第三章 ホテルオオルリ
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SUVは交通量の少ない高速道路を駆けていく。車窓の外にはいくつもの光が点在していた。街灯の光や、他の車のライトの光、夜空に浮かぶ無数の星、かけがえのない唯一の月。
サービスエリアまでの距離を示す看板が現れた。
「次のサービスエリアに入る。全員、五分でトイレを済ませてきて。出なくても絞りだしてくること。それから群馬までノンストップで向かうから」
ハンドルを握る舞は、その言葉の節々にいら立ちの香りを立てながら言った。翔吾も三ツ谷も無言で承諾する。
翔吾は膝の上に立てていたノートパソコンを閉じた。ため息をつきながら暗闇の中で首を伸ばす。
「めぼしい情報は何も。バッテリーももったいないですしね」
言い訳をするように翔吾が言う。後部座席の三ツ谷が熊蜂の飛行音のような相づちを打った。
SUVは走行車線を左側に切り替えた。枝分かれしたカーブの先にあるサービスエリアに吸い込まれるように入っていく。
深夜のサービスエリアは閑散としていた。深夜バスや大型のトラックが数台と、乗用車が数台停まっているが、喫煙所のパーテーションの下から二本の足がみえるばかりで、人の姿はほとんどない。
翔吾と三ツ谷は男子トイレに入ると、そろって小便器に並んだ。無言のまま用を足し外に出ると、三ツ谷が自販機の方を指さした。
「コーヒーはやめた方がいいですよ」
アイスコーヒーのボタンを押そうとした翔吾に三ツ谷は言った。
翔吾の指が止まる。そして怪訝な顔。見ると『やめた方がいい』と言った当の本人は取り出し口からペットボトルのアイスコーヒーを取りだしたところだった。
「群馬に着くころには深夜を回っていることでしょう。少し、仮眠をとっておいた方がいいですよ」
翔吾が緑茶のボタンを押そうとすると、今度は『いっぱいのお茶で夜も眠れぬ』と三ツ谷はつぶやいた。翔吾の指は蛾の羽ばたきのようにフラフラと飛んでミネラルウォーターのボタンを押した。
背後から舞が近づいてくる。ジーンズから財布を取りだして『あと一分と三十秒』とふたりに言った。
「舞さん。ここからはわたくしが運転します」
三ツ谷は片手をつき出した。舞は三ツ谷の言葉と行動の意味をすぐに理解したようで、三ツ谷の丸い手にSUVのキーを置いた。
「悪いわね」
「とんでもない。これは役割分担ですよ。おふたりは長いドライブで既に疲れ切っている。対してわたしは、ルピナスファームでぼんやりと身体を休めておりましたのでね、元気いっぱいですとも」
舞がミネラルウォータ―を買うと、三人はSUVにもどった。運転席に三ツ谷が、後部座席に舞が着く。翔吾は助手席のままだ。
SUVが走り出すと、舞は後部座席に置きっぱなしになっていた『夕食。兼、朝食の可能性』を食べだした。無言のまま翔吾に梅干し味のおにぎりを渡す。食べ終え、そして、ふたりは仮眠をとった。
翔吾は夢を見た。
白い砂浜にプラスチック製のベンチが立っている。青空から放たれる太陽の光を反射してベンチが輝く。
翔吾はそのベンチに座っていた。誰かが来たら座れるよう端に詰めて、ひとり分の空きを作って。
話し声が聞こえる。笑い声が聞こえる。泣き声が、喧嘩する声が、事務的に交わされる声が、無数の声が、声が、声が、声が――
翔吾は周りを見る。白い浜が長く続くばかりで人の姿はない。青空の下でいくつもの透明の声だけが飛びかえっている。
翔吾は待った。隣に座る誰かを待った。
これだけ人がいるのだ。誰かは座ってくれるだろう。誰かがその空いている席を求めてくれる。そう信じて、そう疑わず、時間を経て、確信は恐怖に変わる。隣に誰かがいることは当たり前なんかじゃない。だが翔吾にはわからなかった。自分は普通だ。自分はまともだ。自分は凡人だ。特別なんかじゃない。誰も自分を恐れてはいない。それなのにどうして、無数の声はするのに、その声の主たちの姿が見えない。翔吾には見えないように、彼らにも翔吾の姿が見えないに違いない。白い砂浜が翔吾の足を急かすように焦がす。翔吾は叫んだ。誰も応えない。翔吾は叫んだ。だが誰も、誰も、そこにいるはずなのに、誰も――
「たぶんみんな、知っているんだよ」
翔吾の口から、翔吾のものではない声がこぼれ落ちた。
「きみが何者か。きみが何をしたのか。きみが何を求めているのか、知っているんだよ」
「だまれ」
翔吾は声を咎めた。だが声は止まらない。雲ひとつない青空の下、周囲を飛び交う無数の透明の声に交じって、翔吾自身の、翔吾のものではない声だけが彼に届く。
「特別になりたいのか。スーツを脱げば特別になれると思ったのか。敷かれたレールから逸脱すれば特別になれると。まさか。レールから外れたらそれは脱線だよ。大事故だ。きみという車輌は横転して、運動エネルギーを保ったまま、地面を擦って、敷石を散らして、本当に、無様に――」
翔吾の口からどろどろと吐瀉物のように声が流れ落ちる。声が器官に詰まり、翔吾は悶えながらベンチのひじ掛けに手をついた。
翔吾のものであり翔吾のものでない声が消える。夕陽が砂浜を燃やしていく。周囲の声も消えていく。やがて夜になる。暗闇が全てをおおい隠す。翔吾の存在も、翔吾の声も、その全てが闇に溶け、すべてをひとつに変えていく。だから自分は悪くない。もうここに自分はいない。咎められる自分が存在しないのだから、誰も自分を咎めることはできない。
それは甘い考えだった。夜はいつまでも続かない。夜が終わると朝が来る。光は再びすべてを照らす。おおい隠された何者かを白い光で焼き尽くす。周囲に透明の声がよみがえる。翔吾は再びベンチに座る。ベンチの端にいることが耐えられない。恥を覚え立ち上がろうとするが、翔吾の背中はスライムのように溶けてベンチの背もたれと一体化していた。
身体を動かすと背中に強烈な痛みが走る。首筋の汗が背中に降りていき、溶解した部位に触れて痺れるような痛みが走る。焦りが無数の汗を生む。太陽の光もまた。苦痛の渦の中で翔吾は気づく。何を。たぶん――
上半身に食い込むシートベルトの衝撃で翔吾は目覚めた。
フロントガラスの向こう側に、咆哮のような排気音を放ちながら走り去るスポーツカーの姿が見えた。
「すみません。いまのロータス、無理に車線変更をしてきたので」
運転席の三ツ谷が翔吾に片手をあげて首をすくめる。それが急ブレーキを踏んだ衝撃で目を覚まさせてしまった事への謝罪だと気づくが、翔吾は『はぁ』と模糊とした声を発することしかできなかった。
カーナビに表示された時刻を見る。十一時二十八分。SUVは神奈川県厚木市のあたりの高速道路を走っていた。
「志摩さんは、おいくつですか」
ハンドルを握り直し、正面を見据えたまま三ツ谷が小声で問う。翔吾は身体をひねって後部座席を見た。両目を閉じた舞は軽く口を開け、その身体は呼吸のリズムにあわせて小さく揺れていた。
「二十四です」
翔吾は小声で返す。
「車はお好きですか」
「軽自動車とアウディの区別がつく程度には。運転、代わりましょうか」
「あ、そういう意味じゃありません。大丈夫。まだまだ元気いっぱいですよ。ただの雑談です。わたくしはね、車が好きなんですよ。生意気にも三十代に足を踏み入れたころには国産車に飽きて、外車に興味をもつようになりました。初めて運転したのはBMWでしたが、驚きましたとも。アクセルの感覚が柔らかくて、国産車とは比べ物にならないほどスムーズに加速していくんです」
「そうなんですか」
気のない声を翔吾は返す。三ツ谷はハンドルを切って車線を変えた。
「志摩さん。空さんのことを教えてください」
「……どうして」
「ですから、ただの雑談ですよ。さしつかえのない範囲で構いません。いったい、空さんはどんな方なんですか」
「空は……ぼくの初めての恋人で、大学生の時に二年間だけ付き合いました。一般教養の授業で同じ班になって、ふしぎとウマがあって、なし崩し的に付き合うことに」
講師が指定した映画を視聴し、班でそれについてまとめたレポートを発表するという授業だった。翔吾と空、それから他のふたりを加えた四人の班はテリー・ジョージの『ホテル・ルワンダ』を担当した。
『ホテル・ルワンダ』は一九九四年にアフリカのルワンダで起きたフツ族によるツチ族虐殺を扱ったノンフィクション映画だ。主人公のポールはフツ族の虐殺から逃げ延びた人々を自身のホテルにかくまい、事態の収束のために奔走する。
レポートは卒なくまとまった。『差別はよくない』。換言すればたった七文字で終わる発表を経て四人は単位を与えられた。
空は主人公のポールよりも、事態鎮静化のために国連から派遣された平和維持軍のオリバー大佐に心を向けていた。
作中でオリバー大佐はインタビュアーから虐殺への介入を試みるのか尋ねられこう答える。『自分達は平和維持軍だ、平和をもたらしに来たわけじゃない』
「すごくわかる」
ソファーの上で空は両足を強く叩く。裸でベッドに横たわる翔吾は、薄く目を開けて、パソコンのモニターに喰いつく空を見つめる。ホテル・ルワンダは恋人と愛しあった後に見るような映画なのかな。そんな軽口を心の中に留め、『何回目』とくぐもった声で訊ねる。
「名作ってのは何度でも見られるから名作なんだよ」
三年間の高校生活を演劇部に費やしてきた空は映画を観るのが好きだった。空には不思議なルーチンがあった。ベッドを出たあと、必ず一本映画を観るのだ。
翔吾は枕に顔を埋めたまま空の次の言葉になんと返そうか考える。空はオリバー大佐のインタビューシーンを見るたびにこう言う。
「すごくわかる。他人を変えるのってすごく怖いから」
オリバー大佐は政治的事情から消極的になっていたのであり、迫害されたひとびとを救うことを恐れていたわけではない。翔吾がそう反論しても空は聞く耳をもたなかった。
「他人の中身を変えて、それでトラブルが起きて、『お前がおれを変えたせいだ』って口にしたら、それは自分自身という概念を放棄することに等しい。脳みそを弄ったわけでも、催眠術を使ったわけでもないんだよ。自分の意志で変えられることを選んだのに、不都合が起きたらそんな自分を捨てて『お前のせいだ』って。怖いよ。他人を変えるのって、すごく怖い」
当時の翔吾は空の恐怖の意味を理解していなかった。だが今ならわかる。学生のころに抱いていた無根拠の輝かしい未来が偽りだと気づいた今だからこそその恐怖がわかる。自分という芯のもろさを知って、他人という存在の強大さを知った今だからこそわかる。強大なものを狂わせたときの責任。そんな責任に耐えられるほど凡人は強くない。
