだった。相手が欲しいというものをそのまま気に入ってもらっていただけだった。相手の要望に沿う提案ができたことに、誓は満足感と高揚感を得た。
その日一日中、誓は彼のことばかりを考えていた。試着でいいから、彼があのカーディガンを着ているところを見たかったと思った。どんな組み合わせで着こなすのだろう。モノトーンのパンツでもいいし、薄いデニムでもカジュアルに着こなせそうだ。インナーにシャツを入れたら、上品な顔立ちが際立つだろうなどと考えていると、幸せだった。自分にメリットがあるわけでもないのにこんなにも心を躍らせていることに、誓は自分自身でも説明がつかなかった。
「ヒロ、一緒に帰ろう」
閉店の時間までシフトに入った帰りのロッカーで、石田に声をかけられた。痩せて背の高い石田は背後に立つと少し圧迫感がある。
外に出ると、昼間と同じように雲一つない空が広がっていた。風は吹いていたが温かさを帯びた南風だった。少し空を見上げると幾つかの星が見えたが、夜空の星の輝きよりも近くの蛍光灯が目に入る。街灯やビルから零れる光によって、世界が狭い所で完結している気がした。
石田の足取りがやたらとのんびりとしていたので、誓はそれに合わせて歩いた。履き込んだスニーカーは黒いお陰で汚れがあまり目立たない。白いスニーカーを履ける人は金持ちだというのが、誓のもつ一つのふるいだった。
居心地の悪くない沈黙のまま歩いていたのを、石田が動かした。
「そういえば、あの後どうなった?」
交差点の信号が赤になり、二人で足を止める。
「なにが?」
うっすらと勘づいていたけれど、白々しいのはお互い様だった。
「清水さん」
誓は足元に転がっていた小石を軽くける。思っていたのとは全く違う逸れ方をして道路の溝に落ちていった小石を見送り、誓は前を向いた。
「別に何も」
「なんだそれ」
石田は面白くなさそうに言った。
「あんなにかわいいんだぜ。早くしないと他にとられるよ」
まるで誓のほうが清水に興味を持っていることを前提とした口調だった。
それにしたって、他にとられるなんて気に障る言い方だ。なぜ誓のほうが清水の選択肢にならなければいけないのか。清水にとっては誓じゃなくてもいいという考え方を持たれているのは、たとえ本人じゃなくても気に食わなかった。
「そっちこそ、元カノとは?」
きっと此方が本題なのだろうと尋ねると、石田はむず痒そうな笑顔を浮かべ、何とも言えないと言った。
「あれから何となく連絡は取ってるけど、いまいち進展はしている感じがないんだよね」
石田は客に対しては遠慮のないタイプだが、どうも恋愛に関しては積極性に欠けるらしい。今更気まずくなるような関係性でもないのだからさっさと打ち明けてしまえばいいのにと思うのは、誓があくまで他人事だと思っているからだろうか。
「だからさ、もう一回、会ってくれない?」
「は?」
信号が青に変わると同時に石田が歩き出し、やや遅れて誓は後に続いた。
「清水さんがお前にもう一回会いたいっていっているんだって」
腑に落ちた状況と飲み込めない不信感は、不思議と同時に成り立つ。拮抗する思いを抱え、誓は首を振った。
「いや、俺はちょっと無理かも」
「清水さんが無理?」
「いや」
清水の程よく整った顔と洗練されたファッションを思い出し、誓は何となく重たい気持ちになった。
「ヒロは彼女欲しくないの?」
そうこうしているうちに駅に着いたが話が終わらずに、改札前で足を止める。横をすり抜けていく人が迷惑そうな視線を寄越してきた。誓は壁際に立って、石田に対峙した。
「恋人作れるほどの余裕がない」
