十章
窓を閉め切ってクーラーを入れているせいで、微かに聞こえる蝉しぐれ。聞こえ始めた初夏の頃はもうそんな季節かと新しい扉を開いたように感じていたけれど、耳が慣れ始めると、少しずつ圧迫感を感じるものになり始めた。梅雨の間に感じていたじっとりとした暑さがなくなると、じりじりと身体が焦げそうな日差しが肌を焼く。昼間にため込んだ熱気が湿度のせいで夜になっても去ることなく、一日中クーラーを入れておかなければ倒れてしまいそうな暑さの日々が続いている。それでも、この季節が終わらなければいいなと思ってしまう。そんな夏だった。
大学の授業がなく、比較的バイトのシフトも少ししか入れていない未架は宣言通り、二日に一度のペースで誓の家に顔を出すようになり、そのうちの三回に一回は泊まるようになった。大抵気まぐれなので、昼御飯だけを食べに来る日もあれば、バイト終わりに来て食事もせず、素泊まりをして帰る日もある。そうかと思えば三日連続で泊っていく日もあった。
「もういっそ、ここに住みたい」
前日から泊りに来ていた未架は昼食に一緒に焼きそばを食べた後の昼下がり、ベッドに背中を預けるようにだらけていた。
「こんな狭いアパートに?」
汚いとかボロいとかは、卑屈に聞こえそうで避けた。
「物が多くて狭いと窮屈だけど、誓の部屋は快適だよ」
そういわれた誓の部屋には、家主である誓よりも半居候の未架の私物のほうが目に付く。掃き溜めに鶴のせいだろうか。彼の持ち物はどれも洗練されていて、高級感が漂っている。そして、純粋に綺麗だった。
「好きなだけいればいいよ。もともとそのつもりだろうけど」
「それは嬉しい。そのつもりだったけど」
にっこりと言われても、傲岸さは感じない。かといって伺うような瞳をしているわけでもない。彼は我儘で誓を試すのではなく、単純に我儘だった。
テーブルに手を伸ばし、カルピスを飲む。未架が入れてくれたカルピスは正直、誓には少し甘すぎる。舌や喉に甘さの残る味が懐かしかった。
「ただ、学校が始まったら、そうもいかなくなるからな」
同じようにカルピスのグラスを、彼は両手で支えた。
「大学?」
「うん。俺たち、もう三年だからね。四年の初めに就活もあるし、卒業に向けての卒論やらゼミ課題やら、考えたくないくらいやることあるらしいよ」
顔をしかめた未架に、誓はポケットに見つけた飴を手渡す。昨日、石田がくれたのど飴だった。数日前に冷房を効かせたまま寝たらのどを痛めたと言ってのど飴を買いこんだが、二日で治ったせいで大量に手元に残ったらしい。
「大学だって家のほうが近いから、いつでも来ればいいよ」
そのためにわざわざ彼のためのブランケットを買ったのだ。
「もういっそのこと、誓、俺のこと監禁しない?」
「物騒なこと言うね」
「そうしたら、誓も俺とずっといられるよ」
まるで誓にとって利益があるような口ぶりだった。
「それはちょっと魅力的だね」
この狭いアパートの一室にだけ与えられた安寧に、身を委ねていたい。それは誓も同じだった。
「それついでに、思い出した。これ、父親から」
未架はカバンから封筒を取り出した。なんてことない、よく見る茶封筒だった。
「何これ?」
開けて中を覗くと正確にはわからなかったが、数枚のお札が入っていた。
「それ、俺が入り浸る分の迷惑料だって」
「いや、別にいらないよ」
「家賃、光熱費、水道代。そりゃ、いくら友達でも好きにしなとは言えないよね」
友達という言葉に、未架は少し力を込めた。
「でも、未架、食費出してくれるじゃん」
「家を借りてるんだから、それくらいするよ」
落としどころがわからずに困惑していると、未架が封筒を握っている誓の手に顔を寄せた。
「いいじゃん。とりあえず受け取ってよ。それとも何、高いクッキー缶でも渡した方がよかった?」
いたずらな笑顔をされると、誓の方も気が楽になった。
「クッキー缶はいらねぇな。代わりに、これで焼肉でもごちそうになろうぜ」
「いいね」
散々どこの焼きに行く屋に行こうかと盛り上がったくせに、そのまま二人して昼寝をしてしまい、気付いたら日が暮れていた。カーテンを閉めてまだ寝こけていた未架を起こし、実にくだらない一日を過ごしたことを笑いあった。
「しょうがない。昨日映画を三本見たのが敗因だ」
「あれはね。仕方ないよね」
未架お勧めの映画のシーズンワンを一緒に見たところ、珍しく誓も興味を惹かれ、深夜を過ぎているにもかかわらずシーズンスリーまで完走してしまった。完結を見届けたころ、カーテンの隙間に暁がうっすらと滲んでいた。鳥の鳴き声と、新聞配達のバイクの音。結末を知らない誓とは違い、既に物語を知っていたせいで三十分ほど前に力尽き、先に眠ってしまった未架の体温を隣に、誓はぼんやりと夜明けを感じていた。静けさと暗さに支配された夜の、感性を眠らせて世界を水平に保っているような気分が、夜明けとともに均衡を破っていく。幸せな人は何処までも幸せに生きられて、そうでなければとても複雑な困難にのまれてしまう。世界のほとんどを照らさずに一部分だけに気まぐれに光を当てる月よりも、広範囲を照らしながら一部に影を作る太陽のほうが残酷だ。