同時に翔吾は思う。空は凡人ではない。少なくとも、最後に出会ったあの頃は、空は強靭な意思を持つ存在だった。ただの学生に過ぎないはずなのに。
それは空が他者の目を周りの誰よりも強く意識し、周りの誰よりも自己のあり方を意識してきたからだ。翔吾は空のそんな特異な面に惹かれていた。
あの頃に戻りたいかと問われたら、翔吾はその答えを保留するだろう。
あの頃の自分を殺したいかと聞かれたら、翔吾は即答するだろう。
「優しかった。空は誰よりも優しくて、でもその優しさがよくなかった。心の傷を内側に隠して誰にも見せようとしませんでした」
翔吾の声に三ツ谷はうなずきを返す。SUVは鈍い光に満たされたトンネルに入る。ゆるやかなカーブを曲がり、車内に少しだけ慣性が働く。
「別れようと言ったのはぼくなんです。空はほんの数秒だけ黙って、『わかった』と許してくれました」
「いいじゃないですか。別れ話にトラブルは付きもの。それなのに、トラブルなしに丸く収まるなんて羨ましい」
「その結果がコレです。自殺なんておかしな道を選んだのはぼくのせいだ。ぼくが空を歪めてしまった。ぼくには空を止める責任がある。自殺なんて、死ぬなんて、ぼくには耐えられない」
「空さんの写真は?」
三ツ谷が訊ねる。翔吾は首をふった。
「ありません。全部消去しました。別れた時に、気持ちに区切りをつけるために」
「舞さんは?」
三ツ谷の問いかけに翔吾は息を呑んだ。後ろを見ると、先ほどの姿勢のまま、舞が両目を開けている。翔吾はすぐに正面を向き、シートに隠れるように深く座り直す。
「うちは、写真を撮るような家じゃなかったから」
フラットな口調で舞は答えた。舞は身を起こすと、運転席のシートを両手で掴んだ。
「羨ましいって?」
その声は三ツ谷に向けられていた。SUVが少しだけ右にぶれて白い車線を踏んだ。タイヤが短い悲鳴をあげる。
「すみません。よく聞こえませんでした」
「トラブルなしに丸く収まるなんて羨ましいって。まるで自分は、トラブル大ありの、多角形な別れ話を経験したかのような言い草」
「あぁ、あぁ。本当に女性は怖いですねえ。そうですよ。多角形ですよ。ボコボコの多角形。えっへん。わたくし、三ツ谷卓也はですね、悪い女に騙されていたんですよ。病気の母親の治療費が足りないからって、毎日のようにお店に足を運んで、ブランドもののバッグだってたくさん買ってあげたのに、それなのにユミちゃんは……うぅ、ユミちゃん。どうしてなんだよぉ」
三ツ谷はハンドルにあごを乗せて声を震わせた。SUVが左右に揺れる。左の車線を走るトラックが怒号のようなクラクションを鳴らしながら加速していった。
「ちょ、ちょっと三ツ谷さん。しっかりハンドルを握って!」
翔吾は三ツ谷の肩を叩いた。ワイシャツを着た三ツ谷の肌は汗と冷房で冷たく湿っていた。
「ううう。酷いんですよ。わたくしに何も言わずにお店を辞めて、何日もかけてユミちゃんのマンションの場所を調べて、チャイムを鳴らしたら誰が出てきたと思います。学ランを着た中学生ですよ! 信じられない。子どもがいるなんて聞いてなかった。その子どもの向こうで、ユミちゃんはスマホを耳に当てていた。ぼくは話し合いをしたかっただけなのに、すぐに警察がやってきて、警察署に連れていかれて、職場にも連絡されて、上司にはこっぴどく叱られて、ううう」
「ひょっとして、三ツ谷さんが自殺しようとした理由って」
「そうですよ。失恋です。愛していたひとにわたくしは裏切られたのです。まぬけだと思いますか。まぬけだと思いますよね。わたくしだって思います。でもそれは今だから思うんです。他人だから思うんです。あの時のわたくしにとっては真実の愛だった。ユミちゃんの瞳も、手のひらの暖かさも、ユミちゃんの全てが真実だった。不思議なものですね。愛は腐らないはずなのに、見る角度を変えるだけで腐って見える」
うんざりとした表情の舞が後部座席から翔吾にポケットティッシュを差し出す。翔吾は一枚取り出して三ツ谷の顔を濡らす涙をふいた。
「あの、三ツ谷さん。泣くか運転を止めるかどちらかにしてもらいたいのですが」
「あぁ、あぁ。失礼しました。大丈夫です。わたくしだって大人ですから」
三ツ谷はハンドルを片手で抑えたまま、もう片方の手で器用にティッシュをとり、鼻をかんだ。ずぶずぶずびびと邪神のイビキのような音を立てる。舞の舌打ちをかき消してしまうほどの大きな音。
それからしばらく車内は沈黙に包まれた。
助手席の翔吾は暗闇の中で目を閉じて数十分眠り、その後は目を開けて無言で流れゆく外のうす暗い景色を見つめたりしていた。会話はない。運転席の三ツ谷はハンドルを指で叩いてリズムを取りながらもくもくとSUVを走らせている。舞も無言を貫いている。眠っているのか、起きているのかは翔吾にはわからない。
SUVが徐行し、ETCレーンを抜けていった。通行料が徴収された旨を伝えるアナウンスがETC機器から発せられる。後部座席の舞が『着いた?』と語尾をあげる。三ツ谷は『まだまだ』と応える。
「ここからホテルオオルリまで約四十分です」
翔吾は手首を折り曲げて腕時計を見た。時刻は深夜の一時二十二分。激しいのどの渇きを覚え、翔吾はミネラルウォータ―を口にした。生ぬるい液体が口腔の粘膜を潤す。眠気はなかった。緊張は多分。可能性は低い。確実ではない。だが自分はいま、空に近づいているかもしれない。そんな可能性がもたらす緊張。潤したばかりののどが渇く。
三車線の道路が二車線に変わり、二車線が一車線に変わる。白線で区切られた一車線から一方通行の山道に入る。鬱蒼とした木々に囲われた山道にぽつりぽつりと街灯が立っているが放たれる光は頼りない。揺れる車内で翔吾は『ヨモツヒラサカ』とつぶやいた。
山道を二十分ほど進むと、開けた空間が現れた。宵闇を天蓋に、区画された畑や民家が並んでいる。ほとんどの民家の庭先には土がこびり付いた軽トラックやトラクターが停まっていた。
「山中の農村みたいですね。寝静まっておられるようで」
三ツ谷は首を前に出して周囲をうかがった。どの民家の窓も黒く染まっており、人気は感じられない。電柱に黄色い看板が立てかけてあり、看板には危機感が迫った字体で『クマ出没注意 目撃情報多数』と書かれていた。
右手に小さな墓地が現れた。村への闖入者を威嚇するように、夜風に揺られた卒塔婆がカタカタと音を立てていた。
「こんなところにホテルがあるんですか」
翔吾はカーナビの液晶と周囲を見比べながら言った。
「ホテルオオルリはもう少し先です。この村を越えて、ほら、たぶんあれでしょう」
三ツ谷が指を差す。正面の山の切れ目に、人工物と思われる建物の影が現れた。
三人がホテルオオルリと思われる姿に気を取られていると、SUVの先に何かが飛びだしてきた。三ツ谷がブレーキを踏みこむ。タイヤが悲鳴をあげる。SUVは飛びだしてきた何かの数メートル前で停まった。
何かとは老婆だった。ライムグリーンのネグリジェを着た腰の曲がった老婆が、厳めしい目つきでSUVを見つめている。田舎に迷い込んだ若者たちに寝食の場を提供するために現れたわけではないことは確実だった。
「ちょっとおばあちゃん。危ないよ」
サイドガラスを下ろして三ツ谷が言う。老婆はツカツカと三ツ谷の方へ向かってきた。
「こんな夜更けにどこへ行かさる」
しわがれた声で老婆は訊ねた。老婆の視線が運転席の三ツ谷から助手席の翔吾、後部座席の舞へと駆けていく。
「おばあちゃん。ホテルオオルリってあそこ?」
三ツ谷が正面の山の方を指した。
「だったら何かね」
「それだけで十分です。ありがとう」
三ツ谷はSUVを発進させた。老婆はぴょんと後ろに飛び跳ねて、何か非難の言葉を口にした。
「何だか気味が悪いおばあちゃ……」
翔吾はリアウインドウ越しに老婆の方を見た。リアウインドウの向こうにある景色を見て翔吾の息が止まった。
老婆はまだこちらを見ている。それだけならば許容できた。だが、見える限りの民家のすべてに照明が灯っているとなれば話は別だ。SUVが前を通った時はどの家も照明が落ちて窓ガラスは黒く染まっていた。それなのに今は、すべての家が少なくともひとつは照明をつけて窓ガラスを白く染めていた。
舞もふり返り短い悲鳴をあげた。翔吾は運転席の三ツ谷に声をかけようとするが、三ツ谷は片手をあげて『まぁまぁ』と制するような声をあげた。
「こんな真夜中によそ者がやってきて警戒しているだけでしょう。田舎ならよくあることですよ。気にしない気にしない。それよりほら。目的地までもうひと踏ん張りですよ。がんばりましょう。エイエイオー」
「とても数時間前は希死念慮に取り込まれていたひととは思えない」
舞が額に手を当てながら言った。
三ツ谷はヘラヘラと笑いながら口を開く。
「地獄を経ればどこだって天国になり得ますから」
2
村の道路は畑の土が刷り込まれた茶色いコンクリートだった。だが村の外れまで来ると道はコンクリートから固められた土に変わり、その土もところどころに凹みができておりSUVは何度も上下に揺れた。
村を越えSUVは傾斜のある山道をのぼり始めた。暗い。外灯の類はなく、生い茂った木々が月光を遮っている。SUVのライトだけを頼りに三ツ谷はハンドルを切って山を登った。
右わきに『ホテルオオルリ』の案内看板
が現れた。腹部が白く上半分がコバルトブルーの小鳥に吹き出しがついて『この道を10分直進』と笑いかけている。
小鳥の言う通り、十分ほどでSUVはホテルオオルリについた。
SUVから降りて三人は息を呑んだ。
六階建ての巨大な建造物が三人の前に立ちはだかる。ブログ記事の通りホテルオオルリは廃墟と化していた。かつては白く太陽光を反射させていたであろう外壁は至るところが黒くかすみ汚れていた。一階部分の外壁の一部にはスプレー缶による落書きや卑猥な言葉が残されている。ほぼ全ての窓は内側からベニヤ板が貼られており、何枚かの窓はガラスが割れていた。入り口には六本のギリシャ神殿風の装飾が施された円柱が均等に並んでいるが、そのすべてに薄いひび割れが走っていた。
「かつての栄華はどこへやら。諸行無常ですねぇ」
懐中電灯の光でホテルを照らしながら三ツ谷は言う。空いた手で尻をかきながら、とことことホテルの入り口へ歩いていった。