その余裕には、様々な意味を込めていた。金銭的にも、時間的にも、精神的にも余裕がなければ続かない。続かないし、無理してまで続けようとすれば、他を蔑ろにすることになる。恋愛の優先順位を限りなく低い所にしておくことで今の自分があるのだ。
「じゃぁ、もう一回は厳しい?」
情けなく眉を下げている姿に、誓はうっと息が詰まる。可能な限り良い人でいたいと思う。例えばそれが偽善だとかポリシーだとかそういう見た目が綺麗なだけのものに分類されてしまうのは不服なのだけれど、だからと言って自分自身の内側から善良な性質を見出せるわけでもない。それでも、良い人でいなければ、居場所が見つけられないのだ。
「女の子たちの分がお前の驕りなら行くよ」
可能な限りの明るい声を作る。言い分がまるで等価交換であるかのように聞こえてくれればいいと顎を引くと、彼は表情に明るさを呼び戻した。
「え、マジで?」
「うん。正直、今月は財布が厳しい」
困窮に近いレベルで厳しいのだとは悟られないように、誓は努めて明るい声で言った。石田が得る情報が、誓が散財でもして思いがけずお金がない程度であればいいと願った。
「助かる。ありがとう」
石田の嬉しそうな表情を見ていると、誓は自然と明るい気持ちになれて、そんな自分が不思議だった。
電車が駅に滑り込む音が構内に響き渡り、逃しまいとする人が駅のホームを駆け上がっていく。皆それぞれ急いでいるのに、皆同じくらいの速度で歩いているように見える。固い革靴も履きつぶされたスニーカーも華奢なハイヒールも、同じテンポを刻んでいる。やがてそれは降りてきた人を少ない改札から吐き出す場所へと変わり、直ぐにまた静けさを取り戻した。
ちなみにさ、と石田は何かを思い出したように切り出した。
「ヒロの好きなタイプは?」
聞き方に芸がなさ過ぎて、あぁこれは頼まれた質問なのだなと直ぐにわかった。
「似合う服を着ている人」
当たり障りのない、抽象的で概念的な理想像を口にするほうが無難だろう。優しい人とか、素直な人とか、穏やかな人とか、面白みはないが嘘でもない程度のものを言うのは簡単だった。ただ、脳裏をよぎった幸福感を口にせずにはいられなかったのだ。
「店員の鑑かよ」
綿菓子が空気を含んでいるのと同じ原理で、石田は言葉に軽さを含ませていた。
「でも、なんかわかる。自分の好きな服を奇抜になりすぎずに着こなせるって大事な要素だよな」
アパレルで働いている者同士、おそらく似たような経験を石田も持っているのだろう。彼の同意には嘘がなかった。誓の得た感情と遠からぬ思いを、石田も経験している。
石田と別れてから、空いている電車の端に立って携帯を弄る。昨日開幕したサッカーの結果を斜めで確認していると、微かに香水の匂いがした。ふと顔をあげて傍を見渡す。それっぽい人がおらず、誓は小さく首を傾げる。
香水の匂いはあまり好きではなかった。夜の仕事をしていた母親は仕事に行くときに香水を振り撒いて出ていき、違う匂いを纏って帰ってきていた。子供ながらに人工的な匂いの、現実や自然に馴染まなさに気付き、そんな母の姿に壁を感じた。香水の匂いのする母は誓の母親ではなく、一人の女だった。近づいてはいけないと思えば思う程に、優しい母親の存在まで見失った。
誓は首を回してから、やや遅れて押し寄せてきた後悔について冷静に考えた。清水の件は、もう少しきっぱりと断ったほうがよかったかもしれないという後悔だった。
誓は恋人がほしいと思ったことがない。交際に必要なあれこれが揃えられないからというのが大きな理由だが、ならばすべてを持っている自分の姿を想像してみても、積極性を見出せなかった。他人を自分につなぎとめるなんて、誓はしたくなかった。どんなに縛り付けて閉じ込めておいても、いずれは手が離れていく。それが単純に耐えられなかった。