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第四章 追跡者

         1

 榊原家は熊谷市の住宅街にあった。

 舞の記憶を頼りに榊原家にたどり着いた三人ではあったが、舞は当初自分が記憶違いをしているのではないかと疑った。

舞の記憶では榊原家は戦前から建っているような瓦屋根の平屋だったはずだが、そこに建っていたのは屋根にソーラーパネルを備えた新築の一軒家だったからだ。

「ごめんねー散らかっていて。水着がないだ、実験用のペットボトルが必要だって、当校前から息子が騒いで」

 エプロン姿の榊原夏江はソファーの上のタオルの山を抱えて隣の和室に放り投げた。ふすまが強く閉じられ、壁にかかった額縁入りの賞状が揺れる。賞状には『きしょうはかせ検定けんてい ごうかくしょう さかきばら はると くん』と書かれていた。

「にしても、舞姉ちゃんは変わらないね。子どもの頃からキレイだったけど大人になって磨きがかかったよ。わたしなんて子どもを産んだらもうダメ。一度太ったら全然痩せられないの。体質もあるけどさ、それより、うちの子って旦那に似てすごい食べるから。旦那の分も含めてごはんを沢山用意するとどうしてもわたしも食べたくなっちゃって。あ、ちょっと待って。洗濯機回してきちゃうから」

 夏江はけたたましくスリッパを鳴らしながらリビングを出た。タオルの山が築かれていたソファーとはテーブルを挟んで反対側にあるソファーに三人は並んで座っていた。背後から視線を感じた翔吾がふりかえると、ガラス窓に手をついて庭から室内を見つめる柴犬の姿があった。首輪に繋がれた柴犬は桃色の舌をだらりと伸ばし、その息でガラスが白く曇っていた。

 洗濯機の稼働音を背負い、脱いだエプロンを折りたたみながら夏江はもどってきた。

「昨日の夕方ごろにね。パートから帰ってきたら玄関にメモ書きが落ちていたの」

 ドアのすき間から放り入れられたらしいそのメモ書きには空の名前と留守のようなので数時間後にまた訊ねると書かれていた。メモの通り夕方の五時になると、空は榊原家に現れた。

幼友達おさなともだちとの再会に夏江は喜び、家に招き入れたという。

 しばしの歓談の後、来訪の目的を夏江が訊ねると、空は恥ずかしそうに口もとをほころばせてこう言ったという。

「『タイムカプセルを掘りにきた』だって」

 十六年前。当時七歳だった空は、東京へ引っ越す直前に四つ年上の夏江とふたりで近所の公園の林の中にタイムカプセルを埋めたらしい。

「大人になったら二人で開けようって約束をしていたんだけど、わたしはタイムカプセルのことをすっかり忘れていた。たぶん、空ちゃんもつい最近まで忘れていたんじゃないかな。ふたりが東京に引っ越したあとも、夏休みに何回か遊ぶ機会があったでしょ。でもその時に空ちゃんからタイムカプセルの話をされたことはないんだよね」

「タイムカプセル……それだけですか?」

 渋い顔をしながら翔吾が訊ねる。夏江は何度かうなずいてから『それだけ』と返した。

「でもね、残念だけどタイムカプセルを埋めた公園って何年か前に無くなっちゃったんだよね。遊具とかは全部撤去して、新しく公民館を建てたの。たぶん、タイムカプセルは工事の時に掘り返されて処分されたと思う。まだ埋まっているとしても上に建物がある以上掘り返すのは無理。現実はなんとも不条理だよね。なんだかおかしくなっちゃって、ふたりで声をあげて笑っちゃった」

 思い出したように夏江は笑った。三ツ谷もつられて小さく笑う。

「おかしいとは思わなかったの」

 舞が身を乗り出して訊ねる。

「アポもなく突然お邪魔して、目的は何と聞かれたらタイムカプセルを掘りに来たって。そんなのいい歳をした大人のすることじゃない」

「でもねえ。実際に話をしている時はそうは思わなくて。だって、空ちゃん。なんだか昔のままなんだもん。大人になって見た目は変わったけど、中身は昔のまんまというか」

「タイムカプセルって何が入っていたんですか」

 翔吾は食い気味に身を乗り出して訊ねた。だが夏江は『さぁ』と他人事のように答えた。

「ごめんなさいね。覚えていないの。タイムカプセルを埋めたことは覚えているけど、自分が何を入れたのかは覚えていない」

「空が入れたものも?」

「当然覚えていない。でも小学生が入れるものなんてたかが知れているでしょう。お気に入りのキャラクターのキーホルダーとか、未来の自分への手紙とか」

「それで、空はいつ頃こちらをおいとましたのですか」

「夕方の六時半くらいかな。息子たちが帰ってきて、少しだけいっしょに遊んでもらって。旦那は帰りが遅いし、晩御飯を食べていけばって言ったんだけど遠慮されちゃった。それで、夜になって旦那に空ちゃんのことを話したら、旦那ってば『変な話だな』って勘繰り始めて。たしかに、突然訪ねてきて『タイムカプセルを掘る』ってのは変だよね。時どき思いつめたような表情をしていたのも気になったし、何かあったんじゃないかと思って、夜も遅かったけど空ちゃんの家に電話したわけ」

「そう。それで、母はなんて言っていた?」

「ごめんなさいって謝られたあとに『空は変わっているから』って」

「変わっている……か」

 翔吾は下唇を噛み、視線を足元に落とした。

「ねぇ、実際のところどうなの。先ほどそちらのかたは、空ちゃんは家出したって言ってたけど……」

 夏江は首を傾げながら三ツ谷の方を向いた。三ツ谷は苦笑しながら舞に視線を送った。舞は気だるそうに『そうなの』と答える。

「お父さんと大喧嘩して不貞腐れちゃったわけ。放っておくと何をするかわからないから、無職で暇している友人ふたりと空を探しているってわけ」

『無職でーす』と三ツ谷はいびつなピースサインを作ってみせる。翔吾は心あらずといった様子で足元を見続けていた。

「仲直りできるといいね。それじゃあ、舞ちゃんも急いだほうがいいんじゃない」

「急ぐって、何を?」

「あ、ごめん。わたし、空ちゃんがどこに向かったか教えてなかったね。空ちゃん、賢二けんじくんのところに行くって言ってたの」

 翔吾と三ツ谷は揃って舞に顔を向けた。だが舞は両眼を細めて困惑した様に手をさすっていた。

「賢二くんって誰?」

「わたしと空ちゃんが子どもの時に仲良かった友達。中学生の時に熊谷から引っ越したの。空ちゃんも熊谷を引っ越してからは賢二くんと連絡を取っていなかったみたいで、引っ越していたのを知らなかったんだって。それでわたし、賢二くんの今の住所を教えてあげたってわけ」

「空さんは昨夜のうちにその『賢二くん』のところに伺ったのでしょうか」

 三ツ谷が訊ねる。夏江は『どうかな』と首をかしげた。

「賢二くんの家って神奈川の横須賀にあるんです。ここからだと電車を使って二時間半。賢二くんの連絡先を教えたら、すぐにうちの家電から電話をかけて『明日の朝いちばんにお邪魔するから』って約束をつけていました。夜のうちに横須賀に向かったかもしれませんが、少なくとも……ちょうど今頃はふたりで会っているんじゃないかな」

「夏江ちゃん」

 舞はひときわ大きな声を発した。

「わたしにも『賢二くん』の連絡先を教えて。今すぐ彼に連絡をしたい」

「う、うん。家電の履歴に残っているはず」

 夏江が立ち上がり、廊下にあるという固定電話へ舞を連れていった。三ツ谷は緑茶をすすりながら深いため息をついた。

「次の行き先が決まりましたね」

「ええ」

「横須賀ですか。海軍カレーで有名な街ですね。行ったことはありますか」

 翔吾は答えない。片脚を神経質そうに揺らしている。

「タイムカプセルって」

 吐き捨てるように翔吾が言った。

「ばかばかしい」

 廊下からかん高い悲鳴が聞こえた。

 小さな足音のあとに和室のふすまが勢いよく開き、パジャマ姿の男の子が転がり込むようにリビングに入ってきた。

 男の子は一瞬だけソファーに座るふたりの来客を凝視すると、寝癖を揺らしながらふたりが座るソファーの裏側にもぐりこんだ。

 翔吾と三ツ谷は身体をひねってソファーの裏側をのぞきこんだ。男の子は足をたたんで座りこみ、深く息を吐いている。ガラス戸の反対側から柴犬が興奮した様子で男の子を見つめている。男の子は立てた人さし指を口もとに当て、柴犬に向けて『シー』とつぶやく。

輝大こうだい! 輝大! あ、すみません。あの、こっちに下の子……輝大が来ませんでしたか」

 開かれた和室のふすまの向こう側から、夏江が翔吾たちに訊ねた。

 三ツ谷は無言のままソファーの裏側を指さす。夏江はスリッパの音を立てながらソファーに近づくと我が子を引きずり出した。

「お客さんに失礼なことしちゃだめでしょう。ひとさまを見て悲鳴をあげるだなんてとんでもない。ほら、お水をのんだら部屋に戻って寝てなさい」

 輝大は水を飲むと和室に入っていった。数秒後、とことこと階段を駆け上がる音が聞こえた。

「すみません。あの子、昨日の夜から熱を出していて」

 夏江が頭を下げる。

上階うえで大人しく眠っているように言ったのに、ふとんから抜け出してきて」

「ふたりとも」

 舞は廊下から顔を覗かせて言った。その手には固定電話の子機が握られたままだった。

「『賢二くん』にアポを取った。今すぐ出発」

 東松山インターから高速道路に入ると、舞は強くアクセルを踏みつけた。車窓に映る埼玉の市街地が高速で背後に流れていく。

松代まつしろ賢二は『松代オートサービス』ってバイクの整備店を経営しているらしい。夏江ちゃんに教えてもらったんだけど、二十代の若さで家業を継いで社長業を務めているそうよ。朝の十時に空と会う約束をしたって」

 後部座席の翔吾は腕時計に目を落とした。時刻は八時四十分。

「あきる野市のあたりが渋滞していますね」

 スマートフォンのアプリを見ながら三ツ谷が言った。既に助手席が彼の定位置になり始めている。

「横須賀市の予定到着時刻は十一時十分。空さんとのアポが十時ですから、お二人の話が長引けば空さんにたどり着けますね」

 『ひと』にたどり着く。その言葉遣いに翔吾は違和感を覚えたが、数度の咀嚼でその言葉をのみこんだ。そうだ。空はまさにこの旅の目的地だ。舞、翔吾、そして三ツ谷。蓋然的に集まったこの三人は空というひとつの目的地にたどり着くことを共有して一台の車に同乗している。空にたどり着くため、同じ目的地にたどり着くためだけに。

「『賢二くん』に頼んでおいた。空が来たらできるだけ話を長引かせて、わたしたちが着くまでの時間を稼いでくれって。それと、どうしても帰ってしまうようだったら、わたしのスマホに電話するように伝えてって」

「電話、くれますかね」

 三ツ谷が首をすくめる。

「どうだか。それと、わたしたちが横須賀に向かっていることも黙っておくよう頼んだ。もし空に逃げられたら厄介だからね」

「空は『賢二くん』にどんな用があるんでしょう」

翔吾が訊ねる。先ほどと同じく、片脚を神経質そうに揺らしながら。

「当の本人もよくわかっていないらしい。わたしたち家族が熊谷に住んでいた頃はたしかに空とよく一緒に遊んだそうだけど、引っ越してからは一度も会っていないって。正直に言って、五十鈴空って名前も、最初は誰のことかわからなかったらしいわ」