ホテルの手前に拡がる駐車場には数台の車やバイクが廃棄されていた。ルピナスファームと同じく、廃墟には付きものらしい。
「いると思いますか」
ホテルを囲う森林を見回しながら翔吾が言った。翔吾の後ろで舞は懐中電灯の光を、駐車場に横たわる小型発電機に当てながら『さぁ』と返す。
「ただ、ひとの迷惑にならずに自殺をするのには向いているんじゃない。廃墟としてはそれほど有名ではないからひとはこない。近場に観光スポットもないみたいだからひとはこない。近隣住民はよそ者を嫌っているみたいだし、自殺志願者が村を経由してもわざわざ声をかけて止めたりはしないでしょう」
「壁の落書きもだいぶ古いみたいですね」
三ツ谷が呆けた口調で言った。
「不良が来たのはだいぶ前のことでしょう。こんな山奥まで大勢でバイクを蒸かして来るのは大変でしょうからねぇ。しかしどうして落書きなんてするんでしょう。未開の地にたどり着いた探検家が国旗を立てるようなものかな」
三人はホテルの正面入り口に向かった。回転ドアの正面にはオレンジ色のフェンスが横に並んでいる。コンクリートのブロックで固定されたフェンスはすべて太いチェーンで結ばれており、両端のフェンスから伸びたチェーンは柱に固く巻き付けてある。
「正面入り口から入るのは無理ですかね」
「入れない。ということは、空は来ていないということでしょうか」
翔吾の問いかけに三ツ谷は首をふる。
「志摩さん、お忘れですか。空さんがご覧になっていらした廃墟ブログには、建物の中の写真がありました。どこかに入り口があるんですよ。探しましょう」
三人は入り口から離れ、ホテルを時計回りに歩き出した。森林とホテルの間にあるドアの外れた物置の前を通った時、舞は頭上を見つめて『え』とつぶやいた。
「あそこの窓。誰かいる」
舞が四階にある小窓を指さした。その小窓には内側からベニヤ板が貼りつけられていないようで、懐中電灯の光を当てると小窓には黒い闇が浮かんだ。
「たしかですか」
「小さな光が見えたの。わたしが懐中電灯を上に向けたら、消えた」
「急ぎましょう」
先頭の三ツ谷が小走りで駆け出す。ホテルの角を曲がったところで、三ツ谷が一度足を止め、『ここか?』とつぶやく。そこには地下へとつながるコンクリートの下り坂があった。下り坂には濡れたダンボールや中身が入っている大きなゴミ袋がいくつも転がっていた。懐中電灯を片手に三ツ谷はそれらを避けながら降りていく。
「食材などの搬入用の入り口みたいね」
舞が懐中電灯を頭上に向けた。錆びだらけの看板が天井にぶら下がっている。『搬入業者様へ 場内では徐行運転をおねがいします』と書かれていた。
地下は舞の言った通り搬入口になっていた。数台分のトラックヤードと、トラックから荷を下ろす腰の高さほどのプラットホームが下り坂の反対側にあった。トラックがハンドルを切ることを考慮して設計されたのか、地下は広く作られていた。ただしその広い地下に今はガラクタが縦横無尽に転がっている。かつては搬入に使われていたと思われる台車。パレットの上に詰まれたダンボール。パレットの上から崩れ落ちたダンボール。先の割れた竹ぼうきが壁際に散乱し、そのとなりでフォークリフトが横転していた。
三ツ谷はプラットホームにのぼり、奥にある銀色の両開きのドアを押した。ドアはガマガエルの寝言のような音を立てながら開いた。
ドアの奥には廊下があった。リノリウムの床が直線に伸びており、最奥にエレベーターの扉がある。
廊下の途中にはいくつか部屋があった。部屋の入り口にはプレートが貼られており、手前から『食在庫』『冷蔵庫』『冷凍庫』『キッチン』となっている。前の三つは入り口のドアに鍵がかかっており、最後の『キッチン』はドアがなく、中ではいくつもの調理台と調理台の間に中身が入った白いビニール袋が点在していた。従業員が形ばかりの清掃を施したが、ゴミ袋を処分する方法がなくて仕方なしに放置していったのだろう。
当然のことながらエレベーターは稼働していない。三人はエレベーターの横にある階段をのぼった。地下一階から一階にあがる。一階の階段室の外には、巨大なクジラの口腔のような暗闇が広がっていた。そこはホテルのエントランスホールのようだった。横に伸びたカウンター、ほこりの積もったシャンデリア、生地の破れたソファーがいくつも並ぶ。そしてここにも、いくつも白いゴミ袋が転がっていた。
「四階でしたね」
三ツ谷はエントランスホールを横目に階段をのぼり始める。見かけのわりに三ツ谷は機敏だった。汗染みが広がるワイシャツの下で腹の肉がぶるりとゆれている。それなのに速い。カタンカタンと革靴の音を立てながらするりするりとのぼっていく。そんな三ツ谷の後に舞が一段飛ばしで続く。最年少の翔吾が一番遅れていた。
四階に着き、三ツ谷と舞は爆ぜるように階段室を飛びだした。階段室の前の廊下は左右と正面に伸びていた。赤いじゅうたんが敷かれた廊下には、いたるところに家具やゴミが散らかっている。
「空さん。五十鈴空さん。いるんですか。出てきてください」
三ツ谷が叫ぶ。奥でガタリと何かが動く音がした。ひとの声も、した。
「空なの?」
舞が駆けだした。ガラクタを避けながら廊下を奥へと進んでいく。
「あぶないですよ。ひとりで先にいかないで」
三ツ谷が舞の後を追う。走り出す直前、三ツ谷は翔吾に手招きをして付いてくるよう促した。
四階は客室のエリアらしく、廊下にはいくつもドアが並びその横の壁には部屋の番号がついたプレートが貼られていた。
数十メートル進むと廊下が十字に分かれていた。舞はそこで一度足を止め、正面の廊下へと走り出した。正面の廊下には大きなタンスが壁に向かって斜めに倒れ掛かっていた。舞はタンスと床の間のスペースにその細い身体を滑りこませて奥へと行く。三ツ谷も続こうとしたが、太い体躯ではタンスと床のすき間に入りこめそうになかった。
「たぶん、ぼくも入れません」
翔吾が言う。三ツ谷はうなずき、十字路に戻って右の方へ曲がった。
数メートル進んだところでふたたび廊下が十字に分かれていた。三ツ谷は方角的に舞が向かった左の廊下に曲がったが、そこで『わぁ!』と大声をあげた。
「三ツ谷さん。どうしました」
距離をおいて翔吾が声をはりあげる。
「だ、大丈夫です。驚いただけ。まるでシャイニングだ」
三ツ谷は後ずさりながら十字路にもどり、もと来た道から見て直進した。
「そっちの道も通りづらいですよ」
翔吾は三ツ谷を追いながら十字路に入ったところで、左の通路を覗いた。翔吾は小さく『げ』と声をあげた。損壊した家具の手前に、等身大の女の子の人形が立っていた。赤いワンピースを着たその人形は、両手をだらりと下ろしている。顔は白く、髪は肩にふれる程度に伸びていた。なるほど暗闇の中にこんなものが現れたら悲鳴をあげるのも当然だと翔吾は納得した。
「五十鈴さん。どちらに」
先に進みT字路で足を止めた三ツ谷が声をあげる。右のほうから『こっち』と舞の声が聞こえた。
廊下の先に舞がいた。懐中電灯の光を足元に向け、その視線は正面の方に注がれている。
三ツ谷が懐中電灯を正面に向けた。ドアが一枚。『リネン室 お客様の立ち入りはご遠慮ください』と書かれたプレートが貼られていた。
「誰かがここに入った」
舞が小声で言う。懐中電灯の光が小刻みに揺れていた。
「中から声もした」
「空……ですか」
翔吾はつばをのみ込み、ドアノブに手をかけた。ドアを挟んで反対側から息遣いが聞こえる――気がした。
『気のせい?』。翔吾は自身に問いかける。ドアを開ければわかることだ。それなのにノブを掴んだ手が動かない。ひねって、引いて、それでおしまいなのに、すべてが終わるはずなのに、翔吾にはそれができなくて――そして――
ドアは内側から勢いよく開き、翔吾の身体をはじき飛ばした。
「うわぁぁぁぁぁぁ」
怒号とともにリネン室からいくつもの白い物体が飛んでくる。白い物体は舞と三ツ谷に当たりその衝撃でふたりは懐中電灯を落とした。痛みはなかった。白い物体は柔らかく、包むようにふたりの身体を叩いた。
「くるなくるなくるなくるなぁ!」
リネン室の中からかん高い叫び声が聞こえる。その声を聞いて舞が『まさか』と短く叫ぶ。
転がる懐中電灯の光が一帯をランダムに照らす。リネン室の中から『今だ!』と太い男の声がした。三つのひと陰が飛びだして来る。落ち着いていたのは舞だった。舞は三つのひと陰の中から、最も細い腕を強く握りしめた。
「いたい!」
かん高い声が廃墟に響く。その声は『くるな』と連呼した声と同じだった。
残り二つのひと陰が動きを止める。『信月!』と叫ぶ女性の声が翔吾たちの鼓膜を揺らした。床を転がる懐中電灯の光の中で、ワンピース姿の女性が舞に飛びかかる。だが三ツ谷は女性の腰を両手で掴み、自身の身体を壁に押しつけた。
「美月? 信月? ど、どうした。逃げ……逃げなきゃ……あぁぁ」
残るひとつのひと陰が力なく言った。ドアにはじき飛ばされた翔吾は、鼻の頭の鈍い痛みを覚えながら、転がるふたつの懐中電灯を両手で拾い上げた。
舞が小さな男の子の腕をひねり上げていた。男の子は必死になって舞の手をふりほどこうとしているが、シヴァ神のように冷たい表情の舞は微動だにせず子どもの腕を握りしめている。
壁にもたれかかる三ツ谷の足元で、ワンピース姿の女性が顔にかかる黒髪の下で嗚咽を漏らしていた。三ツ谷は気まずそうに笑いながらスラックス越しに尻をかいていた。
「くそ。まさかこんなところまで……」
そして最後に、男がいた。ジーンズに紺色のポロシャツを着た短髪の男。男はほこりまみれの床に膝と手ををついて身体を震わせている。
翔吾のつま先が何かを弾く。細いフレームの眼鏡が落ちていた。翔吾はそれを拾い、男の顔の前に差し出す。
男は無言でそれを受けとり、顔にかけると四つん這いのまま翔吾を見上げた。
「あんたたちもしつこいな。金はないってわかっているくせに……本当に、この、悪魔どもめ!」
「……えっと。あの、どなたですか?」
翔吾の問いかけが虚しく響いた。
3
「しんじられない。しょーこをみせろよ、しょーこを。あんたらが鷹間蛾組の人間じゃないってしょーこをさ」
「やめなさい。信月。すみません。子どものくせに口が達者で」
鼻を鳴らして三ツ谷たちに突っかかる信月少年を、父親の平井信一郎は制した。だが信月は反抗的な目線はそのままに、闖入者三人を――主に自身の腕を強く掴んだ舞を――にらみつけていた。
