第一章 自由の家
1
六月。志摩翔吾は新卒で入社して二年と二か月の間勤めてきた会社を辞めると、神奈川県にある実家を訪れ、無職となった旨を母に報告した。
翔吾の意に反して母は息子を責めたりはしなかった。翔吾にはそれが意外に思われた。
翔吾の父は翔吾が二歳の時に交通事故で亡くなった。以来母は朝から夜まで働き女手一つでひとり息子を育て上げてみせた。母は人生の比率を労働に重くおくタイプの人間だった。どんな会社だろうと、二年で学べることなんてたかが知れている。お前は社会の厳しさを知る前に、誰もが経験する労働の苦しみから逃げ出した落伍者だ。そんな悪言を覚悟しながら翔吾は実家の勝手口を開いた――というのに。
「いまはどの会社も人手不足だからね。よっぽどのこだわりを持たなければすぐに働き口なんて見つかるよ」
息子のグラスにビールを注ぎながら母は言った。
二年間の社会人生活で身につけた愛想笑いを存分に発揮して翔吾は母子の調和を維持してみせた。
一番風呂から出て高校を卒業するまで使っていた自室で横になると、スマートフォンを取りだし学生時代の友人たちに連絡をとった。メッセージアプリに溶けかけたアイスのようにゆるい言葉のラリーが続いていく。
大学時代の友人が空のことを教えてくれた。五十鈴空。翔吾のかつての恋人もまた、アパートを解約し地元に帰ってきていると。
翔吾は枕の上で頭の角度を変え、深呼吸をしてから空にメッセージを送った。『久しぶり』で始まるどこか格式ばった文章を読み直す。翔吾はメッセージを送ったことを後悔した。後悔と同時に自己弁護も。
翔吾はわかっていた。自分の人生は停滞している。大した学歴もない。誇れる資格もない。胸を張れるほどの職歴もまた。それなのに自分は無職となった。母はああ言ったが再就職できる自信はない。いや、仕事を選ばなければ就職自体はできるだろう。だがそれで、前職よりも劣悪な職場となっては意味がないではないか。よりよい就職。よりよい給料。よりよい人生。そこに至る自信がないのだ。
自分は特別な人間ではない。どこにでもいる、いくらでも替えの効くつまらない男だ。
将来が不安で仕方がない。自分の人生は停滞している。そんな停滞の背中を押すために、ビリヤードの手玉のような一撃を翔吾は欲していた。刺激。自身の芯を揺らすような刺激的な一撃があれば、自分は歩みを進めるにちがいない。かつての恋人とのコミュニケート。十分すぎるほどの刺激が期待できるではないか。
天井に向かって両目を見開き、翔吾は自己嫌悪のうなり声を発した。自分は空を、かつての恋人を利用しているだけだ。刺激が欲しいから。洋画に出てくるような、麻薬を欲するティーンエイジャーと変わらないではないか。
返信は来ない。
既読のマークも表示されない。
もう一度うなり声を発してからスマートフォンを枕の下に隠す。部屋を出て、母親が寝室に行っていることを確認してからリビングでテレビを観始めた。日付が変わったころになってとろりとあくびが漏れ出す。翔吾は自室に戻り、白い枕を見てその下に隠してあるものを思い出した。うなり声。スマートフォンを起動する。メッセージアプリ。既読のマークは相も変わらずなし。枕元ではなく、ベッドから離れた机の上にスマートフォンを置いた。
翌朝。翔吾が目を覚ますと、既に母は仕事に出かけていた。
目玉焼きとウィンナーが盛られた皿を電子レンジにかける。テレビの中では天気予報士が太平洋で発生した大型台風の危険性について語っていた。明日の夜遅くには近畿地方に上陸し、日本列島を北上していくとのことだった。就職していた時は通勤のことを考えて憂いていた悪天候も、無職となったいまはどこか他人事のように聞こえた。
天気予報士の活舌のいい声を聞き流しながら、さて今日はどうしようかと考える。台風の影響は関東地方にはまだ届いていない。外はよく晴れていた。
