一章
手に取った白のカーディガンの淡い色合いに、誓は思わず手を留めた。白と、白以外の、でも確実に白に近い色が綺麗に半分ずつ混ざったみたいな優しい色合い。オフホワイトのようにくすんでいるわけではないのに、何処かに穏やかさに似た懐かしい雰囲気を含んでいた。
「これって何色?」
思わず、一緒に品出しをしていた同僚に尋ねると、白でしょと返された。
「他にもイエロー、オレンジ、ブルーがあるよ」
そういって示された段ボール箱を覗いてみると、確かに色違いの薄手のカーディガンがぎっしりと詰め込まれている。
そりゃ、展開されている服の色としては白なのだろうけれど、こんなに綺麗な色をしているのだから、ただ白と言い表すのは惜しいなと思う。
カーディガンを見て、誓は北海道の地元を思い出した。雪の白さに似ている、と思った。冷たさからほど遠い、明るさと柔らかさを感じる白。
「しかし季節の変わり目のバックヤードはいつも、足の踏み場が無くなるな」
同じアルバイト店員の石田は身動きが取れないと愚痴りながら、それでも手は淀みなく服をサイズごとに分けてハンガーに通していく。
昨日までに届いた春の新作。今年はどれも鮮やかな色合いが多く、見ていて気分が高揚する。でも、実際のところ季節はまだ冬で、店に来る客は真冬の格好のままだし、販売促進の為に春服に袖を通した店員も、暖房の温かさに助けられているだけだ。端の方でセール品の札の張られたコートだって、まだまだ出番のある季節だ。ファッションはあまりに季節を先取りしすぎている。
誓も段ボールから取り出した服のビニールカバーを外して検品をし、一セットずつ店頭に出す。さっきからバックヤードと店内を行ったり来たりだ。
「さっきの客、片っ端から広げていったな」
石田が眉をひそめた。さっきの客とは、大学生と思われる三人組の男たちのことだ。三人とも身体付きが良かった。おそらく何かしらのスポーツをしているのだろう。威圧的な態度で店の中を闊歩し、到底入らなそうなスキニーパンツや細身のジャケットを冷やかし感覚で物色していった。
「買わない客ほど無意味に商品を触るって法則、絶対にあると思う」
石田は慣れた手つきでスキニーパンツを畳み直しながら、そう囁いた。誓はうつむいて笑う。まさに同じことを考えていたのだ。冷やかしだから、あれもこれも手当たり次第に物色する。そしてその商品に対する情みたいなものが、一切見受けられない。どうしたって興味のないもの、選択肢から外れたものに対する人間の反応には冷たさが伴う。何か目的をもって買う人や欲しいけれど買うかどうか悩んでいる人ならば、他に目移りしないでじっくり見て悩んでいる。そういう場合に購入を見送るときは、名残惜しさのようなものがあるせいか、商品へのある種の丁寧さがみられる。そういう僅かな差にも気付くくらい、この仕事にも慣れた。ざっと店内を見て帰る客。じっくりと悩む客。決断の早い客。店員という立場上買ってくれる客がたくさんいてくれればいいに越したことはないけれど、流れるように入れ替わる客を日々眺めているのはそれなりに面白い。田舎で育った誓からすれば、東京の人の多さや無関心な社会性の中に身を置いていること自体が、好奇心を刺激した。
「うちの服って、意外と高いよな」
誓は出ていた値札をニットの中に仕舞う。決まりだからそうするだけで、洋服を買うときに値札を確認せずに買う人などまずいないのだからそんな小細工しなければいいのに、と思う。
いくら社員割がきいているといったって、誓の収入からすると中々痛い出費だ。必要以上の服は買わず、出社しない日は過去の服や安い別ブランドの服を着ることが多い。
「買えない程じゃないけど、即決できる値段ではないね」