「そりゃ当然だ。舞さん達が熊谷に住んでいたのはたったの二年間ですもんね。いかに親しくとはいえ、たかだか二年の間だけ仲良かった相手なんて、忘れるのが普通ですよ」

「あの。ちょっと、サービスエリアがあったら止まってもらってもいいですか」

 伏し目がちに翔吾が手をあげる。バックミラーの中で舞は冷たい目をしていた。

「志摩さん。急いでいると言っているじゃないですか……」

 舞のご機嫌をうかがうように三ツ谷が言う。

二キロ先にあるサービスエリアの案内板が進行方向に現れた。舞は無言のまま左車線に入った。空いている駐車場にSUVが停まった。

「すみません。トイレに行くだけですから。すぐに戻ります」

 SUVのドアを閉じて、翔吾はトイレに駆け込む。個室に入ると、スマートフォンを取りだして母に電話をかけた。

「もしもし。翔吾、あんた今どこにいるの?」

 母はすぐに電話に出てくれた。昨夜『数日出かけてきます』と電話で伝えて以来の親子の会話だった。

「……友達のところ。それよりさ、昨日誰か家に来なかった?」

「は? あんたのアパートのことなんてお母さんにわかるわけないじゃない」

「おれのアパートじゃなくて、家だよ。お母さんが今住んでいる家。昨日だけじゃなくても、ここ最近、『志摩翔吾』を訪ねてきたひととかいなかった」

「どういうこと。いまはお母さんしか住んでいないのに、あんたを訪ねてくるひとなんかいるわけないでしょ」

「いなかったの?」

 翔吾は強く言った。隣の個室に入っている男が足を滑らしたのか壁が大きな音を立てる。翔吾は壁をにらみつけた。

「あたりまえです」

「本当に? それじゃあ、玄関の中にメモ書きとか落ちていなかった? おれ宛の、『志摩翔吾』宛のメモ書きとか、手紙、『また来ます』とか書いてある……」

「そんなものないわよ。来ていたらあんたに渡しているってば」

「もしかしたら玄関の中じゃなくてポストの中とかに……」

「来てないってば。ポストだって毎日見てるもの。ねぇ、あんた大丈夫なの。何かトラブルに巻き込まれているんじゃないでしょうね」

「大丈夫だよ」

 翔吾は次にアパートの隣の部屋に住む大学の後輩に電話をかけた。ポストに入っている合鍵を使って、玄関に入るよう頼む。

メモ書きの類は落ちていないとのことだった。


         2

「来た」

 舞は片手をハンドルから離し、ポケットのスマートフォンを取りだした。

 SUVは渋滞に巻き込まれ牛歩の速度で高速道路を進んでいる。法的にはともかく、物理的には問題ないと舞はスマートフォンを耳に当てた。

「五十鈴です。はい……そうですか。わかりました。どういうことです。あぁ、なるほど。つまり――」

 数分に及ぶ通話を終えると、舞はスマートフォンをドアポケットに投げ入れ、ドアに片肘をついた。

「逃げられた」

 味のしなくなったガムを吐き出すように舞は言った。

「『賢二くん』からだった。何とか引き留めようとがんばってくれたみたいだけど、無理だったみたい。たった今、会社を出たって」

「伝言は」

 三ツ谷が訊ねる。

「伝えてくれた」

「空さんはどこに行くと」

「聞いてないって。駄目ね、『賢二くん』」

「空は、松代さんにどんな用事があったのでしょう」

 翔吾は立てた人さし指で小刻みに足をつつきだした。

「空は自殺をするために家を出たんですよね。すぐに自殺をしないで、榊原さんと松代さんのところに伺って、いったい何が目的だったのでしょう」

「榊原さんのところに行ったのはタイムカプセルを掘りかえすのが目的だったのですよね」

 三ツ谷が言うと、翔吾は煽るように笑い声をあげた。

「馬鹿じゃないですか? そんなの嘘に決まっているでしょう。タイムカプセルなんて、子どもの頃に埋めたガラクタをとり戻して何になるっていうんですか」

「それは、わかりません。わたしは空さんではないので。空さんの価値観なんて彼女にしかわからないでしょう。空さんにとっては大切なものが埋まっていて――」

「じゃあ翔吾くんは空が何のために旧友のもとを訊ねたと思うの」

 海を断ち切らんばかりの勢いで舞は訊ねた。

「元恋人ならわかるでしょう」

 翔吾は黙り込んだ。


東京湾を臨む横須賀の国道沿いに、奥行きのある大きな三階建てのビルが建っていた。屋上には国道側に向けて『松代オートサービス』と大きく書かれた看板が掲げられていた。

ビルの一階は整備工場と販売店が併設しており、二階と三階はフロア全体が事務所になっている。到着前に一報を送っていたこともあり、松代賢二は一階の販売店で待機していてくれた。

 松代賢二は二メートル近い大男だった。

赤い派手なアロハシャツを着ているが、シャツの下の立派に隆起した小麦色の筋肉の方が主張は強い。白い短パンから伸びた煙突のように太い足も人目を引く力を有している。両足とも脱毛が施されており、窓から注ぐ太陽光を反射させて水面のように輝いていた。

「あの。すみません。こんなおかしな格好で」

 事務所のある二階に上がる階段の途中、松代は金髪をかきながら言った。

「これ、妻の趣味でして。港町の男は海の匂いを感じさせる外見じゃないとダメだって。毎朝妻が仕事着を選ぶんですよ。この髪も妻が。かっこ悪いですよねえ。本当はわたしもワイシャツとか普通の格好で仕事をしたいんですけど」

「センスのある奥様ですね。社長さんはご不満なようですが、とても似合っていらっしゃいますよ」

 三ツ谷が世辞を述べると、松代は破顔して盛んに頭を下げた。

二階にある応接室に通された三人は、皮張りのソファーに大人しくかしこまった。

「昨日の夕方、五十鈴さんからお電話をいただいた時は本当に驚きましたよ。子どもの頃に遊んだきりでしたからね」

 松代は漆塗りのお盆から三つの湯飲みをテーブルの上に差し出した。

「どうしても会いたいというので、『じゃあ今から東京で会おう』と提案したのですが、わたしに配慮していただき、一日またいで横須賀までお越しいただくことになりました」

「空も、ここに?」

 翔吾が足元を指さしながら訊ねる。松代は『はい』と大きくうなずいた。

「ちょうど、そこ。あなたが座られているところに」

 翔吾はソファーの皮をそっと撫で、浮き輪から抜き出る空気のような息を吐き出した。

「それで、皆さんがこちらにいらっしゃったのはどういう事情なのですか」

「説明するのもお恥ずかしいのですが、空は父と大喧嘩をしましてね。スマホも持たずに家を飛び出しました。心配した両親に頼まれて、無職で暇を持て余している姉が捜索に駆り出されたというわけです」

 舞は夏江の時と同じく嘘の事情を口にした。

「相変わらず破天荒だな、空()()()は……あ、失礼。つい子どものころの癖で」

「構いません。それで、空は松代さんにどんな用事でお邪魔したのでしょう」

 松代はどこか気まずそうな表情を浮かべると、アロハシャツの胸ポケットに指をすべらせた。

「これです」

 アロハシャツの胸ポケットから出てきたものを見て三人は目を丸くした。西洋風の剣にドラゴンが巻き付いた銀色のキーホルダー。よく観光地のお土産屋に置いてある、少年の冒険心をくすぐる()()だ。

 表情筋を固まらせる三人に、松代はしどろもどろで解説を始めた。曰く、このキーホルダーは松代が熊谷に住んでいたころ空にねだられて空に()()()ものらしい。

「正直に言うとぼくはあげてしまってもかまわなかったんですけどね。当時のぼくは『理由わけなくほどこしを与えるのは侮辱と同じ』と親から教えられていたもので、それなら貸すというていであげてしまえばいいだろうと考えたわけです」

『返すのをすっかり忘れていたから』。そう言って空は松代にキーホルダーを渡したという。

「さて。なんとコメントしたものでしょう」

 三ツ谷は腕組みをしながら、並んで座る舞と翔吾に顔を向けた。

「舞さん。このキーホルダーに見覚えは?」

「ない」

 即答だった。

「と、思いますよ」

 松代はほがらかな笑顔を付して言った。

「当の本人だって机の奥に入れっぱなしにしていて、つい先日までその存在を忘れていたそうですから。わざわざこんなもの返しに来るなんてねえ。家出のついでに横須賀観光、横須賀観光のついでに口実を作って旧友に会おうとしたのでしょうか」

 舞は無言でキーホルダーを手に取ると、裏側をのぞきこんだり、つかの部分に嵌められた赤いプラスチックの玉を触ってみたりした。

「なんの変哲もない子どものおもちゃ」

 舞はキーホルダーをテーブルに戻した。

「これだけですか」

翔吾が訊ねた。

その声色にかすかな緊張感が込められており、松代は眉をひそめた。

「はい。あとは五十鈴さんから依頼された通り、昔話や雑談を続けてなんとか足留めしようとがんばったのですが、十一時になったところでおいとまされると。仕方なしにお姉さまから連絡があったことを正直に伝えて、言われた通りに伝言を」

「空はなんと?」

「とくには何も。五十鈴さんの電話番号を書いたメモも素直に受け取ってくれました。事務所の電話を使ってくれと言いましたが、断られました」

「あの、本当にそれだけですか」

 上半身を前に傾けながら翔吾が訊ねた。

「空は本当に、キーホルダーを返すためだけにここに来たのですか。他にも何か目的があったのでは」

「いえ。わたしはキーホルダーを受けとっただけですが」

「そんなはずはない。空はあなたに会いに来た。あなたは空と親しかったのでしょう。何か大事な話があって、伝えなきゃいけないことが、聞き出さなきゃいけないことがあって、空はそのためにここまで来た。そうじゃないと、こんな田舎までわざわざ……おかしいでしょう」

 松代は救いを求めるように舞に視線を送った。

「空はこの後どこへ行くつもりか、話しませんでしたか」

 舞は声を張りあげて強引に話の主導権イニシアチブを手にした。翔吾が口を開きかけたが、テーブルの下で足を蹴って黙らせた。

「いえ。特に聞いておりません。そうか、家出されたのでしたね。何とかして聞き出すべきでしたね。申し訳ございません。配慮が足りませんでした」

「とんでもない」

 舞は立ち上がり『お忙しいなかお時間をいただきありがとうございました』と頭を下げた。

 三人は松代に先導され応接室を出た。応接室のドアから事務所の出口までは一直線の通路を進めばよい。通路はものがひとつとして置かれておらず整然としている。右手に立ち並ぶパーテーションの向こうでは、キーボードを叩き、書類と格闘する松代オートサービスの社員たちの姿があった。