「またおすすめの映画、教えてよ」
幸福な夜だった。カーテンを閉める。
「いいけどさ。まずは夏への扉、読み終わらせてよ」
痛いところを突かれた。
「未架と違って、活字が苦手なんだよ」
「いっそのこと、児童小説から貸せばよかったかな」
「星の王子様とか?」
「あれ、児童小説だと思ってなめてかかると、痛い目見るよ」
脅すように言われ、肩をすくめる。別に誓からすれば、読みかけの小説が理解できないことも難しいことも、人生においては些細なことだ。理解できない作品など山ほどあるし、難しいのなら放りだすだけだ。ただ、そうやって放り出した小説の裏側に未架の存在があるということが誓にとって歯がゆい。理解したい、と思っているのかと問われれば、違う。分かり合おうとしているわけでもない。でも、その破片や一部が目の前に提示されているのだとすれば、手に取らずにはいられない。彼の苦しみや痛み、恥辱も汚辱も触れずにいられるけれど、彼の幸福や好意や愛情などは、可能な限り傍に置いておきたい。それこそ、彼を幸福な檻に閉じ込めるように。
「王子繋がりなら、オスカーワイルドとかなら、もっと簡単だったね」
そういってもう一度ベッドに潜り込もうとした未架の手を、慌てて引っ張る。
「飯食うぞ」
「寝起きだよ」
「だからって、もう八時過ぎてるから。俺、明日仕事なんだよ」
やいのやいのと言い合いながら、冷凍庫のおにぎりとカップみそ汁で夕食をすました。それから順番に風呂を済ますとすっかり目が冴えてしまい、結局また映画を流した。深夜の映画館は夏の間中、未架が泊まりに来る度に開場した。ベッドに並んでみた映画はどれもこれも、穴だらけのチーズのようにあちこちが欠けていて、物語として完成しない記憶の断片ばかりだった。
花火の約束の日、誓はぎりぎりまでシフトがあったので、現地で三人と合流することになっていた。
「浴衣を着るらしいよ」
昨日のバイト終わりに、石田がそう耳打ちをしてきた。
「二人で一緒に買いに行ったんだって」
「ふうん」
花火を見に行くのに、何故自分を着飾る機会と錯覚するのだろう。結局ただの口実じゃないかと言いたい気持ちを飲み込んだ。
悪い事じゃないだろうと思いながらも、花火に行くということを未架には言えなかった。女友達がいるということ、清水の存在、石田の意図、誓の偽らざる本音。どれも未架に伝えることが出来ない。結局のところ、誓の中に疚しさとまで言わなくても、不誠実さの自覚があるのだ。
どんなに気合を入れた服を着てこられたところで誓の選択肢はいつもどおり、ラフなシャツとデニムにしかならない。代り映えしない代わりに自分に馴染んだ格好で、みなとみらいまでの電車に乗った。程よく冷房の利いた車内には何人ものカップルや浴衣の集団がいて、この電車に乗っている人の大半が花火を見に行くのだと理解した。これだけの人が花火を見に行く中で、おそらく行くべきではなかったという後悔を抱えているのは自分だけだろうと考えるとおかしかった。幸福の輪の中に不幸を一滴零したところで、何も変わらない。滲んで、跡形もなく馴染んでしまう。それを社会の無関心だとか狭量と言い表すことを、誓は好んでいなかった。マイノリティの不幸はギャンブルのようなものだ。というよりも、むしろそうでなくては困るのだ。悲しみにも苦しみにも必ず原因があって因果応報な社会だとして、そうだというのなら、親に捨てられた自分の立場は何なのだ。親がいるのは、金に困らないのは、幸せだと他人に思わせられるのは、それらを手にするために特別な何かがあるというのか。
うっかり宝くじに当たってしまうみたいに、うっかり不幸を被ってしまった。その程度に自分の人生を考えている。
駅の目印になる時計の下で待ち合わせをしたところ、案の定同じ目的の人でごった返していてなかなか三人を見つけることは出来なかった。二分ほどあたりを見渡したり移動してみたりと様子を窺っていたが、ふとそれが馬鹿らしくなって、諦めて傍にいる浴衣姿の女の子たちをぼうっと眺めることにした。浴衣のデザインはどれも同じにも見えるし、それぞれ個性があるようにも見えた。
手持ち無沙汰に携帯電話を見る。未架からの連絡が入っていた。今度遊びに行く日程を決めている最中だった。彼の都合のよさそうな日程をいくつか書き込まれている。後で手帳を確認して返事をすればいいやとポケットに端末を戻した。
このままずっと見つけられずに、見つからずに時間が過ぎてしまえばいいという投げやりに近い感情はしかし、彼女たちの気合の入った格好に気圧される形で潰えた。
「ヒロ」
後ろから名前を呼ばれて振り返ると、石田がいた。
「悪い、道が混んでで」
「俺も今来たところだから」
石田の後ろにいた清水と目が合う。
「清水さん。似合うね」
