第二章 ルピナスファーム
1
冷房のよく効いた車内。舞は細い指でハンドルをコツコツと叩いている。土曜日の午後。都心の国道は渋滞にみまわれ、幾台もの車が太陽に焼かれながらジリジリとした前進と停止をくり返していた。
舞は助手席の翔吾に目を向けず、車を走らせてからニ十分、カーナビの設定を依頼した以外にひとことも口を開かなかった。
翔吾は顔の向きを変えずに視線だけを動かしてあたりを見回した。ラジオか音楽をかけて沈黙を消し去りたいという誘惑があったが、それを舞に提案する勇気はない。無断でスイッチに手をかけるそれも。
前方の渋滞の中からクラクションの音が響いた。点滅する歩行者信号の下でアロハシャツ姿の男が怒鳴り声をあげている。周りの歩行者は無関心を装いながら視線をチラチラと送っていた。そんな歩行者にシンパシーを覚えながら翔吾は少しだけ腰を浮かしてシートに座り直した。
「夜になるね」
舞が言った。早口だった。
「思ったより渋滞。土曜日の午後だから仕方ないかな。高速に入っても酷いだろうね。下りだから、反対車線よりはマシだと思うけど」
カーナビにはルピナスファームまでの所要時間が表示されていた。四時間と五十分。現在の時刻が十四時四十分。到着は二十時頃になるだろう。
「空が家を出たのは二日前の夜。都心で夜を明かしてからルピナスファームに向かったとしたら、昨日の午前中には着いたことになるわ」
「ルピナスファームに着いてから既に二十四時間以上が経っているというわけですか」
「あくまでも可能性ね。どこかで寄り道をしている可能性だってある。都心で、大切なひとに別れを告げてから伊豆半島に向かった可能性だって」
「ルピナスファームの周りには建造物がほとんどないみたいですね」
翔吾は地図アプリを見ていた。
「そうね。駅からは遠く、周りは畑ばかり。コンビニも商業施設もなし。夜の帰り道は、道路にぽつぽつと街灯が並んでいるばかりで少しこわかったな」
「なるほど」
そこで会話は再び止まった。車は少しずつ進んでいるというのに、舞と翔吾の関係は遅々として縮まらない。
空と付き合っていた当時から、翔吾は会ったこともない舞に嫉妬していた。空は姉のことをよく自慢した。カッコいい。頭のいい。よくできたお姉ちゃんだと、嬉々として恋人に語った。翔吾は空の言葉を笑顔で聞きながらも、その笑顔の裏側では捨て忘れた生ごみのような感傷を抱いていた。
高速道路の入り口が見えてきた。横断歩道でSUVは一時停止する。四角いカバンを背負った子どもが駆け足で横断歩道を渡っていく。
「年を取るとさ」
舞がドアに頬杖をつきながら語りだす。
「いろんなことを諦めていくようになるんだ。自分の限界を知って、将来を見限って、『こんなもんか』をくり返すようになっていくの」
「まだそんな年じゃないでしょう」
「そんなことを語る年だよ。成人して、就職して、いっちょう前の大人として扱われるようになってから一定の期間を経て、三十代に近づいて初めて気づくんだ。自分は特別な存在じゃなかったって」
「特別な自分を諦めるという話ですか」
「特別じゃない自分も諦めるというべきかな。わたし最近ね、横断歩道を歩いていて、車が走ってきても足を止めないの。信号のない横断歩道。歩行者優先だから当然車が停まるんだけど、普通は車がスピードを出していたら『こっちに気づいていないんじゃないかな』と思って足を止めるでしょう。それをしなくなったの。車が走ってこようと、わたしはそのまま歩き続ける。未来に未練がなくなり始めているんだと思う。三十年近くかけて自分は大した人間じゃないことを自覚した。これからの人生には大したことは起こらない。特別じゃない毎日を送っていく特別じゃない自分が待ち受けている。だから、いいや。別に轢かれても、人生が終わっても、たぶんいいやって。自分から死のうとは思わないけど。なんていうか、年をとると少しずつ死のハードルが下がっていくの。飛び越えるのは楽になる」
「破滅的な考えですね」
「それはきみが若いから。まだ自分が非凡な人間であることを諦めてないからでしょう」
「ぼくは凡人ですか」
「たぶんね。だって世の中のほとんどは凡人だから。ハズレが多いからクジは成立するの」
荒川沿いの高速道路に乗り、西に向かってSUVは進んでいく。都心を出るまでは車の流れはスムーズだったが、多摩川を越えたあたりから少しずつ車が集まり始め、数十分後にはしっかりと渋滞の群れの中に収まっていた。
助手席に断りをいれることなく舞はSUVをサービスエリアに入れた。『小休止』と呟いてから車を降りる。大きく背中を反らしてノビをすると、舞は自動販売機の群れへと向かった。
翔吾の前を紺色の軽自動車が通っていく。車の後部座席には並んでアイスを頬張るふたりの子どもの姿があった。棒状のアイスを口にしていた短髪の子どもが隣の子どものモナカアイスを凝視していた。モナカアイスの子どもはそれに気づかず、窓の外にいる翔吾か、もしくは翔吾を含むサービスエリアの一背景を見つめていた。
トイレを済ませ、SUVの傍らで舞を待ちながら翔吾はスマートフォンに触れた。母親に今日は外泊する旨を伝える。ポケットにスマートフォンを戻すと、舞が戻ってきた。白いビニール袋にはそこそこの量の食料が入っていた。
「菓子パン。おにぎり。それと、常温でも食べられる食材」
袋の中からサラダチキンとゆで卵を取りだして舞は言う。
