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第五章 きみの特別になりたくて 

         1

 遺体を木から降ろして地面に横たえる。三人はかき集めた枯れ葉で遺体を隠した。

 警察には通報しなかった。

「もし警察がここに来たら、すぐ近くにあるあの男の遺体がバレるかもしれない」

 それに――と舞は続ける。

「このブレスレットを持ち帰れただけでも、わたしには十分だから」

 舞は白いチェーンを握りしめた。三ツ谷はただ『わかりました』と応え、翔吾は何も言わなかった。

 樹海の中は迷いやすい。ひとたび足を踏み入れたら二度と出られない。その迷信は、少なくとも今回は迷信に過ぎなかった。三人はすんなりとSUVを停めた場所まで戻ってこられた。

SUVの横に白いスポーツバイクが停まっていた。フルフェイスのヘルメットがそばに落ちている。男のものだ。バイクにハンドルロックはかかっていなかった。三人はバイクを森の奥まで運び、ヘルメットと一緒に捨てた。長い時間のかかる作業だった。その間、三人は一度も言葉を発することはなかった。

 SUVに乗り、砂利道からコンクリート敷きの国道にもどるところで舞が言った。

「これから毎年、六月になったらわたしはここに来る」

 ハンドルを握る舞の声は弱々しかった。

「空は淋しがり屋だったから」

 三ツ谷はただ『そうですか』と応えた。

 翔吾はやはり、何も言わなかった。

 青木ヶ原樹海から東へ十五キロほど、富士急アイランドを構える富士吉田市の市内で三ツ谷はSUVを停めるように言った。

「アウディがわたくしを待っておりますので」

 舞はルピナスファームまで送ることを提案したが、三ツ谷は固辞した。舞も翔吾も疲れ切っている。これ以上、手間をかけさせるわけにはいかないとのことだった。

 別れはあっさりとしたものだった。路肩にSUVを停めると、『お世話になりました』とだけ言って去っていった。名残惜しさをみじんも感じさせない別れだった。

 三ツ谷がいなくなり、車内は沈黙に染まった。

 SUVは東京に向けて静かに走り続けた。五十鈴家は東京の文京区にある。西神田のインターを降りたところで、翔吾は車を降りた。別れはやはりあっさりとしたものだった。言葉なんてものはなく――

 それからひと月が経った。

 翔吾は実家からワンルームのアパートに戻り、就職活動もせずエアコンの効いた室内で日がな一日テレビゲームに戯れていた。

 翔吾は思う。一か月前に体験したあの二日間は夢だったのではないかと。

 五十鈴舞と三ツ谷卓也。このふたりは液晶モニターの中のゲームキャラクターと同じ実在性を持たないNPCノンプレイヤーキャラクターに過ぎず、自分は想像の中でこのふたりのNPCと共に旅をしていたのではないか。

 そんなことはなかった。

「どうもお久しぶりです、志摩さん」

 アパートの玄関先に三ツ谷卓也が現れた。さっぱりとしたグレーのサマースーツに身を包み、髪は整髪料でキッチリと固めていた。

 三ツ谷は手土産のスイカを翔吾に押しつけて部屋にあがった。午後の日差しをたっぷりと浴びてきたらしく、顔は汗で照り輝いていた。

「長居するつもりはありません」

 洗面所で手を洗いながら三ツ谷が言う。三ツ谷は左手だけを洗っていた。右手には白い包帯が巻かれていた。翔吾は赤いネットに包まれたスイカを抱えたまま、鏡越しに三ツ谷の顔を見つめた。

「確認したいことがありまして」

「確認? いったい何を」

 三ツ谷はふり向き、小首を傾げてみせた。

「志摩さん。どうして五十鈴空さんを殺したのですか」


         2

 床に落ちて潰れたスイカの汁を三ツ谷が雑巾で拭いている。翔吾はパイプベッドに腰をおろし、両手で頭を抱えていた。

 水を切った雑巾を伸ばして浴室のドアのタオル干しにかける。包帯を巻いてはいるが右手はまったく使えないというわけではないらしい。もう一度洗面台で手を洗ってから、三ツ谷はうなだれる翔吾の前でどかりと尻を床につけて座った。

「何を言っているんですか」

 翔吾は伏せていた顔を勢いよく上げると、覇気のある声で応えてみせた。

「ぼくが空を殺した? そんなことできるはずがない。三ツ谷さんも見たでしょう。ぼくらが見つけた時、空の遺体はまだキレイで、腐っていなくて、つまり、わかるでしょう。亡くなってからそれほど時間が経っていなかった。丸二日間、三ツ谷さんと一緒に行動していたぼくに空を殺すことなんてできるわけがない」

「嘘をつくのって、ものすごくストレスのかかる作業なんですよ」

 三ツ谷の口調はさとすように淡々としたものだった。

「『嘘をついてはいけません』。『ひとを騙してはいけません』。多くのひとはこうした道徳を当然のものとして育ってきました。脊髄反射で偽りを嫌うのが普通のひとなんです。だけど時にひとは()()()()()()()()状況に陥ります。そんな時に有効なのは――沈黙。嘘をつくのではない。()()()()()()相手に一方的に誤解を生じさせることです。沈黙によって相手だけでなく自分をも騙すわけです。『自分は嘘をついてはいない。相手が勘違いしているだけ。自分は何も悪くない』って。志摩さんも『これ』をしたんですね。志摩さんはわたくしを騙した。嘘をつくのが辛いから、真実を()()ことでわたくしを騙した。そうですね」

「ちがう。ぼくは、ぼくじゃない。だって、最初に言ったのは舞さんで」

「そうですね。最初に()()()のは五十鈴さんだった。五十鈴さんは勇気をもって偽りを口にし、志摩さんは勇気なくして口を閉じた。おふたりは事前の打ち合わせすることなく共犯関係に収まった。そういうことでしょう。失礼。長居するつもりはないと言いましたが、これも嘘ですね。なにか飲み物をいただいてもよろしいでしょうか」

 すっくと立ちあがり、三ツ谷は冷蔵庫のドアを開けた。冷たい麦茶の入ったボトルを取り出し、ふたつのコップといっしょに戻ってくる。

「初めからおかしかったのです。わたくしたちが出会ったあの瞬間から」

 三ツ谷は透明のグラスに麦茶を注いだ。グラスにはうっすらと水垢が残っていたが、三ツ谷がそれを気にする様子はなかった。

「ルピナスファームで――今となっては恥ずかしい話です。わたくしは断崖から身を投げこの命を絶とうとしました。そんなわたくしを、忘れたとは言わせませんよ、志摩さん。あなたはわたくしの身体を掴んで引き留めてくれた。照明ひとつない暗がりの中で動くひとかげを空さんだと思いこんで。それはおかしなことではありません。しかし、その後におかしなことが起きた。五十鈴さんはこうおっしゃいました。『空なの?』と。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()疑ったのです」

 三ツ谷はジャケットのボタンを外し、ワイシャツの下の丸まった腹を強くはたいてみせた。そして次に、薄く短い頭髪を、コンガを叩くように両手ではたき始めた。

「わたくしは四十代の中年男性ですよ! 容貌魁偉ようぼうかいいに健やかなこの身体を見て、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 翔吾は左手を太ももの裏に隠した。震えていた。小指が、ひくりひくりと、震えていた。

「わたくしは空さんの捜索に協力することになり、空さんの写真を見せてほしいとお願いしました。ですが志摩さんは元恋人の写真はないとおっしゃり、まぁそれはよろしい。ですが五十鈴さんは、写真はないとおっしゃった。『うちは、写真を撮るような家じゃなかったから』と。おかしいですね。わたくしはそれよりも前に、お二人がどうしてルピナスファームにお越しになられたのかと訊ねた時に、五十鈴さんは空さんのこととあわせてこう答えられました。『子どもの頃にみんなで遊びに来て写真を撮りました。家族の思い出の場所なんです』と。これは明らかに矛盾しています」

「そんな、言葉尻を。子どものころは家族で写真を撮っていたけど、成長してからは、そんな機会がなかったというだけで、何もおかしなことなんて、ないですよ」

「おっしゃる通りです。これはわたくしが不信感を覚えたというだけのこと。しかし、写真がないならないで、せめて空さんの外見について説明していただくのが当然ではないですか? 志摩さんも五十鈴さんも、写真がないと言ってそれで終わりでした。捜索に協力するわたくしに、捜索対象の情報を与えてくださらなかったわけですよ。これはどういうことでしょう。まるで、空さんの外見について()()()()()()()かのようではないですか」