足の赴くままに近所を散策してみようか。通っていた小学校まで行きノスタルジーに浸るのも悪くない。学校そばの駄菓子屋はまだあるのだろうか。すべての遊具がショッキングピンクに彩られた不気味な公園を訪れるのもいい。
――ちがうな――
翔吾が欲していたものは刺激だった。
だから翔吾はバスに揺られた。だから翔吾は普通電車に包まれた。約四十分をかけて、過去に数回訪れただけの町に来た。歩くスピードを落とし、視界の隅に瓦屋根の重厚な日本家屋をとらえる。小池のある庭に沿って走る縁側。太陽光がよくふりそそぐであろう大きな窓。玄関前の軒下には、住人のいないツバメの巣が残っていた。
ひと気はない。家にも。翔吾の周囲にも。
だから翔吾はじっくりと時間をかけてその家を見つめた。
留守のようだ。口の中でくすりと笑い、踵を返そうとした時、玄関の引き戸が開きポロシャツ姿の初老の男性が現れた。
翔吾の口からすっと空気がこぼれ出た。そこにいたのは、空の父だった。靴が上手くはけないのか、ドアに手をつきながらコンクリートの床につま先を当てている。以前出会った時よりも白髪の量が増えていた。だがその両目は、空に似たその両目は……両目は……表情には……どこか翳りが落ちていて――
空の父は翔吾の姿に気づいた。
呆けた様子で口を開きながら翔吾に近づく。鉄扉を開け、翔吾の肩を軽く叩いた。
「これも運命ってやつかな」
久しぶりの再会にしては奇妙なひと言であった。
翔吾は空の父――五十鈴登に家の中に招かれた。玄関で登が空の母――五十鈴かすみの名前を呼ぶ。掃除でもしていたのか、ロングティーシャツの袖をまくっていたかすみは、翔吾の顔を見るなり『まぁまぁまぁ』とかん高い声をあげた。
大学二年生の夏、今から約四年前に翔吾はこの家を訪れた。
夏休みの間実家に帰ることにした翔吾に空は自分の実家に遊びに来ないかと提案した。互いの実家に距離はあるが、同じ横浜市内にある。両親には既に翔吾のことを話している。何も堅苦しく思うことはない。ただの挨拶。気軽に、どうかと。
翔吾は抵抗を覚えた。空の両親と会うのは早計だと思われた。自分には空と結ばれる覚悟がない。だが空の提案は懇願に変わり、翔吾は五十鈴家を訪れた。
結果として翔吾は五十鈴家のことが好きになった。空の両親は翔吾に対して付かず離れずの最適な距離感をもって接してくれた。近隣の大学で教授職を務める登に、自身が与えられたことのない父性を感じた。専業主婦として夫を献身的に支えるかすみにも、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
その後も数回、翔吾は五十鈴家に招かれて食卓を共にした。だがその年の冬に翔吾と空は破局に至り、翔吾と五十鈴家の関係も切れた。
客間に通された翔吾に登とかすみはぎこちない様子で茶菓子をふるまった。冷房が稼働音を発しながら六月の湿気に抗うよう必死に室内を冷ましている。居心地の悪さを覚えながらも翔吾は勧められるがまま茶菓子を口にした。
「あの」
翔吾が口火を切った。
「空は」
登は視線を手の甲に落とした。かすみの視線もまた登のものと重なり、夫の手の甲に落ちていく。
「知らないみたい」
ぽつりとかすみがつぶやく。『そうか』と登も同調した。
「えっと。昨日の夜、空のスマートフォンにメッセージを送りましたが、返事が来ませんでした」
「申しわけない」
「怒っているわけでは。ただ、ぼくもこうして地元に帰ってきているわけでして。地元を離れたふたりが意図せずほぼ同時に地元に帰ってくるなんて、とにかく一度会いたいと思っただけなんです。あの、空はどこに。出かけているんですか」
「空は、あの子は。きみはどうして……」
トーンダウンした登の声が固まった。翔吾は言葉の続きを探すように室内を見渡した。