「夕食。兼、朝食の可能性」
太陽を追いかけるようにSUVは再び走り出した。
渋滞は少しずつ緩和されていき、少なくともSUVが道路上で一時停止することはほとんどなくなった。一定のリズムで進んでいく車の中、助手席の翔吾はゆっくりと眠気を覚えていき、『いけない』とほほを叩き、そして再び眠気に負け――
「よだれ」
舞の言葉で翔吾は飛び起きた。
片手でハンドルを握りながら舞はもう片方の手でティッシュを翔吾に差しだしていた。
SUVは山道を走っていた。山肌に隠れた夕陽が放つセンチメンタルな光が周囲を包んでいる。右手の方角に富士山の姿が現れる。カーナビによると、もう数十分で伊豆半島に入るところだった。
ティッシュでよだれを拭き、温かくなったペットボトルの緑茶を口にしながら、翔吾は声を押し殺して身体を伸ばした。
伊豆半島に入ってからは車の量は減り、SUVはスムーズに道路を走った。
「死にたいって思うこと」
ぼんやりと窓の外を見つめながら翔吾が語りだす。
「それ自体は、誰だって一度はあるでしょう。実行するかしないかで言ったら、ほとんどの人は実行しないまま終わるわけですけど。辛いことがあって、苦しいことがあって、いまの自分が存在することが耐えられなくなって、『いなくなりたい』って頭を抱えることは、誰にだって一度くらいはある」
「急にどうしたの」
「寝ているうちに考えていたんですよ。よっぽどの楽天家か、成功者でもないのに死への誘惑を感じたことがない人っていないはずです。それなのにぼくらは、他人の自殺願望にどうして抵抗を覚えるのでしょう。子どもの頃プロ野球選手になることを夢見ていた大人が、実際にプロ野球選手になれなかったからといって、子どもがプロ野球選手になりたいと夢見たら『非現実的だ。諦めろ』と言うでしょうか。いいえ。むしろ彼は、自分の過去を懐かしみ、自分が成し遂げられなかった夢を『この子どもなら叶えられるかも』と温かく見守るでしょう。その夢に同調するはずなんです。何故なら、自分もかつては同じ夢を抱いていたから」
「そういう理屈ね」
「こういう理屈です。自殺はいけないことかもしれない。ぼくらは自殺を望む気持ちに同調できる。それなのに、どうして他人の自殺はこんなにもイヤな気持ちにさせるのでしょう」
「容易に自殺が為される社会が健全なはずがない。社会的な動物である人間は、自殺を防止することで健全な社会を維持し、ひいては自己のアイデンティティを維持しているの」
「理論的ですね」
「嫌味っぽい」
「空想的なんですよ。社会的だとか、そんな乾いた言葉。言葉の上だけで生きている概念に何の意味がありますか。ぼくたちは生きている。ぼくたちが理解できるのは、本当に、それがあるって信じ得る概念は、肌で覚えることができるものだけです。石鹸の香り。生ごみの臭い。愛する気持ち。憎しみの感情。少しずつ動く夜空の月や、『明け』であり『宵』でもある明星。これらは、わかります。肌のレベルで理解できる。だけど社会的っていうのは、なんですかそれ。それっぽく語って、何となくの説得力を有しているだけの……あの、言い過ぎですよね」
「別に。続けて」
「やめておきます」
「それで、わたしは?」
「続けてください。他の理屈で反論を」
どうして他人の自殺はこんなにもイヤな気持ちにさせるのか。
「生きていて、いいことがあったからじゃない。自殺への意志を乗り越えて、苦しみながらも生き続けて、その結果、自殺が与えるであろう幸福以上の幸福を得ることができた。仮に自殺が幸福を与えるとしても、未来を奪うことは絶対。端的に言えば……生きていればいいことがある。自分の中にそんな前例があるから、自殺に否定的になるんじゃない」
「肌感覚で伝わりました。社会云々なんかより説得力があります」
「でもこれ、自分で言うのもあれだけど、どうなんだろう。その人の中に前例がなかったら自殺を推奨するってことだよね。自殺を諦めて、何かこれからいいことが起こるって期待していたのにそれがなかったら……他人の自殺を推奨することになる。『飛び降りなさい。生きていたっていいことなんて何もない。わたしが前例だ』。最悪」
「つまり、自殺を止めるひとっていうのは、幸せ者なんですね。よっぽどの楽天家か、成功者、もしくは一度は自殺を試みたが断念し、その結果得られた未来で幸福となった逸脱者。社会にはこの三パターンの人間が溢れていて、彼らは口をそろえて『自殺なんかしてはいけない』と絶対的な肯定的存在を自認しながら叫ぶわけです」
「自殺ってひとの心を蝕むね。この話題に触れていると、思考が毒されてくる」
夕陽がフロントガラスを介して車内に注がれた。舞はドアポケットからサングラスを取り出し、慣れた手つきでかける。翔吾は目を細く閉じる。舞の腕が伸びて、助手席の上部にある日よけを起こした。
「お腹空いていたら、後ろにあるもの食べて」
後部座席には舞が買ってきた『夕食。兼、朝食の可能性』が転がっている。
「ルピナスファームまでノンストップで行くから」
時刻は午後六時三分前。
カーナビにはルピナスファーム到着予定時間は午後八時と表示されていた。
2
最後に対向車線の車とすれ違ってから既にニ十分が経っていた。では伊豆半島の先端に向かうこちらの車線はどうかというと似たようなものだった。街灯の数は少なく、その少ない街灯も点滅をくり返しているものや、既に消えているものが珍しくない。夕焼けには陰がかかり始め、林に囲われたコンクリートの道路は濃紺色に染まっていた。