「社長。急ぎの電話です」

 社員のひとりが松代に声をかけた。

 松代は顔をしかめると指でバツ印を作って首をふった。すると三ツ谷が同じ様にバツ印を作って松代に向けた。

「お見送りは結構です。どうぞ、本業にお戻りください」

「しかし……」

「いいですから。出口まで迷わず行けますので」

 松代は何度も頭を下げながらパーテーションの向こうに小走りで向かった。

 三人が事務所から出ようとすると、後ろから『ちょっと』と声をかけられた。

 ふりかえると、白いポロシャツを着た若い女性が腰に片手を当てて立っていた。

「あなた、さっき来たひとのお姉さんなんでしょ」

 女性はパーテーションに手を置き、どこか挑発的な口調で舞に言った。

「空のことですか」

舞が答えると女性はうなずいてフレームの細いサングラスを差しだした。

「これ、忘れもの」

「……空のですか」

「そうよ。ほら、もっていって」

舞は素直にサングラスを受けとった。女性は目を細くして舞をにらみつける。

「あなた達、うちの旦那とどういう関係なの」

「松代さんの奥様ですか」

「ええ。旦那は昔の友人だって言っていたけど、五十鈴なんて名前聞いたことなかったし。もしかして、昔の女なんじゃないかなって」

「熊谷に住んでいた時、ほんの二年間だけ仲良くしていただいただけですから」

「熊谷の話はよく聞くけど、やっぱり五十鈴なんて名前は聞いたことがない。なんか怪しいのよね。さっきだってふたりっきりで応接室に入ってこそこそと……」

 松代の妻は不満そうに言った。

「あの、失礼ですが」

 ひょこひょこと身体を揺らしながら三ツ谷が前に出る。

「このサングラスはどちらにありましたか」

「そこ」

 松代の妻はパーテーションの内側にある一台のデスクトップパソコンを指さした。

「調べものをしたいから使わせてくれって。その時に置いていっちゃったみたい」

「パソコン……!」

翔吾がつぶやく。三ツ谷はふり返り、鼻息を荒くして強くうなずいた。

「あの。大変恐縮ですが、わたくし共にもパソコンを使わせていただけないですか。空さんが使われたものと同じものを」

「別に、少しだけなら構わないけど」

「ありがとうございます」

 パソコンの電源は切れていた。三ツ谷は電源ボタンを勢いよく押しこんだ。

「空さんは外に出る直前にサングラスを着けた」

 パソコンがアクティブになるのを待ちながら三ツ谷は言った。パソコンと事務所の出入り口はパーテーションを挟んですぐそばにある。

「だがパソコンで調べものをすることになり、その際サングラスを外した」

「不思議ですね。外はよく晴れている。太陽の光を目にすれば、サングラスを忘れたことに気づくはずですが」

 翔吾が言うと三ツ谷は表情に陰を落とした。

「三ツ谷さん?」

「例えば」

三ツ谷が言う。

「例えば、サングラスを忘れたことにも気づかないほど気分が高揚していたとすれば」

 三ツ谷の言葉の意味を理解して、翔吾の背筋に悪寒が走った。

 パソコンが起動し、デスクトップ画面が表示される。デスクトップの背景画像は砂浜で腕を組んで並ぶ水着姿の松代夫妻のものだった。

 マウスを握る三ツ谷がインターネットブラウザを開く。カーソルは上部にあるタブをクリックし、履歴が開かれた。

 空が松代オートサービスを去ったのは十一時ごろ。その時間帯の履歴を見て三ツ谷はくちびるを噛みしめた。

「古典的だ」

 氷のように、冷たくつぶやく。

「あまりにも古典的。自殺をするとしたら、やっぱりここか」

「空はここに?」

 舞が訊ねた。

 三ツ谷は答えない。マウスを握る手が震え、それに連動して画面のカーソルも痙攣するように震えていた。

 履歴には地図アプリの閲覧記録が残っていた。出発は神奈川県横須賀市。向かう先は山梨県富士河口かわぐち湖。

 三ツ谷は履歴をクリックして地図のページを開いた。目的地周辺は薄い緑色が表示されている。その緑のなかにぽつんと黒い文字が六つ。『青木ヶ原樹海(あおきがはらじゅかい)』と並んでいた。

       

         3

「青木ヶ原樹海は恐ろしいところです」

 助手席の三ツ谷がダッシュボードを小刻みに叩く。松代オートサービスを飛びだした三人はSUVに乗り込み、人通りの多い市街を介し横須賀インターに向かっていた。

「樹海は広い。とにかく、広いんです。広大な面積に木々が縦横無尽に生えそろっていて、その木々から伸びる葉がこれまた大きく太陽の光を遮ってしまう。そのため樹海の中は昼間でもうす暗く、陰鬱で、不気味なんです」

「自殺の名所とはよく聞きますね。でも最近は観光地としての開発が進んで、森林浴やキャンプに訪れるひともいると聞きますけど」

 翔吾が言うと、三ツ谷は大きく首をふった。

「それは事実です。そして無数の事実の一部に過ぎません。言ったでしょう。樹海は広い。その面積は三千ヘクタールを上回ります。東京ドーム六二四個分ですよ。ひとが容易に歩けるよう整備された場所なんて、ほんの少しの面積に過ぎません。整備された区画から外れて数分進んでみたらおしまいです。周囲一帯に似たような景色が広がり、自分がどっちの方角から来たのかもわからない。車の音がしたからそっちの方角に向かってみよう。それなのに、いくら歩いてもたどり着けない。ただただ陰鬱な緑が無限に待ち受けるだけなのです」

「まるで宇宙ですね」

 翔吾は過去に空といっしょに観たSF映画を思い出した。

宇宙船と繋がる命綱がちぎれ、冷蔵庫のような宇宙服を着た宇宙飛行士が宵闇と形容してふさわしい宇宙空間に向かって飛ばされていく。慣性の法則だけを伴って、必死に『抵抗』を求め、溺れるように両手を振りながら宇宙服は小さくなっていく。宇宙空間に空気が存在しないことを示すためなのだろう。悲劇的なシーンなのに音声はない。ただただ無音の暗闇で宇宙飛行士が両手を振るだけのワンシーン。だがそれを観る翔吾の脳裏には声が聞こえていた。狂気の声。宇宙服の中で絶対的な死に怯える宇宙飛行士の叫び声が。

 そして今、翔吾は考える。あの宇宙飛行士は死を求めるだろう。絶対的な死を前にして、絶望的な恐怖に脳裏は犯される。その恐怖から逃れるために死を求める。救済のための死を、死を、死を、死を、死を――

「希望は捨ててください」

 三ツ谷が言い放った。

「樹海は広すぎる。空さんがひとたび樹海の奥に足を踏み入れてしまえば、わたくしたちはもう彼女にたどり着くことはできないでしょう。もし出会えたらそれは奇跡です。希望は捨てて、奇跡を祈ってください」

 運転席の舞が舌打ちをした。三ツ谷の言葉に苛立ちを覚えたのかと思ったが、そうではないらしく、カーナビの上に手を置いて指の関節を鳴らしていた。

「渋滞」

 手を離すと、液晶に映る青木ヶ原樹海までの道路のいたる所が赤く表示されていた。

「日曜日ということもあって、交通量が多いみたいですね。ですがそれは空さんも同じこと、ん。おふたりとも、空さんは何に乗って樹海まで向かわれたのでしょう」

「少なくとも、うちの車は使っていない。うちにはこのSUVとゴルフがあるけど、わたしたちが家を出た時ゴルフは車庫にあったから」

「え、空。免許取ったんですか」

 翔吾が驚きの声をあげる。赤信号でSUVは止まっているが、舞は翔吾の声を無視した。必要のない問いに答える必要はない。そんな意志が感じられる沈黙だった。

「となると、レンタカーでしょうか。東京の店舗で借りて、山梨県の店舗で返却。レンタカーを降りたあとは、タクシーかバスに乗って樹海まで向かえばいいわけですからね。山梨県まで公共交通機関で向かうという方法もありますが、乗り換えが多く時間もかかってかなり面倒だったはず。やはり車を使ったと考えるのが正解でしょう。わたくしたちより先に横須賀を出発したとはいえ、渋滞は山梨県付近でも起きているので、空さんも渋滞に巻き込まれているはずです」

「渋滞に入る前に」

 車内にウィンカーの音が細かく響く。舞は前方にあるコンビニを指さした。

「お昼ご飯を買っておきましょう」

「そんな時間は……」

「いえいえ、志摩さん。食事は大事ですよ。ここからは長期戦。しっかりと兵糧を蓄えて戦いに挑みましょう」

 コンビニの駐車場にSUVを停める。『暑い暑い』と手で顔をあおぎながら三ツ谷が吸い込まれるように自動ドアの奥に消えていった。翔吾もその後に続く。舞は続かない。三ツ谷も翔吾も舞がコンビニに入ってこないことに気づかなかった。

 トイレを済ませ、食料を買い物かごに放り込んでいると、翔吾はレジの後ろにある窓越しに舞の姿を見た。SUVの横に立つ舞はスマートフォンを耳に当てていた。翔吾の胸が苛虐かぎゃくに跳ねる。買い物かごを三ツ谷に押しつけ、翔吾はコンビニを飛びだした。

 舞はスマートフォンを掴んだ手をだらりと下ろして天を仰いでいた。数時間前までは絵の具で塗りつぶしたかのように青かった空に、今は厚く暗い雲が広がりだしている。

 翔吾は息を切らせ無言で訊ねた。

 舞はうなずいた。

「空から」

 翔吾は舞の手をつかみ、スマートフォンを奪いとった。履歴には公衆電話との約三分間の通話記録が残っていた。

「公衆電話にも電話をかけることはできます。急いで、空が離れる前に電話を鳴らせば……」

「やめたほうがいい」

 舞の顔は真っ青に染まり、その手は震えていた。

「あなたは、たぶん、傷つく」

「もう十分に傷ついています」

「じゃあたぶん、傷ですまない。いま空と話したら、心臓がえぐり取られる」

「意味がわかりません。空は、どうしたっていうんですか」

「空にあなたのことを話した。翔吾くんといっしょに空を追っているって。そしたら」

 ――誰だっけ――

「空は、あなたのことを覚えていないみたい」


         4

 舞は翔吾にSUVから降りることを許した。空は翔吾のことを忘れていた。かつての恋人を忘れるような薄情者のために時間を割くことはない、と。

 だが翔吾は降りなかった。後部座席に乗り込み、ボロ人形のように崩れ落ちた。

 再び国道を走りだしたSUVの中で舞が言った。

「レンタカーで向かっているそうよ。久しぶりに車を運転したけど、快適だって笑っていたわ」

三ツ谷が推測した通り、空は公共交通機関を利用してはいなかった。

「空さんの決断は変わっていないということですね」

 三ツ谷が腕組をしながら唸り声をあげた。決断とはもちろん、希死念慮の実現への決断についてである。三ツ谷の手には小さな紙の包みに入れられたフライドチキンがあった。

「ええ。もう一度、目と目を合わせて話し合いたいと伝えたんだけど、断られた。自分の信念は変わらない。樹海に行って、誰にも迷惑をかけずに死ぬって。本当に、バカな子」

 SUVがセンターラインを越えかけた。対向車線のミニバンがクラクションを鳴らす。

「どうして電話をくれたのでしょうか」

「松代くんのメンツを潰さないため、それだけのために電話をかけてきたのよ」

「志摩さん」

 三ツ谷は後部座席の翔吾に声をかけた。

「志摩さん。何か食べてください。胃にものをいれれば少しは気が晴れますよ」

 だらりと垂れた翔吾の腕が隣にあるビニール袋に伸びていく。途中で腕は止まり、翔吾は重苦しい息を吐き出した。

「『他人』だって」

 翔吾の代わりに、そして空の代わりに舞が言った。

「空はかつての恋人のことを忘れていた。さすがにフルネームを伝えたらすぐに思い出したようだけど。あの子、笑っていた。『家族』ならともかく、どうして『他人』が自分の心配をしてくれるんだって」