「ちがう。ぼくは、ただ――」

 ただ。なんだ? 翔吾はベッドから立ち上がり、掃き出し窓に近づいた。レースカーテンを少しだけ引く。窓の向こうで午後の日差しがじりじりとベランダを照らしている。空には七月の快晴が広がるばかりだった。

「埼玉の榊原さかきばらさんのお宅に伺った時にも、おかしなことが起きました」

 翔吾の背中に三ツ谷が語りかける。翔吾は震える手を身体と窓の間に隠していた。

「榊原さんのお子さん、輝大こうだいくんですよ。覚えていますか? 空さんが現れたその日の夜に、体調を崩したという男の子。わたしたちが現れた翌日は、いくらか回復したみたいでしたけどね」

「覚えていますよ」

 和室のふすまが開き、パジャマ姿の男の子が翔吾と三ツ谷のいる居間に飛び込んできた。男の子は何かから隠れるように、ふたりが座るソファーの裏側にもぐりこんだ。

「あの子は一体何に怯えていたのでしょう。見知らぬ来客でしょうか。違います。ただの人見知りなら、わたくしと志摩さんの座るソファーに近づく事さえできないでしょう。ではいったい? 和室のふすまが開く前に、廊下からあの子の叫び声が聞こえました。輝大くんは廊下で()()に怯え、和室に逃げ込んだのです。あの時、廊下にいたのは、榊原夏江(なつえ)さんと、五十鈴さんのおふたりでしたね」

 榊原夏江から空の次の目的地を聞き出した舞は、その目的地である松代賢二に連絡するため廊下にある固定電話に夏江とふたりで向かった。母親の姿を見て子どもが叫び声をあげるはずがない。舞だ。五十鈴舞の姿を見て榊原輝大は叫び声をあげたのだ。

「あの子はきっと女性が苦手なんです。見知らぬ女性が苦手で、その苦手な対象が朝から我が家に乗り込んできたというわけです。そうするとおかしいことになりますね」

 三ツ谷はのどを鳴らしながら麦茶を飲み干した。お代わりを注ぎながら、言葉を紡ぐ。

「榊原さんはこう言いました。『息子たちが帰ってきて、少しだけいっしょに遊んでもらって』と。榊原さんには少なくともふたりのお子さんがいらっしゃった。壁にかかっていた『きしょうはかせ検定けんていの賞状に名前があった『はると』くんがお兄さん。輝大くんを『下の子』と呼んでいましたし、彼が弟さんなんでしょうね。ともかく、輝大くんは遊んだんですよ。その日、突然現れた五十鈴空さんといっしょに遊んだんです。これはおかしい。輝大くんは見知らぬ女性が苦手だったはずです。輝大くんは前に空さんに会ったことがあるのでしょうか。そんなはずはありません。母親である夏江さん自身が何年も会っていなかったのに、そのお子さんと空さんが親しかったなど、あるはずがない」

「あんたは何を――」

「そして最後に」

 声を鋭く張りあげて、三ツ谷は翔吾の声を断ち切った。

「松代オートサービスの一幕ひとまくです。空さんは埼玉に住んでいた頃、松代賢二の持っていたキーホルダーをもらった。あのキーホルダーがどんなものだったか覚えていますか。西洋風の剣にドラゴンが巻き付いた銀色のキーホルダー。偏見を承知で申しますが、この手のものを欲しがる女の子はいません」

「そんなことありません。男の子趣味の女の子がいて何が悪いというのですか」

「悪いなんて言っておりません。ただ、滅多にいないと。松代オートサービスの不可解はまだ終わりではないですよ。事務所を出ようとしたら声をかけられましたよね」

 松代賢二との話を終え、事務所を後にしようとした三人は、空のサングラスを手にした松代賢二の妻に声をかけられた。

「松代さんの奥様は、失礼な言い方ですが松代さんに対する独占欲が強いように見受けられました。毎日職場で着る服を指定するなんて、ちょっとしたハラスメントですよ」

 服装だけではない。松代賢二の妻は旦那の髪にも注文をつけて脱色をさせていた。賢二本人は『普通の格好で仕事をしたい』と言っていたというのに。

「奥様はこう尋ねられました。五十鈴なんて名前聞いたことない、昔の女なんじゃないかな……と。わたくしは当初、この言葉は空さんに向けられていると思いました。ですが、あの時奥様は目の前にいる五十鈴舞さんをにらみつけていらっしゃった。空さんではない。『昔の女では?』と疑った相手は舞さんだったのです。ところで、空さんは松代賢二さんと()()()()()()で応接室に入りました。これは不自然ではないですか。独占欲という過剰な愛を抱く奥様が、旦那と私的な目的で会社を訊ねた女性・・の来客を応接室でふたりになどさせるでしょうか。わたしにはとても信じられません。だが実際にそれは起きた。舞さんに対しては、あれほど敵意を向けてきた奥様は、どうして空さんには旦那さんとふたりっきりになることを許したのですか」

「やめて」

 翔吾がつぶやいた。

「やめて。聞きたくない。ぼくは、ぼくは……」

「志摩さん。あなたは、嘘をついていない。あなたは一度も偽りの言葉を口にすることはなかった。そうやって自身を守ったのです。自ら虚言を吐き悪にちるのではなく、真実を語らないことでわたくしを偽りの網の中に突き落とした。ですがわたくしはいま、網を破り戻ってきました。あなたの目の前に、真実を伴って、こうして立っているわけです」

「ちがう。空は、ぼくは……」

なぜ五十鈴舞は三ツ谷卓也を五十鈴空と見間違えたのか。

なぜ五十鈴舞と志摩翔吾は、五十鈴空の外見について三ツ谷卓也に説明しなかったのか。

なぜ榊原輝大少年は、五十鈴舞に怯え、五十鈴空には懐いたのか。

なぜ幼き日の五十鈴空は松代賢二の龍のキーホルダーを欲しがったのか。

なぜ松代賢二の妻は旦那と五十鈴空がふたりっきりになることを許しのか。

「空さんは男性だったのですね」

 一か月前のあの日、翔吾はひとりの男を殺した。

「志摩さん」

 再び三ツ谷は問いかける。

「どうして五十鈴空さんを殺したのですか」


         3

 たっぷりと時間をかけてから翔吾は口を開いた。

「おかしなことをおっしゃいますね」

 翔吾はカーテンからふり向き、ほがらかな笑顔をみせた。

「つまり、なんですか。海老名のサービスエリアで女子トイレを覗いていた変態が、空だと。そういうことですか。まさか。わけがわからない。どうしてそんな結論に。だって、だって……」

 翔吾は口を閉ざし笑顔だけで訴えかけた。三ツ谷は笑わない。大きく首をふって翔吾の訴えを退ける。

「考えてみてください。ぼくたちは、空を追いかけて旅を続けていたのですよ。それなのに、海老名のサービスエリアで空と出会って……そうしたら旅は終わりじゃないですか」

「だけど終わらなかった。それは、わたくしたちの目的が空さんに()()ことではなかったから。そういう意味でしょう」

 翔吾の笑顔が絵画の一部のように固まった。背中に隠した手がカーテンを掴んでいる。フックがきしみ、カーテンレールが微かに悲鳴をあげた。

「あのバイカーが現れてから()()()()()()がたくさん置きました。われわれの前に姿を現した()()()()から」

「姿を現した時から?」

「あのバイカーは、女子トイレの前で変態行為に及んでいたところを五十鈴さんに蔑視され、怒りを募らせ、五十鈴さんを追いかけてきたとのことでした。この時、おかしなことが生じています。何だかお分かりですか?」

 翔吾は記憶を掘り返した。サービスエリアの駐車場にSUVを停め、トイレに行き、肉まんを買ってSUVに戻った。続いて舞が戻ってきて、バイカーが舞の後方から現れたのだった。