「ヨモツヒラサカ」
「もうすぐ着くよ」
翔吾の軽口に付き合うことなく、舞はハンドルを器用に曲げた。
カーブを過ぎると、左側にある陰鬱とした林が途切れ、広大な畑が広がっていた。だが畑には何も栽培されていないのか、一面に乾燥した土が広がるばかりだ。
そんな畑の後方に、横長の建物が現れた。畑と同じ乾いた色をした外壁に三角屋根が連なっている。
「あれが、そうですか」
「懐かしい。最後に来た時は既におんぼろだったけど、記憶に輪をかけてって感じ」
横長の建物の正面には学校の運動場くらいの大きさの駐車場が備えてあった。道路と駐車場の境には駐車係の詰め所とバーゲートがあったが、詰め所は窓ガラスが割られ中には酒瓶や菓子の袋が転がっている。バーゲートにはバーがなかった。
「車、停まってますね」
翔吾が言った。彼の言う通り、広い駐車場には数台の車やバイクが停まっていた。
「誰かいるのでしょうか。空……」
「どうかな」
SUVは一台の乗用車に近づいた。黒いボディの軽自動車。その軽自動車は側面に大きなへこみがあり、フロントライトは割れて内側の金属部が錆びていた。黒い塗装はところどころ剥がれており、車は全体をうっすらとした土汚れに覆われていた。この軽自動車だけではない。ざっと見たところ、この駐車場に置いてある車やバイクはどれも不法投棄されたもののようだ。
「ここなら車を捨てても文句を言う人はいないだろうからね」
ふたりは車から降り、横長の建物に向かって歩き出した。
陽はほとんど地平線に落ちており、あたりは宵の入り口たる薄紫の光に包まれていた。空には小さな雲が点々と浮かぶばかりで、それらよりも派手に輝く無数の星々が大地を照らしている。
舞は車内から懐中電灯を持ち出していた。点灯することを確認すると、無言のまま翔吾に渡す。翔吾は建物の窓ガラスに懐中電灯の光を当てた。かすんだ窓の向こうには暗がりが広がるばかりで何も見えなった。
建物の中央に六メートルはあろうかという巨大な鉄柵門があった。この門がルピナスファームの入り口らしく、横にはシャッターの降りたチケット売り場が並んでいた。
両開きの鉄柵門は右半分が閉じ、左半分が開いていた。足元には、切断された跡の残る錆びたチェーンが転がっていた。
「空……いますかね」
「どうだか」
「空ではないにしても、誰かいるのでしょうか。廃墟巡りのサイトに載るほどには有名な場所なんですよね」
「にっちが過ぎる需要だこと。交通機関も少ないし、わざわざ車を走らせてまで来る人なんて滅多にいないでしょう」
鉄柵門を抜けると大きな広場があった。
広場の地面は赤レンガとこげ茶色のレンガが規則的に並んでいた。レンガのすき間から大量に生い茂る覇気のない雑草がなければ、そしてレンガの全面に広がる土汚れを清掃すれば、施設の玄関口として最高の見栄えとなることだろう。
中央に立つ白く巨大な噴水には葉っぱやごみが浮かんだ雨水が溜まっており、黒く小さな虫が何匹も水面を漂っていた。
広場から三つの道が伸び、それぞれ異なるエリアに行けるようになっていた。道の入り口に看板が立ち、先にあるエリアの説明が書かれている。もっとも、中央の道の看板は、根元から折れてその場に転がっていたが。
それぞれの道は枯れ葉てて黄土色に変色した生垣で遮られていた。生垣は背丈よりも高く伸びており、周囲が見渡せない。長い道をしばらく進むと、前面に開けた空間が見えてきた。
「これは。なんともホラーな」
翔吾は懐中電灯をふり回しながら言った。懐中電灯の丸い光が円形に区画された花畑に当てられる。そこが花畑だとわかったのは、手前にそう書かれた看板があったからだ。区画の中に美しい花はなかった。そこには、乱雑に枝を伸ばし花弁を黄土色に変色させた無数の枯れた花が立ち並んでいた。
そんな花畑が石畳に沿っていたるところにあった。
「むかしは本当にきれいな場所だったの。色とりどりの花がところ狭しと拡がっていて。天国ってこんな感じなのかなって」
舞は天国の残骸に目をくれることなく、早歩きで奥へと向かっていく。
花畑が終わると、水場や石造りのかまどを備えた屋根付きの炊事場が現れた。炊事場の向こうには野球場ほどの広さの芝生が広がっていた。芝生はひざ下まで伸びており、黄色味を帯びたその中で小さな虫が跳びはねていた。
「キャンプエリア。懐かしい。ここにテントを建てて、家族四人で泊まったの。それで、この向こう」
きびきびとした足取りで舞はキャンプエリアを横断していく。キャンプエリアの周囲は生垣とはまた違う、背丈の高い草に囲われていた。
ルピナスファームを歩いているうちに、周囲はどんどんとうす暗く宵の匂いを濃くしていった。翔吾は舞の行く先を絶えず懐中電灯で照らした。
「空はここの花がキレイだって散々はしゃいでいたけれど、花以上に美しいって褒めていたものがあるの。それは、ねぇ。ここって、どこだったか覚えている」
舞は背中を向けたまま問いかけた。
「どこって。ルピナスファームでしょう」
「地理的に」
「伊豆半島の先端。つまりそういうことですか」
「つまりそういうこと」
キャンプエリアの端まで着くと、舞は懐中電灯をかかげ、壁のように並ぶ背丈の高い草に光を当てた。左手から右手へ、ゆっくりと流れるように光を動かす。
光の動きが止まった。草が乱雑に、左右に分けられている箇所があった。