「空はもういないよ」
半開きのドアのすき間から、細身の女性が顔を覗かせた。
ライトブラウンの髪を頭の後ろで無造作にまとめている。妖精のように長い耳が髪に触れていた。細く開かれた一重の両目。その周りには数本の皺が走っている。くたびれた灰色のスウェット。白い裸足がワックスで光るフロリーングをこすっていた。
翔吾が彼女に会うのはこれが初めてのことだった。空には姉がいた。ひと回りちかく離れた姉がひとり。五十鈴舞。空は言っていた。自分と姉は似ていない。翔吾は思った。なるほど、たしかにと。
「アパートに帰ったのですか。解約したと聞きましたけど」
空の姉は『ちがうよ』と冷たく言う。
「空はどこかに行った。自殺するために、死に場所を求めてこの家を出て行ったよ」
2
発端は登の父、五十鈴健一の逝去にあった。
一か月前、健一が亡くなった。
死因は老衰。御年八十五歳での大往生に、葬式の場では故人が祝いの場やスピーチの席で好んだ一本締めが行われた。
五十鈴家は著名な学者を多く輩出してきた一族であり、健一自身もまた国際的に名の知れた政治学者であった。
志操堅固な健一は当主として五十鈴家の実験を握り一族を意のままに操ってきた。登が六歳の時のことだ。野球に興味をもった登少年は母親にグローブとバットが欲しいとねだった。それを聞いた健一は息子を怒鳴りつけた。男がかような児戯に勤しむとは何事か。次の休日、登少年は健一に山に連れていかれた。健一は狩猟用ライフルで鹿を撃ち殺し、山のふもとの解体場で登少年に鹿を解体させた。泣きながら鹿の体にナイフを滑らせたことを登は昨日のことのように覚えている。男らしさを叩きこむため。そんな理由で健一は登が高校を卒業するまで毎週のように自身の趣味につき合わせた。本人の意に反して登は狩猟の才能に優れていた。幾匹もの獲物を捕らえ、幾匹もの獲物を愛用のナイフで解体した。やがて登少年は自身の履歴書の趣味の欄に『狩猟』と書かざるを得なくなった。
進学先にまで健一は細かく口を挟んできた。登が大学進学時に生物学の門戸を叩いたのは彼の意志によるものではない。当時健一は国際的な評価を得ているとある生物学者とのパイプを欲していた。その生物学者が所属する大学に我が子を進学、研究室に所属させ、登は見事にパイプと化した。
登が抗うことはなかった。むしろ彼は『自分は生物学を愛している。高名な学者の元で学ぶことができ、また父の役目に立てるとは』と自己暗示をもって期待に応えてみせた。
健一の強権は子ども達の進路に留まらず、恋の領域にも及んでいった。子ども達が恋慕の感情に目覚めると、五十鈴家と並ぶ名家から都合のよい相手を見繕い子どもたちにあてがった。
進路や配偶者に留まらず、買う家や車、食事の席に至っては家族の注文にまで健一は口を挟んできた。二言目には『五十鈴家にふさわしくない』とケチをつけ、自分の意見が介在しない結論を認めようとはしなかった。
そんな健一が死んだわけだ。
「わたしたちは盲が解かれた」
興奮を押し殺しているのか、登のまぶたはかすかな痙攣をくり返していた。
「他人を縛り付ける権利なんてものは誰にもない。誰にも、神にだって、そんな権利はないんだ。人間は個々人の自由意志によってこの世界を生きていく力をもっている。動物のように子孫繁栄を第一に考えるのではなく、理性と思考によって自分という『個』の存在が望む道を選ぶことができる生き物だ。人間の特別性がそこにある。人間の優れた一面がここにある。人間は自由であるべきなんだ」
「だから止めなかったというのですか。空が、自ら命を絶つことを望んだというから、それが自由意志だと」
「その通りだ」
沈黙の帳が室内に落ちる。憎たらしいほどよく晴れた青空から降りそそぐ陽の光に室内は浸されていった。
「おかしいと思いませんか」