「五十鈴さんですよ。五十鈴さんはサービスエリアのトイレからSUVまでまっすぐ向かってきました。志摩さん。五十鈴さんは、渋滞していたサービスエリアの入り口で、()()()()()()()()トイレに向かわれた。駐車場は混んでいて、わたくしはSUVをサービスエリアのトイレやフードコートがあるエリアから離れた駐車エリアに停めました。志摩さん。五十鈴さんは、SUVがどこに停まっているかをご存じなかったんですよ。それなのにあの人は、()()()()()()()()()()()()()()()()()。海老名サービスエリアは日本一の大型サービスエリアです。ハイエースやキャンピングカーの用に極端に大きな車ならともかく、SUVを遠くから一目で見つけるなんて、あり得ません」

「あり得ませんって、実際に舞さんはそれをやってみせた」

「その通りです。五十鈴さんはやってみせた。不可能をやってみせる()()()()を、道具・・を五十鈴さんは手にしていたのです。このトリックは後にも出てきますので、それが何なのかは後でお話ししましょう。次に、ジャンクションです」

「ジャンクション?」

「海老名サービスエリアを出た直後に入った海老名ジャンクションのことです。われわれは東名高速道路の下り線を走り、サービスエリアを経て海老名ジャンクションに入りました。横浜方面から海老名ジャンクションに入ると、最初に進行方向はふたつに分かれます。ひとつはまっすぐ進んで『厚木・名古屋』方面。もうひとつは左車線に入って『茅ヶ崎・八王子』方面となります。われわれのSUVは『茅ヶ崎・八王子』方面に向かいました。相模湾側の道路ではなく、丹沢山地の北部を迂回するルートを選んだのです。ハンドルを握っている舞さんの判断でね。ジャンクションに入るまで渋滞は緩和されていて、わたしたちのSUVは飛ばしに飛ばした。後ろにスポーツバイクの姿はなかった。そして舞さんはふたつの選択肢からひとつを選んだ。その後は? ご存じの通り、スポーツバイクの男が追走してきました。あの男は、われわれのSUVがふたつの進行方向のうち、どちらを選ぶのか存じ上げていたのでしょうか」

「ただの偶然でしょう」

 くすりと翔吾は鼻で笑った。

「たかだか二分の一の賭けじゃないですか。コインの表が出る確率と同じ。そんなの不思議でもなんでも――」

「海老名ジャンクションの分岐はこれで終わりではありません」

 三ツ谷の声が翔吾の声を断ち切った。

「『茅ヶ崎・八王子』方面を進むと、今度は『茅ヶ崎』方面と『八王子』方面のふたつに進行方向は別れるのです。われわれは後者を選びました。われわれの進行方向を()()()()()()のバイカーまでも同じ道を。バイカーは二回連続のコイン投げに勝ったということでしょうか。なるほどそうかもしれない。ですが、もっと簡単な説明があります。あのバイカーはSUVがどこに向かっているのかを知っていた。いや、どの道を進むのかを知らされていたのではないでしょうか」

 そうだとしたらバイカーに内通していたのはいったい誰だ。翔吾と三ツ谷はサービスエリアにいる間つねに二人で動いていた。バイカーと長い時間接触し得るのは()()()しかいない。

「偶然だ。全部、全部偶然です」

「偶然であれば、どれほどよかったことか」

 空になったコップに麦茶を注ぎながら、三ツ谷は一度ため息をついた。その表情に陰鬱なかげりをにじませながら、右手に巻いた包帯をなでる。

「樹海周辺に入った時に、わたくしは助手席の五十鈴さんに天気予報を見て欲しいとお願いしました。覚えていらっしゃいますよね。当日は台風の影響で大雨が降っていた。この後樹海の中に入るにあたり、雨の勢いを把握しておきたかったのです。しかし、五十鈴さんは調べてくれなかった」

 翔吾もそれは覚えている。『台風が近づいているんだから止むわけがないでしょう』と言ってそっぽを向いていた。舞の代わりに翔吾が天気予報を調べたのだった。

「もっともな意見です。もっともな意見ですが、もっともな行動でしょうか。わたくしにはそうは思えません。五十鈴さんは空さんを探すために樹海まで訪れた。車窓から見える樹海の様子は昼間だというのに、黄泉の国のようにうす暗かった。人探しには不向きな天候です。もし本気で()()を探すならば、わずかの時間でもいい、雨が止み、晴れが出てくれることを期待するのが当然ではないでしょうか。なのに舞さんはそれをしなかった。なぜ? なぜ? なぜですか? 五十鈴空さんが樹海にいないことを()()()()()からでしょうか。いえ。仮にそうだとしても、聡明な五十鈴さんなら、わたくしにそうとさとられないように行動するでしょう。つまりは、スマートフォンで天気予報を調べるのが当然なのです。なのに五十鈴さんはしなかった。この理由は、次の疑問と相関します」

「次の疑問。まだ、あるのですか」

 翔吾は笑顔のまま首筋をひっかき始めた。首筋に何本もの赤い線が走る。

「あります。わたくしがハンドルを握るSUVは、『竜宮洞穴入口』バス停を目指して走りました。コンクリートの道路からバス停そばにある砂利道に入り、砂利道を進み、カーブしたところにSUVを停めました。バス停周辺は樹海一帯の中でも特にうす暗く、ライトなしで車やバイクが走ることはできません。そしてわたくしたちが砂利道に入る時、周囲は相かわらず暗かった。他の車両のライトの光はなかった。それなのに、あのバイカーはわたくしたちを追いかけて来た。不可能です! SUVが砂利道を入るところは誰にも見られていない。コンクリートの道路からは奥のカーブの先に停まったSUVの姿は見えない。それなのに、どうしてあのバイカーは我々が()()にいるとわかったのですか」

「ぐ――」

「偶然なんて、都合のいい言葉は謹んでください。志摩さん。この世に偶然は存在します。わたしは偶然の存在を認めます。ですが道理と偶然が両立するならば、少なくともわたくしは留保する。偶然という安易な逃げ道に落ちつくのではなく、道理のもとで必然・・の存在を探求します」

 翔吾はこの時になって初めて三ツ谷に恐怖を覚えた。

 希死念慮に囚われ、翔吾と舞にその命を救われ、そしてふたりの旅に協力してくれたこのひとなつっこい中年男性は、いったい何者なのだ。どうしてここまで、自分を追いつめるのだ。

「海老名サービスエリアで舞さんは停車場所を知らないはずなのにSUVに直進してきた。わたくしが天気予報について調べて欲しいと頼むと舞さんは断った。そして樹海の奥底まで追いかけて来たバイカー。このみっつの謎はたったひとつのガジェットの存在が霧散してくれます。志摩さん。本当にこの世の中、便利なものが溢れる時代になりましたね。四半世紀以上も前、その年にもらったお年玉の全額を詰め込んだ財布をなくした三ツ谷少年にも()()を持たしてやりたかったですよ」

 三ツ谷はジャケットの内ポケットから五百円玉ほどの大きさの丸い物体を取りだした。白い円形の土台部分に、ひと回り小さい銀色のプレートが貼り付いている。銀色のプレートにはりんごの模様が彫り込まれていた。

 翔吾は唖然とした。それと同時に納得した。そうか。そうか。そういうことだったのか。

「志摩さんのような若い方ならこれが何なのかご存じですよね。紛失防止タグ。貴重品に付けておき、紛失した際にスマートフォンのアプリでその位置情報を把握できるガジェットです。お分かりですね。SUVにはこの紛失防止タグが置いてあった。そしてバイカーは、スマートフォンでこの紛失防止タグを追いかけてきたわけです。サービスエリアで五十鈴さんがSUVにまっすぐ向かってきた理由。彼女はSUVの場所がわからなかったから、手にしていたスマートフォンでSUVの中にある紛失防止タグの位置を調べたのです。天気予報について調べてくれなかった理由。その時五十鈴さんは、自分のスマートフォンを自身の計画のためある人物に貸していたからです。あのバイカーが樹海の奥にいるわれわれにたどり着いた理由。それは、彼がサービスエリアで五十鈴さんのスマートフォンを受けとっていたからです。五十鈴さんは空さんがスマートフォンを持たずに家を飛び出したとおっしゃっていました。SUVを確実に追跡するためには、()()()()のスマートフォンを借りる必要があったわけです。つまり、サービスエリアから始まる高速道路での追走劇は、舞さんとバイカーの対立を強調するための茶番だったというわけです。そして最後に――」

 最後。これで終わるのか。翔吾は固くした表情の裏側で安堵の息を吐いた。それと同時に終わることへの恐怖を覚える。地獄の果てに待ち受けるものとはなんだろう。艱難辛苦かんなんしんくの旅路に果てにひとは安らぎを得ることができるのだろうか。砕け散った心でって、そんなものが得られるのだろうか。