「わたくしの中で空さんに対する株が暴落しましたよ」

 彼にしては珍しいことに、三ツ谷は顔をしかめて怒りの意志をあらわにした。

「志摩さんは本気で空さんのことを心配している。家族でなかろうと、『他人』であろうと、どうしてその人を邪険に扱えるのですか。お姉さんがいる前で悪口は言いたくないですけどね、元恋人に対する態度としてはあまりにも失礼ですよ」

「たった二年の付き合いでした」

 翔吾が言った。潮が引くように弱々しい声で。

「別れを切り出したのはぼくなんです。付き合ってくれと先に頼んだのがぼくなら、それを終わらせたのもぼく。貴重な青春の二年間をぼくという男に捧げて、台無しにされて、失礼の理由としては十分ではないですか」

「志摩さん……」

 三ツ谷は言葉を探すように視線を泳がした。だが大したものは見つからなかったらしく、『あまり思い詰めないでくださいね』と無難な言葉を残すにとどめた。

 ヴェルニー公園を右手にSUVは走り続ける。公園の向こうには水面が広がり、自衛隊のものと思われる潜水艦の姿が見えた。潜水艦の上の人影は何か道具を持って左右に動き回っている。翔吾はそれを見て羨んだ。使命を持っている彼らを羨んだ。誰かに期待され、求められ、必死に生きている彼らを――

 緩やかな傾斜をのぼり、周囲の景色が港町のそれから、坂の多い町中に変わる。横須賀インターから高速道路に入りしばらく進むと、カーナビの情報通り、渋滞が始まっていた。

「渋滞時は車間距離を詰めるのではなく一定の間隔をあけて、低速度で走り続けたほうが渋滞緩和につながるんですよ」

頻繁に加速と減速をくり返すと、後続車両にもその動きが連鎖して伝わり更なる渋滞につながるからだ、と三ツ谷は車内の空気を変えようと豆知識を披露した。

「極端な話、全ての車両が同速度で走れば渋滞は起きないわけですから」

 誰も言葉を返さなかった。三ツ谷はごまかすように咳ばらいをすると、隣の車線の黒い大きなBMWを見て『まるでバットモービルですねえ』と感嘆の息を吐いた。

 車内の雰囲気は最悪だった。運転席の舞はコンビニを出て以来、輪をかけて不機嫌な様子だ。頻繁に髪に手を入れてクシャクシャとかき回すので、髪の右側だけが乱れている。

 翔吾は相かわらず後部座席で不貞腐れている。身体を丸め、時おり思い出したように大きく息を吸い、息を吐く。三ツ谷が助手席から笑顔で話題を提供しても、低い声で短い言葉を返すだけだった。

 三ツ谷は許可を取ることなくカーラジオをつけた。DJが場違いと言わざるをえない陽気な口調でゲストのアイドルに話題をふる。アイドルが子どもの頃に歳の離れた姉とふたりで旅行に出かけた時のエピソードを話し始め、三ツ谷はラジオを切った。

 ひとつの渋滞を抜けて遅れを取り戻すように加速するも、数キロ進むとまた渋滞の群れに巻き込まれる。遅々として進まぬまま、高速道路に入ってから一時間半が過ぎた。横須賀インターから北上し、横浜を抜け、SUVは保土ヶ谷バイパスを経て西へ進行方向を変えた。

「横浜方面から青木ヶ原樹海に向かうにはふたつルートがありますよね」

 三ツ谷が言った。

 関東方面から山梨方面へ向かう場合、神奈川西部から山中湖まで続く丹沢山地の北側を迂回するか南側を迂回するかの二択がある。前者の場合は海老名ジャンクションから相模原市方面へ北上し、高尾山のあたりからひょいと西側に曲がり山間部の道路を走っていくことになる。後者の場合は、海老名ジャンクションを西へ直進し、丹沢山地を右手にあおぎながら相模湾側の道路を進んでいくことになる。

 カーナビは前者の道を提示していた。試しにと三ツ谷は、後者のルートの所要時間を調べてみる。渋滞があるという点はどちらのルートも同じで、所要時間に大差はなかった。

「どちらにします?」

「どっちも同じ時間がかかるなら、どっちでもいいでしょ。海老名ジャンクションを入った時に、少しでも空いている方にする」

 舞は気だるげに答えた。サイドドアのポケットからサングラスを取り出して装着する。西日が差しこみ、SUVの車内は黄金色の光に包まれていた。

 保土ヶ谷バイパスを抜けてからも渋滞が点々と続いていた。路肩に停まる故障車両を目にするたびに舞は舌打ちをした。

海老名サービスエリアの看板が目に見えたところでSUVは車線を左に変えた。舞はひとこと『お花摘み』とだけ言った。三ツ谷と翔吾は舞が横須賀のコンビニでトイレを済ませていなかったことに気づいた。

 海老名サービスエリアは利用者数が一日あたり十万人を上回る日本一の大型のサービスエリアだ。その分駐車場も広いのだが、休日の午後ということもありそのほとんどに車が停まっており、駐車場の入り口で渋滞が生じていた。車が一時停止したところで、舞は三ツ谷の方を向いた。

「運転代わってくれる? わたし、先に行ってくるから」

 返事を待たずに舞はバッグを持ち運転席から外に出た。三ツ谷も車の外に出て、慌てて運転席に入る。

「男性と違って女性は時間がかかりますからねぇ」

 三ツ谷は翔吾に苦笑をみせた。翔吾は何も言わず窓の外に視線を向けた。

一台分の停車スペースを見つけ、SUVをそこに入れた。サービスエリアからは一番離れた駐車エリアであり、翔吾はトイレまで行くのが面倒になり車内に留まると言った。

「いけません。ぼくたちもトイレを済ませておきましょう。それに、少し身体を伸ばした方がいいですよ」

 三ツ谷は翔吾を無理やり車から引きずり下ろすと、トイレに向かった。トイレの入り口の壁には、帽子とマスクを身につけた男のイラストと『不審者注意』と書かれたポスターが貼られていた。

「何か、食べませんか」

 翔吾がトイレから出ると、先に出ていた三ツ谷がフードコートの方を指さした。

「コンビニで買ったものがまだ残っています。それに、買い物をする時間は……」

「ないかもしれません。だけど志摩さん、ご自身の顔を鏡で見られましたか。ものすごく顔色がわるい。ショックなのはわかりますが、温かいものをおなかに入れた方がいいですよ。ほら。わたくしがおごりますから」

 三ツ谷は翔吾の腕を引き、フードコートに入った。フードコートの中は人込みが激しく、翔吾はその活気に飲みこまれそうになった。

肉まんを三人分買い、ふたりはフードコートを出た。

三ツ谷は一度大きくノビをすると、翔吾の方に向き直した。

「志摩さん。あなたは、どうして帰らなかったのですか」

「質問の意味が……」

「不鮮明でしたね。つまり、志摩さんはどうして横須賀のコンビニでSUVから降りなかったのですか。志摩さんは空さんに傷つけられた。いいじゃないですか。自分を裏切るような女性なんか捨て置けばいい。勝手に死なせればいい。そんなひどいおかた、志摩さんの方からフッて正解だったんですよ。だけど志摩さんはSUVから降りなかった。どうしてですか。空さんへの未練を捨てきれなかったのですか。自分を足蹴にした相手であろうと、ひとが自らの命を絶つことに耐えられなかったからですか」

 翔吾は強く目を閉じた。まぶたの裏で自分の想いを言語化する。そして彼は、言った。

「たぶん。舞さんのためです」

翔吾は肉まんの入ったビニール袋を強く握りしめた。

「ぼくと舞さんは相性が悪い。ぼくはあのひとが嫌いだし、あのひともぼくを嫌っている。でもこの二日間、ぼくらは一緒に旅をしてきたんです。空を見つける。空にたどり着く。空を止める。そのためにぼくたちは力を合わせてきた。あのひとは空に会いたいと望んでいる。ぼくは舞さんの力になりたい。ぼくはただ、その願いを叶えてあげたいだけなんです」

「なるほど。よくわかりました」

 三ツ谷は翔吾の背中を強く叩いた。衝撃に翔吾は悲鳴をあげる。周りの客たちが何事かと二人を見つめた。

「いいですね。すごくいびつだ。その屈折した感情、わたくしは大好きです。さ、車にもどりましょう。たぶん、わたくしたちが戻ってこなくて舞さんはカンカンですよ。肉まんで機嫌を直してくれるといいんですが」

「……もしかしたらひとりで出発しちゃったかもしれませんよ」

 そんなことはなく、SUVは駐車場に停まったままだった。

「あれ。五十鈴さん、いらっしゃいませんね」

 車内に舞の姿はない。女性のトイレは時間がかかる。肉まんを買いに行っていた時間を加味すると、舞はすぐに戻ってくるだろうと三ツ谷が言った。

 車のキーは舞が持っているため、ふたりは仕方なしに車外で待つことにした。

SUVの横を女子大生と思わしき若いふたりが通る。女性のうちのひとりが顔をひきつらせて言った。

「さっきの、ほんとキモかったね」

『ねー』ともうひとりの女性が相づちを打った。

「わたしがトイレに入る時からいたんだよ。ああやって女子トイレの前に立ってさ、出てきたひとを見てエッチな想像してるんだよ。キモすぎ」

 女性たちは軽自動車に乗って駐車場の出口に向かった。そのキモい何某と同じ性別である翔吾と三ツ谷は、目を見合わせ何とも言えない模糊とした感情を抱いた。

 サービスエリアの方から舞が来た。だが様子がおかしい。小走りで、後ろを気にしながらSUVにまっすぐ向かってきている。

「はやく車に乗って」

 少しの距離をおいて舞が声を張りあげる。

「はやく」

「キーを持っているのは五十鈴さんですよ」

 三ツ谷が声を張りあげる。

 SUVのドアまで来ると、舞はじれったそうにジーンズのポケットに手をつっこんだ。

「ああもう。中で糸に引っかかっている。何それ。買い物なんてしてきたの」

 舞は翔吾の手にあるビニール袋をにらみつけた。

「肉まんですよ。温かいものを――」

「おい、待てつっただろ!」

 男の怒声があたり一帯に響き渡った。

 肩に白い線が入った黒のメッシュジャケットを着た男が小走りで近づいて来る。中肉中背で薄いひげを口の周りに生やしている。頭の後ろで乱雑にまとめたくせ毛が動物の尾のように揺れていた。拳銃のように突き立てた指を舞に向けながら、顔を真っ赤に染めていた。

 舞は運転席に乗り込みドアを締めようと手を伸ばす。だが男はドアの上部をその太い指で掴むと、動物の皮を剥ぐように乱暴に開いた。

「ちょ、ちょっと。何ですかいったい」

 助手席側にいた三ツ谷が慌てて男に近づく。だが男は三ツ谷を意にも介さず、舞の右腕をつかみ運転席から引きずりだそうとした。

 舞は抵抗しながらエンジンボタンを押した。

SUVのエンジンがかかる。舞は大声で『早く乗って』と叫んだ。それと同時に、男に引かれた舞の上半身が車外に出る。片腕を取られた不格好な形で、舞はコンクリートの地面に上半身を投げ出した。