草の奥で何かが動く音がした。すすり泣きのような声も聞こえる。
「空」
翔吾は思わず叫んだ。舞の肩を押しのけて、草をかき分けて進んでいく。
何メートルも続く草むらを翔吾は早足で進んだ。緑色の匂いが鼻腔に押し入る。まぶたに小さな虫が当たりこつりと音がする。肌を覆う汗が焦燥感を加速させる。心臓の鼓動。翔吾の視界の隅で背後から放たれる丸い光が泳いだ。そして、その光の先で何かが、黒い陰が、逃げるように、奥へ、奥へと――
草むらを抜け、翔吾は息を呑んだ。
ほんの数メートル先に夜空が広がっていた。
いや、ちがう。夜空ではない。夜空を映した海だ。飲みこんだ星々をさざ波で咀嚼する海面がそこにあった。海面のはるか先で弧を描く水平線が揺れていた。
――空はルピナスファームの花を愛していた――
翔吾は先ほどの舞の言葉を肌感覚で理解した。
――そして、花以上に愛していたのが、この海なのか――
草の途絶えた数メートルの地面をおいて、そこから先は崖になっていた。黒く大きな陰が崖に向かってよろよろと駆けていく。翔吾は黒い陰に飛びかかった。両手で掴みかかり、地面に転がる。
黒い陰は翔吾の腕の中でうめき声をあげながら暴れまわっている。翔吾は陰の腕を地面に押しつけた。
「翔吾くん!」
草むらをかき分け、舞が現れた。黒い陰に懐中電灯の光を当て、『空なの?』とつぶやく。しかし――
「わぁぁ! うぇ! うぇ! うぇぇぇぇん!」
白い光の中でうごめくそれは、ド素人の弾くコントラバスのような低い声で泣きわめいていた。
「空じゃない」
翔吾は男から離れ、荒い息を整えた。
「空じゃなかった……じゃ、誰?」
3
くまのぬいぐるみのように尻を地面につけながら、男は大声で泣きじゃくっていた。
舞が声をかけるも、男は濁音が混ざった涙声で応えるばかりで、何と言っているのか聞き取れない。翔吾はぬいぐるみ男が再び崖に向かって駆けだすのを警戒して、男と崖の間に立っていた。もっとも、百キロ近くはあるだろう男の巨体が勢いよくぶつかってきたら翔吾も崖下まで吹き飛ばされるだろうが。
ぬいぐるみ男は太っていた。
身長こそ翔吾と大して変わらない一七〇程度ではあるが、横幅は翔吾と比べならないほどに大きい。土汚れのついた白いワイシャツの下で丸い腹がふくれあがっている。グレーのスラックスも片足だけでバズーカの筒のように太かった。
黒く短い髪は汗にまみれのっぺりと頭にはりついていた。禿髪とまではいえないがボリュームが少なく黒髪の向こうに頭皮が透けるように見える。赤子のように泣きじゃくってはいるが、年のころは四十近くといったところだろう。少なくとも、翔吾と舞よりも年上であることは確実だ。
「さて、どうしようかな」
懐中電灯をふり回しながら舞が頭を上げた。懐中電灯の光が翔吾に向けられ、白い光の中で翔吾は顔をしかめる。
翔吾と舞は巨体の中年男性の自殺を止めるためにSUVを飛ばして来たわけではない。とはいえ、実際にひとりの男の命を救って『ではさようなら』と別れの言葉を残して立ち去るわけにもいかない。相手が子どものように泣きじゃくっているともなればなおさらだ。
では男が冷静さを取り戻すまでここに残るのか。ふたりがルピナスファームを訪れた目的は空の自殺を止めることである。いまこうして、いい歳をした男の泣きじゃくる姿を眺めている間にも、空はこことは別の崖からその身を太平洋に投げ出しているかもしれない。こんなところで足踏みをしている時間はないはずだ。
「おろがなごどだぁどおぼいますぅ!」
ぬいぐるみ男は翔吾に向けて両膝をそろえると、額を地面にこすりつけた。人生で初めて土下座を目の当たりにして翔吾は表情を歪ませた。
「ばだぐじ……ぼんとうばしにたぐなんで……でぼほがにどうじようもなぐって……」
「あの、とりあえず、ここから離れませんか」
翔吾はぬいぐるみ男に向かってそう言うと、男は『ば、ばい!』とおおきく頷いてみせた。
舞はといえば、うんざりとした様子で首の後ろを搔いていた。
舞と翔吾はルピナスファームのキャンプエリアにある木製のベンチにぬいぐるみ男を座らせた。泣き止みはしたものの、昂揚感が止まらないのか、ひくりひくりと身体を震わせている。
男の名前は三ツ谷卓也。東京都内に住む四十一歳のサラリーマンであるという。
自らの命を絶つためにルピナスファ―ムを訪れた三ツ谷であったが、断崖の上から海面を見おろした次の瞬間、全身が死の恐怖に包まれ自殺を諦めたそうだ。
都内から走らせてきた車に戻り(駐車場に停めてあった車のうち一台は三ツ谷のものであった)、一度は自宅に戻ろうとしたが、その途端、三ツ谷の脳裏に自殺を肯定的に捉える思考がよみがえった。
「自分はどうして死にたいと願ったのか。それはいまの生活が地獄だからです。東京に戻ること、日常に戻ることはわたくしにとって地獄を意味しています。そう思うと、車のキーを回すつもりにはなれず、気づいたらまたわたくしはあの断崖に立っていました」
三ツ谷はシャツの袖で涙を拭いながら話を続ける。舞は隣のベンチに座り、断崖の方に視線を転がしている。今すぐにでも三ツ谷を放って空を探しに行きたい様子だった。
「わたくしは……ふたつの地獄に挟まれたわけです。生きるに難し、死ぬに難し。どうしようどうしようと悩んでいるうちに、おふたりが参られた。こ、怖かった。こんな情けない自分を他人に見られるのが。そんな考えがわたくしの背中を押しました。飛ぼう。飛んでしまおう。それで、わたくしは海に向かって走り出したわけです」