翔吾が訊ねる。感情に振り回されないよう、声を荒げないようにと意識して。
「家族が、実の子が自殺を望んで、それを止めないなんて」
「思うよ。だがそれ以上に、わたしたちは父のようになるのが怖かった。翔吾くんはわたしの父に会ったことがなかっただろう。あれは魔物だ。他人に有無を言わさぬ不思議な力をもっていた。憧れたことは一度もないよ。それよりもわたしたちは自由を望んでいた。自由意志を尊ぶ社会集団を望んでいた。どんな判断だろうと、本人が強く心に決めたというのなら、実の家族でも口をはさむ権利はない。自由意志を侵害する権利なんてものは存在しないんだ」
翔吾はテーブルの下に両手を隠し、ズボン越しに膝を強く握りしめた。反論を試みようと思考を巡らせるが、感情的な言葉の他にのどもとにこみ上げてくるものはない。五十鈴家の判断は間違っている。家族が死を望んだからといって、それを容認するなんて。だがどうして。自殺を望む自由意志を侵害する権利とはなんだ。自らの命を、自らの意志で、自ら断つ権利をどうして空に与えてはならないのか。
「いつ出て行ったのですか」
「二日前の夜に」
「理由は。どうして空は自殺しようと」
翔吾の問いに登は首を横にふった。かすみは静かに頭を伏せる。
「聞かなかった。だがその意志は固いと、冗談で言っているわけではないと本気でわたしたちに語りかけてきたよ」
「何か病気にかかったんですか。完治が見込めない難病にかかって、それで人生に絶望したとか」
「ない」
ドアにもたれかかる舞は、突き放すような口調で言った。
「あの子は病気になんてかかっていない」
「それじゃあどうして」
「とにかく、本人が死を望んでいた。どこか遠くで、ひとの迷惑にならないところで最期を迎えたいと。まだ何か聞きたいことあるの」
「舞。そんな失礼な言い方――」
「いえ、いいんです」
翔吾は口を尖らせて制する。
「よくわかりました。せっかくの休日を邪魔してしまい申し訳ありませんでした」
翔吾は立ち上がり、登とかすみに頭を下げた。ドアの方に向かい、舞にも軽く会釈をする。
「空を捨てたくせにさ――」
ドアの取っ手に手を置いた翔吾に舞が言う。
「――他人が口を挟まないでよ」
翔吾の脳裏を空の姿がかけめぐる。ベランダで黒髪を乾かす空。薬箱から体温計を取り出す空。トランプのジョーカーを苦々しく床に叩きつける空。翔吾の飲みかけの缶ビールを口にして、『苦い苦い』と顔をしかめる空。
たった二年間の恋人だけど、大切な二年間の恋人だった。
二年間の恋人は他人に成り下がっていた。
だからこそ気づいた。翔吾は気づいた。他人だからこそできることがあるのではないかと。
「ぼくは空を探します」
翔吾は言った。空の家族に伝わるように、力強く。
「二日前の夜に出たというなら、まだ命を絶っていないかもしれない。ぼくは空を探します。空を見つけて、自殺を止めてみせます」
「きみ。そんなことは」
「ぼくの自由意志を侵害するつもりですか」
翔吾はふり返り登に言った。登は言葉を飲みこみ、弱々しく椅子の背もたれに手を置いた。
「わかっているんでしょう。みなさんだって、自分達の判断が間違っているって。間違っているから、自分の選択に自信が持てないから後ろめたい感情を抱いているんだ。おじいさんが亡くなって喜んでいるのかもしれないけど、今のあなた達は手綱から放たれた競走馬みたいなものです。どこに行くべきかもわからず、身勝手に走り回るだけの暴れ馬と同じだ」
「自由意志は……」
「たぶん。何も変わっていませんよ。おじいさんに代わって、自由意志、それに操られているだけなんです」
翔吾は部屋を出た。速足で廊下を進み、スニーカーを足に引っ掛けながら玄関を出る。
「待って」
背後から舞の声がした。