清水は白地に紫の花柄の浴衣を着ていて、普段は下ろしていることの多い髪を高い位置で纏めていた。その複雑なセットを見て、これは美容院でしっかりセットしてしてもらったものだと理解したせいで、褒めないわけにはいかなかった。
「ありがとう」
人の波に押されるように、前へ前へと移動しながら、歩道橋を渡る。
「ヒロ君もその髪色、素敵だよ」
誓は思わず自分の髪に触れた。
昨晩、未架が泊まりに来たついでに誓の髪を染めて行ってくれた。
昨日は未架と同じくらいの時間の帰宅になったので、駅で待ち合わせをして一緒にスーパーで夕食の買い物をした。スーパーの隣の薬局の前を通ったとき、未架は思い出した顔つきで足を止めた。
「俺、歯ブラシを替えたいと思ってたんだ。寄っていい?」
それはつまり誓の家で使うものだろうと考えて、誓は妙な温かさを覚えた。
「俺も欲しいものがあるや」
未架が歯ブラシを見ている間、誓は髪の染料を選ぶことにした。途中で未架が合流し、根元が黒くなってきたので何色がいいかと尋ねたところ、黒にしようと言い出した。
「誓は黒い髪が似合うよ」
「言われたことないけど」
生まれつき肌の色が黒く、また日に焼けやすい体質の誓は、夏になると真っ黒になる。
「染める前は黒でしょ」
未架は自分の髪を撫でつける。一度も染めたことのない黒髪が、明るい蛍光灯の艶っぽく輝いた。
「いや。俺の地毛、結構茶色いよ」
生まれつき、髪と瞳は茶色い。母親に似ていると、祖母が言っていた。誓自身は無論そんなことは覚えていなくて、ただ高校時代に同級生の女子から、かなり羨ましがられた。校則はあってないような学校だったので染めるのは自由だったけれど、誓は一度も髪色をいじらなかった。祖母が喜ばないと思っていたからだ。
「そうなの?なら、なんでそんな派手色にしちゃうの?」
不思議そうな表情をすると未架は幼くなる。聞き分けない子供を相手にしているようで少し疲れる。
「一回くらい染めてみたいじゃん」
しゃがみ込んで下の方の商品棚を見ていると、未架も隣に腰を落とした。その近さにも驚いて、彼の手が誓の髪に触れてきたときはもっと驚いた。
「地毛の誓、みたいな」
「あと二年くらいすれば見られるかもね」
「そうだね。楽しみ」
彼の手は髪から肌へと落とされる。高価なものだけに触れてきた柔らかな未架の手が肌を滑る度、触れたところからじわじわと熱を帯びていくようで、誓は思わずその手から逃げた。
「さしあたりはこの色より、絶対黒がいいよ」
押しが強いなと苦笑しながら、それでも瞳が黒染めに逸れる自分は単純だった。
そういって立ち上がった未架の手には、しっかりと黒髪用の染料の箱が握られていた。
「昨日染めたばっかりなんだ。黒の方が似合うって、強引に勧められてね」
誓は昨日のやり取りを思い出して、つい苦笑いが漏れた。
「茶髪もよかったけど、黒髪も似合うよ」
清水に言われるまでもなく、昨日の夜、未架が嫌という程褒めてきた。似合う似合うと目を細め、自分のセンスの良さに酔いしれる未架に誓は反論も出来ず、鏡に映った少し野暮ったい姿に、でも確かに悪くないと思った。少なくともそこに捨てたいと思っていた過去の重たい幻影はなくて、目新しい気分にさせる自分がいた。泡タイプの染料を小さな手で揉みこむように動かす未架の手の感触が、今も身体から離れない。
「石田も染めたら?」
一歩前を歩きながら会話に参加していた飯田が石田を揶揄う。
「高校の時みたいに、黒髪もいいかもよ」
「いやぁ、俺は当分はいいや。来年就活になったら、嫌でも黒染めしなきゃいけないんだし」
そう肩をすくめ、学生の三人は一気に渋い表情になった。
「入学したときはまだ先だと思ってたけど、もう遠くないところにあるんだね」
「そういえばインターンはどうするの?」
清水は隣の誓を見ることなく、前の二人にむけて言った。
「俺はいくよ。八月の下旬に、旅行業界のインターン。無給なのに二週間もあるから、その間バイトもいけない」
石田が嘆く。その分のシフトを誓は店長から打診され、受諾した。少し出社日は増えるが、その分十月に帰省する融通を約束された。
人の流れがぴたりと止まる。どうやら信号待ちらしく、振り向いた飯田は
「私は来年教育実習だから、行かないよ」
知っているでしょうという顔で言うのを清水は頷いていたが、誓は少なからず驚いた。彼女が教師を目指しているという事実に、何故か素晴らしいと思えない自分がいて、今の自分の表情を誰も見ていなくてよかったと思った。
小学校三年生のとき、担任が新任の若い女性だった。それこそ、二年後の飯田がそうなることが想像できる、そんな女性教師。幸せに、大事に、全ての努力を実らせてきたような自尊心を滲ませている姿に、子供ながらに警戒心を強めていたのは何故だろう。そんなものを理解できるだけの経験値も理解力も備わっていなかったにも関わらず、彼女が自分にとって決して美しい存在ではないと、子供心にも理解が出来ていた。