「樹海の中のひと幕です。舞さんから手渡されたスマートフォンを頼りにわれわれの元までたどり着くと、バイカーは森の中でちらちらと動く懐中電灯の光を頼りに我々に近づいた。もしくは、舞さんがタグを車から持ち出していた可能性もありますね。とにかく、彼はわたしたちに()()()()()()。追いかけている人物に追いかけられていたなんて、なんだかふしぎな話ですね。いえ、ふしぎでもなんでもないか。だって、ねぇ。志摩さん。この世の中、ふしぎなことなんてありません。少なくとも、ほとんどのことは合理的に説明がなされるのです。なぜなら、この世の中のほとんどのひとは合理的に行動するから。狂っていようと、他人からは理解しえない内情であろうと、ひとりの人間の中では合理的なんです。そして人間には『共感』という機能が備わっています。共感によって他人の合理性を理解し得る。共感によって狂気の合理性を理解し得る。だから、ふしぎなんてこの世には存在しないんです」

 ひと呼吸をおいて、三ツ谷は再び語りだす。翔吾は、ただ立ちつくすだけで――

「あのバイカーはナイフを手に襲いかかってきました。刃渡りの大きな、ひとを殺傷するには十分が過ぎる刃物です」

 翔吾は思い出す。五十鈴健一(けんいち)の趣味が狩猟であったことを。健一は実の息子の(のぼる)にも無理やり狩猟をやらせた。登は獲物を()()()で解体したと語っていた。そのナイフはいま、いったいどこにあるのだろう。さらに翔吾は思い出す。海老名サービスエリアで、運転席から降りてトイレに向かった舞はバッグを手にしていた。きっと、あのバッグの中に()()()のだ。

「バイカーは真っ先に舞さんに向かっていきました。わたくしでも志摩さんでもなく、舞さんに向かっていった。これは自然です。サービスエリアでバイカーの恥を買ったのは五十鈴さんなのですから。ですが、どうでしょう。彼にわたくしたちにナイフを向けることに躊躇する理由があるのでしょうか?」

 包帯が巻かれた右手を自分の胸におき、左手を翔吾にまっすぐと向ける。ステージ上で情緒あふれる歌声を響かせるオペラ歌手のようなポーズだった。

「ありません。バイカーは舞さんをナイフで刺そうとしたならば、それを邪魔しようとするわたくしや志摩さんもナイフで刺せばよろしい。だが、あの男は()()をしなかった。わたくしはよく覚えています。あの男は、志摩さんをナイフで刺さずに拳で腹を殴りつけた。わたくしはバイカーに突進をしかけて、恥ずかしながら足をひっかけられて転んでしまいました。顔を地面に打って鼻血を出してしまい……情けない話ですが、完全に無防備な状態にありました。さらに突進して転んだわたくしをナイフで刺そうとはしなかった。無視して舞さんの方に向かったわけではありません。わたくしを()()()のです。二度、三度と繰り返し。そして、ナイフを手に再び舞さんの方へ向かいました。どうしてわたしをナイフで刺さなかったのでしょう」

「ひとの肌にナイフを突きたてる勇気がなかったから」

 そんな反論を口にしながら翔吾は不甲斐なさを覚えた。弱々しい、すきま風のような声量。真実への探求心の前には、ほこり程度の重みしかもたない弱々しい反論。

「ちがいます。わたくしの前に、バイカーは舞さんの首のすぐそばにナイフを突きたてていた。ナイフを使うことを恐れていたわけではありません。では、何故。あの時、いったい何が起きていたのでしょう。ナイフを手にした男とナイフを向けられた女。ふたりの間に、どんな意志が交錯していたのでしょう」

 三ツ谷は大きく首をふった。

「交錯などしていません。そこにあったのはたったひとつの意志だけです。姉と弟の統合されたひとつの意志が遂行されようとしていたのです。志摩さんにもわたくしにも、ナイフを奪われたら困るのです。あのナイフは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ナイフを奪い、奪われた相手が激昂したら、ナイフを手にした人間はどうするのが()()でしょう。刺すことです。正当防衛です。あの男は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それは正に、自殺と言っても過言ではないでしょう」

 そしてこの物語にはひとりの自殺志願者がいた。

 つまりは、そういうこと。そういうことだったのだ。


        4

「どうやって住所を調べたの」

 一度も口をつけられていないホットコーヒーは既に冷めきっていた。冷房が強いわけではない。むしろ、女性客が多いため冷房は弱めに設定されていた。

 まわりの女性客たちは早めのランチに舌鼓を打ちながらかしましく会話を楽しんでいた。どんなに物騒な話をしても、ふたりの冷めた声はけらけらとした喧騒にかき消される。

「お父様を尾行しました」

 三ツ谷は二杯目のオレンジジュースに口をつけた。ストローからジュースのしずくが右手の甲に落ち、紙ナプキンでふき取る。

「いまはどの大学も教員のプロフィールを顔写真付きでホームページに載せています。都内の大学で講師または教授職を務めている『五十鈴』という名前の男性を探しました。ありふれている名前ではないのですぐに見つかりましたよ。職歴の欄に埼玉の大学での勤務歴も載せていらっしゃった」

「そんなストーカーまがいのこと」

「食べないんですか」

 ざらめ糖のクッキーをつまみながら三ツ谷は空いたもうひとつの手でクッキーの小皿を指さした。舞は大きなため息を返した。

「無駄ですよ。誹謗中傷の類はわたくしには効きません。仕事柄()()()()()()。本当、この仕事をしているとおかしなひととばかりに会うんですよ」

 舞のズボンの尻ポケットには三ツ谷の名刺がねじ込まれていた。名刺に目を通した時の衝撃と、直後の後悔を舞は想起する。『こんな男、助けるんじゃなかった』と。

「松代サービスを出たあとのコンビニですよね」

 不完全な文章の質問だ。だが舞は質問の意味を理解していた。

「わたくしと志摩さんが店内で買い物をしている時に空さんから連絡があった。あの時にあなたは、自身の想いを、計画を、覚悟を伝えた。空さんはそれを受けいれ、海老名サービスエリアに向かったわけですね」

「そう。もしあの時空から連絡がなかったら、どうなっていたのかしら。空はわたしたちよりもひとあし早く樹海にたどり着き、少なくとも生きた空と会うことはできなかったでしょうね」

「消極的な意味ではそれが一番の幸せだったとわたくしは思います」

「わたしはの結果がベストだったと確信しているけど」

「五十鈴さん、あなたは……」

「おかしい? 狂っている? なんとでも言いなさい。当事者じゃない人間に理解してもらおうなんて期待は抱いていない。誰かに認められたくてやったんじゃない。わたしはただ、家族のために。それだけ」

 三ツ谷は大げさにうなずいてみせた。人工的な笑顔を張りつけ、内側から強力な接着剤を押しつける。勇気という名の接着剤。三ツ谷は怯えていた。いつもそうだ。自分は人間で、どこまでも人間で、ただの人間は化け物には勝てない。化け物と対峙した際、絶対にやっていけないことがふたつある。ひとつは戦うこと。戦えば喰われる。もうひとつが逃げること。背中を見せればやはり喰われる。戦ってはいけない。逃げてはいけない。すべきは、ハッタリ。自分は人間ではないと、相手を上回る化け物だとハッタリをかける。化け物が警戒し、後ずさり、その場を穏便に済ませる。それが正解だ。攻めてはいけない。守りに入るのも厳禁。ただ自分は、笑っていればいい。ただものではないと相手に思わせるために笑っていればいいのだ。

「本当ならわたしがハンドルを握り続けて、樹海まで空を誘導するつもりだったんだけど」

「わたくしが邪魔をしましたね」

 三ツ谷は高速道路を降りたところで無理やり舞と運転を代わり、暴力的が過ぎるドライビングテクニックで追跡者を撒いた。

「保険をかけておいて、本当によかった」

 舞はバッグから財布を取りだした。内ポケットに指をいれ、五百円玉ほどの大きさの丸い物体をつまむ。紛失防止タグだ。

「やっぱり、それが」

「ドアポケットに放り込んでおいた。あの子がスマホを家に置いていったりしなければ、わたしは喜んで天気予報について調べましたとも」

「空さんの失敗です。どうして空さんはスマートフォンを家に置いていったのでしょう」

「わからないの。邪念を遠ざけるためよ」

「邪念?」

「家族のこと。家族との繋がり。家族からの連絡。自殺をやめてくれと、両親が連絡してくるかもしれない。その時自分は自分の意志を遂行できるのか。空は決して強い人間ではなかったから」