翔吾は鉄扉を開けて道路に出た。背後からサンダルの音が追いかけてくる。炎天下の中を翔吾は駆け出した。五十鈴家の敷地外に出て、そのテリトリーから外に出て翔吾は冷静さを取り戻していた。
「やっ」
舞がひと声あげると、翔吾の後頭部にサンダルが当たった。衝撃に翔吾はその場にうずくまる。近寄る足音。おぼつかない足取りでコンクリートを進む翔吾の背中を舞が掴んだ。
「わたしも手伝う」
「……何を」
後頭部をさすりながら翔吾が言った。
「ふたりで一緒に空を探そう」
3
ふたりは駅前にある喫茶店に入った。アイスコーヒーとクッキーを注文し、窓際の席に座るまでに交わした言葉は『喫茶店に行こう』、『はい』、『財布わすれた』、『はい』の四つだけだった。
「本気なの」
舞が言った。その手にはざらめ糖のクッキーがつままれていた。
「その場のノリもありますが、概ね本気です」
「正直者だね。わたしの嫌いなタイプ。でもそんな暇あるの。仕事は」
「先日仕事を辞めまして、無職なんですよ。就職活動も始めていませんし、時間はたっぷりあります」
翔吾はアイスコーヒーを飲む舞を見た。家を出る際にスウェットの上だけを脱ぎ捨ててきたらしい。無地のティーシャツにうっすらと汗のシミが広がっていた。
「空が家を出たのは二日前の夜。今から追いかければ間に合うかもしれない。だけど具体的にどこに行くつもり。空の死に場所に心当たりがあるの」
「ありません。さっき言ったでしょう、その場のノリだって」
「ノリだノリだと言い訳をしているうちに、空は死んじゃうかもしれないよ」
翔吾が舞に会うのは今日が初めてだった。
翔吾と空が付き合っている時、舞は既に就職して実家を出ていた。結婚して都心で暮らしていると翔吾は聞いていたが、いま、舞の薬指に指輪はなかった。
空は舞について翔吾にこう語っていた。
『似てないよ。見た目も性格も。でも、すっごく美人。自慢のお姉ちゃん』
たしかに似ていない。空は丸顔だが、舞の輪郭は細い。空の目は二重で大きいのに対し、舞のそれは一重で線を引いたように細い。空は大きく口を開いて喋るが、舞はほとんど口を動かさず、声量だけで相手の耳に声を届けている。空の体躯は同性のそれと比べて大きく包容感に溢れていたが、舞は力を入れたらぽきりと音を立てて折れてしまいそうな氷細工のように頼りない。
「空に連絡はとったの」
「昨日、スマートフォンに。だけど返信はありませんでした」
「だろうね。あの子、部屋に置いていったから。とりあえずこれを飲んだら家に戻ろ。空の部屋にパソコンがあるからさ、行き先に何か手がかりがあるかもしれない」
「あんな大口をたたいた手前、戻るのは気恥ずかしいのですが」
舞はストローをくわえたまま翔吾をにらみつけた。ストローからコーヒーに息を送り、不満の泡が浮き上がる。
「空に会って、なんて声をかけるの」
「なんでしょう。生きていてほしい、とか」
「でも、もう一度空と付き合うつもりはないんでしょう」
翔吾は返答に窮した。となりの席の談笑の声と、空調のがなり声が鼓膜に響く。
「身勝手だね。一度は空から逃げ出したくせに。空とはもう他人同士の関係なんでしょう。それなのに空の覚悟を踏みにじるなんて。空が気軽に死を覚悟したと思う? 何度も考えたんだよ。何度も何度も考えて、わたしにも何度も相談に来た。熟慮を重ねて出した結論を否定するんだ」
「自殺しようとしている人を止めて何がわるいんですか」
舞は応えない。ストローに当てていた指先をグラスの縁に移し、スケート靴を履いた妖精のようにその指を滑らせる。
「だったら、お姉さんは空に会って何て言うつもりですか。空の意志を認めているんですよね。空を止めるつもりがないのなら、いったい、空と会ってどうするつもりなんですか」
「わたしも知りたい。わたし自身わかっていないから」
禅問答じみた答えに翔吾は重く息を吐く。