それが明確な事実となったのは、夏休み前の面談の時期だった。保護者面談が六月から夏休みにかけて組み込まれていく中で、誓の母親は予定が立たずに、遂に電話面談ということで話が付いたようだった。母子家庭という事情と、誓が良くも悪くも何も特出した点のない影の薄い子供だったせいもあるだろう。特別教師から好かれるような子供でもなかったし、目の敵にされるような特徴もないタイプだった。電話面談になるにあたり、作成された誓の成績表や面談シートなどを家に持ち帰るように渡された職員室で、彼女は誓にとうとうと語り始めた。細かいことは覚えていないけれど、彼女の言葉に気の毒だと可哀想だけどという言葉が何度もでてきたことは覚えている。強烈に。彼女にとって誓がどういう存在なのかを理解した瞬間だったからだ。
母子家庭なんて別に珍しいものではないだろうに、彼女はそれに酷く同情をしていた。個人面談に来られない程働かなければいけない母にもそんな家庭で育っている誓にも、彼女は幸福な場所から憐れみの目と優し気な同情心を捧げた。そうすることが教師として正しい態度なのだと言わんばかりに、彼女は言葉に気持ちを込めていた。おそらく誓を気の毒に思ったのは本心だろうし、恵まれてきた彼女が誓に対して同情的な想いを持ったことのすべてが悪いとは思わない。ただ、可哀想だと思われ、そういう気持ちを押し付けられるのは、誓にとって愉快ではなかった。持っているカードがどんなにしょっぱくても、そのカードを切り札に生きていくことを受け入れることが必要な成長過程で、そのカードをはじめから否定されているようなものだ。誰かが幸せであることなど恨みたくはない。だからこそ、幸せなら勝手に幸せでいてくれと思う。間違っても自分の正義が通用すると思わないでほしい。無知という幸福を勝手に享受していてくれ。そう思っていた。
みなとみらいの景色をみながら、むかし未架とこの道を歩いたことを思い出した。未架と知り合ったことを僅かに後悔する自分がいる。友達になり切れない。それがこんなにも重苦しいことだとは思わなかった。あのキスの意味はまだ分からない。
花火は解放された道の真ん中で見ることになった。人の波に逆らうことなく流され、あるところで足が止まり、そこが誓たちの居場所となった。花火は休みなく次々と打ち上げられ、一瞬の輝きを空に放った跡形もなく消えゆく姿に、明日の空に今宵の証明は不可能なのだと思い知らされた。美しいと心が動く前に、次の花火が煌めく。その繰り返しの中で、漠然とした不安が焦点の合わない花の揺れのように風になびいている。折り重なる感情だからと多数決のように信じ切ってしまっていいのだろうか。
前後左右をたくさんの人に囲まれ会話もできず、誰と行っていても一人だったとしても変わらないと思えた。その分皆が静かに花火を見上げ、時折沸き起こる歓声は皆共通した感動というようで、誓はその流れの中に紛れ込んだ自分を冷静に受け入れた。社会という枠組みから外れた場所にいる気がしている自分が、人ごみに流されているときだけは大地を踏んで生きていると思える。その瞬間に妙な安堵を持っていると知ったら、きっと未架は笑うだろう。拒否や嫌悪の中に自己理論を組み込ませることで社会を遠ざける未架のやり方を、誓はどう受け入れればいいのかが分からないけれど、未架自身もきっと持て余しているのだ。認められようとか受け入れてもらおうとか理解されたいだなんて思い始めたら、きっと幸福を手に入れる前に押しつぶされてしまう。
最後の花火が消えていく、その煙の糸が引いている夜空を、何処までも眺めていられる気がした。
帰りも人に流されるがままに駅までたどり着いた。途中で石田が食事でもと言い出したが、皆同じ考えのせいかどの店も店頭に長蛇の列を作っていたので食事の話は流れた。結局女の子を送っていくことで話が決まり、当然石田が飯田を、誓が清水を送ることになった。
「すごかったね」
浴衣から伸びる長い首と俯く度に見えるうなじの白さに、誓は何か言った方がいいのだろうかと考えては、だからと言って彼女に対して一歩進んだ感情が芽生えるわけではないのだと思うと虚しかった。彼女の女性としての魅力に魅せられ、前も後ろも考えずに前進してしまえばいいのかもしれないという考えは悪魔の考えにしか思えなくて、本能なんて存外コントロールされたものに過ぎないのだと思い知る。
「清水さんは、この夏休みは何処か行ったりするの?」
前を歩く女子集団が夏休みの予定をはなしているのをきっかけに、誓は話を振った。
「私はインターンがないから、バイトと旅行くらいかな」
「旅行は何処に?」
「グアムと韓国に行くよ」
それが特別なことだとは思ってもいない態度だったので、国外に出たことのない誓は何も言わずに頷いた。上も下も見ないで生きていけたら、どんなに楽だろう。海外旅行に行きたいわけじゃないのに、海外旅行という経験が過去にあればいいのにと思う。対して悲しい思いはないけれど、時々己の惨めさについていけなくなる。
「ヒロ君は、帰省するの?」
清水の腕が誓の腕をかすめたけれど、気づかないふりをした。気にしたそぶりを見せたら、そこから何か行動をしなければいけなくなる。