「それは邪念ではなく、正当な願いです」

「あなたにとってはね。だけど、空にとっては?」

 三ツ谷は笑顔で耐えた。

「ですが、五十鈴さん。お姉さんのあなたも失敗を犯しましたね。森の中での格闘は台本・・通りにはいかなかった」

「えぇ。ナイフを奪い、刺し返す。一度はそのチャンスがあったのに、わたしには覚悟が足りなかった。空には三ツ谷さんに疑われないよう本気で演技をしなさいと言ったのだけれど、まさかあんなに強く懐中電灯で叩いてくるとは思わなかった。わたしは気絶してチャンスをなくしてしまった。あの子、学生時代に演劇部に入っていたの。迫真の演技だったでしょう」

「サービスエリアで怒鳴り声をあげられた時は本当に怖かったですよ。なるほど。志摩さんも()()()わけですね。かつての恋人、探し求めている恋人が、彼らしくない凶暴な態度で迫ってくるのですから」

「本当に、彼には悪いことをしたわ」

「その後に、森の中で見つけた女性の遺体。ええ。わたくしはここでもまた騙されたわけですね。わたくしはてっきり彼女・・が空さんだと思いこんでしまいました。五十鈴さんはあの女性の手首からブレスレットを取った。まるで遺品を預かるかのように優しく。これも演技だった。わたくしを偽りの霧の中に閉じ込めるための」

「青木ヶ原樹海は『予想以上に遺体が見つかりやすい』。ご自身でおっしゃっていたことをお忘れ?」

「えぇ。忘れていました。少なくとも、あの時は」

「別にあの女性が()()()()()構わなかったのだけれどね。バイカーを殺した。空は見つからなかった。東京に帰ろう。それでおしまい。でも、せっかくだから利用させてもらった。遺体を発見した以上これも何かのだと思ってね、ひと役買っていただいたというわけ」

 奥のテーブルで若い女性客と店員が談笑をしている。女性客は常連なのかその談笑に飾り気はない。三ツ谷はその光景を実際の距離以上に遠く感じた。

「あなたは志摩さんをどうするつもりだったのですか」

 視線を舞にもどし三ツ谷が訊ねる。

「ルピナスファームでわたくしと出会ったことは当然予想外の出来事だった。つまりは、ふたりで五十鈴空さんに追いつくことが目的だった。それで、空さんを殺して、いったい?」

「証人にするつもりだった。翔吾くんの前で空を殺す。五十鈴空を殺したのは五十鈴舞であると証言させるために彼と空を追いかけたの」

「訳が分かりません。だって、空さんは自殺するつもりだったのでしょう。何もしなくとも自ら命を絶つはずだった。それなのに、どうして殺す必要があります。本当は自殺するつもりはなかったと? あなたは弟さんに死んでもらわなければならなかった。だから、確実に自らの手で殺すことにしたと」

 舞は両手を庇のように重ねて目元を隠した。深く息を吐きながら、両手をずらし、目元をみせる。

 「やっぱり、あなたも『他人』なのね」

 三ツ谷は氷柱つららのどの奥に押しこまれたような衝撃を覚えた。

 舞の目は憂いを帯びていた。希望を、期待を、他者からの共感、繋がり、それらを断ち切られた者だけがもつ憂いの瞳。その瞳の持ち主を救うことはかたい。他者を拒絶し、他者を寄せ付けず、他者の声が届かない、そんな人間を救うことは原理的に不可能だ。触れることができない。物理的な話ではない。精神的に触れることが、その存在を互いに確かめ合うことができない。そこにいるのにそこにいない。それが他人だ。

「あなたには話したはず。両親は空の自殺を容認した。実の親が我が子の死を許したの」

 一族を支配する五十鈴健一が亡くなり、五十鈴家はその呪縛から解放され自由への信奉を始めた。ひとはそのひとが欲することを遂行する権利をもつ。五十鈴空は自らの死を欲した。自由の信奉者にそれを止めることはできなかった。

「だけど、本当に実の息子が命を絶って、納得すると思う?」

 舞の声は冷たかった。

「そんなわけがない」

表情もまた冷たかった。

「お父さんも、お母さんも、自分自身を騙しているに過ぎない」

精神がたかぶり、その熱が顔面の神経系を焼き尽くしてしまったのかもしれない。もしくは、彼女は分かっているのだろう。すべては終わった。自分にできることは、何もかも終わったと。

「あのふたりはいつか必ず後悔する。自分たちは息子の死を止められなかった。自分たちが止めれば息子は考えをあらためたかもしれない。それどころか、息子は本気で自殺の意志を示したわけではないのかもしれない。両親に自殺を認められ、自分が愛されていないと思い、それが自らの命を絶つ動機になったのかもしれないと」

 ――だからわたしは空を殺すことにした――

他人わたしが殺せば、他殺となる。他殺という事実が成立する以上、空の自殺の意志の実在は有耶無耶(うやむや)になる。自殺の意志が真実であることは、自殺を遂行したという事実によって証明される。だとしたら、その自殺を食い止めれば、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だけど空は死を欲していた。空の死を止めることは誰にもできなかった。両親を守り、空の願いを叶える。わたしが空を殺せばその両方が実現できるの」

「証人とは、そういう意味ですか」

 三ツ谷は空になったグラスを握りしめた。水滴がグラスから指につたわり、手の甲に、流れ、落ちて、テーブルに、ぽつりと――

「ご両親が空を止められなかったことに苦しみだしたら、志摩さんに証言をさせる。息子さんは自殺をしたわけではない。ここにいる、実の姉に殺されたのだと。五十鈴さん、いえ、舞さん。非難の矢は一転して全てあなたに飛ぶことになる。あなたは、そんな覚悟で」

「馬鹿げていると?」

「当たり前じゃないですか。志摩さんが納得するわけがありません。実の姉が弟を殺すなんて、志摩さんが許すわけが――」

「だからあなたは他人だと言っているの。あなたは空のことを何も知らない。空の想いを、空の苦しみを、空の過去を、何も知らない。空に触れたことのある人間が聞けばわかる。空は死ぬしかなかった。死ぬことでしか救われない人間がこの世には確かに存在するの。あんたに空のなにがわかるの。他人が! 他人が! 他人が! 他人が! あなたは翔吾くんとは違う。彼ならきっとわかってくれる。空とかつて想いを交わした彼ならば、きっと空の想いをわかってくれる」

「その結果、志摩翔吾は殺人犯になった!」

 三ツ谷は舞の手を握りしめた。端からはカップル同士の交渉に見えるかもしれない。だが違う。ふたりだけがわかっている。これは攻撃だ。三ツ谷から舞への、自身の実在を認めさせるための攻撃。わたしはここにいる。あなたの目の前に存在している。他人ではない。少なくとも、いま、この瞬間は、違う。それを否応なしに認めさせるための、ともすれば残酷が過ぎる攻撃だった。

 舞は手を引こうとした、だが三ツ谷はそれを許さなかった。

「志摩さんはあなたたち姉弟の意図を汲んだ。懐中電灯で頭を殴られて気絶したあなたに代わり空さんを殺した。あなたたち姉弟の画策が、ひとりの男を殺人犯にしたのです」

「わたしたちが頼んだわけじゃない」

「そうです。頼んではいない。だが感化・・させた。志摩さんは言っていた。『五十鈴舞の力になりたい』と。海老名サービスエリアで始まった『茶番』を志摩さんはどんな気持ちで見ていたのでしょう。探している元恋人とその姉が、他人のふりをして揉めているのです。いったい何が起きているのかと混乱したことでしょう。五十鈴さんは空さんを他人のように扱っている。いちゃもんをつけてきた変質者だと侮蔑し、バイクで追いかけてくる彼から逃げるフリをした。志摩さんは察した。これは、三ツ谷卓也を騙すための演技だ。それがどんな目的なのかは知らないが、五十鈴さん、あなたがこの展開を望むなら、自分も乗ることにしよう。そして森で格闘が始まる。志摩さんに機会が与えられた。そして殺した。動機? 何をおっしゃいます。志摩さんは元恋人にはその存在を忘れられ『他人が口出しするな』と怒鳴られた。空さんのためではありません。あなたです。五十鈴さん。志摩さんはあなたのために五十鈴空さんを殺したのです。事情はわからないが、()()()()()()()()()()()()()()五十鈴空さんを殺したのです」