リネン室から場所を移し、同じく四階にあるラウンジに六人は入った。ラウンジには大きな電池式のランプが置いてあり、少なくとも互いの顔を確認できる程の光源が保たれていた。
「本当に失礼いたしました。鷹間蛾組の人間が追いかけて来たのかと思い、あのようなことを」
「別に怪我をしたわけじゃないから気にしないけど」
信月少年がリネン室で投げつけてきた白い枕を頭に置いて、舞は足の短い籐の椅子に座りこんだ。
翔吾はバーカウンターの前にある丸椅子に腰をおろし、平井一家をうかがった。父親の平井信一郎。顔のシワを見る限り四十代から五十代といったところか。細い体躯に合わない大きなポロシャツを着ており、眼鏡もサイズが合わないらしく、終始鼻の頭からずり落ちては戻しをくり返していた。
母親の平井美月は夫よりもひと回りくらい下の年代に見える。さわやかな水色のワンピースに似合わない憂いのこもった表情で首を傾けている。顔は小さく女優のような美貌を有しているが、その美貌を上回る薄幸が全身を包んでおり近寄りがたい雰囲気を発していた。
そして息子の信月少年は、母親のひざの上に座りながら短パンから伸びた小麦色の足をぶんぶんとふり回していた。年のころは小学校低学年といったところ。母親似の整った顔つきをしている。
「なんですか。鷹間蛾組って」
「ここいら一帯で有名な暴力団ですよ。わたしは以前事業を展開しておりましたが、経営が上手くいかず、銀行からの融資も断られ、仕方なしにヤミ金に融資を受けました。しかしそれでも経営は立ち直ることなく、法外な金利で借金は膨れ上がり、わたしは最初の借金を返すために紹介された別のヤミ金から融資を受けて……」
「多重債務ですね。同じ暴力団の息がかかった別のヤミ金から金を借りさせる。典型的かつ悪質なパターンですよ。しかし、鷹間蛾組? 聞いたことないな……」
三ツ谷がガラステーブルの上に置いた指をカタカタと叩きながら言った。
「いま思えば、あの時点ですべて諦めるべきだった。だがわたしは若いころから自分には商才があると思いこみ、いえ、本当に若いころは上手く行っていたのです。どんな商売にだって落ち込む時はある。だが落ち込みはいつか止まり、必ず上昇に転じる。そんな何の根拠もない精神論を胸に抱き、わたしは多重債務の沼にはまっていきました。手がけていた事業を全て失い、いまの私に残ったものは多額の借金と家族だけです」
信一郎は乾いた声で笑いだした。
「鷹間蛾組はわたしの周囲の人間にわたしの借金を肩代わりするように迫りました。『平井さんが借金を返してくれないんだけど、あんたお友達なら代わりに返してくれない?』。ド派手なアロハシャツの男が職場まで訪れてそんなことを言うんですよ。わたしの周りからどんどんとひとが去っていきました。鷹間蛾組はわたしを孤独にした。いえ、違うか。孤独ではない、わたしと社会とのつながりは唯一鷹間蛾組だけになったのです」
信一郎が両手で顔を覆い、唸り声をあげた。父親のそんな姿にうんざりしたのか、信月は母親の膝から飛び降り、ラウンジを出て行った。
「きみ」
舞が声をあげる。だが母親の美月が『いいんです』と首をふった。
「疲れただけだと思います。ベッドのある部屋に行っただけです」
「本当、子どもにも迷惑をかけました。鷹間田組のせいで、友達やその家族から疎まれ、子どもの幼稚園の先生からも避けられたんです。本当にかわいそうに。でもだいじょうぶ。もうすぐすべて解決する。終わるからな」
信一郎は再び両手で顔を覆い『だいじょうぶだいじょうぶ』とくり返す。猫背になり、身体を前後に振りながら、耳をすまさなければ聞こえないほどの声量で。
「取り立てから逃げるためにこのホテルにたどり着いたということですか」
舞が両腕を組みながら訊ねた。信一郎はがばりと顔をあげた。
「ホテルオオルリはわたしがオーナーを務めていたのです。都心から車で数時間。赤城山一帯の自然を楽しめる大型宿泊施設としてオープンしたのですが、客足はいっこうに伸びずほんの二年で廃業しました。地元住民の方々も観光需要が増えるのではと期待してくださったのに、わたしはその期待を裏切ってしまった」
「ホテルの敷地に入ってきたわたくしたちを鷹間田組だと思ったわけですね」
「はい。妻とふたりで様子を見にベッドから出たのですが、息子を起こしてしまい、ついていくと言ってきかないものですから。そうしたら皆さんが四階に現れて、わたしたちはそばにあったリネン室に隠れたわけです」
「平井さんたちの事情はわかりました。ですがわたしたちは、平井さんの借金苦を助けるためにここに来たわけではありません」
舞が籐椅子から立ち上がった。
「それは……それはそうだ。すみません、個人的な話をぐちぐちと。みなさんはこんなところに一体なにを? 廃墟巡りでしたらどうぞご自由に。床板が腐っているところがありますので踏み抜かないよう気をつけて」
「ひとを探しています。この二日間で、わたしたち以外にホテルオオルリを訪れたものはいませんか」
信一郎は首を傾げながら妻の方を向いた。美月は小刻みに首をふった。
「わたしたちは三日前の夜からここにいますが、誰も来ていません。子どもが気づいておりましたらあの性格ですから大騒ぎするはずです」
「ハズレか」
舞は翔吾を見て力なく笑った。だが翔吾は笑わなかった。翔吾は悩んだ。訊ねるべきか悩んだが、脳がその判断を下す前に喉の奥からポンとその言葉が飛び出た。
「『終わる』ってなんですか」
その声は信一郎に向けられていた。信一郎は顔をひくつかせ、追及を逃れるように顔をそむけた。
「さっき言いましたよね。『もうすぐすべて解決する。終わるからな』。それどういう意味です。借金を返す手段があるという意味ですか。違いますよね。こんな廃墟に逃げ込んで、あなたはいったい何をするつもりですか。家族にいったい何をさせるつもりですか」
翔吾は察してしまった。舞も三ツ谷も既に察していたのかもしれない。だが翔吾は幼かった。問わずにはいられなかった。確認しないわけにはいかなかった。人生を追いつめられた人間に残された選択肢はひとつだけだ。その選択肢は虚構のものではない。人間の空虚な想像力の中にだけ納まるものではない。その選択肢は実在性を有する。幾人もの人間が絶望の果てにたどり着く道。五十鈴空が選んだ道。三ツ谷卓也が選び、そして絶った道――
「仕方ないでしょう!」
かん高い叫びが室内に響いた。涙に声を濡らしながら美月が翔吾に喰ってかかる。
「あなたみたいな若者に何がわかるの。えらそうにわたしたちに説教するつもり? わたしたちは終わったの。ぜんぶ終わった。終わったはずなのに、いつまでも苦しみ続けるなんておかしな話でしょう。だから、本当に、本当の意味で終わらせるためにこのホテルにやってきた。このホテルが竣工した時、わたしたちは本当に幸せだった。ホテルオオルリはわたしの人生における幸せの象徴なの。幸せの中でわたしは最期を迎えたい。わたしのわがままを叶えるために夫はわたしをここに連れて来てくれた。これがわたしの最後のわがまま。わたしたち家族は幸せに包まれて終わるのよ」
「馬鹿げています。早まらないで」
翔吾が声を荒げた。だが美月は声をあげて泣き、信一郎は厳粛な様子で首をふるばかりで聞く耳をもつ様子はない。
「死ぬなら大人だけで死ねばいいのに。子どもを巻き込む権利が親にあるとでも」
舞の乾いた問いかけに信一郎は唇を噛んだ。
「おたくにわかるのか。借金苦の家庭に生まれた子どもの苦労がわかるのか。ろくな教育を受けることもできず、学歴社会のこの国で低賃金労働者になる未来しかない子どもの苦しみがわかるのか」
舞は言葉を返せず、掴んだ腕に爪を深く食い込ませた。著名な学者を多く輩出してきた五十鈴家にとって『金欠』の二文字は無縁の概念であった。
「我が子に苦しみだけが敷き詰められた人生を歩ませるしかない親の気持ちが……ちくしょう。借金苦の親って時点で詰んでいるんだよ。確約された苦しみから逃がしてやることのなにが悪いんだ」
「お子さんはご存じなのですか」
三ツ谷が訊ねる。美月は涙声で『いいえ』とつぶやく。
「今日は信月の誕生日なんです。あの子が生まれた日に、わたしたちが家族になった日にすべてを終わらせようって。朝食に睡眠薬を混ぜて……あの子の大好物のハンバーグとオレンジジュースに混ぜて、ね。朝から大好きなハンバーグが食べられるなんて、あの子は幸せの中で眠りにつくんです」
「止めないでください」
信一郎は妻の隣に座り、その両手に自身の手を重ねた。
「もう決めたことなんです。警察に通報しますか? どうぞ。だけど警察は何も解決してくれません。何も解決してくれませんでしたよ。口だけの注意を鷹間蛾組にかけるだけで、かえってあいつらの取り立ては激しくなりました。警察が来たところでわたしたちの苦しみは続く。今回はだめでも、また別のどこかでわたしたちはあの子の朝食に睡眠薬を混ぜるでしょう」
「平井さん、あなたは――」
三ツ谷の言葉を引き裂くように、ラウンジのドアが勢いよく開き壁に叩きつけられた。
信月少年がラウンジに駆け込んできた。手にした懐中電灯の光が小刻みに震えている。
「姫月がいない!」
そのひと声に信一郎が『そんな』と声をあげた。美月は夫の手を払い一目散にラウンジを出た。
「信月、本当なのか。ひめが本当に……」
「ベッドにいなかったんだよ。部屋にも、どこにもいなかった。たぶん起きたらおれたちがいなくて、探しに部屋を出たんだ」
「そんな、そんなまさか……」
「平井さん。いったい何が――」
舞が言葉尻を濁して訊ねる。信一郎はうなずいた。
「わたくしどもにはもうひとり子どもがおります。四歳の女の子が。よく眠っていたので、ベッドに残してきたのですが……あぁ……」
三ツ谷と舞が懐中電灯を手にラウンジの外に向かった。舞はちらりと翔吾の方を見て、何も言わずにラウンジの外に出る。
翔吾はほんの数秒逡巡し、一度舌打ちをしてからふたりの後を追った。
4
「あの親は馬鹿ですよ」
翔吾は廊下に詰まれたダンボールの山を飛び越えながらそう吐き捨てた。
「こんな危ないところで四歳の女の子をひとりにするなんて」
「おっしゃる通りですね」
荒い呼吸の合間に三ツ谷が言う。
「床板が腐っているところがあるから気をつけろって言ってましたね。ホテルはRC造でしょうから下の階に落ちることはありませんが、床下に落ちた際に足を怪我したり、頭を強く打ちつけたりする可能性は十分にあります。こんな暗闇の中ではなおさらです」