「いや、十月に帰る予定。夏はどうしても飛行機の値段が高くなるから」
「そっか。北海道って言ってたよね」
「うん」
「兄弟は?みんなで集まらないの?」
無邪気な質問に、不意に冷静さが物理的な核になるのを自覚した。心臓の奥底に積み上げてきた思いが残酷さを厭わなくなる。他人に対して残酷になることに正当性など見出せるはずもなく、絶対に後悔するとわかっていながら、それでもその残酷さは誓を現実から守るために必要な盾なのだ。
誓は清水を見下ろした。整った顔立ち。小柄で華奢で、育ちの良さがにじみ出た少女のような出で立ちに、それ以上の魅力は見いだせなかった。
「うちは家庭環境が複雑で、祖母しかいないんだ。両親はもう連絡がつかないし、兄弟もいない。血縁関係があるのは祖母だけで、祖母にとっても家族と言えるのは俺だけ」
つらつらと言葉が溢れていくのを、誓は何故か自分と遠くにある物語を語るような気分でいた。
「だから、俺はそんなに長く東京にいるつもりはない。時機が来たら北海道に帰るつもりなんだ」
がさがさとした車内でも、清水が息を飲むのが分かった。
「大変だったんだね」
精一杯の思いを込めた清水と目が合う。彼女の表情には優しさと憐れみの気持ちが余すことなく押し出されていた。自分が持っていない不幸を俯瞰した人間の目。誓のよく知っている目だ。
「ごめんね、何も知らずに。失礼なこと言ったよね」
「いや。これはあくまで俺の事情だから」
相手が知らないことにまで気を遣うべきだなどと横暴なことは考えていない。むしろ相手を理解していると、そうしたいのだと押し付けられていることへの違和感。相手の感情を必要以上にオーバーラップすることが本当に正義なのか。彼女たちの、施す側だという意識の高さが妙に気に障る。
「でも、そんな過去があるなんて知らなかったの」
零れるんじゃないかと思う程水分を含んだ瞳に見つめられ、誓はもう無理だと思った。彼女が心の中で猛烈な衝撃と葛藤しているとわかっていて、その結末がどんな形であったとしても続きは存在しない。
未架と関係を繋ぐ中で、幾つかの本音や事実を彼に告白してきた。それが何故だったのかは分からない。彼を前にするだけで、隠し事の殻がくしゃりと潰れて、真実や正直な思いがむき出しになる。意図して隠すつもりも別に無かった。
未架への告白を通して分かったのは、本来隠す必要のない事実にベールをかけてきたのは他人の目に晒すことで欠点のように扱われた経験への抵抗感だった。自分が置かれた環境はとても人様に安易に知らせるようなものじゃないとわかっていたけれど、わからせてやりたいという衝動に出会ったことも少なくはない。結局どちらつかずなのだ。どちらも切り札みたいに扱っている。
未架は他人の話に対して無意味なリアクションを取らない。大袈裟に、理解者のように、同情や思いやりを振り撒いたりしない。何も出来ないくせに可哀想だと言ったりせずにただ事実を受けれ、そのうえで何も変わらずにいる。
未架の毅然とした対応は優しくされたいと思う人間には物足りないものかもしれない。ただ、誓には辛くも重くもない、適切な距離感に思えた。彼の輪郭は何があっても溶けたりしない。
清水の手が誓の腕に触れる。嫌でも意識させられる触り方に、誓は反射的に腕を引いた。何故だろう。彼女に許せる範囲を超えていると確かな境界線を踏みしめた気がした。
手を露骨に避けられたにもかかわらず、清水は怯まずに熱っぽい瞳で誓を見つめ続けている。まるで誓が晒した事実が、彼女を映画の一部にでも招待したかのような表情だった。
「私にできることがあれば何でも言ってね。力になりたいから」
彼女の善意があまりに純粋であることに気付いてしまったから、誓は穏やかにほほ笑んでありがとうと告げた。安堵した表情の清水に、何が言えようか。もしも彼女の中に善意だけでできた感情の核があるのならば、一方的な劣等感にチリチリと焼かれる心臓の音が届けばいいと思った。それでも彼女を憎まずにいられたのは、その感情の優先順位が低かったからだ。
「ヒロ。今日うちに来ないか?」
バックヤードで休憩中にお茶を飲んでいると、店長から声を掛けられた。緑茶の粉っぽい苦みをした先に感じながら振り返る。
「うち?」
家にこいということだろうと首を傾げると、彼はもっと不思議そうな顔をした。
「そう。お前今日のシフト、夕方までだろう?」
それは確かにそうであったので、誓ははいと小さく頷いた。
「実はちょっと相談があるんだ」
こっそり耳打ちをされると断れなかった。わかりました頷いて仕事に戻った。相談という言葉が不意に意味のある言葉に思え、一瞬手が止まった。都合よく使われるのはごめんだという強靭な思いとは裏腹に、力が無いと思い込んだ無気力さに、可能性の光があるように思え、途端に自らの意志に変わっていく。大きな力はいらないけれど、確かな強さは欲しかった。圧倒的な魅力はなくてもいいけれど、煌めく一瞬が必要だった。