 舞はテーブルに置かれたバスケットからフォークを取り出し、自身の手を掴む三ツ谷の右手の甲に突き刺した。三ツ谷は口をふさぎその痛みに耐えた。フォークの先からジワリと赤い血がにじむ。

「あなたもわかっているでしょう。志摩翔吾はホテルオオルリで()()()。まわりの人に愛されながら、自殺願望を抱く平井一家を見て、そんな彼らを空さんと比較してふざけるなと怒り狂った。彼は自覚したのです。空さんへの自身の想いは強い。だが空さんはそうではなかった。彼は死ぬ前に約束を果たすための行脚に出ていた。タイムカプセルを掘る。借りていたキーホルダーを返す。埼玉を訪ねる前にも、同じような用事を済ませていたのでしょうね。そんな些細な約束を果たすことが空さんにとっては大切なことだった。だが空さんは志摩さんのもとを訪れはしなかった。埼玉から横須賀へ向かう途中、志摩さんの提案でサービスエリアに停まりましたね。志摩さんはトイレの個室に入っていった。実はわたし、後に続いてとなりの個室に入ったのです。様子がおかしくて心配でしたので。彼はお母さまと、アパートの隣人に電話をしていました。『玄関に自分あてのメモはないか』と。期待していたのです。空さんがメモを残してまで榊原夏江さんに会おうとしたように、空さんも死ぬ前に一度、かつての恋人に会おうとしているのではないかと。ですがメモはなかった。実家にも、アパートにも空さんは訪ねてはこなかった。空さんは志摩さんを想ってはいない。さらに追い打ちがかけられる。横須賀のコンビニでの、空さんからの電話です。空さんは志摩さんの存在を忘れていた。これで志摩さんの故障は修復不可能となった。想う相手が自分を想ってくれてはいない。もはや、志摩さんにとって空さんは他人に過ぎなかった。雨が降りそそぐうす暗い森の中、()()()愛したひとが、()()愛するひとを殺さんと襲いかかってきた。だから殺した。あなたを守るために志摩さんは空さんを殺したのです」

 舞は三ツ谷の手の甲に刺さったフォークをひねった。傷口がいびつゆがむ。ぷつぷつと血が噴き出す。だが三ツ谷の表情は歪まない。手の甲に目もくれず、ただ目の前の相手を見つめている。

「……降りる機会は与えた」

「なんです?」

「コンビニで空から電話が来て、そのあと、わたしは翔吾くんに言った。車から降りていいと。『かつての恋人を忘れるような薄情者のために時間を割くことはない』って」

 それでも翔吾は降りなかった。彼は舞のために車に乗り続けた。

「彼はもう必要なかった。証人は()()()()()。三ツ谷さんがいれば十分。空を殺しても、わたしを命の恩人とあがめる三ツ谷さんならきっと口を閉ざしてくれるだろうと信じていた」

「というより、志摩さんを車から降ろしたかったのでしょう」

 三ツ谷が言う。舞はうなずく。

「ホテルオオルリを経て志摩さんの精神バランスは完全に崩れていました。何をしだすかわからない危険人物はいないに越したことはない。だから志摩さんに空さんが彼のことを忘れていることを正直に伝えた。いや、ちがうな」

 三ツ谷は舞の手からフォークを取り、ゆっくりと手の甲から抜いた。握っていた舞の手を離す。紙ナプキンで傷を押さえつけ、その上に空になったグラスの氷を乗せる。

「空さんは本当に志摩さんのことを忘れていたのですか。あれは五十鈴さんの詭弁だったのではないですか。志摩さんをこの旅から降ろすための詭弁」

「……そうよ」

「なんということを」

 三ツ谷は血の滴る手を握りしめた。

「ホテルオオルリで開いた傷口に塩を塗りこみましたね。志摩さんはあれで完全に壊れた。あなたは自分の望みのために志摩さんに邪険にした」

「いい歳をした大人が、自分の機嫌くらい自分でとってもらわないと」

「五十鈴さん。わたくしはあなたに感謝しています。ルピナスファームで命を捨てようとしていたわたくしを止めてくださって、本当にありがとうございました」

――だけど――

「わたしはあなたが嫌いです。あなたのようなひとが大嫌いです。これで満足ですか。本当にこれで、この結果でよかったと思いますか」

「くだらない」

 舞は伝票をとり立ち上がった。血だらけの三ツ谷の手が、舞の腕を掴む。

「最後にひとつだけ教えてください」

「……なに」

「どうして教えてくれなかったのですか。われわれが初めて会った時に、どうして五十鈴空は男性であると。あなたは嘘をついた。『自殺をすると言って、妹が家を出たのは二日前の夜です』。一言一句覚えていますよ。五十鈴さん。あなたはたしかに、こう言った」

 三ツ谷の血が舞の腕に移る。糸のように垂れる血の痕を見つめながら、舞は小雨のようにつぶやいた。

「どうしてだろう。彼のため? わたしのため? うん。どちらでも構わない。結局、同じことだから」

「同じこと?」

「彼にも訊いてみるといい。きっと、わたしといっしょ。翔吾くんも」


         5

 翔吾は閉じた口の中に荒い息を閉じ込めた。床の上の麦茶のボトルを勢いよく拾いあげて直接口をつける。

 半分以上を飲み干すと、口もとから水滴を垂らした。水滴がシャツにこぼれて黒くシミをつくる。

「なにが目的なんですか」

 瀕死のねずみのような声で翔吾は訊ねた。

「あんたはいったい、何者なんだ。舞さんを訪ねて、その後でぼくにまで。どうしてこんな、三ツ谷さん、どうして、全部終わったのに、どうしてそっとしておいてくれないんですか」

「どうして? 理由。そうですね」

 眉根をひそめて三ツ谷は腕を組んだ。肉のついたあごを二本の指でちょいちょいと触る。手の甲に巻かれた包帯はうっすらと赤くにじんでいた。

真剣に答えようとしているのか、三ツ谷はうなり声をあげながら熟考を始めた。翔吾は問いかけたことを後悔した。どんな答えならば自分は安堵するというのだ。どんな答えだろうと自身が苦しむことに変わりはない。死刑囚が処刑方法を訊ねるようなものではないか。

「職業病、でしょうね」

 内ポケットからアルミ製のカードケースを取り出し、名刺を差し出した。

 翔吾はそれを受けとり、一見してポロリと落とした。床に拡がる麦茶のボトルの水滴が名刺にプリントされた三ツ谷の顔写真を濡らした。赤いネクタイをつけ、斜めの角度で朗らかに笑う三ツ谷卓也。その横には『鷹村・西島・三ツ谷法律事務所』との書かれていた。

「別に、不正を正したいとかそんな青くさい感情で動いているわけではないのですよ」

 カードケースを内ポケットに戻す。同じポケットから扇子を取り出し、顔いっぱいに汗を垂らす翔吾をあおぎ始めた。翔吾は扇子を片手ではじき飛ばした。だが三ツ谷の表情は動揺を見せない。

「依頼人が正直に話をしてくれないと仕事が円滑に進まないのですよ。いえ、志摩さんが依頼人というわけではないですが。いわゆる習慣ってやつですね。少しでも引っかかるところがあれば確認せずにはいられない。そして、()()()()()()の旅にはいくつも引っかかるところがあった。そういうことです」

 翔吾はもう一度名刺に目を落とした。会社の所在地は千代田区。名刺の下部に富士山を背になすびを掴むデフォルメ化された鷹が飛んでいる。鷹には吹き出しが付き、『相談実績10、000件以上。 初回相談無料。借金のお悩みをお聞かせください!』と笑顔で叫んでいた。

「借金……あ」

 翔吾はホテルオオルリで一家心中を図った平井信一郎と三ツ谷のやりとりを思い出した。別れ際に三ツ谷は多重債務に苦しむ信一郎に名刺を差し出しこう言った。『実はわたくしも、落ちついたら平井さんとお話ししたいと思っていたんですよ』と。