 舞が短い悲鳴をあげる。男は舞の腕を掴んだまま『なめやがって』と焼けた石を口の中で転がすようにつぶやいた。

「なんだあの目は。知っているんだぞ。おれを変態だと決めつけているんだろ。お前らはいつもそうだ。おれはまじめに生きているだけなのに。いつもそうやって、おれのことを馬鹿にしやがる。あん。なに見てやがる」

 男は翔吾の方に視線を向けた。翔吾はSUVの後方に立っていた。

「文句でもあんのか」

 男が怒声をあげる。

 翔吾は全身を震わせながらぼそぼそと声にならない声を発した。

「他人が口出しすんじゃねえ!」

男は舞の腕を放すと、重機のような勢いで翔吾に近づき、その腹を厚底の靴の裏で蹴飛ばした。

 翔吾の身体は後ろに停まるミニバンにぶつかった。肉まんの入ったビニール袋が地面に落ちる。ミニバンの助手席から老齢の女性が顔を覗かせ何事かと表情を曇らせた。

 周囲には数人のギャラリーができていた。当人の耳に届かないようひそひそと男を非難しているようだが、SUVからは一定の距離を保ちいつでも逃げられる位置にいる。

 舞が上半身を運転席に戻し、無理やり車を発進させた。男が運転席の窓を乱暴に叩く。男の上半身に三ツ谷がタックルをしかけた。男と三ツ谷は組み合いながら地面に倒れこむ。

「速く!」

 三ツ谷が叫ぶ。尻もちをつきながら呆然としている翔吾に向かって。

「速く乗りなさい!」

 数メートル前進したSUVの運転席から舞が叫んだ。翔吾は一度男を見つめ、唸り声をあげると、頼りない足取りでSUVに駆け寄り後部座席に飛びこんだ。

 三ツ谷はその巨体で男の身体を押さえつけていた。男は三ツ谷の顔を大きな手のひらで掴み抵抗する。

「あだ。あだだだだ」

 三ツ谷は男の手から逃れようと身体を起こした。男の手が離れる。男も立ち上がり再び三ツ谷に組みつこうとするが、三ツ谷が放り投げた肉まん入りのビニール袋が顔面に当たり男は車止めのブロックの上に尻もちをついた。

 三ツ谷が前のめりになりながらSUVに駆け寄った。『開けて!』と舞が翔吾に叫ぶ。翔吾は後部座席のドアを開ける。三ツ谷は後部座席に転がり込んできた。

 SUVは急加速してサービスエリアの出口に向かった。

数十メートル離れたところで、翔吾はリアウインドウ越しに後方を見つめた。

困惑の表情を浮かべるギャラリーがモーセを前にした海のようにふたつに割れた。そこに男が立っていた。男は肩で息をしながらSUVを見つめていた。


         5

「女子トイレの前にあの男がいたの」

 人さし指でハンドルを小刻みに叩きながら舞が言った。少し早口で、しきりにバックミラーに目をやる。

「トイレから出てきた女性をニヤニヤしながら見つめていて。気持ち悪いなと思ってにらみつけたら、怒鳴りながらこっちに向かってきた」

「変質者ですね。あんな頭のおかしい……志摩さん、大丈夫ですか」

 腹部を抱えてうずくまる翔吾に三ツ谷が憂いの声をかけた。

 翔吾は顔を伏せたままうなり声をあげている。『失礼』と言ってから、三ツ谷は翔吾の身体を起こし、シャツをめくった。へそから胸の下のあたりに、ソフトボールほどの大きさのあざができていた。

「派手に蹴られましたからね」

 シャツを戻し、三ツ谷が翔吾の肩を叩く。翔吾はびくりと身体を震わせた。

 海老名サービスエリアを出てから数分。運よく渋滞は緩和されており、SUVはスムーズに進んだ。

「肉まん、おいしそうだったのに」

 三ツ谷がクシャクシャと顔を潰した。

「駄目にしちゃいましたよ。申し訳ない」

「いえ、いいんです。それより――」

「それより、なんです?」

 押し黙った翔吾に三ツ谷が訊ねる。だが翔吾は再び貝のように黙してしまった。翔吾は混乱していた。脳内で紡ぐべき言葉が選出される。だがその選出するアルゴリズムは恐怖と緊張からエラーに溢れ、選出された言葉は口にするべきではないと舌の上で溶けていった。

「五十鈴さんは大丈夫ですか」

 後部座席から身を乗り出して三ツ谷は訊ねた。

「大丈夫じゃない。ひじのあたりがちょっと切れている。大丈夫じゃないけど、気にしている場合じゃないでしょう」

「その通りです。わたくしたちの目的は空さんにたどり着くこと。それ以外のことは忘れましょう。志摩さんもいいですね」

 海老名ジャンクションの近辺では再び渋滞が起きていた。もはや誰も渋滞に苦言を呈する者はいない。車内にはコンビニで買ったプロテインバーをむさぼる、三ツ谷の咀嚼音だけが響いていた。

 海老名ジャンクションが見えてきた。前方に表示板が現れる。『厚木・名古屋』方面に向かうは直進し、『茅ヶ崎・八王子』方面に向かうには左車線に入る必要がある。三ツ谷の視線がリアウインドウに向いた。あの男が追いかけてきているのではないかと不安になったようだ。だが、特に周囲に不自然な車輌の姿はなかった。

 舞はハンドルを左に切った。八王子方面にSUVは向かう。丹沢山地の北側を迂回するルートを選んだのだった。

 海老名ジャンクションのカーブを曲がっていると、フロントガラスに雨粒が落ちてきた。ぶ厚い雲の背後に午後の太陽は隠れた。周囲は一転してうす暗くなっていく。ぽつぽつと弱く振り始めた雨は徐々に勢いを増していく。数分後、SUVのワイパーは窓を這う雨を勢いよく切り払っていた。

「台風。近づいていますね」

 三ツ谷がスマートフォンを見つめながら言った。画面には天気予報のアプリが表示されていた。

「あと何時間かで近畿地方に上陸するそうです。その影響で関東付近の前線が活発になって、今夜は山梨方面も大雨が続くみたいですよ」

「イヤな事は重なるものね」

 カーブを曲がり終えるとまた道が二手に分かれた。左手に進むと茅ヶ崎へ、直進すると八王子方面へ北上していく。当然SUVは直進した。

 ジャンクションを抜けてからも渋滞は続いていた。渋滞のストレスと雨音のストレスが重なり車内の空気はいっそう重苦しくなる。

後方からクラクションの音が聞こえた。怒鳴り声も一度。後部座席の三ツ谷と翔吾は背後を見た。数十メートル後方の車が、わずかに車体を横にずらしている。

 横にずれた車の陰から、一台のバイクが現れた。光沢を放つ白のスポーツバイク。そのバイクにまたがっているライダーは肩に白い線が入った黒のメッシュジャケットを着ていた。フルフェイスのヘルメットを被っているので顔は見えないが――

「まさか」

 三ツ谷は引きつった声を発した。舞が『なに』と訊ねる。

「さきほどの男が、こちらに近づいてきています」

 舞は素早く後方をふり返り、かすかに鼻を鳴らした。

「進行方向が一緒だっただけかしら」

「それは楽観がすぎるでしょう。ほら」

 男はSUVに向かって大きく手を振ってきた。三ツ谷は苦々しい表情で小さく手を振り返す。

 バイクは一定の距離を保ちつつ尾行を続けてきた。渋滞のため低速で走っているとはいえ、走行中に接触してくるつもりはなさそうだ。

 渋滞が緩和した瞬間に、舞は一気に加速して追い越し車線に入った。後方の車が割り込みに驚き急ブレーキをかけた。けたたましいクラクションを背に受けながらSUVは加速していく。左に、右に、タイヤの悲鳴、車線変更を細かくくり返し、少しでも前へと進んでいく。

「どう。まだいる?」

 そんな危険な運転を十分ほど続けたあと、舞は後部座席のふたりに訊ねた。

「……いませんね」

 シートベルトを握りしめながら三ツ谷が言った。

 舞はふたたびアクセルを強く踏み加速した。滝のように降りそそぐ雨水を意に介さず、SUVは制限速度を遥かに上回る速度で進んでいく。

「逃げきれますかね。相手はバイクですよ。渋滞の中ならともかく、空いた道ともなればすぐに追いついてくるでしょう」

 三ツ谷が苦言を呈する。バックミラーの中の舞はくちもとをかすかに上げた。

「逃げるつもりはない」

「……どういうことです」

 SUVは左車線に入った。現在の車線は二車線だ。それなのに舞は、左のウィンカーを点灯した。

 舞はアクセルを緩めSUVを減速させた。三ツ谷と翔吾は数十メートル先に()()を見た。直線に伸びている左手のガードレールが左に緩やかに曲がり、そこから数メートル先まで車輌一台分横幅のスペースが続いている。非常駐車帯だ。

「あぁ、なるほど」

 三ツ谷がぽんと手を叩いた。

 非常駐車帯に入り、できる限り後方にSUVを停める。『さて』と舞はつぶやき、強雨のなか右手を高速で流れゆく車の群れを眺め始めた。

「バイクを先に行かせるわけですね。SUVを追いかけるバイクは右車線を高速で走っているでしょうし、視界の悪いフルフェイスのヘルメットを被っていた。さらにはこの雨。非常駐車帯の手前側に停まっている車を見落とす確率は十分にあります」

『かしこいなぁ』と三ツ谷が感嘆の声を続けた。舞はミニボトルのガムを三つまとめて口に放り込み、閉じた口の中で乱暴に噛み砕いた。

数分の間、沈黙が続いた。翔吾が『あ』とつぶやく。白のスポーツバイクが追い越し車線を高速で駆けて行った。

「行きましたね」

「うん。念のため、もう数分待ちましょう」

 雨音が車体を叩く音とワイパーの無機質な稼働音が淡々と響く。

「どういうつもりなんだろう」

 翔吾が窓の外を見つめながら言った。

「気にしない方がいいですよ。あたまのおかしいひとはこの世の中一定数いるものです。大切なのはトラブルが生じた時に穏便にことを済ませること。逆上してこちらから攻撃的に出るなんて愚の骨頂。五十鈴さんの判断は至極正しかったとわたくしは思います」

 三ツ谷は腕を組み、大きく首を前後にふった。褒められた舞は何も応えない。両手をだらりと垂らし、深い息を吐き出した。

数分後、SUVは非常駐車帯を出た。

時間の経過と共に雨の勢いは強くなっていく。窓ガラスに叩きつけられる水滴。ワイパーが水滴を払い、潰し――それでも止めどなく降りそそぐ水滴に視界は不鮮明に写る。雨雲のせいでまだ午後の二時過ぎだというのに一帯は暗い。冥々(めいめい)とした高速道路を走る車はどれもライトを点灯していた。

「そんな」

 走り始めて数分後。驚嘆の声が翔吾の口からこぼれ落ちた。

 進行方向の左手に非常駐車帯があった。そしてそこに、雨の中停止したバイクにまたがり、両腕を組みながら走る車を凝視するあの男の姿があった。

 SUVが非常駐車帯の前を通過した時、男のヘルメットがSUVの方を向いた。

 男はすばやくバイクに腰をおろし走り出す。舞はアクセルを強く踏みこんだ。前を走る車輌を追い越し、追い越し、追い越し、追い越し、それでも――

「こちらが非常駐車帯にいたことに気づいていたようですね」

 三ツ谷は後ろを見ながら言った。

「だけど、気づいたのはわれわれがいる非常駐車帯のほんの手前あたり。急停止して同じ非常駐車帯に入ることはできなかった。だから次の非常駐車帯でわれわれを待ち受けていたというわけですか」