帰り際に一緒に帰ろうと石田に声をかけられ、店長との約束についてれると、彼は羨ましいと羨ましそうな顔で言った。
「お前は十分店長の車にのせてもらっただろう?」
誓がいつも断る店長の車に、石田は遠慮なく乗り込んでいる。誓自身が断っているのだからそのことを羨ましいと思っているわけではないが、誘いに無邪気に甘えることのできる根の素直さには正直嫉妬してしまう。当たり前の基準をもっと高いところでピン留めして生きていく糧にできたら、どんなにいいだろう。
彼の愛車の助手席に座りながら、そろそろ免許を取りに行こうと考える。祖母のことを考えると車は持っていた方がいいがする。一方で車を持つ程のお金があるだろうかと考えると恐ろしくて、それ以上は考えられなかった。
「ラジオでいい?』
ボリュームを調整しながら尋ねられ、なんでも大丈夫ですと返す。ラジオをきく習慣も好きなバンドもない。そうして考えてみると誓は音のある生活をあまりしてこなかった。おとをシャットアウトして自分の世界に浸るなんてことを必要としてこなかった。一人で生きてきた気がすると言ったら、大袈裟だろうか。雪国はどこまでも静かで、途方のない景色に身を置くことは、はめていないパズルの一枚目みたいに心許ない。ずっと居場所のない生き方をしてきた気がする。
「これは奥さんの趣味ですか?」
助手席の肘掛けのところに、マスコットのキーホルダーが落ちていた。ボールチェーンを指にかけて揺らすと、頭でっかちな二頭身は笑うでもない笑顔を浮かべていた。
「あぁ。それ、無くしたとか言ってたな」
赤信号の隙に横目で見て、店長は呆れたように言った。
「そそっかしいんだよな」
そういう横顔に幸せが滲み出ている。
信号が変わりゆっくりと動き出した外の景色。都会の景色は似たような景色が一定の距離で繰り返されている。ポップな看板のチェーン店と少し大きなマンションや学校、小柄な一軒家がひとまとまりとなって、まるで似たようなコマーシャルが短いスパンで何度も繰り返されているみたいだ。夏の七時はまだ明るさが残っていて、歩く人の足取りは軽い。皆帰路についているのだ。
他人の幸福は追求しないと決めている。幸福だけじゃない。不幸にも隆盛にも、可能な限り近づかないようにする。恨むことも羨むことも全く意味が無いないし、結局のところ誓はその彼らの持つ幸福を同じレベルで欲して要るかと言われるとよく分からないのだ。どこかの宗教でいう幸福の境地があるとして、信者はそこを目的地に経典を道標に進むのだろうけれど、無関係の人間はその道程に迷い込みはしない。ただ、同じ重さの幸福に出会えたらいいのにとは思う。目指して辿り着くべき幸福の境地が自分にはないということが、結局のところ自分が幸せになりきれない原因なのだろう。
知らない不幸の想像ができないことを、誓は一つの幸福だと思っている。貧困や空腹や孤独などのこの世の中ありふれた悲しみに縁なく生きていける人がいる。それ自体が悪いことじゃない。怖いのは、それらの不幸から身を遠ざけていられることに自らの努力が含まれていると錯覚することだ。不幸の原因を一個の肉体に留められるという哲学的観念に違和感と不快感がある。
「ヒロは出前何が好き?」
店長の気の抜けた質問に、誓は運転席をみる。ハンドルに添えられた手が大きい。
「出前ですか?」
「うん。奥さんがご飯作れないから何かとろう」
作らないではなく作れない。何か含みがあると思いながら、誓はなんでも食べられますと答えた。
「好きなもの頼むから考えておいて。何でもいいよ」
住宅街のマンションだと言っていた通り、彼の家は大きなマンションの十一階で、それでもまだ上に何階もある。エレベーターの独特の音響に軽い頭痛がした。
「いらっしゃい」
迎えてくれた奥さんを見て一番最初に抱い感想は、店長と似ているだった。結婚相手と自分の顔が似ているという話は珍しくない。似ている要素に引かれるという生物学的傾向の極論らしい。
そしてすぐにもう一つの問題点に気がつく。ゆったりとした黒いワンピースを着ていてもよく目立つ、大きなお腹。
こちらからいうべきなのだろうかと思いながらも直ぐに食いつくのもなんだか気まずいと考えて、あえて触れずに店長を見た。
「見ての通りです」
自分が呼ばれた理由が分かった。勘が鈍いほうじゃない。
「何かあったら店のことを頼みたい」
もちろんですと頷いて見せる。安心したように笑った店長を見て、誓は自分の空洞に風が通り抜けたのを感じた。
「予定日はいつですか?」
「一応、来月。ただ初産だし、一ヶ月くらいは前後してもおかしくないからな」
誓は自分の予定を頭の中で確認する。
「飲み物はどうする?」
「そんなの俺がやるから座ってて」
「これくらい出来る」