――だけど――
「崖の端まで数メートル。今から足を止めても、身体に働く慣性はわたくしを崖下まで突き落としてしまう。そうなった時に、わたくしの全身にこれまで覚えたことのない本当の死を目の前にして生じる真なる恐怖が駆け抜けました。わたくしの命が失われる。わたくしという光がこの世から消える。いやだ。死にたくない。そう思ったつぎの瞬間、あなたがわたくしを抱きしめてくれたのです」
『ありがとうありがとう』と三ツ谷は繰り返す。翔吾は苦笑いをしながら舞に助けを求めようと横目を送ったが、舞はあいかわらず断崖の方を見つめていた。一陣の強風が舞のライトブラウンの髪を撫でて海へと流れていった。
「それで、おふたりはどうしてこちらに。ルピナスファームの関係者ではありませんよね」
三ツ谷が訊ねる。翔吾が口ごもっていると、舞が口を開いた。
「ひとを探しているんです」
「ひと? どうしてこんなところに……」
「では三ツ谷さんはどうしてこんなところにいらっしゃったのですか」
三ツ谷はほ『そんな』と呟いた。
「ここは……ルピナスファームは廃墟としてネット記事に登載されるほど有名で、だけど場所柄夜になると人気は少なくて。あぁそんな。ここでなら誰にも迷惑をかけることなく……ん? 待ってください。それって、何日前のことですか」
不明瞭な質問に翔吾は『は?』と乾いた声を返した。だが舞は三ツ谷の問いかけに意味を見出したのか、ベンチから立ち上がり彼に近づいた。
「自殺をすると言って妹が家を出たのは二日前の夜です」
舞が言った。舞の言葉を耳にして翔吾の心臓がドキリと跳ねた。
「二日前の夜に、東京にある家を出ました」
「ルピナスファームに行くと、たしかに?」
「パソコンの閲覧履歴にここのホームページが残っていました。ここは家族の思い出の場所なんです」
三ツ谷は首を横に大きく振った。
「妹さんはここに来ていませんよ。だってわたくし、二日前の夜からここにおりますけど、その間誰もここに来ていませんもの」
4
聞けば三ツ谷は、二日前の夜にルピナスファームを訪れて、それから何度も生と死の間の逡巡をくり返していたらしい。
「ほとんどの時間をわたくしは駐車場の車の中で過ごしていました。そりゃもちろん、ルピナスファームは広いですからね。見落とした可能性がないとも言えませんが、仮に妹さんが駐車場から入ってきたとしたら、わたくしが見落とすとは思えません。ルピナスファームは横長の建物が塀のように伸びていて、正面の鉄柵以外から中に入ることはできませんしね」
空がルピナスファームを訪れていない可能性はかなり高い。だが三ツ谷の示唆した通り、意図せず彼の目を盗んで園内に入った可能性はある。
「崖から身投げしていた場合は、空が来たかどうかは確かめようがない。だけど、それ以外の方法で……つまり遺体が残る方法で自殺をした可能性だって残っているでしょう」
舞のそんな提案から、舞と翔吾は園内を見てまわってみることにした。
「わたくしも手伝います」
三ツ谷はポケットから懐中電灯を取りだした。マジックペンのように小型だが、スイッチを押すと舞の懐中電灯以上に強力な光を発した。
「わたくしの車に、もう一本懐中電灯があります。お兄さんはそれを使って……あぁ、まだお名前をうかがっておりませんでしたね」
「五十鈴舞」
「志摩省吾です。……三ツ谷さん、ありがとうございます。これだけ広い園内、手伝っていただけると助かります」
駐車場に行き、三ツ谷は車から懐中電灯を取りだして翔吾に渡した。翔吾は車の正面に回り『わ』と声をあげた。
「アウディですか。三ツ谷さんってお金持ちなんだ」
「真の地獄に金の沙汰は関係ありませんよ。では行きましょうか」
「ストップ」
舞は前に突き出した自身の片手に懐中電灯の光を当てた。周囲は既に宵に染まり、懐中電灯の光の先以外のものはほぼほぼ暗闇に飲まれていた。
「ファームの中にいる間に、空がやって来る可能性はゼロじゃない。空の遺体を探すのに夢中になって、むざむざ空の自殺を許したら意味がないでしょう。駐車場に残って空が来たら止める役がいないと」
『なるほど』と翔吾はうなずいた。三ツ谷も首肯をくり返している。
「わたくしがやりましょうか? 空さんのお顔は存じ上げませんが、誰かが来たらすぐにおふたりにお知らせしますよ」
「正直。あなたをひとりにしたくない」
導火線に点火済みの爆弾を前にしたかのような口調で舞は言った。
「翔吾くん。残ってくれる? わたしと三ツ谷さんで中を回って来る」
舞の手案に『駄目です』と否定の意を示したのは三ツ谷だった。
「だめです。五十鈴さん。あり得ません。うら若き乙女が得体も知れない男とこんなうす暗いところで二人きりになるなんて、危機感が欠如していますよ」
「……乙女?」
翔吾がつぶやく。彼の尻を舞のミドルキックが強襲した。
「三ツ谷さん、至極まっとうなご意見をどうも。それじゃあ、翔吾くんと三ツ谷さんがここに残って、わたしが探しに行くということにしましょう」
「いえ。わたくしと志摩さんで中に行きましょう。長時間歩き回ることになりますので、女性の足には少し辛い」
「わかった。何かあったらスマホで連絡を」
舞と翔吾は既にスマートフォンでメッセージアプリのアカウントを交わしていた。当然、電話番号も。