そう答えた石田を横目に見て、溜息を飲み込んだ。石田の本分は大学生で、アルバイト代で一人安アパートに暮らしている誓と違い、実家で快適に暮らしているし、勿論アルバイト代はそっくりそのままお小遣いになっている。日常の様子からも金に困っているそぶりはない。時々、同僚という立場にいることに違和感を覚えるような存在だが、一般的に見れば、むしろ稀なのは誓の方かもしれない。入れ替わりの激しさからアルバイトの正確な人数は把握していないけれど、大抵が大学生のお小遣い稼ぎで、正社員以外で此処の収入をあてにしているのは誓くらいだろう。
この店の特徴のひとつは男女の洋服を同じテナント内で扱っている点だろう。そのため、男女の店員が入り乱れるシフトになっている。
店頭から見て、左側がレディース、右がメンズ。そしてその真ん中あたりに、ユニセックスの服がどちらつかずに並べられている。男性物とも女性物ともいえるデザインのシンプルなニットやパーカー、スニーカーなどの小物も並んでいて、多くの客が目を留め、物色をしている姿を見る。
オープンしたばかりの平日の午前中の時間帯に洋服を買いに来る客などほとんどおらず、店は閑散としていた。何も誓の勤務先だけの話ではなく、建物の中で閑古鳥が鳴いている。無理もない。この建物全体が若者向けのファッションテナントばかりで、ターゲット層は十代後半から二十代前半くらい。ボリュームゾーンは大学生だから、時間によっては混雑するし、そうでなければ暇を持て余すくらいだった。
「ところで、ヒロ。今夜、空いてない?」
石田は鼻歌でも歌いだしそうな明るさで、話題を変えた。
「今夜?」
今夜のシフトは六時までだったので、誓は空いてると返した。
「じゃぁ、ご飯に行こう」
石田は小声でそういうと、誓が何かを返す前に颯爽とバックヤードへと歩いて行ってしまった。
冷たさに呼吸を取り戻せるのは何故だろう。強すぎる暖房に一日中当たっていた日はいつも、頭の芯が肥大したように感覚が鈍くなる。身体中の神経が野放図に動くように乱れ、自分の一部だということを忘れていくようだった。
外に出て冷たい空気に触れ、神経の手綱が一気に脳に戻ってくる。考えているように、思っているように、本能的に身体を動かせる。寒さに身を縮こまらせて震えながら、そのくせ妙に息が楽になる。北海道で育った誓にとって寒さは苦難ではなく、傍にあるものという認識だった。
待ち合わせは勤務地から少し離れた池袋の店で、地図に従って表通りから一本奥の細い道を歩いた。道の両側に世界各国の料理専門の店ばかりがみっちりと並んでいて、歩くだけでちょっとした旅行気分を味わえた。誓は海外旅行はおろか、国内旅行だって覚えはない。居住地は三度変わった。
石田から指定された店は歩いて五分ほどで着いた。エスニック系と言われていた通り、店の外にまで独特のスパイシーなにおいが漏れている。
「ヒロ」
店のドアに取り付けられた鈴が鳴ると、店員よりも早く石田が気付いた。わざと照明の明るさを抑えている室内では人の顔を見分けるのは難しかったが、馴染みのある声の方に顔を向ける。天蓋に区切られた、窓際の四人席。石田の向かい側に二人の女の子が座っている。
一瞬怯んだ心をなかったことにして、誓は軽く右手を上げた。
「どうも」
にっこりと笑顔で挨拶をする。取り繕うのはうまい方だと思う。
なぜもっと早く気付かなかったのだろう。男二人でこんなに洒落たエスニック料理の店を指定されるなんて、考えればおかしな話だ。
誓は失礼にならない程度にまじまじと、此方に愛想のいい笑顔を向ける女の子たちを見た。柔らかなパステルカラーのニット姿はエスニックという雰囲気にまるで馴染んではいないが、上品な女の子たちの異文化学習だと思えばしっくりくる。店の中はそんな客ばかりだった。
隣の石田に説明をするように促すと、まるでホストにでもなったように仕切りだした。
「俺の高校の同級生の、飯田」
石田は向かって左に座った髪の長い方の子を指さし、その指をすぐに右にスライドさせた。
「と、飯田の大学の友達の清水さん」
正面に座っていた清水と呼ばれた彼女は静かにほほ笑んで、会釈をする。誓も釣られるように頭を下げた。