互いを気遣いあう巧妙な喧嘩を聞きながら、誓はそっと家の中を見渡す。きれいに掃除された家だ。物の配置の細やかさなどを見ても、奥さんがよく手入れをしているのは明らかだった。店長はすぐに物を適当なところに置いてはあれがないこれがないと騒ぐし、一度狭い棚にダンボールを無理やり突っ込んだせいで抜けなくなって社員総出の大騒動になったこともある。きっと奥さんは店長がいない間に少しずつ掃除をしているのだろうと考えると、彼女の大きなお腹そのものに対して妙な敬意が込み上げてくる。そして、その中に宿された生命に約束された幸福。圧倒的な輝きが漏れ出して、暗闇にいる自分を勝手に照らし出す光。暗いまま見えないままにいた自分を、なぜこうも勝手に見つけ出してくるのだろう。平等に注がれる光は個体差という条件をもとにすれば、十分不平等になる。
「全くもう。いい気になるんだから」
キッチンから追い出された奥さんが、諦めた顔でため息をついた。店長はしたり顔で冷蔵庫を覗き込んでいる。
「隣いいかしら?」
リビングにはソファは一つしか無かった。少し余裕のある二人がけのソファを退くべきかどうかを少し考えてから、わざとらしく退くのも違う気がして、少し横にずれた。座るとしっかり身体が沈むタイプの青いソファ。
「御免なさいね」
「え?」
「あの人に無理やり連れてこられたんでしょう?」
全てを知っているという顔だった。
「誰よりもソワソワしてて全然話を聞かないんだもの」
愚痴っぽいけれど、彼女がそれを咎める意図は全くない。それがわかると、誓は心臓に直接的な痛みを覚えた。何にも守られていなかった部分を無防備なまま風に吹かれたような、そんな痛み。
彼女はほとんど化粧をしていなかった。薄くリップが塗ってあるくらいで、目元にも頬にも人工的な色合いはなく、おそらく店長とそう年ごろは変わらないだろうに、彼女には少女的な可愛らしさが見受けられた。そんな幼さの見える横顔のまま、もう少しで子供ができて彼女は母親になる。
「おめでとうございます」
自然と溢れた。結婚をしたいだとかこどもがほしいだとか考えたこともないし、きっと自分にはそんな資格は無いのだけれど、その事実が他人の手元にあるというだけでとても輝かしく、美しく感じる。その矛盾を受け入れられる自分が不思議ではあったけれど、不本意ではなかった。
生まれて来たくなどなかったという思いを、最近意識せずに生きている。生まれてから一度も死にたいと後ろ向きに思ったことはないけれど、生まれてきたことを後悔することは多かった。望まれて生まれきてきたわけじゃないと知ってしまってから、何を理由に生きていけばいいのかがわからない。何かの犠牲の上でしか生きていけない脆弱さを前にして、自分のために生きることは難しい。
「ヒロ君をあの人が信頼しているのがよくわかるわ」
出前の電話をしに寝室に引っ込んでしまった店長のことを考える。
「きっといいご家庭で育ったのね」
全く見当違いの感想に、誓は内心苦笑した。
でも、ちゃんと幸せに生きてきたじゃないかと囁く自分がどこかにいる。不幸だったなんて思わずにいれば、不幸では無かった過去がある気がする。祖母に大切に育ててもらった。それの何を恥じようか。両親の揃った家庭がいい家庭であることは否定しない。でも、それから少しでも外れれば不幸だという短絡的な考えはしたくない。過去は変えられないというけれど、過去をどう捉えるかは思いの外自由だ。
ピザが届いてからはのんびりとしたパーティーという感じで、人のいい夫婦にもてなされてピザやチキンを食べながら幾つもの話を繰り広げた。ドリンクは迷わずにコーラを選んだ。話の殆どが店で起こったトラブルや珍事などで、奥さんはつまらないのではないか誓は心配したけれど、彼女は大抵のことを知っていた。人間関係も把握していたし、店の環境や状況などにも詳しかった。誓についても基本的なことは把握している感じで、ふと、ならば彼女は誓の家庭環境を知った上であの発言をしたのではないかという考えがよぎった。だとしたら強いなと思った。
「そういえば、ヒロ」
店長がビールの缶を開けた。
「お前正社員にならないか?」
誓の空けたグラスにビールを断る間も無く注がれる。アルコールには強い体質だが、あまり好んで飲んではいない。
「すみません」
誓は話が深くなる前に断りを入れる。
「以前からお話ししている通り、どっかで北海道に帰る予定なんです」
「どっかっていうのは、具体的にいつだ?」
ぐっと息を呑んだ。いつかと問われると、何も言えなかった。漠然とした思いを言葉にするのは難しく、ありがちな物語に思いを託してここに来た。強い思いなんかなかった。ただ、動かずにはいられない意地はあった。
「祖母を一人で北海道に置いてきた薄情者なんですよ」
誓は自虐的に言いながら、自覚しながらこの街に留まろうとしている自分を妙に客観的に感じた。別に居場所があるわけでもないこの街にしがみつく自分の姿は多分、あの人の背中と同じだろう。言葉にしたら消えてしまいそうな微かな愛情を捨てられずに、もっと大きな犠牲に目を向けることもできない。
自分が傷ついていると自覚したから、その傷を抱えたまま生きていくわけにはいかなかった。壊さなければ進めないと思った。癒着した傷を壊すために、自分自身が壊れてもいいと思っていたし、剰えそれを望んでいた。この傷と共存する気はなかった。