三ツ谷が腕を大きく振りながらルピナスファームへ歩き出す。その後に続こうとした翔吾の腕を舞が握った。
「翔吾くん」
舞は三ツ谷の背中を見つめながら言った。
「……気をつけてよ」
「わかってます」
翔吾は手の汗をズボンにこすりつけた。
「志摩さんは五十鈴さんとどのようなご関係で? 無理やり連れてこられた恋人といったところでしょうか」
アトラクションエリアの一画にある平屋建てのレストランの前で三ツ谷が訊ねた。
もちろんレストランは閉鎖されており中は真っ暗だ。正面入り口のガラス戸には木板がバツ印に張りつけられている。
「空はぼくの元恋人なんです。久しぶりに空に連絡をとったら返事が来なくて、心配になって家を訪ねたら自殺って……」
「返事がないから家を訊ねた? 志摩さん、それはずいぶんと恋愛下手ですねぇ。普通は相手に嫌われると思いこんでそれでおしまいですよ。家まで行くって、正直こわい」
三ツ谷は正面入り口のそばにある窓ガラスに手をおく。鍵はかかっていた。三ツ谷は手ごろな石を拾い上げると、窓ガラスを叩き割った。かん高い音が静寂の夜に響く。歪に割れた窓ガラスに追撃を繰り返し、ガラスは枠のあたりに残った破片を残して砕け散った。
翔吾は突然目の前で行われた破壊行動をぽかんと口を開けて見つめていた。『どれどれ』と言いながら三ツ谷は窓ガラスの縁に片足を乗せようとするが、ウシガエルのような体躯のそれはちっとも上がらない。ふり返り『志摩さん。お願いします』と言った。
「中に入るのですか?」
「もちろん。空さんがいるかもしれない。探すなら徹底的に。これ探し物の鉄則」
「では、空はどうやって中に入ったのですか」
翔吾の言葉の意味を理解したのか、三ツ谷はガラス窓を割った石を足で押して草むらの中に隠した。
「あ。もともと窓ガラスは開いていて、中に入ってから鍵をかけたという可能性も――」
「ぼくには三ツ谷さんの方がこわいですよ」
ふたりは懐中電灯をふり回しながら園内全体をめぐってみた。空の姿はおろか、ひとっこひとり見当たらなかった。
「ご苦労さま」
舞はアウディのドアに寄りかかりながら戻ってきたふたりに行った。結果を尋ねるような野暮なことは口にしなかった。
「それではこれでわたしたちは失礼します。三ツ谷さん。自殺なんて、もうしないでくださいね」
「あ、あの」
背中を向けて歩き出したふたりに三ツ谷は大声で呼びかけた。
「本当にありがとうございました。おふたりがいなかったら今頃わたくしは死んでいました。何とお礼したらいいものか」
「もういいですって」
翔吾はふり返り、苦笑した。
「そういうわけにはいきません。お礼……あの、よろしければ手伝わせていただけませんか。ご一緒させてください。わたくしもいっしょに空さんを探します」
三ツ谷は『お願いします』と付け加えて身体を九十度の角度で折り曲げた。
翔吾は舞の表情をうかがう。舞は首を横に振っていた。
「三ツ谷さんにそこまでしていただく義理はありません。お気持ちだけ――」
「では、おふたりはこの後どちらへ行かれるおつもりですか」
三ツ谷は腰を曲げたままの姿勢で顔だけを上げて訊ねた。
翔吾は再び舞の表情をうかがう。舞はくちびるの端を軽く噛んでいた。翔吾は気づいた。ふたりがルピナスファームを訪れたのは、空のパソコンの履歴にルピナスファームの閲覧記録が残っていたからだ。それを見ただけでふたりは空がルピナスファームを自殺の場に選んだと考えた。だが違った。空は恐らくルピナスファームを訪れていない。ルピナスファームのホームページを見たのは、家を出る前に、家族との思い出の地を心に残したかっただけかもしれない。その気になれば『理由付け』という名の『解釈』は無限に生みだせるだろう。
インターネットの閲覧履歴をもう一度調べれば、空が自殺に選んだ場所が絞りこめるかもしれない。だが確実性は低い。
「おふたりは空さんのパソコンのホームページの履歴をもとにルピナスファームを訪れた。つまり、おふたりにとって空さんが訪れる場所の第一候補がここだったわけですよね。そしてその第一候補が外れた。では、次の候補はございますか。それはどこですか。失礼ながら第一候補が大ハズレに終わって、第二候補は、どうです。本当にそこに空さんはいらっしゃると思いますか」
三ツ谷の詰問に翔吾は言葉をのみこんだ。舞は無言のまま険しい顔をしている。
「はっきり申しまして、おふたりは空さんのことを何もわかっていない。『死にたい』という空さんの気持ちを理解することなくその背中を追いかけるなど無理があります。おふたりに必要なのは、希死念慮を抱いた経験と、それに付随する自殺に関する知識です。空さんの自殺に関する思考をトレースすることで、初めて追跡が可能となるのです」
「三ツ谷さんなら、それができると」
舞が言う。三ツ谷は力強く親指を立てて応えた。
「わたしにお任せを。どうか協力させてください。必ずおふたりを空さんに会わせてさしあげます」
舞は翔吾の腕をとり、タイヤのないトラックの陰に引きずり込んだ。
「どう思う」
声を抑えながら舞が訊ねる。
「説得力はありますね。ルピナスファームの次なんてぼくは考えていませんでしたよ」
「正直に言うと、わたしも。この後どこに行くのかって言われて、汗が引いたわ」
舞はトラックのボディを小刻みに指で叩きだした。
「ぼくは、空に会いたい」
「わたしだって」