「こっちは、俺のバイト仲間の広原」
「あ、広原君だからヒロって呼ばれているんだね」
飯田があぁと納得した表情で言った。
「うん。ヒロって呼んでね」
三人はすでに飲み物を頼んでいたので、誓は石田と同じものを頼んだ。メニュー表は女の子たちに渡してしまっているし、どうせメニュー表を見ても名前だけではどんなドリンクなのかはわからない。
「生春巻きがいいな」
「わかる、おいしいよね。シュリンプも頼もうよ」
肩を寄せ合ってメニュー表を覗いている女の子たちが、頼むから小食であって欲しい。でも、彼女たちの食欲がどうであったとしても、頼む料理の品数はだいたい想像がつく。こういう場面での相場を彼女たちは学んできているのだ。サラダやさっぱりした前菜を頼み、程よく男性にも満足感を得て貰える揚げ物や味の濃いものも、きちんと注文しておく。抜かりがないのだ。目の前の女子たちのことなんて全く知らない。でも、なんだか知っている気がした。
この後の流れはさすがに理解しているし、そうできる人間でありたい見栄もある。ただ、財布の中は酷く心細かった。何も月末にこんな会を開くことは無いじゃないかとと恨み節で石田を睨むが、彼はちらちらと目の前の女の子たちを見ていて、誓の視線になど気付きもしない。
「なんなの、この組み合わせ」
運ばれてきた真緑のカクテルに口をつける。かき氷シロップの原液みたいな色をしていると思ったが、味も甘ったるくて直ぐに舌が麻痺した。
「飯田梨香子。高校時代の元カノ」
数日前に彼女が欲しいと唐突に口にした石田の意図が読めて、誓はすっかり面白くない気分だった。
「先に言えよ」
ここの支払いは石田に払わせると誓は心に決め、そう思うと急に食欲が湧いてきた。
「でも、清水さん。めっちゃ可愛くない?」
石田と目が合うと、お前も彼女いないだろと誓を唆す。
ついつられて清水を横目に見る。飯田とお互いのネイルを見せあう彼女たちは、確かに垢抜けていて綺麗だった。洗練されたという言葉はこういう子たちに遣うのだろう。素材そのものもいいうえに、着飾る術も余裕も気力も持っている。まるでドレスコードのある店でしか出せない料理みたいだった。
「なあに?」
誓の視線に気づいた清水が期待に満ちた瞳で小首を傾げる。
「いや、可愛いなって」
石田が調子よく答える。
「な?」
同意を求められ、誓はやや引き気味に頷いた。
彼女たちは頭の先から爪の先まできちんと手入れされているものだから、逆に何処を褒めていいのかわからない。何が、と問われたらどうしようと思ったが、彼女たちは顔を見あわせて喜んでいた。照れた様子も恥ずかしがる様子もなく、満足げだった。
彼女たちのなかにある優性意識が見えてしまうと、それだけで気が重くなる。清水の胸元で光るネックレスはブランド物だし、飯田の鞄もブランドロゴが書いてある。石田のスニーカーもビンテージもので、バイト代をつぎ込んでオークションで落としたと言っていた。
「そういえば、ゼミ決めた?」
同年代のグループの会話に入るとき、誓は何度か会話から離脱することになる。大学の話と、お金の話と、将来の話だ。誓は諦めて、春雨のサラダを口に運ぶ。
「そりゃ、卒論が楽な教授のところ一択っしょ」
アルコールが回ってきたのか、石田はいつもにまして調子よく答えた。
「石田っぽい」
飯田は呆れていると言いたげに肩をすくめる。
「でもさ、まじであんなの教授の匙加減じゃん。良い評価貰った方が絶対に有利だぜ」
まあねと頷く飯田の表情には、石田への愛情が見て取れた。
「ヒロ君は?」
会話に参加しない誓に気を遣って、清水が話題をふってきた。
「あ、こいつ、大学行っていないんだ」
誓が返すよりも早く石田が答えた。石田の大きな声がはじけたとき、誓は一瞬強い眩暈を覚えた。きっと女の子たちの目の前にも、強い閃光が走っただろう。
「あ、専門?」
飯田が確信を持った口調で尋ねてきたので、誓は半ばやけくそだった。
「ううん。普通に働いてる」