 三ツ谷は鷹揚にうなずき、『大丈夫ですよ』と言った。

「平井さんの債務整理は順調に進んでいます。鷹間蛾(たかまが)組なんて名前、聞いたことがないからおかしいと思ったんですよね。調べてみたらたしかに有名な暴力団の傘下ではありましたが、末端の中の末端でした。群馬県のからっ風の中でしか強がることができない、ちっちゃな暴力団でしたよ」

「警察に通報するつもりですか。ぼくを殺人犯として」

「しませんって。ですから職業病なんです。引っかかるところがあるから、その引っかかりを解消するためにおじゃましているわけです。ねぇ、志摩さん。どうしてですか。五十鈴さんは答えてくれなかった。志摩さんに訊けと話をはぐらかしてわたくしの前から去っていった。どうしてですか。どうして、五十鈴空さんが男性であるとわたくしに隠していたのですか」

 翔吾は表情筋を固まらせた。ベッドに腰をおろし直すと、背中を丸めて足元を見つめる。

「同性愛者だとバレるのが怖かったのですか」

 三ツ谷が訊ねる。翔吾は静かに首をふった。

「では、どうして」

「ぼくは、空にひどいことをした。自分から告白して、恋人になってほしいとお願いして、そして自分から別れてほしいと……」

「それは別に、心変わりなんて誰にだって起きることでしょう。どちらが先に交際を申し出たかだなんて関係ない」

「ちがうんです。ぼくは、本当は同性愛者じゃなかったのかもしれない」

「どういうことです」

 始まりはひとつの失恋だった。

 大学一年生の翔吾はコンパで出会った女子大生のひとりに告白した。それは翔吾にとって人生で初めての愛の告白であった。

 生まれて初めて個室のレストランを予約した。生まれて初めてフォーマルなジャケットを自腹で買った。メインディッシュの肉料理を食べ終えるタイミングで『大事な話がある』と翔吾は話を切り出した。

結果翔吾は玉砕した。

『どうしても恋愛の対象には思えない』。

デザートのオレンジシャーベットにスプーンを潜らせながら相手の女子大生はそう言った。彼女ははにかんでいた。翔吾もまたはにかみ返した。それは優しさだった。翔吾は相手の査定・・を肯定した。自分はそういうではない。体よく断るための方便を翔吾は真に受けた。違う。彼は怖かったのだ。性的魅力に欠けるとみなされるのが怖かった。そうではない、自分は特別なんだ。特別な、ひととは違う、変わりもの。だから、恋愛だってただの恋愛は似合わない。じぶんに相応しいのは、常人とは違う恋愛。つまりは、きっと――

 そんな気持ちの整理に約一年をかけ、翔吾は一般教養のクラスで一学年下の五十鈴空と出会った。

グループワークを通して親しくなり、酒の席で翔吾は空の性的嗜好を知った。翔吾の脳裏に一年前の女子大生の姿が映る。そういうことだったのか。自分は同性を愛する()()人間だったのだ。なぜなら自分は特別だから。普通の恋愛では満足できない特別な人間だから。

 空との恋人関係は翔吾に優越感を与えた。ある程度の理解は進んだとはいえ、同性愛に対する否定的な見方はまだまだ世間には根強い。固定観念にとらわれた無知蒙昧なる世間の輩。あいつらとじぶんは違う。これからの時代は先進的な価値観を持つじぶんのような人間によって築かれていくのだ。じぶんは優秀。じぶんは特別な人間だ。

 それなのに。

『誰を愛するかはおまえの自由だけど、おれには理解できねえな』

『志摩がいる時に女の話ってしづらいんだよ』

 翔吾は少しずつ友人たちと距離感を覚え始めた。

 別に友人たちにじぶんと同じ性的嗜好を勧めたわけではない。ただ、そういう価値観もこの世の中には存在するわけで、そうした価値観に触れることは彼らをひととして成長させると思って――

 少しずつ、翔吾は孤独に近づいていた。

 インターネットで検索すると、同性愛者の交流会の告知はいとも簡単に見つかった。

 翔吾は都内のレンタルスペースで催されている交流会に参加してみることにした。空には黙っていた。まともな交流会ならば、次の機会に空を誘うつもりだった。カルト団体が仲間集めのために健全な活動を装って勧誘会を催すのはよくある話だ。翔吾の通っていた大学にもサークル名からはそのの匂いを感じさせない、悪質な宗教団体の下部組織が存在する。そんなところに空を連れていき、軽蔑でもされたらたまったものではない。

 その交流会はまともなものだった。

 宗教的なお説教もなく、分割払いで『活力がみなぎる』ペットボトルの水を買わされることもなかった。茶菓子をつまみながら、自分たちの悩みや想いを口にするだけ。米寿のおじいさんから連立方程式を習っていないような子どもまで参加していた。

 だがその交流会に翔吾が参加することは二度となかった。

 その交流会では誰もがポジティブに他者を肯定していた。自分がいかに周りから非難排斥迫害を受けてきたかを語り、それらの差別に周りのものは侮蔑の声をあげる。参加者ひとりひとりが自身の苦しみを口にし、翔吾もまた、友人である異性愛者から理解されないことを口にした。

 拍手喝采が起きた。

 となりに座る虹色のシャツを着た男性が翔吾の背中を強く叩いた。苦しかっただろう。だが大丈夫。ここにいるみんなは仲間だ。お前のことを否定するやつなんてここにはいない。

 会場を出たあと、何人かのメンバーから酒の席に誘われたが、恋人との用事があるからと翔吾は断った。メンバーたちは『それなら仕方ない』と残念そうに笑ったあと、次はその恋人もいっしょに来てくれと親指を立てた。

 空との用事なんてなかった。翔吾はまっすぐ家に帰り、自分の胸の内にある違和感もやもやと対峙していた。

 おかしい。どうして。間違っていなかった。交流会のみんなは、じぶんと同じ性的少数者だ。まともな人間ばかりで、気のいい人間ばかりで、それなのに、どうして。

 それを知るために翔吾はもう一度交流会に参加しようとした。こんどは、空といっしょに。

 だが空は翔吾の誘いに首をかしげた。

「ぼくはいいかな。翔吾ひとりで行ってきなよ」

 ベッドの上で寝ころびながらバイク雑誌を読む空は、そっけない口調でそう言った。

 どうして。みんないい人たちなんだ。きっとおれたちの悩みを理解してくれる。

「まぁ、悩みはあるけど……」

 空はフラットな口調で鼻の頭をかいた。

「べつに、共感してもらいたいわけじゃないし」

 その時翔吾は理解した。

 空はただ()()にいるだけなのだ。

 自分が何者であるとか、何者になりたいとかそんな考えは空にはない。自分とはあらゆるものの前提で、主観であり、主語だ。それはそれ自身で存在し、揺るぎない確たるものとして存在する。

 空はそんな自分に自信・・をもっている。いや、ちがう。自信とか矜持とか何か自分の魂を奮い立たせるものを持っているわけではない。ただ存在している。あらゆるものの支えを必要とすることなく、それ自身の力でそこに存在している。

 そんなこと、まともな人間にできるはずがない。

 人間は社会に生まれる。社会とは他者だ。人間は必然的に他者の中で生きていく。他者と自分の間には差異が存在する。比較が始まる。優劣が生まれる。自分はあいつよりすごい。あいつは自分よりもすごい。自分とは他者ではない者のことだ。無数の他者という型が盤面に散りばめられ、かすかに生まれたすき間が自分という存在なのだ。

 だが空は違う。空はひとりだ。誰かに自分を理解してもらうことを、誰かに自分の苦しみを理解してもらうことを、誰かに自分を認めてもらうことを彼は欲していない。五十鈴空こそが、特別・・なのだ。自分のような凡人とは違う。彼は型にはめられることはない。

 本物を前にして自分の薄っぺらいヴェールが剥がれ落ちた。翔吾は自省した。自分は凡人だ。特別にはなれない。交流会で覚えた違和感の正体にも気づいた。あの場では翔吾の『特別』は『普通』だった。異性愛者のコミュニティに所属するからこそ、同性愛者である自分は特別になれるのだ。交流会ではその特権性が失われる。自分はなんでもない、ただ『特別』に憧れる凡人に過ぎなかったのだ。