「しつこいわね。何が目的なの」

 舞はハンドルを小刻みに指で叩きながら声を荒げた。

「どうしましょう。警察に通報しますか。あの手の輩は、公権力が現れたらしっぽを丸めて逃げ出すと相場が決まっています」

「だめです」

 翔吾は三ツ谷の手首をつかんだ。

 強くつかまれて驚いたのか、三ツ谷の手からスマートフォンが足元に落ちた。三ツ谷が目を細めて翔吾を見つめる。翔吾は再び『だめです』と言った。

「警察が来たら、仮にあの男が逃げたとしてもぼくらは警察に事情を説明しなければいけなくなる。一分や二分で終わるはずがない。長時間拘束されます。ぼくらにそんな時間はありません。今この時も、空は樹海に向かっているんですよ」

「舞さんは志摩さんと同じお考えですか」

「同じお考え。あんな男に構っている暇はない。そのうち飽きて離れるでしょう」

「委細承知です。それではあの男のことは気にしないでおきましょう」

 どかりと後部座席に三ツ谷は深く座り直した。泰然自若とした三ツ谷とは異なり、翔吾は何度も背後を見返した。

「不安そうね」

 運転席の舞が言う。もちろん、翔吾に向けて。

「不安と恐怖ってどう違うんでしょう」

「程度の違い」

「どの程度の」

「不安は的中しても頬を引っかかれる程度の傷で済む。恐怖は――」

「恐怖は?」

「心臓をえぐり取る」

「あぁ、それなら。これはきっと……」

 翔吾は再び後ろを見た。槍のように降りそそぐ雨の中に白いバイクの姿が現れる。

「まさか山梨県までついてくるとは思えないし、どこかで諦めてくれるでしょ。無視を決め込むのが一番。何なら寝てもいいわよ」

「青木ヶ原樹海まではまだ二時間以上かかります」

 三ツ谷が後部座席からカーナビに向かって首を伸ばした。

「サービスエリアでの些細な怨恨を理由に長時間追跡してくるとは思えません。そのうち頭が冷えて諦めるでしょう。それに、もし山梨県までついてきたらわたくしに考えがあります」

「何するつもり」

「口にするのもはばかられるほどつまらないことです。ええ本当に。できることならお披露目することなく終えたいものですね」

 相模原インターを越えると、三五七〇メートルにも及ぶ相模原八王子トンネルが待ち構えている。トンネル内にも長い渋滞が生じており、SUVはとろとろと牛歩で進んだ。

 白いスポーツバイクは依然として変わることなくSUVを尾行していた。SUVの真後ろに着くようなことはしないが、一定の距離を保ちながら、前の車の陰に重ならないよう車線の端を走行し、ふり返れば必ず『そこ』にいることがわかる位置にいた。

「トンネルを抜けると、高尾山インターの出口があるんですよ」

 間もなくトンネルを抜けようかというところで、指揮者のように指をふり回しながら三ツ谷が言った。

「あの男は高尾山ツーリングに向かってくれるといいんですけど。高尾山は登山だけでなく、ツーリングスポットとしても人気でして」

「この大雨の中ではツーリングも登山も最悪でしょうね」

 舞が陰気に応えてみせる。三ツ谷はけらけらと笑ってみせた。

 トンネルを抜ける。進行方向に看板が現れた。左の車線は高尾山インター出口、直進すれば八王子方面だ。

 SUVは迷う事無く直進する。翔吾と三ツ谷は揃って後ろをみた。

 スポーツバイクも直進した。


          6

 SUVは八王子ジャンクションを西方向に進み、秩父山地の山間部を伸びる中央自動車道に入った。

「八王子ジャンクションを抜けたら渋滞が解消されると思ったのですが」

 前方に伸びる渋滞を見つめながら三ツ谷がほほを膨らませる。ほのぐらい大気の中で、無数の車がどろりどろりと前進していく。

「志摩さん。うしろは?」

 前を向いたまま三ツ谷が訊ねる。翔吾はリアガラスの向こうを見た。一台後ろはコンパクトカー。二台後ろは軽トラック。軽トラックの斜め後方に、白いスポーツバイクがいた。

「あいかわらずです」

「やれやれ」

 男との接触を避けるため、途中のサービスエリアで休憩をとることはできない。三人はできる限り飲み物を我慢してのどの渇きに耐えた。時間の経過と共に積み重なるストレスの量は計り知れないものになった。

 中央自動車道に入ってから五十分ほど経過したころ、渋滞が緩和され始めた。

 運転席の舞はスイッチの入った人形のように機敏に動いた。SUVは加速した。後部座席のふたりが背後を見る。白いスポーツバイクも加速してついてくる。

 舞のドライビングテクニックもたくみではあったが、スポーツバイクの男のそれも功妙が過ぎる。ひとたびスポーツバイクの姿が見えなくなっても、数分立てば再びその姿を現す。結局、河口湖インターから高速道路を降りるまで追走は続いた。

「仕方ないですね」

 料金所を通過し、小さなバイパスを右折するところで三ツ谷が首を小さくふる。

「『考え』?」

「はい。五十鈴さん。どこか路肩に停めて、わたくしと運転を代わってください。素早く、雷光のごとく、迅速に。シートベルトは先に外して、停車したら舞さんは助手席に移ってください」

「……了解」

 SUVが路肩に停まる。舞は腰を上げ、センターコンソールをまたいで助手席に移った。三ツ谷は後部座席のドアから飛びだし運転席に移る。開けられたドアを内側から閉めるのは翔吾の役目だった。

 三ツ谷はシートに腰をおろすとほぼ同時にシフトレバーをパーキングからドライブに替えた。シートベルトを締める間もなく急加速する。後部座席のドアを締めようと手を伸ばしていた翔吾は、バランスを崩しシートに身体を叩きつけられた。

きます」

 豪雨が降りそそぐ道路をSUVは百キロ近い速度で走りだした。黄色信号に躊躇なく突っ込む。十字路の直前で直進の車線から左折専用の車線へ移り後続車からクラクションが鳴らされる。ウィンカーは点灯しない。まるでその存在を始めから知らないかのように。

 舞の運転がテクニックに裏打ちされた『たくみ』なるものだとすれば、三ツ谷のそれは『ぼう』だった。同乗すれば命の危険を覚えずにはいられない。

 三ツ谷の両目があわただしく動いていた。進行方向からは道路の形状や周囲の車両や歩行者、そして障害物の存在を確認する。メーターからは走行速度を、カーナビからは地図情報を。サイドミラーやバックミラーにも何度も視線を送り、そこから得られる視覚情報を徹底して収集していた。それらを収集し得るからこその『暴』であった。三ツ谷は自身の運転技術の鞍下あんかにSUVをおいていた。

 舞も翔吾も口をはさむ余裕はなかった。ただただシートに腰をおろし、ジェットコースターのごとく慣性にふり回されていた。

「どうです」

 運転技術に似つかわしくない、なごやかな口ぶりで三ツ谷が言った。

「志摩さん。どうです」

 翔吾は我をとり戻した。ヘッドレストを掴みながら後ろを見る。数秒間、リアウインドウ越しに、豪雨の世界を。

スポーツバイクの姿はなかった。

「来ていません」

「しばらくその状態で見ていてください。もしバイクが来たらすぐに教えてくださいね」

 SUVは国道を右折して住宅地のわき道に入った。推奨ルートから外れたことに異を唱えるように、カーナビが新たなルートを提案してきた。このまま直進せず、Uターンして国道にもどることを推奨している。

「ごめんなさい。気持ちはわかりますけどね。また待ち伏せされたらたまったものではありませんので」

 カーナビに謝罪してから、三ツ谷はSUVを前進させた。一台分の車幅しかない道路を、決して安全とはいえない速度で進んでいく。

「しばらく裏道を走り続けましょう。ある程度距離と時間を稼いだら国道に出ます」

「距離と時間を稼いでもあの男が待ち伏せしている可能性が消えるわけじゃない。根気よく待ち続けているかも」

 危険運転で蓄積された鬱憤を晴らすように舞は声を荒げた。だが三ツ谷は意に介することなく笑ってみせた。

「その時は、また撒きますから」


         7

 SUVはスポーツバイクの男と遭遇することなく青木ヶ原樹海一帯にたどり着いた。

 時刻は間もなく午後四時になるところだった。二車線の道路を鬱蒼とした森が囲う。三ツ谷の言う通り、所せましと生えそろった木々はどれも葉が大きく、ただでさえ少ない太陽の光を遮っているので、森の中は墨で塗りつぶされたかのように暗かった。

 信号の少ない道路をSUVは走っていく。先ほどの渋滞とは一転して道路は空いていた。樹海の中は快晴の日でも夕方が近づくとうす暗くなっていきそこでのレジャーは推奨されない。豪雨ともなれば、交通量は減って当然である。

「ひとも歩いていないですね」

 窓の外を見つめながら翔吾が言う。コンクリートの道路には白の区画線が引かれ歩行者用のスペースが確保されている。だがその幅は狭い。このあたりを歩いて移動するひとは少ないのだろう。

「東京ドーム六二四個分でしたよね。そんな中でひとりの人間を探すなんて、不可能じゃないですか」

「やみくもに探したら不可能です。ですが、『不可能』の幅の中で『可能』に近づくことは可能です。おふたりとも、カーナビを見てください。現在走っているのが国道一三九号線。このあたりにバス停が点在しています。自殺者の多くはバス停の近くの樹海で見つかります。バスで降りて、すぐそばに樹海がある。自殺に最適な場所がそこにあるのです。わざわざ樹海の奥深くまで進む必要はありませんからね」

「つまり、バス停の近くを捜索すればいいと」

「そういうことです。空さんは既に樹海に入ってしまったかもしれません。樹海に入ったものの生と死の狭間で葛藤しているかもしれないし、既に()()()しまったかもしれない。もちろん樹海は広い。出会えない可能性の方が高い。それでも、やみくもに探し回るよりはマシでしょう」

「ずいぶん樹海に詳しいのね」

 舞が腕を組みながら探るように訊ねた。

 三ツ谷は片手で頭をかきながら恥じるように笑った。

「実は前に来たことがあるんですよ。自殺の名所に興味があって、ガイドの方に樹海の中を案内してもらいました。その時にいろいろと教えてもらったんです。残念なことに樹海の中で亡くなられた方と出くわすのは、()()()珍しいことではないそうです。今日みたいな天気でなければ、樹海は思った以上にひとが多い。観光客はもちろん、地元の方だって何人もいて、『このひとは自殺しそうだな』と思ったら積極的に声をかけるそうです」

「自殺がしづらい場所ってことですか」

「いえ。しづらいとは言えません。サクッと森に入ってサクッと首を吊ればいいのですから。ただ、予想以上に遺体が見つかりやすいということです。人知れずこっそりと死にたいという自殺者の願望は成就しにくい。調べれば調べるほど、そんな印象を覚えるのが青木ヶ原樹海なんですよ。だからわたくしは、この自殺の名所ではなくルピナスファームを選んだわけで――」