「泣き声が聞こえないのが気になる」
舞はいら立った口調で言った。
「四歳の女の子がけがをしたら大泣きするに決まっている。泣き声が聞こえないのは無事だから? それとも泣くこともできないほどの重傷だから?」
「前者であることを祈ります。二手に分かれましょう。わたくしはこっちを。おふたりは直進してください」
三ツ谷は十字路を左に曲がって駆け出した。舞は承諾の言葉を口にする間も惜しいとばかりに、正面の通路を駆けていく。
遠くから平井一家が愛娘を呼ぶ声が聞こえる。客室を一室ずつ調べているらしく、ドアが開閉する音も終始聞こえた。
突然、翔吾は足を止めて壁に握りこぶしを叩きつけた。
背後からにぶい音が聞こえ、舞は足を止めてふりかえる。懐中電灯の光の中、鉛の玉をのみ込んだような重い表情の翔吾がいた。
「だけど……仮に女の子が見つかって、それでどうなるんですか」
舞が何かを言おうとしたが、それに覆いかぶさるように翔吾の声が暗闇に爆ぜた。
「あの家族は揃って自殺するつもりです。仮にいまぼくたちが女の子を助けても、明日の朝にはその子も死ぬんです。だったら、助けることに何の意味があるんです」
「女の子の無事がわかれば一家心中を留まるかもしれない。人間が生きていることのありがたさを身に染みて理解すれば――」
「それ、何も解決していません」
翔吾は力なく首をふる。
「いま、娘さんが見つかったところで、平井さんたちを捕らえる悪夢が霧散するわけではない。借金苦の生活が消えるわけではないんです。娘さんを見つけた直後は多幸感に包まれるかもしれませんが、時間が経てばその気持ちは薄れていき、逃れようのない悪夢にその精神はふたたび蝕まれていく。彼らはまた今日のように一家心中を図るでしょう。先延ばしに過ぎないんですよ。自殺の日を数日延ばすだけで、彼らの命が失われることに違いはない」
「あなたは自殺を認めるっていうの? 空を止めるのがあなたの目的じゃないの」
「空と平井さんは違います。平井さんは、たぶん、仕方ないんです。彼らを救うにはこれしか方法がないのかも。だけど空は違う。空の人生は詰んでなんかいない。きっと、気の迷いで、だから止めるのは正当で、為されるべきであって――」
「あなたに空のなにがわかるの。空を捨てた男が偉そうに語らないで」
舞が爆ぜる。そんな怒気に歪めた顔を見て、ほほがひくつき、翔吾も爆ぜる。
「一度は空の自殺を認めた人間がよく言う。あなたは一度空が死ねばいいと思ったはずだ。本人が望むならそうすればいいと。自由意志とやらを崇め奉って、ひとが死ぬことを是認したんだ。そんな人間が今度はひとを救う? 身勝手だ。理不尽だ。日和見だ。あなた達が、家族が見捨てたから空は家を出たんだ。空は止めて欲しかったんじゃないですか。そんなことをするなって、生きていて欲しいって、そのひと言で十分だったのに」
「部外者にはわからないわ。わたしたちの家は祖父の呪縛に囚われていた。典型的なパターナリズムの家に生まれて、何もかも祖父の言う通りに未来を決めらながら歩んできた。自由を手に入れて、謳歌して、それのなにが悪いの」
「謳歌じゃない。あなた達は自由を信奉したんだ。おじいさんが死んでも何も変わっていない。あなたたち奴隷は飼い主を変えただけだ。祖父という暴君から自由という暴君に飼い主を変えただけ。たかだが概念にふり回されて、なんでこんな。こんなことに、くそ」
翔吾はその場にうずくまり、荒い息を吐き出した。
「ごめんなさい。ぼくは、こんな口論がしたかったわけじゃない」
口腔からだらりと落ちかけたつばを拭い、翔吾は首をふる。
「ただぼくは、訳がわからないんです。どうしてこんなところにいるんだ。空を探しに来ただけなのに、すぐに見つかるか、諦めて家に帰ることになると思っていたのに。空は見つからず、よくわからないおじさんを連れて、こんな山奥の廃墟まで来て、一家心中を図る家族に会って、ぼくは何をしているんだ。無茶苦茶なことばかり起きて、訳がわからない。ぼくには平井さんたちを救えない。あの家族は死ぬしかないんですか。ぼくは、誰かが死ぬことを認めないといけないんですか。教えてください。ぼくは正しいことをしていますか。空を止めることは本当に正しいんですか」
「正当と不当を判断基準にするの、すごく男の子っぽい」
舞は冷たく言い放つ。救いの香りは微塵もしない。
「正当と不当って、社会とか神様とか自分の周りが決めることでしょ。自分の外側が生みだした価値判断に、自分の内側を従わせるのって、まぁ、上手に生きていくためには必要な時もあるのかもしれないけど、かっこ悪いよ」
「正当と不当を捨てて、どうしろっていうんですか」
「簡単だよ。自分がやりたいかやりたくないか。それだけ」
舞が翔吾の前にかがみこむ。懐中電灯の光の中で、舞は握りこぶしを翔吾の胸にぶつけた。
「痛い?」
翔吾はうなずく。舞もうなずいた。
「その痛みの主に聞きなさい。自分が何をしたいのか。あんたが決めなさい。他人に、世界に、神様に、自分の意志を委ねるんじゃない」
「舞さんはできるんですか。本当に、自分の意志で」
「その覚悟を決めたからわたしはここにいる。わたしは空に会う。何としてでも空に会う。死んでいたりしたら、許さない」
5
平井姫月の名前を呼ぶ声がいたるところで響きわたっている。翔吾も姫月の名前を呼んでみた。一度目は気恥ずかしく、紙飛行機ほどの距離しか飛ばなかったが、二度三度とくり返していくうちに遠くまで届くようになった。
「まずいかも」
翔吾と同じく姫月の名前を呼んでいた舞は、廊下に転がる汚れた桐タンスを蹴飛ばした。
「これだけ呼んでいるのに返事がないってことは、ホテルの外に出た可能性もあるわ」
「あ」
翔吾は農村で見た『クマ出没注意 目撃情報多数』と書かれた看板を思い出した。
「外を探してみますか」
「うん」
ふたりは慌てて走り出す。すると、十字路に入ったところで舞が短い悲鳴をあげた。
翔吾は舞の視界にあるものを見た。それは先ほど三ツ谷が見て悲鳴をあげた、赤いワンピースを着た女の子の人形だった。
「なんだシャイニングか」
翔吾が言う。舞は『は?』と声をあげる。
「さっき三ツ谷さんがこの人形を見て『シャイニング』って言ったんですよ。意味はよくわかりませ――」
「三ツ谷さん!」
舞の叫び声がフロアに響いた。遠くから三ツ谷の『なーんですかぁ!』と間延びした声が返ってくる。
人形が立っているのとは別の方角から三ツ谷がやってきた。小走りでやってくる三ツ谷に舞が訊ねる。
「どうしてこれが『シャイニング』なんですか。水色ではなく、赤いワンピースを着た女の子が」
「はぁっはぁっはぁっ……色はどうでもいいでしょう。だって、見るからに、はぁっはぁっ……。あ、あれ? 嘘だろ。どうして人形がひとつ消えているんだ?」
舞は再び大声を出して平井信一郎を呼んだ。信一郎に娘の服装を確認する。平井姫月は赤いワンピースを着ていたという。
「娘さんはつい先ほどここにいました。この赤いワンピースを着た女の子の人形の横に立っていたそうです」
三ツ谷が同じワンピースを着た人形と女の子を見て悲鳴をあげて立ち去り、数秒後、翔吾が三ツ谷は何に驚いたのかと目をやるまでの短い間に姫月はその場を離れたわけだ。
シャイニングとはスタンリー・キューブリック監督のホラー映画のことだ。水色のワンピースを着た双子の女の子の幽霊が廊下に佇むその姿は、多くの映画ファンの脳裏に恐怖の二文字と共に刻みこまれている。
姫月は人形が置かれた通路を奥の方へと向かったはずだ。四人はそちらに向かう。突き当りには、翔吾たちが登ってきたものとは別の階段室があった。上階に上がる階段の手前にはバリケードのようにゴミの山が詰まれており通れない。一方、下階に降りる階段に通行を妨げるものは何もない。
「両親と兄がベッドから消え、部屋の外に出てみたら見ず知らずの大人が四階を走り回っていた。怖くなって、下の階に逃げ出したってとこかしら」
舞が言う。すると、信一郎は『まずい』と悲壮感あふれる様子でつぶやき、一目散に階段を駆け下り始めた。
三人も信一郎の後を追った。何が『まずい』のかと考える余裕はなかった。懐中電灯の光だけを頼りに階段を降りていく。三階のフロアに通じる開口部の内側には、ゲーム機の筐体が乱雑に重ねて置かれていた。階段を下る。二階のフロアに通じる開口部には上階のように通行を妨げるものはなかった。だが開口部の目の前の廊下は五メートル近くにわたり床板が抜け落ちていた。ここから二階に出るのは不可能だろう。階段を降りる。一階のフロアに通じる開口部には土嚢袋が詰まれ通行を妨げていた。
「え。平井さんはどこに」
翔吾が懐中電灯をふりまわす。光が壁に張られたパネルを照らした。長方形の白いパネルには横向きの矢印と共に『地下一階 温水プール』と書かれていた。
パネルに記載された矢印の向きに奥まった通路が伸び、その先にさらに地階へと続く階段があった。
地階の方から信一郎の悲鳴が聞こえた。三人は階段を駆け下りる。階段の前にある更衣室を抜けると、その先には二十メートほどのプールがある開けた空間に出た。
濁った水が溜まるプールの中に信一郎がいた。胸元まで水に浸かりながら信一郎は必死にプールの中央へと向かっている。その手には懐中電灯が握られていたが、水に濡れて故障したのか不規則に点滅をくり返していた。
点滅する懐中電灯の光が信一郎の進行方向を一瞬だけ照らした。プールの中央、水面に赤く巨大な模様が浮かんでいた。
「やだ。やだやだやだ」
舞が引きつった声をこぼす。三ツ谷がプールに飛び込み、信一郎の背中を追いかける。
そして翔吾は、ただ見ていた。白い光に照らされた、金魚のヒレのように水面を揺れる赤い模様を、見て、そして、彼は、たぶん、思った、これが、これが、命の、これが、これが、空が、求めている、つまりは、これが、この、終わりこそが――
「懐中電灯!」
三ツ谷の叫び声が屋内プールに反響する。
「光を当てて。速く、速く!」
その叫び声に翔吾は我をとり戻した。三ツ谷が足元に落としていった懐中電灯を拾い、プールサイドを駆けていく。プールの中央に二本の懐中電灯を向ける。ふたつの丸い光がうつ伏せで水面に浮かぶ少女の身体をとらえた。
「五十鈴さん、救急車を!」
「わかった。……だめ。電波が通じない。一度地上に出る」