「わたしは空の意志を尊重したい。その点はお父さんやお母さんといっしょなの。同時に、何かすっきりとしない気持ちも存在する。平らにならしたはずの砂場に、ちょこっと突起が残っているような、そんな感じ」
「その突起を潰すために、ということですか」
「砂場をめちゃくちゃに荒らすためかも」
ふたりは五十鈴家に戻った。玄関に入った際、舞は大声で『ただいま』と、翔吾は小声で『おじゃまします』と口にした。登とかすみが出てくることはなかった。
二階の空の部屋に入る。カーテンが開かれた六畳間にはせっけんのような匂いが漂っていた。
翔吾は数年前にこの部屋を訪れた時のことを思い出す。家具の配置は変わっていない。ベッドも、本棚も、学習机もそのままだ。ただその上にあるものが変わっていた。枕カバーは薄い桃色から水色に、大量にあった小説は本棚からその数を減らし、そして学習机の上のデスクトップパソコンはノートパソコンになっていた。
「さて」
と呟いてから舞は腰に手を当ててふりかえる。
「空は誰の邪魔にもならないように命を絶つと言っていた。極端な話、ただ単に自殺するだけならこの部屋で首を吊ればいい。でもそんなことをしたら、わたしたち家族の迷惑になるとあの子は考えたわけ」
慎みのない舞の言葉に翔吾はくちびるの端を歪ませた。それに気づいた様子もなく、舞は学習机の椅子に着き、ノートパソコンを起動した。
「わたしが知る限り、空は昔から自殺について興味を持っている様子はなかった。空にとって自殺についての理論は新しい知識だったに違いない。今の若者が新しく知識を得る媒体といったら、インターネットに限る」
ノートパソコンの画面に風車を背にしたひまわり畑が表示される。画面の中央にパスワードの入力を要求するメッセージと白い空欄が表示されていた。
舞はのどの奥をグッと鳴らしてからキーボードを叩いた。【isuzu sora】。『エラー パスワードが間違っています』。【sora isuzu】。『エラー パスワードが間違っています』頭文字を大文字にしてみる。『エラー パスワードが間違っています』。
舞は思いつく限りパスワードを叩いてみた。入力回数に制限はないようだ。
「まさか」
翔吾がぽつりとつぶやく。舞はその声を聞き逃さなかった。翔吾の手をキーボードの上に引く。椅子の後ろから上半身を伸ばし、舞の左肩に半身を被せる不格好な体勢で翔吾はキーボードを叩いた。
【10300809】。『ようこそ』。
「八月九日は空の誕生日」
舞は翔吾の手を掴んだまま言った。
「十月三十日っていうのは。誰の」
「空にはこういうところがあった」
翔吾は顔を歪ませて首をふった。
「変えていなかった。あの面倒くさがり屋」
4
パソコンのメモ帳やファイルには、空の行き先に関わるようなデータはなかった。
舞はメインブラウザを開き、ブックマークされているメールサービスを開いた。受信ボックスには広告メールや通販に関するものばかり。送信ボックスにも空の行き先や自殺に関するようなものはなかった。
ブックマークを開いてみる。複数のフォルダが並んでいる。『ネット関連』、『マンガ・映画』、『音楽』、『ゲーム』、『料理』など自殺に関するものはない。念のためフォルダの中を確認するが、どれもフォルダの名前と違わないページばかりがブックマークされていた。
「手がかりなしですかね」
翔吾の問いかけに舞は無言を返す。マウスを持つ舞の手が動いた。画面のカーソルはネットブラウザの上部にある『履歴』のタブを叩いた。
「家を出る前に、行き場所の最終確認をしたかもしれない」
「なるほど。旅行に出る直前にも、目的地の情報を確認しますよね」
履歴の一覧が画面に表示される。二日前の夜、一九時三二分の履歴。このパソコンで最後に開かれたページは――
「ルピナスファームって、どこですかこれ」