時間が経って、自分の置かれた立場を理解した。自分に降り注いだことの大きさを知った。母親に捨てられた。その事実を明確に理解したときには、すでにその事実は遠ざかっていた。過去の一章になりかけていた。だから向こうに押し流された事実に手を伸ばした。父親のいない家に生まれて、その上母親にまで見捨てられたという事実を、この手に取り戻した。この不幸を切り離して生きていくわけにはいかないと思った。傷だらけの思いだけ残して、現実ばかりが進んでいく。それが許せなかった。
取り戻した不幸は箱に入っていた。重たくも冷たくもなかったけれど、開ける度に無気力になる自分がいた。何かをしようとする自分の足を絡めとる。地獄の大地に苗木を育てているみたいだった。傷は癒えなかった。
ビールを飲み干してから、店長は軽く笑った。
「別に縛り付けようっていうわけじゃない。好きな時にやめてもらって構わないよ。ただ、正社員の方が絶対に今後にもいい影響があると思うし、ヒロにとって悪い話じゃないんだ」
穏やかに諭され、誓は押し黙る。瞬間的に感情が燃え上がったことが急に恥ずかしく感じた。
この誘いは誓を思っての善意だ。北海道に帰ってから何かをしようにも、東京でのアルバイト経験だけでは遊んでいたとしかとられないだろうし、正社員の経験があるかないかで大きな差になる。
「無論無理強いはしない。ヒロの選択を尊重する。だから少し考えてごらん」
彼の大きな手が誓の頭を撫でた。あまりに自然に、そして思いの外力強い温もりに不意にふれ、誓はなんだか自分が泣きたいような気がきて堪らなくなった。国や地域社会、学校などの紋切り型のコミュニティーに保護されるようにして生きてきた。綺麗にラッピングされた慈悲をくれる大人に囲まれて生きてきたのだ。言葉に守られて生きてきた。優しくて、丁寧で、とてもきれいな言葉。きっと誰にでもできる。
無防備な優しさに慣れていない。
乱暴で剥き出しの優しさが自分に降り注いでわかる、この世界の無防備さ。それでも自分が無防備になることがこんなにも難しい。
優しさよりももっと重たいもの。あの箱がもう二度と開くことのない重石を探している。
十時を回った頃、誓は帰ることにした。店長は何を陽気に感じたのか十本近くのビールを空け、今はソファで潰れている。付き合ってかなりの量を飲んだ誓も足腰こそしっかりしているが、どこかで意識が自覚できない場所に浮遊しているのを感じた。
「帰れる?泊って行っていいのよ?」
「大丈夫です」
玄関で申し訳なさそうな顔をした奥さんにお礼を言って、彼らのマンションを後にした。
片手にスマートフォンで地図を表示しながら、知らない街を歩く。奥さんは心配そうに駅までの道を事細かに説明してくれたが、別に多少迷っても構わない。これだけ明るい都会の街で、まだ十分に終電まで時間があって、何を急くというのだろう。むしろこのよく知らない街を練り歩くことで得られる何かがあるというのなら、何にだって出会ってやろうと思う。
足元のコンクリートの境目を埋める土のラインにダンゴムシがノロノロと動いている。二車線の大通りにはヘッドライトとテールライトが行き交っていて、遅い時間だということも平日だということも忘れてしまう。彼方に燃え盛る情熱と此方に沈み込んだ絶望が、拮抗して何もない世界という顔で回る地球の中心地で、耳をそば立てている気分だった。まるで自分がなんでも知っているかのように思えて、でも自分は何者でもない。自分の存在の虚しさを感じているけれど、自分を世界の中心に置かずに生きていくことは多分できない。その矛盾がいつだって煩わしい。
幸せそうな夫婦だった。お互いに眉を顰めながら、お互いに許し合っていた。表に愛情を示して満足することも愛情を免罪符に感情をぶれさせることもなく、共に生きていく覚悟を互いに結び合っていた。幸せの輪郭を確かになぞった気がした。子供が生まれたら、きっと店長は泣くだろうと想像をすると、可笑しかった。愛される保証の元に生まれてくる一つの生命に、どうしたって自分を比べてしまう。意味がないとわかっているし無意味に傷つくのは馬鹿げていると思いながらも、ありし日の自分が負った運命への僅かな抵抗として、今の自分の立ち位置でいっそずっと不幸である方がマシかもしれないと、不意に手に余る幸せの欠片を無意味に握り締めて傷ついていく。
幸せに手が届くのなら、手を伸ばした方がいい。背伸びしてでも届くのなら逃さない方がいい。あまりに遠くにあると、無気力にしゃがみ込むしかない。
高架下の自動販売機の明かりが、時折襲ってくる猛烈な睡魔から意識を此方に引き戻す。まだ眠れないと重い足取りで駅を目指すけれど、今自分がどこにいるのかは正直わからなかった。それでも高架線に沿って歩いていれば駅にたどり着くはずだと自分を励まして歩いた。線路はやがてトンネルへと続き、途切れた歩道のど真ん中に立ち尽くしていると、携帯電話が鳴った。