舞はスマートフォンを片手に駆け足でプールを後にする。入れ違いで、美月と信月がやって来た。美月は狂ったように叫び声をあげ、信月は母の手を掴み、ただ茫然とその場で固まっていた。
信一郎と三ツ谷が舞の身体を抱き上げ、プールサイドの翔吾に渡す。赤いワンピースが水を吸っているせいか、翔吾の手には少女の身体は重く、うまくプールサイドに上げられない。横から手が伸びた。美月の細腕が我が子の身体を力強く引き上げた。
懐中電灯の光の中に横たわる平井姫月の顔が浮かぶ。肌は青白く変色し、両目は浅く閉じられていた。
「姫月。しっかりして、姫月」
美月が呼びかける。だが返事はない。信一郎はプールに浸かったまま怯えた表情を浮かべ、この現実を否定するようにぶつぶつとつぶやいている。
「どいてください」
プールサイドに上がった三ツ谷は濡らした衣服を気にする様子もなく、姫月の傍らに屈みこんだ。
「思い出せ。思い出せ。一秒間に二回のリズムで三十回。身体の厚みの三分の一程度に押し込み――」
三ツ谷は横たわる少女の胸の下部に片手を乗せ、躊躇することなく胸骨圧迫を始めた。
一度押し込む毎に、力強い声で回数を口にする。三十回に達したところで、姫月の額に手を置き、もう片方の手であごを上げて人工呼吸を行う。二回息を吹きこむと、再び胸骨圧迫を始めた。
「このひとは医者なのですか?」
やっとプールサイドに上がってきた信一郎が、翔吾に訊ねた。
「いえ、ただのサラリーマン……だそうです」
「だめ。山奥のせいか電波が通じない!」
スマートフォンを握りしめた舞が、必死の声色で戻ってきた。
「車で運ぶしかないですね。しかしまずは、頼むよ、まだ、死なないで――」
姫月の口が小さく開き、のどの奥から小さなせきをこぼした。かすかに目が開き、手足がゆっくりと動く。顔が横を向き、口から水を吐き出した。
「よかった。意識をとり戻した!」
全員が深く息を吐いて安堵の表情を浮かべる。美月と信一郎が我が子に抱きつこうとしたが、三ツ谷は『無理に身体を動かすのは危険です』とそれを制した。
「身体を温める必要があります。濡れた服を脱がして、毛布かふとんで身体を包みましょう。それから車に乗せて、救急外来に。五十鈴さん、SUVのエンジンをいれてきてください」
三ツ谷の指示のもとに全員が動いた。客室のふとんに姫月の身体を包み、SUVに運ぶ。運転席に舞が着く。後部座席に美月が座り、美月のひざに頭を乗せて姫月を横たわらせる。
「病院に着いたら、志摩さんに連絡を……て。な、な、なんですか?」
山の方からエンジン音が近づいてくる。エンジンが奏でる轟音はひとつだけではなかった。いくつもの音が重なり、近づき、そして、その正体を現した。
無数の軽トラックがハイビームを灯しながらホテルの敷地内にやってくる。軽トラックが停まると同時に、荷台から男たちが降りてきた。
男たちの姿がハイビームに照らされる。どの男も鍬や鉈やスコップを日焼けした腕に構え、鬼気迫る表情で翔吾たちに向かってきた。
「そいつらだ。そこの若いのと太いの。それから車の運転席にいる女!」
先頭の軽トラックの荷台に立つ老婆が指を突き立てて声を荒げた。それは農村でSUVの前に飛びだして来た老婆だった。
老婆の先導に呼応して男たちは翔吾と三ツ谷、そしてSUVに群がる。呆然とする翔吾は両腕を取られ、あっという間に地面におさえつけられる。三ツ谷は両手をあげながら『事情を! 説明を! プリーズ!』と叫ぶが、両手をあげた動作が抵抗と思われたのか、若い男が木槌の先端を三ツ谷の腹に突き立てた。三ツ谷は腹を抑えながらその場にうずくまると、男たちがその上に覆いかぶさった。
「おい、車に奥さんと娘さんがいるぞ。あぶないところだった」
SUVの後部座席をのぞき込む男が叫んだ。幾人もの武装した男に囲われ、舞と美月は言葉を失う。ロックされたドアを開けようと男たちが乱暴にドアを叩きだした。美月が悲鳴をあげる。舞はギアをドライブに入れたが、SUVの前に数人の男たちが立ちはだかり、発進を妨げた。
「安心してください平井さん。こいつらはわしらが責任をもって始末します。あんたらは逃げろ。鷹間蛾組が来ないところに、早く逃げるんだよ」
「え、あの。ちょっと、みなさん」
信一郎が狼狽の声をあげるが、男たちの怒声にかき消される。ひとりの男が信一郎のそばにいる信月を抱きかかえた。男は『坊やもこっちへ』と声をかけた。
その時、男の野太い叫び声が闇夜に響いた。
声を発したのは信月を抱きかかえていた男だった。信月は男の右腕に噛みついている。男が両手をあげると、信月は両足からコンクリートに着き、SUVに向かって走り出した。ドアを蹴飛ばしていた男に信月が体当たりをする。だが子どもの体躯では筋骨隆々とした男をよろけさせるのがやっとだった。男が信月の身体を抑えようと腕を伸ばすと、信月は両手をふり回して男の腕をたたいた。
「ひめが、妹が死にそうなんだよ。邪魔すんな!」
のどが枯れんばかりに信月が叫ぶ。
「村長、本当だ。車の中のむすめさん、眠っているんじゃない。様子がおかしいぞ」
窓ガラス越しにSUVをのぞき込む男が言った。
「平井さん。いったい何があったのさ。鷹間蛾組はむすめさんに乱暴したのかい」
老婆が訊ねる。
「ちがいます。姫月はプールで溺れて、それを彼らが助けてくれたんです」
「鷹間蛾組が?」
「ちがいます。彼らは鷹間蛾組じゃ……」
「い、医者!」
地面のコンクリートに頭を押さえつけられていた三ツ谷がくぐもった声で叫んだ。
「みなさんの村に医者はいませんか。いるでしょう。姫月ちゃんはプールで溺れて気絶しました。心肺蘇生を試みて自発的に呼吸を始めましたが危険な状態にあることにはかわりありません。わたくしたちが何者かなんて後後後。一刻も早く、医者のところへ!」
「車から降ろす時間ももったいない。誰か、車に乗って案内して」
運転席のドアを開けて舞が叫ぶ。老婆が腰を折り曲げながら助手席のドアを開けて乗り込んできた。
「村には医者がいるよ。わしが行きゃ話が早い。ほら、出しな」
SUVが発進して山道へと消えていった。その後を男たちが呆けた表情で見つめていた。
雲が流れ、月光があたりを照らし始めた。男たちの視線が今度は信一郎に集まった。信一郎は『えっと』とつぶやく。
「とりあえず、その方たちを離してあげてください」
6
翔吾たちは軽トラックに乗って、農村に向かった。農村の民家にはいたるところに電気が点いており、道々に寝間着姿で心配そうにうろつく村民の姿があった。
ライムグリーンのネグリジェを着た老婆――ここ裃村の村長を務めるという梶谷つちえの居宅に通されると、翔吾と三ツ谷は案内してくれた村人の勧めで浴室を借りて汗を流した。三ツ谷はボストンバッグに入れておいた自身の衣服に着替え、翔吾は梶谷村長の今は亡き夫の残した衣服を借りた。
「わたしはもともとこの村の出身なんです」
居間の座布団に座る翔吾と三ツ谷に対して、平井信一郎は土下座をしてから事情を説明した。
「前橋の企業に就職してひと財産を稼いだわたしは、地元の自然を満喫できるリゾート地をつくろうとホテル事業に手を出したわけです。その結果は、先ほどお話ししましたね。ははは」
翔吾と三ツ谷は気まずい表情で互いの顔を見合わせていた。
「二日前に裃村を訪れ、村長に挨拶を交わし、一家心中の旨を伝えました。鷹間蛾組はここいら一帯を治めている暴力団です。彼らの恐ろしさは村長たちもご存じでした。わたしが選んだ道を責めることなく、好きにすればよいと容認してくれました」
「わたくしたちがこの村を通った時、村長さんはずいぶんと怖い形相で声をかけてきました。平井さんたちを追いかけて来た鷹間蛾組の人間だと思っていたわけですね」
三ツ谷は太ももをかきながら言った。白い半そでのワイシャツに着替えた三ツ谷は座布団の上で脚を崩して背中を丸めた。
翔吾は供された緑茶に口をつけた。冷房の効いた部屋ではカゼをひいてしまうのではと思うほど冷たい緑茶だった。
「もし鷹間蛾組の人間が来たら知らぬ存ぜぬで通すようにと、絶対に関わりをもってはいけないと言ったのですが……」
「村長さんたちにとって平井さんは今も大事な村民だった。鷹間蛾組を敵に回してでも救いたいと、大挙してホテルオオルリに押しかけてきたわけですね」
「『こんな田舎に未来はない』」
信一郎は視線を畳のシミに落とした。
「高校を卒業して前橋に引っ越す日の前夜、この村に住む父親にわたしは言いました。『こんな田舎に未来はない。自分はこんなところで終わるような凡人じゃない』って。父は言い返すことなくただ笑っていた。父親を論駁した満足感にわたしは浸っていたが、とんでもない、父はわかっていたのです。わたしが凡人に過ぎないことを、そんな虚勢に何も意味がないことをよくわかっていたのです」
「お父様は今もこの村に?」
三ツ谷が訊ねる。信一郎は首をふった。
「十年前にわたしが無理やり前橋の家に連れていき同居させました。街で暮らした方が何かと便利だからと。ひどい話です。父はこの村を、亡き母との思い出が残るこの村を愛していたというのに、馬鹿な息子は無理やり父親を馴染みのない街に連行しました。思いやりなんてものではありません。周囲の評判を期待しただけです。父親想いの善人だと思われることはビジネスにおいてポジティブにはたらく。そんな卑劣な魂胆でわたしは父と故郷を切り離したのです」
そんな父親も同居を始めて数年経つと持病が悪化して亡くなったという。
「わたしと裃村を繋ぐ者は何もなくなった。ホテルを建てる時にかつて住んでいた村の近くを選んだのは、経済的価値があると踏んだから、それだけです。それなのに……」
信一郎は涙ぐみ、その場に顔を伏せて子どものように泣き出した。三ツ谷がずるずると近づき、優しく信一郎の背中を叩いた。
「邪魔するよ」
ふすまが開き、家主の梶谷つちえが現れた。
ライムグリーンのネグリジェのまま、その服装に似つかわしくない仏頂面で室内を見回す。
「むすめさんは大丈夫。応急処置が上手くいったおかげだって、医者が褒めてたよ」
信一郎は一層大きな声で泣き出した。ありがとうございますとくり返し声を張りあげる。
「あんたらには悪いことをしたね。本当に申し訳なかった。もし警察に訴えるなら、止めないよ」
「あ、いえ。別に大丈夫です。でも車の修理代だけいただけますか。病院に伺った女性がSUVの持ちぬしですので。彼女にわたしてください」