場に恐ろしい沈黙がながれ、女の子たちの表情が曇る。ここにも新しい異文化交流の機会があるだけだよと内心思うけれど、彼女たちからすれば想定外の悪夢だっただろう。飯田が石田を一瞥したときの強い視線が、横からでも痛いくらいに鋭かった。
そうだよ、と内心思う。お前の元カレは高卒の同僚を大学生の集まりの場に連れてくることに何も感じない奴なんだよ。
困惑して飲み物のグラスに手を伸ばした清水を、誓は横目で見る。差し出されたのは、彼女の方か。誓の方か。
そう思いながらも、それでも誓は、石田が嫌いなわけじゃなかった。
二年前に高校を卒業すると同時に単身上京し、高校時代にコンビニアルバイトでためたお金を頭金にして何とか東京の街に住んでいる。
炊飯器が鳴って、ご飯が炊きあがった。棚からタッパーを取り出し、一食分ごとに分けていく。節約の一種で、ご飯を炊くときは五合を一気に炊いてそれを冷凍保存するようにしている。一合分はそのまま冷凍にして、他におにぎりも作っていく。味付けの種類は多くない。いつもと同じように、カレー、ふりかけ、ケチャップの三種類。
冷たいご飯は味気ないがおにぎりにすると冷たくてもあまり気にならずに食べられると知ったとき、誓はまだ五歳にもなっていなかった。夜も仕事に出る母親の作り置きご飯はおかずも少なく食は進まなかったが、味付けされたおにぎりは食べやすく、妙に満足感があった。母と別れ祖母と暮らし始めてからも経済的な部分は明るくなかったので、結局は似たような食生活が続いた。一人暮らしになってからも節約の意味も兼ねておにぎりを大量に作っておく。冬の間なら次の日くらいまでは冷蔵庫に入れなくても食べられるし、職場にそのままお弁当代わりに持っていくことも出来る。石田には料理が出来るのかと驚かれた。
ダブルデートに無理やり付き合わされたあの日、石田の思惑は成功し、彼は彼女と肩を寄せながら駅までの道を歩いていた。すっかり二人の世界に浸ったカップル未満に置いてけぼりにされ、清水と誓は並んで歩く形になった。
「今日はありがとう。それに、ご馳走様」
ピンヒールを履きこなせずに心許ない足取りの清水に合わせて歩くのはペースが乱され、億劫だった。おまけに、この先の生活費のことで頭がいっぱいだった。
石田に払わせればいいと最初は強気に思っていたが、いざ支払いの時になって情けなさを感じてしまい、なけなしの一万円札を出してしまったのだ。自分を見栄っ張りだと疑ったことはなかったけれど、自己を押し通せるほどの自信はなかった。彼女のふらふらした足取りと高いピンヒールを見つめる。形の美しい白いレースのデザインは、その手の話題に疎い誓にも高価なものだと直ぐにわかり、だからこそぶつけどころのない苛立ちと苦しさが身体の中に燻った。
無い袖は振れないという言葉。勉強はからっきし出来なかったが、その言葉だけは直ぐに覚えた。諦めることの多かった少年時代、あまりに的確な言葉だと思ったのだ。無いものを望むことはしない。去る者を追いかけたりはしない。
ボウルの中で味付けたご飯をラップでおにぎりの形にする。母の小さな手で作られたおにぎりは小さかった。子供の頃と同じように二個を一食の計算で作るけれど、あの頃よりも一つのサイズが大きくなった。成人したのだから当たり前だ。
「ハンバーグ食いてえな」
ふと思いつきで呟いて、呟いたことで虚しさが霧散していく。言葉にすることで言霊がどうだとか、そういう迷信めいたことは好きじゃない。口にしただけで幸福になれるのなら、迷惑はかけまいと飲み込んだ何百もの欲望は叶い時を失ったということだろうか。
窓の向こうの小さなベランダには、先ほど干したばかりの洗濯物が並んでいる。洋服は纏めて週に二回だけ洗濯機を回すので、一度の量は多い。所狭しと並べられた洋服が春の日差しと冬の冷たさの混じった三月特有の空の下で、そよそよと揺れている。昼の温かさと夜の気温差に身体が少しずつ疲れをためていく、そんな時期だ。