「それなら、選択肢はひとつしかないでしょう」
翔吾はトラックの陰から顔を覗かせて三ツ谷の方を見た。三ツ谷はトラックの方を凝視していた。ふたりの視線が合う。三ツ谷は片手をあげてヘラヘラと笑った。
「わかった。三ツ谷さんの力を借りましょう。だけど、気をつけてね」
「えぇ。お互いに」
5
「おふたりの車はどれですか。なるほど、あのSUVですか。わかりました」
三ツ谷はアウディからボストンバッグを取り出すと、ドアノブに触れてロックをかけた。
「わたくしもSUVに失礼しますよ」
「アウディは置いていくのですか」
翔吾が訊ねると、三ツ谷は『言いたいことはわかる』とばかりに鷹揚に両手をふってみせた。
「ひとつ。われわれは時間をかけて作戦会議をする必要があります。わたくしは自殺に関する情報を提供し、おふたりは空さんに関する情報を提供する。一台の車に全員が乗れば移動しながらの作戦会議が可能となります。つまりは時短ですね」
「アウディではなくSUVに乗る理由は」
「それがふたつめ。アウディは高級車です。わたくしの経験上ですが、この車は人を惹きつけることが多い。サービスエリアなどに停まった際に、声をかけられることなんてざらです。われわれは急いでいる。少しでも時間を取られるリスクを避けるためにはSUVに乗るべきです。それに、すべてを終えたあとSUVを取りに伊豆半島まで戻るのは嫌でしょう」
「お気遣いどうも」
舞はフラットな口調で応えてSUVに向かった。運転席に乗り込み、エンジンをかける。助手席には翔吾が、後部座席に三ツ谷が乗り込んだ。
「うわぁSUVだ。広い広い」
車が好きなのか、三ツ谷は子どものように車内を見回している。後部座席に置かれたノートパソコンを手に取った。
「このパソコンは?」
「空のものです。家から持ってきました」
翔吾が答える。三ツ谷は助手席の翔吾にノートパソコンを渡した。
「どうぞ。赤の他人が個人情報の塊であるパソコンを覗くわけにはいきませんから」
「それより、どこへ向かえばいいの」
運転席から舞が訊ねる。しばらく北に向かうよう三ツ谷が応えた。駐車場を出て、街灯の少ない道路に入る。
「考えてから動くのでは時間がもったいない。考えながら動くことにしましょう。ここは伊豆半島の最南端。北上するに越したことはありませんからね。志摩さん。そちらのパソコンにルピナスファームの履歴が残っており、それを根拠におふたりは伊豆半島くんだりを訪れた。そうでしたね」
「はい」
「ルピナスファームは空さんにとっては思い出の場所であり、そんなルピナスファームはインターネットで調べると、なるほど今は閉園して廃墟と化している。伊豆半島の最南端とアクセスも良好とは言えず、人もいないだろう」
「単に死ぬだけなら自室で首を吊るなり、駅のホームから飛び降りるなり、伊豆半島を訪れるよりは簡単な方法があったはず」
歯に衣着せぬくちぶりで舞は言った。
「だけど空は他人に迷惑をかけることなくひっそりと死ぬことを願っていた。だからルピナスファームを訪れた。それがわたしたちの推理。どう。空と同じ自殺志願者の立場から、おかしな点でもある?」
「元・自殺志願者です。それを止めたのはおふたりだということはお忘れなく。本当に。うん。そうですね。おかしな点はありませんよ。おふたりがルピナスファームを訪れた理由も、よくよく理解できます」
「結局、見当違いだったわけだけどね」
「見当違いだとは思いません。見当は当たっているはず。自殺志願者は頑固です。自分が理想とする自殺の方法論に対してフレキシブルに対応することはありません。一世一代死出の旅路。文字通り命を懸けるわけですから『これ!』と決めたら譲りません。もっとも、実際に死を前にして躊躇することは多々あるわけですけどね。ここに実例がひとり」
「つまり、空はルピナスファームとは別の、誰の迷惑にもならない場所を死に場所に選んだということですか」
翔吾が言った。三ツ谷はうなずく。そして舞は、バックミラー越しに後部座席を一瞥した。
「志摩さん。パソコンの履歴をもう一度調べてください。ひと気のない、空さんの望む自殺に適した場所を探すのです。候補地があったら、口に出して五十鈴さんに伝えてください。五十鈴さんと志摩さんはふたりでその候補地に空さんが行ったことがあるのかどうか思い出してください。もし空さんがその場所に行ったことがあるなら、つまりは土地勘があるのなら、死に場所としては最適。われわれはそこを目指すことになります」
翔吾はノートパソコンのキーボードを叩いた。インターネットの閲覧履歴を遡る。
「空さんはどちらにお住まいでしたか」
運転席のシートを両腕で掴みながら三ツ谷は訊ねた。
「文京区のアパート。もっとも、足立区の実家に来て、自殺のことを家族に伝えてから姿を消したけど」
「足立区。厳しいですね。北関東や千葉県の方に向かった可能性もありますし、皇居を飛び越えて神奈川県へ向かった可能性もあります」
「そこら一帯の自殺の名所を調べてみますか」
「結構です」
三ツ谷は片手をつき出して首をふった。
「これまでのお話をうかがうに、空さんは、少なくともこの自殺の件については、至極冷静に判断しておられる。希死念慮を抱いた普通の人間は、その意志を親しい人間に直接伝えるなんてことはしません」
「本当は死ぬ意志がないということですか」