「承知したよ。あんたら、今夜はどこに泊まるつもりだね。あてがないならうちに泊まりな。部屋はいくらでも余っているからね」
「ありがとうございます。三人で相談して決めますので、もしもの場合はお世話になります」
「ん。平井さん。あんたは、ほら。医者のところに行きな。二丁目の陣内さん。覚えとるだろ。鉄棒から落ちたあんたの頭を縫ってくれたとこだよ」
「は、はい。あの一度失礼します。またあとで伺いますので……」
信一郎は立ち上がると一礼して部屋を出ようとした。
「どうしてですか」
ふすまを開き、廊下に出かけた信一郎の背中に翔吾が問いかけた。
開いたふすまに手を置いた信一郎は、怪訝そうな表情でふりむいた。
「どうして、死のうとしたんですか」
「それは……先ほどお話ししたでしょう。わたしは、借金苦に――」
翔吾は立ち上がり信一郎を殴った。
ほほを殴られた信一郎は廊下の電話台にぶつかった。固定電話が電話台から床に落ちる。信一郎はとっさに電話台に手を置くが、勢いのままに電話台を倒してしまう。固定電話の上に電話台が倒れこみ、そしてその上にバランスを崩した信一郎の身体が重なった。固定電話のプラスチックが割れる音が響いた。
「どうしてですか」
翔吾が拳を握りしめて再び問い直す。信一郎は困惑した表情で視線を泳がせていた。何を問われているのかわからず、何を答えれば目の前の若者が満足するのかわからないのだろう。
三ツ谷が翔吾の腕をとって室内に引きずりこんだ。翔吾は三ツ谷の腕をはらい、信一郎に飛びかかった。馬乗りになり、両手で信一郎のポロシャツを掴む。
「あなたの周りにはひとがいた。あなたを愛してくれる家族がいた。あなたを想ってくれる故郷があった。あなたは空と違う。あなたは孤独じゃない。あなたは絆をつくれる人だ。空とは違う。あんたに死ぬ権利なんて、ましてや家族を、子どもを道連れにする権利なんてないんだ」
「志摩さん。やめて、やめるんだ」
三ツ谷は翔吾を羽交い絞めにして信一郎から離す。梶谷は既につっかけを履いて助けを呼びに家の外に出ていた。
「むかつくんだよ。あんた、幸せじゃないか。幸せな人間がなんで死ななきゃならないんだ。気にいらない。幸せなくせに、不幸せな面して、馬鹿にするなよ。空を、あいつは、ちくしょう。馬鹿にするな」
その叫びが自身の意志に従って発せられていることは確かだった。
その叫びの所有権を有することに翔吾は疑いを抱くことはなかった。
本気の叫びだった。だが、この本気がどうして生じたのかが翔吾にはわからなかった。
言葉自体は無色透明のクリアな存在で、カッターナイフで指を切った時に『痛い』と発するのと同程度に自然なものだった。その自然さが奇妙だった。それを受けいれている自分が奇妙だった。どうしてこんな感情が生じているのかはわからない。だがこの感情が生じるのは当然ではないか。
「死ぬ権利なんて、あんたみたいな幸せな人間に死ぬ権利なんてないはずだ」
翔吾はふたたび三ツ谷を振り払った。三ツ谷の身体が転がりふすまを押し倒す。這いつくばりながら廊下の奥に逃げようとする信一郎に、翔吾は再び馬乗りになって殴りかかる。がむしゃらに、感情のままに振り下ろされる拳。顔でも腹でもどこでもいい。翔吾はとにかく傷つけたかった。眼前の男の存在そのものが許すことができなくて、ただ、ただ、がむしゃらに――
梶谷老女をしんがりに、村の男が数人駆けつけてきた。
男たちが怒声を発しながら翔吾の身体を掴む。両腕を抑えられた翔吾はダチョウのように足を伸ばして信一郎の身体を踏みつけた。
抵抗を続ける翔吾と彼を抑える男たちは狭い廊下をスーパーボールのように飛び交った。衝撃で壁にかかった額縁が落ち、ガラス板が落ちて砕け散った。そのガラス片をひとりの裸足の男が踏みつけ、その足で動き回ったせいで廊下の床は血だらけになった。
「なに。いったい、なにをしているの」
玄関に舞がいた。顔を引きつらせ、片手で口元を隠している。
舞の姿を捉え、翔吾の動きが止まった。次の瞬間、足から血を流している男が翔吾の腰に突進した。ふたりの身体はふすまを突き破り畳の一室に飛び込んだ。
部屋の中央に置かれた座卓に翔吾は背中からぶつかった。座卓は押しやられ、縁側と部屋の間にある戸にはめられたガラスにひびをいれた。
翔吾は水の漏れ出したビニールプールのように力なく崩れ落ちた。急に抵抗の意志を失った翔吾に対し村の男たちは不気味なものを覚え、警戒をしながら衛星のように取り囲むにとどめた。
翔吾は荒く呼吸をしていた。座ったままの姿勢で弱々しくふりあげた拳を畳に叩きつける。
涙はなかった。罵声もなかった。
ただただ畳を殴りつける。力なく、壊れた人形のように、機械的に、事務的に、ふてくされた子どものように、何度も、何度も――
「出て行きな」
男たちの後ろで、梶谷老女は両腕を組んで翔吾をにらみつけた。
「わけがわからないね。助けたと思ったら、今度は暴れだして。出て行きな。今すぐ、この村から」
「ちょっと待って。何があったの。事情を……」
「はいはい。委細承知いたしました。それではみなさん、これで失礼いたしますよ」
そそくさと三ツ谷は前にでると、翔吾の腕を取って廊下へ出た。
舞が何か言おうとしたが、三ツ谷は大きく首を横にふって制止する。玄関に出て靴を履いたところで、『待ってください』と声をかけられた。
シャツの胸元を鼻血で赤く染めた信一郎が、腹部に手を当てながらよろめくように近づいてくる。
信一郎は両膝をついて深く頭を下げた。
「このたびはわたくしたち家族を軽率な行動から救ってくださり、誠にありがとうございました」
身体を痙攣させながら信一郎は言う。
「落ちついたら、改めてお礼に伺わせていただきます」
「お礼って、暴行の?」
三ツ谷がひくりとほほを上げる。信一郎は頭を上げ、『存じ上げません』と声をはりあげた。
「暴行など知りません。わたしはただ、ひとりで転んでけがをしただけです」
「……はは。わかりました。どうぞ」
三ツ谷が財布から名刺を取り出して信一郎にわたした。
「こちらにご連絡をください。実はわたくしも、落ちついたら平井さんとお話ししたいと思っていたんですよ」
三人は梶谷家を逃げるように辞去した。ドアがぼこぼこにへこんだSUVに乗り込み、村を抜ける。
後部座席に押し込まれた翔吾は、糸の切れた人形のように黙り込んでいた。
7
「軽蔑しますか」
SUVが走り出してから三十分後、翔吾はエンジン音にかき消されそうな弱々しい声で言った。
舞は答えない。三ツ谷も答えない。裃村を出てからふたりはひと言も口にしていない。後部座席にすわる翔吾にはふたりがどんな表情をしているのか知り得なかった。
山道をくだり、市街地に出る。交通量の少ない深夜の国道を進み、SUVは吸い込まれるように二十四時間営業のファミリーレストランに入っていった。
運転席から舞が降り、三ツ谷と翔吾を待つことなくひとりで店内に入っていった。
「お腹が空きましたね」
大きくノビをしながら三ツ谷が言う。翔吾にとって意外なことに、その表情はほがらかだった。
「飢餓状態は正常な思考を妨げます。生存本能が顕著に働き、生きることに直結する短絡的かつ非理性的な選択を採りがちです」
「慰めているつもりですか」
「いえ。空腹を否定したに過ぎません。ピザ食べたいですね、ピザ。深夜のピザって、なんであんなにも美味しいんでしょう。背徳はいちばんのトッピング」
深夜ということもあり店内に客足は少ない。三杯ものアイスコーヒーをお供に参考書を開く学生。喫煙席で大きな笑い声をあげる不良たち。ソファー席にひじをついて船をこぐ中年男性が、身を起こして自身の顔をぺちぺちと叩き始めた。
舞は窓際の席に着き、注文用のタブレットをいじりだした。三ツ谷が『マルゲリータピザも~』と口にしながら席に近づいていく。
翔吾はトイレに向かった。水垢の跡が残る鏡に自身の顔を写す。脂ぎった肌に隈と疲労が刻まれた男の顔がそこにあった。右耳と首筋に赤い血がついている。梶谷つちえの家で足を切った男のものだろうか。シャツをめくり腹部を見る。数か所が青く腫れあがっている。ズボンの裾と右腕にも血がついていることに気づき、水で可能な限り洗い落とす。
「ひとを殴ったのは初めてだった」
痛む右手を見つめながら翔吾は言った。握りこぶしをつくると、骨がきしむ様な感覚が走る。
「どうして」
鏡の中の翔吾が問いかける。どうして。どうしてあんなことをした。誰も答えない。どうしてと問いかけることで心が救われた。答えを否定することで翔吾は救われた。問うことで行為者を客体化。否定することで行為者を客体化。欺瞞だ。翔吾は個室に駆けこみ嘔吐した。
口の周りをペーパーで拭き、何度もうがいをしてから翔吾は席に着いた。四人掛けの席には既に注文された料理が並んでいた。
「わたしたちには、関係ない」
舞はフルーツパフェをスプーンで崩しながら語りだした。
「ホテルオオルリでの出来事は、まぁたしかに、非日常的でエキセントリックだったと思う。だけど、わたしたちの目的は空に追いつくことであって、一家心中を試みる家族を救うことではない。ホテルオオルリでの出来事とそれに付随して生じたあれこれは、全部、わたしたちには関係ない」
舞の視線は翔吾に向けられた。翔吾は両手をテーブルの下に隠した。
「それで。どうします」
三ツ谷の声が空虚に響く。
三十秒の沈黙を経て言葉が紡がれる。言葉? 言葉ではない。うなり声だ。うなり声を発しながら三ツ谷がピザに手を伸ばす。舞は溶け始めたパフェのアイスを口に運んだ。
「とりあえず、ね」
三ツ谷はピザを取り分けた小皿を翔吾の前に置いた。翔吾は会釈をしてから食べる。一枚を食べ終えて、胃がぐるりと踊りだし、やっと翔吾は深く息を吐いた。
三人は食べた。黙々と食べた。パフェを食べ終えた舞は最期の一切れのピザを手に取る。何も言わずに三ツ谷は追加のマルゲリータピザを注文する。『何か丼もの』と翔吾が言う。三ツ谷はうなずき、『ごはんもの』のページを開いたタブレットを翔吾にわたした。
深夜四時の暴飲暴食が終わり、三ツ谷が再び『それで。どうします』と問い直した。
「ルピナスファームにも、ホテルオオルリにも空さんはいらっしゃらなかった。廃墟ブログのホテルオオルリのページを閲覧したのは、ただたんに廃墟に興味があったか、自殺の場所として参考にしただけかもしれませんね」
三ツ谷の言葉に舞と翔吾はうなずいた。
「他に、空さんの行き先は思いつきますか」