 三ツ谷はSUVのスピードを落とした。小さく笑い、鼻をすする。

「ルピナスファームを選んで正解でした。そのおかげで、おふたりに出会えたわけですからね。しかしこの雨……少しは弱くなってくれないかな。五十鈴さん。スマートフォンで天気予報を見てもらえますか」

「台風が近づいているんだから止むわけがないでしょう」

 両腕を組みながら舞はそっぽを向いている。

「止まないにしても、少しは弱まればと思いまして……あの、五十鈴さん?」

舞は応えない。三ツ谷は翔吾に同じ依頼をした。翔吾はスマートフォンで天気予報を確認した。雨は弱まるどころか、これからその勢いを増していくとのことだった。

 数分進むと、右手にバスの停留所が見えた。標識には『氷穴』と書いてある。標識の横に赤茶色のレンガで作られた小屋が建っていた。小屋の中には色とりどりのウィンドブレ―カーを着た老齢の女性たちが身を寄せてバスを待っていた。バス停の反対側に『鳴沢氷穴なるさわひょうけつ』なる巨大な看板があった。三ツ谷によると、観光名所として有名な洞窟らしい。

「このバス停はパスします」

 三ツ谷は首をふりながら言った。

「どうして」

「樹海の序の口だからです。まだ樹海に入って数分しか走っていません。青木ヶ原樹海で自殺する人間は、自身の遺体が発見されないことを期待して森の奥に進みます。ひとつめのバス停で降りるとは思えません」

「じゃあ、どのバス停まで行くの」

「わたくしならここで死にします」

三ツ谷はカーナビの画面を指した。鳴沢氷穴前のバス停から直線距離で約一キロ北上したところにそれはある。

『竜宮洞穴入口』バス停。

 それが彼らの旅の最終地点であった。


         8

 氷穴バス停から道沿いに進むと、左手に大きな駐車場と三角屋根の土産物屋が見えた。土産物屋の前には『天然記念物 富岳風穴ふがくふうけつ』と書かれた看板が立っていた。

この豪雨の中傘をさしながら土産物屋に駆け込む子どもの姿があった。母親と思わしき女性が身体を揺らしながら子どもの背中を追いかけている。

「ここも富岳風穴という観光名所がありましてね」

 三ツ谷は淡々と説明した。

「洞窟です。中はひんやりと夏でも涼しくて、はるか昔は天然の冷蔵庫として使用されていたそうです」

 土産物屋の手前にバス停があった。だが三ツ谷は『ここもパス』と首をふった。

「ひとが集まる場所だから、ですか」

 翔吾が言う。三ツ谷は大きくうなずき、『志摩さんもわかってきましたねぇ』と感慨深そうにうなずいた。

 土産物屋の前の十字路を右折する。雨だけでなく風も強くなってきた。周囲を囲う木々の葉が三人を嘲笑うように揺れている。

「樹海観光なら、鳴沢氷穴と富岳風穴だけで十分なんですよ。この二か所にある舗装された歩道からでも、樹海特有の生い茂った森林を眺めることはできます。『怖いね。ここでひとが自殺するんだね』と怯えたふりをしてSNS用の写真を撮ることはできるんです。だからここから奥に行く必要なんてないんですよ。観光ならね。逆に、観光以外の目的なら最適です」

「そんな場所に竜宮洞穴入口なるバス停はあるわけね。竜宮洞穴っていうのは観光地じゃないの」

 舞の問いに三ツ谷が首をふった。

「数メートルの浅い洞窟に小さな祠があるだけです。少なくともSNS映えはしませんよ。すぐに着きます」

 道路沿いに標識が置いてあるだけのバス停がある。『竜宮洞穴入口』だ。バス停とは道路を挟んで反対側に、コンクリートで舗装されていない砂利道が広がっていた。木々に左右を囲まれた道の奥には深淵のような闇が広がっている。

「確認しておきます」

 右のウィンカーを点滅させてから三ツ谷が言った。SUVはゆっくりと右折し闇の中に入っていった。

「できる限りのことはしました。空さんの目的地は青木ヶ原樹海であるという推測のもと、広大な青木ヶ原樹海の中で彼女がたどり着いたのは恐らくこのバス停そばであろうと。根拠なんてありません。五十鈴空さんが合理的な思考が可能であるという前提をもとに“妥当”な推論をしただけ。仮に空さんがこのあたりにいなくてもそれは不思議なことではありません。いえ、このバス停一帯だって木々が生い茂り暗闇が広がっている。空さんが周囲十メートル以内にいたとしても、向こうからこちらに応えてくれなければ、遭遇することは不可能でしょう」

 道を進み、ゆるいカーブを曲がったところでSUVは停まった。

車内の雨具はこうもり傘が一本と、三ツ谷の所持品のカッパが一着あるだけだった。舞が傘を使い、翔吾がカッパを着る。三ツ谷はボストンバッグからパーカーを取り出した。フードで雨をしのぐとのことだった。懐中電灯は両手が空いている翔吾と三ツ谷が持つことにした。

「時間の限りなく探してはキリがありません。おふたりは、どれほどの時間空さんを探せば気が済みますか?」

 パーカーに頭を通しながら三ツ谷が訊ねる。黄色いカッパを着た翔吾は弱々しい目で舞を見た。

「二時間」

 舞が答えた。

「わかりました」

 亀のようにパーカーから首を通した三ツ谷は、少しの異論もなさそうにうなずく。パーカーのフードを被り、運転席のドアを開けて外に出た。ほんの数秒で三ツ谷の全身がびしょ濡れになったが、気にする様子もなく懐中電灯で森の中を照らしている。

 翔吾と舞も外に出た。周囲の木々に遮られ風の勢いは弱い。舞はこうもり傘を片手でもち、きょろきょろと周囲をうかがっている。サイズの大きなカッパは生地が擦れるたびにシャカシャカと音を立てる。その音が不快なのか翔吾は顔をしかめていた。

舗装された砂利道から外れ、三ツ谷は木々が生い茂る森の中に一歩だけ足を踏み入れた。

「この樹海の地面は、平安時代に富士山が噴火して流れてきた溶岩が冷えて固まったものが土台となっています。この噴火による被害規模は大きく、ここから北東部にある西湖はその影響で大きく湖の形を変えてしまったそうですよ」

懐中電灯の光を森の中に当てながら説明を始めた。

「溶岩? この地面が」

舞が雨で濡れた地面をスニーカーでつついた。

「そうです。溶岩が土壌化し、風に吹かれて飛んできた種子が育ち、長い時を経て森林が育まれていきます。元が溶岩の土壌はとても固く、木の根がその中で広がっていくのは厳しい。そのため、樹海の多くの木々の根は地面の上を伸びていくのです。ほら、こんな風に」

 懐中電灯の光が一本の木の足元に向けられた。幹の根元から触手のよう太い根が地面を這っている。ロープのように細いものもあれば、米俵ほどの太さのものもある。まんべんなく緑色のコケが生えており、どこか幻想的な雰囲気を発していた。

「太い根に足を取られないように気をつけて下さい。樹海の地面は起伏が激しく、数メートルの落差が至るところにあります。この起伏を避けながら進んでいくと、徐々に方向感覚が失われ、自分が来た道がわからなくなってしまうのです。樹海に入ると出られなくなるというのは迷信ではありません。極めて現実的な事実なのです」

 三人はゆっくりと森の中を進んだ。先頭に三ツ谷、あいだに舞、しんがりに翔吾の順番だ。三ツ谷は両手に懐中電灯を構え、片方で足元を、もう片方で進行方向を照らしていた。

 先頭の三ツ谷が屈んだ。翔吾が懐中電灯を向けると、三ツ谷の先の地面が幅五十センチほどの歪な段差をつくって下に続いていた。段差の横は二メートルほど高さの切り立った崖になっていた。

「固まった溶岩の中が空洞化してトンネルになっていますね」

 段差を降りる途中で、三ツ谷の懐中電灯の光が崖の下部を照らした。崖の中には六畳ほどの空間が広がっている。折れた小枝や葉っぱに交じって、泥の付いたビールの空き缶が何十本と転がっていた。

 SUVを停めた砂利道から森に入ってまだ三分も経っていない。足元に気をつけながらゆっくりと進んだので、それほど遠くまでは来ていないだろう。だが翔吾は周囲を見てゾッとした。周囲の景色に既視感はなかった。ふり返り、いま来た道を照らしてみる。おかしい。疑惑が脳裏に浮かぶ。本当に自分たちはこの道を進んできたのか。

「自殺志願者は、樹海に入ってすぐに命を絶つものなの」

 舞が訊ねた。その問いは翔吾ではなく、かつての自殺志願者である三ツ谷に向けられていた。

「ひとによるでしょう」

 三ツ谷は荒い呼吸の合間に応えた。

「わたしのように躊躇いを覚えるひともいますが、()()()()()()()()()すぐに実行するひともいるそうです」

「環境が?」

「例えば、この木」

 懐中電灯の光が一本の木を照らす。サルノコシカケが幹から生えたその木は、高さ二メートルのあたりから配管ほどの太さのしっかりとした枝が生えていた。

「一五〇センチ前後のひとが首を吊るには最適な場所です。もし自殺志願者がこの木を見つけたら自分の死に場所を見つけたと安堵するでしょうね。この森が自分の死を期待していると思いこみ、ロープをくくりつけ、それで、おしまいです。逆に、最適な死に場所を求めてさまよい続けるひともいるでしょうし、覚悟が定まらないまま樹海をうろつき、偶然道路にもどって自殺を止めるひともいるでしょう。結局、そのひと次第ということですよ。空さんはどうですか。躊躇せず()()()ひとですか」

 舞は答えず、ため息を吐き出した。

 三ツ谷が足を止め、『少し離れ過ぎました』と言う。

「あまり奥に進むと危険です。車の方に少し戻り、できるだけ砂利道沿いを進むようにしましょう」

 ゆっくりと、時間をかけて、いくつもの起伏ある地面をのぼり、くだり、三人は樹海を探索した。三人の荒い呼吸、踏みしめられる濡れた落ち葉、そして絶えることなく続く雨の音。懐中電灯の光が躍る暗闇の中で、それらの音だけが続いている。

 蓄積された疲労が脳にかすみのようなヴェールをかけていく。カッパの下の肌をつたう不快な汗。こもる熱。前かがみになりながら翔吾は機械的に歩いていた。自分は何をしているんだろう。どうしてこんな場所にいるんだろう。木の枝につまずき倒れる。だが前のふたりは声をかけてくれることはない。当たり前だ。これで何度目だと思っている。それにふたりだって、舞も三ツ谷も疲れ切っていた。身体を疲労に蝕まれながらも、ただ使命感を胸にここまで来た。翔吾は思った。自分はふたりとは違う。ただ、流されるがまま、その場の、()()()()()の選択肢をとりながらここまで来た。この旅のことだけではない。自分の人生も正に()()()()()の連続だった。

 高校に進学したのも、大学に進学したのも、就職したのだって()()()()()だ。自分と同年代の多くがその道を進んでいたから。みなが進むならばその道が正しいのだろう、安全なのだろう、そうするべきなのだろうと、なんとなく、なんとなく。