 そう自覚すると、翔吾の目は一転して周囲の女性に向き始めた。凡人の自分が女性を愛して何が悪い。何が悪い。何が悪いんだ。

 だから――翔吾から別れを切り出した。

「んー。わかった。今までありがとね」

 そっけない別れの言葉だった。

 ふたりが通う大学は広かった。学部も違う。在学中に空と出会うことなく翔吾は卒業した。

「引け目を感じていたのです」

 翔吾は胸に手を当て、シャツの上から五本の指を肌に喰いこませた。

「ぼくにとって空との過去は、同性愛者としての過去はポジティブに語られることではありませんでした」

「だから、空さんが男性であることを黙っていたのですね。自分の過去をわたくしに知られないために」

 あぐらをかきながら三ツ谷は翔吾を見上げていた。

「はい。舞さんが空を『妹』と言って、ぼくは便乗しました。知られないに越したことはないと思ったからです」

「わかりませんね。志摩さんにとって、空さんとの過去は忌まわしいものだった。それなのに、どうして空さんに会いに行ったのですか?」

「……刺激がほしかったんです」

「刺激?」

「ぼくは社会人になって自分が平凡であると身に染みて感じるようになりました。自分は特別な人間ではない。どこにでもいる、いくらでも替えの効くつまらない男です。学生時代に空に憧れたようにもう一度特別になりたいと願った。『特別』な空に会えば、今度こそ『特別』になれるんじゃないかと」

 だが空はいなかった。彼は家を出て死に向かっていた。

「ホテルオオルリで、ぼくはぼくが思っている以上に空を想っていることに気づきました。許せなかった。平井信一郎は家族がいるのに、自分を守ってくれるひとがいるのに死を選んだ。幸せもののくせに奥さんや子どもたちを巻き込んで。ふざけている。空は、わかるでしょう。空は違うんです。空は孤独で、いつだってひとりで、ぼくだけが、ぼくだけが、ぼくだけが空だけを理解してやれる。空を愛したぼくだけにその資格がある。その責任があるんだ」

「だけど、空さんはあなたのことを忘れていたと、五十鈴さんが言った」

「ええ。まさか舞さんがそんな嘘をつくとは思いもしませんでした。自分でもわかります。ぼくの精神状態はおかしかった。空は死を前にぼくに別れを告げるつもりはなかった。榊原さんや松代さんには、子どもの頃の友だちには会いに行ったのに、ぼくには――」

 翔吾は息を切り、数秒を経て小さく笑った。

「舞さんは嘘をついたけれど、それは真実と大差ありません。空はぼくのことを忘れてはいなかった。だけど、大して想ってもいなかった。少なくとも、ぼくが空を想う程度には」

「傲慢です。自分が相手のことを想うから同程度の想いを返せなど」

「だけど、それを願うのは自然でしょう? 愛するから愛されたいと願うことは当然のことじゃないですか」

 翔吾の顔がけらけらと歪む。三ツ谷は手にしかけたグラスを指で撫でるにとどめる。

「サービスエリアで空が現れた時は呆然としましたよ。舞さんとふたりで茶番を始めて、ぼくがどんな気持ちだったか三ツ谷さんにわかりますか。わかるはずがないですよね。頭がどうにかなりそうだった。空は、ぼくを『他人』と言った。本当に空はぼくのことを忘れているんだ。でも、舞さんは? 舞さんはどういうつもりなんだ。この姉弟はいったい何をしているんだ。だけど舞さんが空を他人として扱っている以上、ぼくがバイカーを空だと指摘するのは間違っていると、少なくとも舞さんはそれを望んでいないと察しました。だからぼくは黙っていた。大人しく舞さんに従い……樹海に入った時に思いましたよ。自分たちは誰を探しているんだ。五十鈴空なら会ったじゃないか。自分たちは何をしているんだって。失礼――」

 翔吾は再び麦茶のボトルに口をつけた。のどを鳴らしてひとくちで飲み干す。

 三ツ谷はそんな翔吾を無言のまま見つめていた。あぐらの上に両手を重ね、猛獣の檻を前にするかのように表情を凍らせる。

「話は樹海まで来ましたね。最初の質問にもどりましょう。志摩さん。どうして五十鈴空さんを殺したのですか」

「おかしいですね。三ツ谷さんは舞さんとふたりで結論を出したのではなかったですか。ぼくは舞さんを守るために空を殺した。それでいいじゃないですか。あなたが納得するなら、それで、満足して、鼻を膨らまして弁護士事務所に帰ればよかったんだ」

「志摩さん。そんなのはわたくしの想像に過ぎません。部外者の身勝手な想像は、当事者のリアルな真意の前にはなんの価値も持ちない。わたくしの想像通りならそれでもいい。あなたの口からお聞かせください。あなたの口から、わたくしは聞きたいのです」

 狭い室内に笑い声が響きわたる。アブラセミのようにかんかんと続く翔吾の声に三ツ谷は沈黙で応じた。腹を抱えて翔吾は笑う。笑う。笑う。笑い続ける。

「舞さんを守るために空を殺した?」

 目頭の涙をぬぐいながら翔吾は言った。

「ちがう。ぼくは気づいたんだ。ぼくは空の特別・・になるために空を殺した。ナイフを刺せば空は()()()()()()()()。自分の命を奪った相手なんですよ。ナイフが刺さり、命のともしびが消えるその刹那まで、空の、特別・・のまなざしがぼくだけに向けられるんです。ぼくは空にとっての特別な存在になれる。からっぽな志摩翔吾に、五十鈴空が光を与えてくれた。それだけです。それだけのために、ぼくは空を殺したのです」

 翔吾は三ツ谷に背を向けた。両手と頭を高く上げ、光悦の表情で窓の外の赤い夕陽を眺めた。

「なるほど。よくわかりました」

 三ツ谷は腰をあげると、軽く身体をひねった。

「お茶、ごちそうさまでした。()()()()()()()()は全て解消しました。これですっきり、つつがなく日常生活がおくれそうです」

「警察に通報しますか」

「しませんってば。しつこいですねぇ」

 四隅にほこりのつまった玄関で三ツ谷は革靴を履く。靴べらがないのも気にせず、つま先を床に当ててかかとをいれた。

「もうお会いすることはないでしょうね」

「もし何かありましたらご連絡ください。名刺はお渡ししましたよね」

 翔吾の手にはボトルの水滴で濡れた名刺があった。濡れた先からふたつにちぎる。翔吾は鼻で笑う。三ツ谷は目を細めて小さく首をふった。

「それでは、失礼します。あの、志摩さん。最後に私的な意見をよろしいでしょうか」

 ドアノブに手をおいた三ツ谷は、立てた人さし指を左右に振りながら言った。翔吾が応える前に三ツ谷は口を開く。

「空さんは、あなたを見ていませんよ」

「……は?」

「空さんの最期のことです。あなたは空さんの背後に立ち、ナイフを持った空さんの腕をとりました。わたくし、しっかりと見ていたから覚えています。空さんは血を流し、倒れこみ、そして、五十鈴さんの方に向かいました。志摩さんじゃない。気を失い倒れる、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 翔吾は口を小さく開き、その場に崩れ落ちた。小鳥のさえずりのように言葉をくり返す。ちがう。そうじゃない。そんなはずがない。

「ちがうことありません。空さんは自分を殺した相手のことなんて見ていなかった。自分は死ぬ。憂いは、気を失って倒れる共犯者のお姉さまのことだけ。大丈夫か、怪我はないか、演技とはいえ懐中電灯で殴りつけてしまい申し訳なかった。さよならを告げるために、空さんは舞さんだけを見つめていたのです」

 翔吾の全身が激しく隆起する。こぼれ落ちそうなほど両目が大きく開かれる。口もとをおさえると、翔吾は頭を床に叩きつけた。

「志摩さん」

 ドアが開かれる。三ツ谷の身体は七月の熱気の中に包まれる。どこからかクラクションの音が聞こえた。

「あなたは特別なんかじゃありませんよ」

 翔吾の嗚咽が閉ざされたドアに遮られる。

 三ツ谷はドアに背を向けながら、この後の仕事のことを考え始めた。

お読みいただきありがとうございました。





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[良い点] 面白かったです、ありがとうございます (〃∇〃)!(∩´ω`∩)! [一言]  翔吾さま、ある意味望みが叶いましたね……^^;  '刺激' クライマシタね、、、 ーー んっ、んっ〜?!…
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