「思いつかない」
率直に舞は答えた。
「そっちはどうなの。思い出の場所とか、ないの」
舞は翔吾に訊ねる。翔吾は顔を背けた。舞はグラスに半分ほど残ったコーラをひと口で飲み干した。
「とりあえず、朝になったら家に電話してみようか」
舞はスマートフォンをテーブルの上に置いた。
「もしかしたら、ひょっこりと家に帰ってきているかもしれないし」
「それなら連絡をくれるでしょう」
翔吾が妥当な意見を口にする。舞は鋭利な一瞥で翔吾の意見を断ち切った。
三人は座ったまま仮眠をとることにした。ファミレスで眠ることはご法度なはず。だが店内は空いているからか、店員が注意しにくることはなかった。
時間が経った。
テーブルに突っ伏して眠っていた翔吾は、耳元で聞こえた陶器の擦れる音に目を覚ました。
「ごめん」
コーヒーカップの縁を撫でながら舞が言った。
重石をぶら下げたような腰の違和感を覚えながら翔吾は小さく身体を左右に振る。見ると三ツ谷はエアコンの稼働音のようないびきを鳴らし、座ったまま首を傾げて眠っていた。
「いま? あと十分で六時」
問われる前に舞が答える。朝の六時になったら五十鈴家に電話しようと三人は決めていた。
「……軽蔑しましたか」
数時間ぶりに翔吾が訊ね直す。
カップを持ち上げた舞の手が止まる。刃物のような視線を投げつけながら、舞は小さく舌打ちを放った。
「言ったでしょう。ホテルオオルリに関わるあれこれは、わたしたちの目的には関係ない。もう忘れなさい」
「関係ありますよ。だって、あれはぼくなんです。ぼく自身が原因で起きた、ぼくという存在それ自体の問題なんです。ホテルオオルリも、平井さんも本質的には関係ない。志摩翔吾という男それ自体が問題なんです」
舞は両のまぶたを親指と人さし指で抑えた。深く息を吐きながら言葉を探すように沈黙を紡ぐ。首元の乾いた汗が光った。
「たぶん、わたしたちは、今回の件が終わったら二度と会うことはないと思う」
テーブルの食器が揺れた。店の前の国道を大型トラックでも通ったのだろうか。
「今は、目的とそこから生じる利益が一致しているから行動を共にしているだけであって、互いに人間としての魅力は感じていないでしょう」
「まぁ、正直」
「よろしい。つまり、わたしたちは他人。ちょっとだけ関係を踏みこんだ、だけど関係性を数値化して四捨五入したら他人に収束される間柄。そんな人間がどんな人間だろうと、あんまり興味はない。いや、興味がないというより」
コーヒーに口をつけてから舞は言う。
「めんどくさい」
「さいですか」
「さいですの。他人の情緒を気にかけるボランティア精神はわたしにはない。若者らしく悩みたいならひとりで悩んで。まぁ、誰かと悩みを共有してもいいけど。少なくともわたしには声をかけないでね」
「舞さんは、空と似ていませんね」
六時二分前になって、三ツ谷が目を覚ました。数分早いが、舞はスマートフォンを手に取り、自宅に電話をかけた。
「もしもし。わたし。うん、朝早くにごめん」
両目を閉じ、額に手を当てながら舞は気だるい様子で言う。
「いや、見つかってない。うん。大丈夫。もしかしたらそっちに帰ってきているんじゃないかなって思って。うん。志摩くんもいるよ……は?」
舞は両眼を大きく開いた。
「連絡するつもりって、だったら電話くれればよかったでしょ。朝になってからって、そんな状況じゃないことはお母さんも……なにそれ。なんで、そんな大事なこと。本当、意味わからない」
舞はスマートフォンをテーブルの上に滑らせた。テーブルの上の水滴を弾きながら翔吾の手元へやって来る。テーブルから落ちかけたスマートフォンを翔吾は両手で受け止めた。画面には『自宅 通話中』と表示されていた。
『もしもし。舞。もしもし』
スマートフォンから女性の声が聞こえる。舞は席を立ち、ドリンクバーの方へ向かってしまった。
翔吾と三ツ谷が目配せを交わす。三ツ谷がうなずき、翔吾はスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし。あの、志摩です。おはようございます」
翔吾は口もとだけでくすりと笑った。こんな状況でも朝の挨拶を交わさない自分がばかばかしく思えたからだ。
『あ、あぁ。志摩くん。どうも、おはようございます。五十鈴です。舞は? あの子、怒ってた……』
五十鈴かすみの狼狽した声が聞こえる。
「どうしたんですか。連絡するつもりだったとか聞こえましたけど」
『えっとね。昨日の夜、十時くらいだったかしら。もしかしたら十一時に近い時間。うちに電話があったの。空からじゃない。榊原さんのところの夏江ちゃん……て言っても知らないわよね。ごめんなさい、おばさんも混乱しちゃって。そう。夏江ちゃんから電話があったの。夏江ちゃん、もうずいぶん長いこと会っていないのに、何とかしてうちの電話番号を調べて、家にある昔の電話帳を調べたり、同級生とかに声をかけたりね、それでやっと夜になってうちの電話番号がわかったそうなの』
「榊原夏江、ですか」
翔吾は記憶を探った。空がその名前を口にしたことは一度もない。おそらく。
『そう。それがね、なんと昨日夏江ちゃんのところに空が来たっていうの』
「え」
翔吾の声がぽろりとこぼれる。三ツ谷は目を細めてスマートフォンを見つめていた。
『もうね、夏江ちゃんもびっくりしたみたいだけどね、家にあげてお話しして帰っていったらしいんだけど、何だか様子がおかしくって、つまり、わかるでしょう。夏江ちゃんは心配になって、うちに電話してきたってわけ』
「あの、他には何か。空はその後にどこに行くとか、夏江さんはそんなことは聞いてなかったのでしょうか」
『さぁ……わたしは何も聞いてないけど』
「ちょ、ちょっとだけ待ってください」
翔吾はスマートフォンを耳から離し、三ツ谷の方を向いた。
「空が昨日、榊原夏江さんのお宅に来たそうです」
「誰です」
「ぼくも知りません。どうも、空のお母さんも知っている昔の知り合いみたいです」
「連絡先を聞いてください。その方から直接お話をうかがった方がよろしいかと」
翔吾は空の母から榊原夏江の家の電話番号を聞き出し、十桁の電話番号を復唱した。横で三ツ谷がスマートフォンを取りだし、翔吾が口にした数字を打ち込む。三つ目の数字を翔吾が口にしたとき、三ツ谷は『ん?』とくぐもった声を出した。
「ありがとうございます。こちらから一度、榊原さんに連絡してみます。もし何かありましたら、いつでも構わないので連絡をください」
『わかったわ……ねぇ、志摩くん』
かすみの声が小さくなった。
『なんだか、ごめんなさいね。空のことで心配をかけさせて、さらに舞の面倒まで見てもらって』
「そんな、大丈夫ですよ」
何が大丈夫だというのか。翔吾は痛む右手を空いた手でさすった。
『昨日も言ったけど、空のことはね、わたしたちはもう仕方のないことだと思っているの。あの子は苦しんでいた。わたしたち家族はその苦しみを理解せず、あの子の決断を止めることができなかった。もし志摩くんが空を見つけられなくても、志摩くんに責任なんてないんだからね。面倒になったら、舞のことは気にせず諦めて帰っていいから』
「……失礼します」
通話を終えると、三ツ谷が即座に口を開いた。
「埼玉ですよこれ」
自身のスマートフォンを差しだしながら三ツ谷が言う。榊原家の電話番号の市外局番は〇四八。埼玉県さいたま市一帯のものだった。
「空さんとわれわれは県境をひとつ挟んで近くにいたようですね。その情報が五十鈴家には昨夜のうちに伝わっていた。それを朝になるまで教えてくれなかったことに舞さんは怒ったというわけですか」
「教えてもらえれば、群馬県のホテルオオルリまで行く必要はなかったわけですからね」
「どうでしょう。榊原家を出てホテルオオルリに向かった可能性もありますから。まぁ、ともかく。榊原さんに電話をしてみましょう」
三ツ谷は躊躇なく電話をかけた。数コールで電話が繋がる。
「朝早くからまことに恐縮ですが……」
三ツ谷は懇切丁寧低姿勢に偽りの事情を説明した。自分は五十鈴舞の友人で、大喧嘩の末家出をした五十鈴空の捜索に協力していると。
「つきましては、一度お宅に伺って話をさせていただくわけにはいきませんか。はい。電話では細かい話は難しいかと。ええ、実は近くまで来ております。そんな、おかまいなく。すぐにおいとましますので。住所は……なるほど。はい、もちろんです。はい。ありがとうございます。では、後ほど、失礼します」
通話を終えた三ツ谷は閉じた口を横に伸ばし小刻みにうなずいた。
「榊原さんのお宅は熊谷市にあるそうです。家の場所は舞さんがご存じのはず。もし忘れていたら連絡をくれと」
「わかった」
いつの間にかテーブルの横に立っていた舞が言った。翔吾は魚のように背中を弾かせた。
舞はアイスコーヒーが並々と注がれたグラスを掴んでいた。立ったままそれをひと口で飲み干す。
三人は会計を済ませると、淡い朝陽が照らす国道を熊谷市に向けて南下していった。
「榊原さんとはどんなご関係なんですか」
後部座席の翔吾が訊ねた。
「幼なじみ」
運転席の舞は小刻みにハンドルを叩きながら言った。朝の国道は渋滞気味だった。
「熊谷市に住んでいた時の」
「埼玉に住んでいたことがあったんですか。初耳です」
「短い期間だったからね。お父さんが埼玉の大学で講師の仕事を始めたんだけど、二年くらい経ったら、東京の大学からもっと将来性のあるポストに誘われたの。埼玉の家は賃貸だったし、通勤するのも大変だからって東京にもどってきたわけ」
「ほぅ。五十鈴さんのお父様は大学の先生でしたか」
『知らなんだ知らなんだ』と助手席の三ツ谷がうなずく。
「夏江ちゃんは当時のご近所さんで、歳はわたしと空のちょうど中間くらい。わたしにも空にもすごく仲良くしてくれた。夏江ちゃんだけじゃない。あの子のお母さんもすごく親切にしてくれて、しょっちょうお宅にお邪魔してはお菓子をごちそうしてもらったな。引っ越してからも年賀状のやり取りをしていたし、夏休みにいっしょに遊んだことも何回かあった。中学生になってからは部活動で忙しくなって一回も会っていないけど」
舞の目元がかすかに哀愁を帯びる。どこかのトラックがクラクションを鳴らして、哀愁は霧散した。
「空はどうして榊原さんのお宅に行ったのでしょう」
「正直、見当がつかない。夏江ちゃんだなんて、まったくのノーマークだった。空……いったい、何を考えているの?」