思考停止の思考を繰り返しながら翔吾は歩いて来た。たかだか二年で会社を辞めたのだって、何人かの友人がそうしていたからだ。会社に不満はあった。だが不満を飲み込みながら働くのが社会人だと思った。何故なら会社のひとがそうしていたから。だが同い年の友人たちが退職を決意したと聞いて、翔吾もその選択肢にのった。いつもそうだ。いつもいつも、他人の提示した選択肢に便乗しながら翔吾は生きてきた。翔吾は考える。そこに自分の意志はあるのか。これまでの人生に自分の意志は存在したのか。じぶんは誰だ。これはいったい、誰の人生なんだ。

 ゾンビのようにゆっくりと立ちあがり、両手についた土汚れをズボンにこすりつける。足元の懐中電灯を拾おうとした時に、斜め前方のコケだらけの木に白い光が浮かんでいることに気づいた。翔吾の懐中電灯の光ではない。三ツ谷のものか。違う。三ツ谷はその木よりも奥に進んでいる。その光は、翔吾の後方・・から向けられていた。

「やっと見つけたぞ」

 ねっとりとした声が背後から聞こえた。

翔吾は息を止めてふりかえる。

 スポーツバイクの男が立っていた。


        9

 男の動きは速かった。全身に降りそそぐ雨にひるむことなく大股で近づいてくる。左手に懐中電灯。右手には大ぶりなナイフが握られていた。

「どうして」

 翔吾は力なく訊ねた。

「どうして。こんなことに」

 だがその声は小さく、雨の音にかき消され暗闇に溶けていった。

 男は翔吾に向かって駆けだした。翔吾は混乱していた。何が起きているのか、自分はどうすればいいのか、これが現実なのかと疑い始めるほどに彼は疲れきっていた。

 男は翔吾の腹に握り拳を叩きこんだ。翔吾は身体を丸めていびつうめきを吐き出した。

 翔吾の身体が後方に吹き飛ぶ。舞だった。舞が翔吾の腕をつかみ、乱暴に引いたのだ。

 翔吾は堅い木の根に尻もちをついた。腹部と臀部の痛みを覚える間もなく、目の前で起きている事実を認識する。舞の両腕がナイフを握る男の腕をつかんでいた。ナイフは舞の首筋のすぐそばにある。男はもう片方の手にある懐中電灯を舞の腰のあたりに叩きつけた。

「志摩さん!」

 翔吾の横を三ツ谷が駆け抜けていった。巨体を揺らしながら格闘を続ける舞と男に近づく。

男の懐中電灯が舞の側頭部に当たった。舞はその場に倒れた。三ツ谷は手にしていた懐中電灯を男の顔に向かって投げつける。男は反射的に右腕をあげて懐中電灯を防いだ。だが三ツ谷の投げた懐中電灯は当たり所が悪かったのか、男は短いうめき声をあげた。

 三ツ谷は身体を低くして突進する。だが男は機敏に動くと、三ツ谷の足に自分の足をひっかけた。三ツ谷は顔面から地面に突っ込む。転がる懐中電灯の白い光が、暗い森を乱暴に照らした。男はうつ伏せの三ツ谷の腹を蹴った。二度、三度と、繰り返し。

「これで終わりだ。全部、全部、これで終わりだ」

 肩で呼吸をしながら男はナイフを逆手に握り直し、舞の方に向かった。側頭部のダメージが後を引いているらしい。舞は左のこめかみのあたりを押えながら横たわり、うめき声をあげていた。

男は左足を引きずっていた。三ツ谷を蹴飛ばした時に痛めたようだった。

横たわる舞のうめき声が止まった。舞は目を閉じていた。懐中電灯を当てられた側頭部から赤い血が流れだしている。舞は失神していた。

「たぶん、そうなんだ」

 カカシのように立ちすくみながら翔吾は言った。

「たぶん、ぼくがするべきことは」

 駆け足で男に近づく。男の左足の膝を靴底で踏みつけた。男は像のような叫び声をあげて片膝をついた。翔吾は背後から男に覆いかぶさった。逆手でナイフを掴んだ男の右腕を両手で掴み――

「ごめん」

 力いっぱい、引いた。

 逆手もちのナイフが男の腹部に突き刺さった。自刃のような姿勢だ。だがナイフを刺したのは翔吾だった。翔吾の両手が、翔吾の意志が男を刺したのだった。

 男はナイフから手を離し、翔吾を振り払った。男の腕が腹に刺さったナイフに当たり、傷口がいびつに広がった。獣のような叫び声。そして、男は四つん這いの姿勢になり大きくむせ込んだ。ずるりとナイフが男の腹から落ちていく。鮮血も、滝のように、とめどなく。

男は傷痕に手を当てた。苦悶の叫び声が森にこだまする。叫び声を発しながら男は赤く濡れた手を正面に寝ころぶ舞に向けた。どろどろと身体を引きずりながら舞に近づいてゆく。

 舞が意識をとり戻し上半身を起こした。

血まみれの男は口を開き、もごもごと何かをつぶやいた。その声が途切れ、糸が切れた人形のように男は崩れ落ちた。指の先が数秒間痙攣を繰り返し、繰り返し、繰り返し、そして、止まった。


        10

「落ちつきましょう」

 女子のようにぺたりと地面に座りこむ三ツ谷は、片手を胸に当てて深呼吸をくり返した。

 濡れたパーカーの下で三ツ谷の胸が大きく動く。男の死体を間にはさみ、三ツ谷は舞と翔吾に言った。

「おふたりも深呼吸を。緊張を和らげるのは呼吸です。酸素を身体の隅々まで行き渡らせて。『落ちつけ』なんて自分に言い聞かせても無駄です。さぁ、大きく息を……」

「どうして」

 翔吾は棒立ちのまま男を見おろしていた。地面に拡がる血の痕は少しずつその面積を大きくしていく。

「どうして、どうしてこんなことに!」

「志摩さん。深呼吸です。考えちゃだめだ。いまは何を考えたところで、とにかく深呼吸です」

「うるさい。ぼくは、どうしてこんな……あぁ!」

 翔吾は頭をかきむしりながら、両ひざを着いた。泥に汚れた手が鼻先に触れた時、鉄のような臭いが翔吾の鼻腔をくすぐった。右手の小指にどろりとした感触を覚える。叫ぶ。翔吾は。再び。

 ふらふらと舞は立ち上がった。頭だけでなく腰も痛むのかそっと手を当てている。翔吾のように激することはなかった。能面のように冷たい表情で男を見おろしていた。

「どうする」

 舞はふり向き、三ツ谷に言った。

「警察?」

「それはわたくしが決めることではありません」

 ふたりの視線が翔吾に集まる。翔吾は荒い呼吸をくり返しながら顔をあげると、不気味に笑いながら首をふった。

「どうしてぼくを見るんです」

「志摩さんに責任があるとは言いません。ですが、ここは……志摩さんに決めていただかないと」

「ぼくが殺したから? ちがう。ぼくじゃない。ぼくのせいじゃない。そんなつもりじゃなかった。ぼくはただ、空を追いかけて、空を救いたくて。どうして、どうして、どうして――」

 舞は翔吾に近づき、その肩を抱いた。

「ごめんなさい」

 翔吾の耳に口をよせ、そうつぶやく。

「ごめんなさい。わたしのせいで」

 翔吾の両目から涙があふれだした。手のひらを地面に叩きつける。男の腕をとった手のひらを、恨むように何度も叩きつける。

 舞は翔吾から離れると、三ツ谷の横に立った。

「正当防衛は認められると思う?」

「弁護士が有能なら。ですが、やめた方がいいですよ。法律は感情までは律しません。正当防衛が認められても、周りのひとは志摩さんに人殺しの烙印を押しつけます」

「それじゃあ、決まりね。()()()()()()()の場所だし」

「やれやれ。遠いところまで来たものですねぇ」

 三ツ谷が森の奥へと進んでいく。舞と翔吾は残りの懐中電灯の光を高く掲げて遺体のそばに残った。

 十五分後、三ツ谷は懐中電灯の光を頼りにもどってきた。小さくうなずき、舞は降ろしていた腰をあげた。

「覚悟は?」

 舞に問われ、翔吾は応えた。

「はい」

小さく、応えた。

三ツ谷は男の上半身を、翔吾が下半身を持ち上げる。舞は両手に懐中電灯を持ち、三ツ谷の指示で森の奥へと進んだ。残りひとつの懐中電灯は、点灯したまま置いていく。後で戻ってくるための目印だ。

 起伏の多い樹海の中、奥へ奥へと遺体を運んでいく。三ツ谷が十五分近くかけて見つけた場所までたどり着くのに、三十分近い時間を要した。

 割れた大木の下の土壌に、横幅一メートル、縦幅三十センチに満たない空洞があった。舞の懐中電灯が空洞の中を照らす。空洞の底まで一メートルほどの高低差がある。

 翔吾と三ツ谷は男の遺体を空洞の前に置いた。互いに視線を交わし覚悟を確認する。

 横たわる男の身体を三人で押す。空洞の中に男は消えた。

 経験した事のない緊張感は絶えることなく続いていた。それどころか、後戻りできない境地にたどり着いてしまったという事実から、三人の緊張は二乗になって増していた。

 男が死んだ場所に置いて来た懐中電灯の光を頼りに来た道を戻る。濡れた木の根に足を滑らせ、舞はバランスを崩した。疲労に包まれた舞の身体は弱々しく木の枝を掴んだ。だがその木の枝は腐食が著しく、音を立てて割れた。舞は再びバランスを崩すと、暗闇の中に落ちていった。

「五十鈴さん!」

 三ツ谷が手にしていた懐中電灯を舞の方へ向ける。舞は三ツ谷と翔吾がいる地面から一メートルほど下ったところに横たわっていた。立ち上がりかけて、唸り声をあげる。左足を痛めたらしく、庇うように手を当てている。

「待ってください。すぐに、そこに――」

 三ツ谷は言葉を失った。翔吾もまた、雨粒に濡れる視界の中で()()を見た。三ツ谷の懐中電灯の光が()()を照らす。

舞が倒れている所の後ろにある木の枝に、荒縄に首を吊られた遺体があった。

 桃色のシャツを着た若い女性だった。

両腕をだらりと垂らし、半開きの口からかすかに青い舌がのぞいている。全身は雨に濡れ、風に吹かれてぼさぼさに乱れた黒髪に不気味な艶が生じていた。亡くなってそれほど時間が経っていないようで、腐敗の様子はなかった。左の手首に細いブレスレットが巻かれていた。白いチェーンが三つの花弁の装飾を結んでいる。

「空……」

 舞はゆっくりと立ちあがり、女性の遺体に近づいた。女性の手を取り、強く握りしめながら涙を流す。

「ごめん。わたしは、あんたを救えなかった」

 舞は遺体の手首からブレスレットを取った。両手でそれを包むように握りしめると、顔を伏せて身体を震わせた。

「結局、間に合わなかったわけですね」

 翔吾の後ろで三ツ谷が言った。諦観に溢れたその声は、夜露のように冷たく、三ツ谷らしくないものがあった。

 翔吾は背中を丸め、握りしめた拳を木の幹に叩きつけた。

 節くれだった木々の皮が翔吾の拳を傷つける。翔吾は何度も拳を叩きつけた。何度も、何度も、何度も、何度も――

「空。ぼくは……間違っていたのか。ぼくがしたことは正しかったのか。どうなんだ。これで、こんなおしまいで、本当にいいのか。答えてくれ。空。こんな、こんな狂気に。ぼくは、空、空、空、空……」

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