画面いっぱいにルピナスの花畑が広がり、上部にメルヘンチックなフォントで『ルピナスファーム』と記載されていた。花畑の中では手をつないだ男女のカップルが笑顔を向け合いながら、空いた方の手を高々と空に掲げている。
「そうか。空、あの子」
舞はジッと画面を見つめながら、アクセス情報のページを開きルピナスファームの住所を確認した。
「伊豆半島ですか。少し遠いな。これってどんな場所なんですか」
「ルピナスファームはね、広大な敷地にたくさんの種類の花畑が広がるテーマパークなの。敷地内には小さな動物園や遊具施設があったりして、ひと昔前は関東圏のテレビでもコマーシャルが流れていたんだけど」
「知りませんでした。行ったことがあるんですか」
「ある。何度も」
舞は椅子から立ち、本棚から一冊のアルバムを取りだした。
「小さいころの空はルピナスファームが大好きで、誕生日のたびに家族で遊びに行っていたの。お誕生日のお祝いにって」
アルバムから一枚の写真を取り出し翔吾に見せる。写真にはルピナスの花畑を背にする五十鈴家の四人が映っていた。十数年前の写真なのだろう。小学生低学年の空はピースサインをつくり満面の笑みをカメラに向けている。その後ろで母のかすみが空の両肩に手をおいて笑い、横にいる登は両手を後ろに組んで控えめに笑っていた。
翔吾はくすりと笑った。写真の中、登の横に立つ幼い舞は、両腕を組んで不貞腐れたようにそっぽを向いていた。この時の舞は中学生くらい、ちょうど反抗期を迎えたころだろう。両親に無理やり家族旅行に連れてこられたに違いない。
「どうしてこの場所を調べたのでしょう。もしここで自殺したとしたら、テーマパークなんでしょう、すぐに人に見つかって大騒ぎになるのに」
翔吾が訊ねると同時に、舞はパソコンに戻り『ファームからのお知らせ』のページを開いた。
“2018年3月25日 閉園のお知らせ”
「『二〇〇一年に開園しましたルピナスファームは三月二十五日をもちまして閉園となります。長きにわたり多くのお客様にご愛好いただきまして心より感謝いたします』……すでに潰れているんですね」
舞は検索ページに移り、『ルピナスファーム 現在』と検索した。初めにヒットしたのは、廃墟巡りを専門に取り扱うホームページだった。このホームページによると、経営不振で廃園となったルピナスファームの土地は、伊豆半島の外れという立地のせいか次の買手が見つからず、敷地内の施設は解体されることなく廃墟と化しているらしい。
「人気のない廃墟。自殺の場所としてはぴったりじゃない」
舞はノートパソコンの電源を落とすと、折りたたんで小脇に抱えた。
「支度してくる。ちょっとだけ待って」
舞は部屋を出ると、二分ほどで戻ってきた。ジーンズに白いブラウス。黒い野球帽を被り、背中にはリュックサックを背負っている。
階段を降り玄関まで来ると、舞は壁にかかった木製のキーフックから車の鍵を取った。
「車、使うから」
舞は家の奥に向かって声を張りあげる。
「しばらく戻らないかもしれないから」
もう一度、声を張りあげる。
「何かあったら連絡して」
もう一度、だが返事はない。
「行こ」
舞に促されて翔吾は外に出た。五十鈴家のガレージには二台の車が停めてあった。一台はフォルクスワーゲンのゴルフ。そしてもう一台は国産のSUVだ。
舞はSUVの運転席に乗り、シートに座りながら後部座席にリュックサックをおろした。
翔吾は無言のまま助手席に座る。シートベルトを締めると、SUVはするすると進み出て五十鈴家の前の道路を進み始めた。
「カーナビの設定おねがい。それぐらいできるよね」
数十メートル進んだところで舞が言った。翔吾はたどたどしい手つきでカーナビに触れる。
その時、翔吾はサイドミラー越しに登とかすみの姿を見た。五十鈴家の前に立つ二人は、そろって両手を組み、祈るようなポーズをSUVに向けていた。