「いえ。むしろわたくしには確固たる意志を感じます。死ぬこと意外では自身の苦しみからは逃れ得ない。自殺こそが自身の活きる道と確信したからこそ、ご家族にお別れを告げたのです。たしかに、同じことをする自殺志願者は少なくありません。ですが、その多くの場合は、家族に止められることを願って自殺の意志を口にするのです。『死にたい』と言ったら止めてくれるから、間違っているはずなのに限りなく正当に聞こえる希死念慮を自分に代わって否定してくれるから伝えるのです。だが空さんは違った。ご家族の止める声を意に介さず死地に向かったということは、自身の中に確たる意志が――」
「止めていない」
舞が言った。叫び声に近い声量で。むしろ哭いた。
「わたしたち家族は空を止めなかった。自殺したいと言ったあの子を、止められなかった」
「ご家族なのに、止めなかったと。それはいったい……」
翔吾はパソコンを叩く手を止めて舞をうかがった。うす暗い車内の中でもわかった。舞は両眼に涙をかすかに溜めていた。舞はすぐにそれを拭う。
「空の家族は空の意志を認めたんです。自由意志。そのひとがしたいと欲することを何人たりとも侵害することは許されない」
「だから、自殺の意志を認めたということですか。なんと……なんとまぁ。恐ろしいご家族があったものですねぇ」
「自殺しようとした人間が何をえらそうに」
「自殺を図った人間だからこそわかることもあるのです。五十鈴さん。ご家族から自殺を是認されて、空さんはどのようなご様子でしたか。泣いていらっしゃいましたか。ショックを受けて呆然自失?」
「笑っていた」
舞が言った。瞬間、翔吾の脳裏に空の笑顔が映った。過去の笑顔。大学の構内。水曜三限終わりの待ち合わせ。廊下のベンチに座り、帽子のつばに手を置き、少しだけ角度を変え、そして、そして、自身に向けて放たれた、太陽のように、暖かい、あの笑顔。
「あの子は。笑って、感謝の言葉を、まるで誕生日プレゼントをもらった時のように」
「……なるほど」
三ツ谷が靴を脱いでシートの上に両足を乗せると、両足を抱え込み丸い身体をさらに丸くした。
「これは存外。至極存外。わたくしの予想よりも存外だ」
三ツ谷は中指の爪をかじりながらつぶやいた。
「とはいえ、とはいえ、とはいえか。えぇ。なるほど。わかりました。空さんは冷静なようですね。冷静に自らの死を願っている。死を願うことが異常なら、そこに『冷静さ』という異常を掛けて正常と化したということでしょう。まぁ異常を経ての正常なんてろくなものではありませんが、わたくしたちにとっては悪い話ではありません」
「身内が死を願って、悪いに決まっているじゃない」
舞が口を尖らせる。三ツ谷は『まぁまぁ』と両手をつき出しながら語りだす。
「空さんが冷静さを失っていたら、それはつまり衝動的に行動する可能性が高いということになります。衝動的な人間の行動を予想するのは難しい。すくなくとも、冷静な人間の行動を予想するよりも数倍は難しい。空さんが冷静ならば、我々もまた冷静に彼女の思考をトレースすればよい。冷静な頭で空さんが選んだ死に場所を予想するのです」
「やっぱり自殺の名所を調べたほうがいいんじゃないですか。ネットで検索すると、全国の有名な自殺場所が出てきますよ」
翔吾が訊ねる。だが三ツ谷は『うぅん』と否定的なうなり声を発した。
「『自殺』の枕詞で有名な場所ほどひとが多くその遺体が発見されるものです。福井県の東尋坊などは自殺の名所として有名ですが、それ故地元住民が毎日のように自殺防止のパトロールをしているそうです。興味本位で訪れる観光客も少なくないようですし、有名なところで迷惑をかけずに死ぬのは意外と難しいんですよ」
翔吾は検索バーに『東尋坊』と打ちこんでみた。サジェストの一番目に『東尋坊 飛び込み』と出てくる。画像検索をかけると、水面にそびえ立つ岩壁の姿が何枚も現れた。プロが撮影したであろう眺望絶佳な写真もあれば、素人によるものとしか思えない雑なショットのものもある。なるほど。たしかにこの場所は人が多そうだ。
「仮にひと気のない真夜中に飛び込んだとて、上手く海面にたどり着かず岩の上に転がり落ちたりすれば、朝にはその遺体が発見されます。水面に落ちても、こんな岩だらけの場所で上手く沖に流される保証はありません。この場合も朝にはその遺体がぷかりと浮かんで発見されることになります。とにかく、人がいるところで他人に迷惑をかけずに死ぬなんてのはどだい無理な話なんですよ。これは、自殺について少し考えればすぐにわかること。冷静な空さんだってすぐに気づいたでしょう。志摩さん。名所はパスです。空さんは賢い。それがわたくしどもの大前提です」
「名所じゃなし、関東圏、ひとの迷惑にならずに死ねる場所……」
翔吾は押し黙った。数分後。翔吾は『ここなら』ととある場所の名前を口にした。
「家を出る二日前に空はこのページを見ていました。個人のブログです。コメントもいいねもほとんどゼロ。写真を登載するだけの素人のアルバムみたいなブログです」
「拝見します」
三ツ谷は身を乗り出してノートパソコンを受けとった。
「なるほど。ひとが集まるような名所じゃなし。関東圏。場所は……山中。いいですね。中もボロボロ。ホテルの名前で検索しても……全然ヒットしない。無名ですね」
「どこ」
舞が訊ねる。SUVがゆっくりと加速していく。
「前橋市。赤城山付近にある廃墟『ホテルオオルリ』。急ぎましょう」