漫画家
あまり天気の良くない深夜、若い女性二人は登山をしていた。
「……サナ、つらくない?」
「……うん、大丈夫。ミクは?」
「私も大丈夫」
深夜の山は静かで、ざくざくと山道を歩く音だけが二人の間にしていた。
「……けっこう登ったよね」
サナが麓に停めてある赤い軽自動車を見ながら言った。その小ささが彼女たちの登山した距離を確かに示していた。
「あ、そろそろだよ」
ミクの目の前にはゴールが見えてきていた。山道の終わり、道と雲の多い空の境界線。二人のゴールがそこにはあった。
「……サナ、私の人生で一番良かった事はサナに会えた事だよ」
「うん、私も。ミク、私と出会ってくれてありがとう」
そう言って二人は静かに笑いあう。閑静な森に二人の白い歯は良く映えた。
そうして二人はゴールにたどり着いた。直後にミクはスマホを取り出す。
「……あと三十分くらいだね。ねえサナ、これ見て」
「ん?」
ミクはスマホの画面をサナに見せる。その画面には大量の着信履歴、編集部と全て書かれている。
「はは……ウケる」
「ね」
ミクは画面を消してスマホをポケットにしまった。そして少しだけ前に出て下をのぞき込む。
「うわぁ、結構な高さなんじゃない? 海見えないよ」
そこは有名な自殺スポットだった。中でも若者の自殺が多いらしい。周りを山の木々に囲まれ、崖の下には真っ黒い海、死んでも迷惑が掛からなさそうな場所だ。
「確かに結構高いね、底が見えないもん」
眼下では確かに海のさざめきが聞こえていたが、目でそれを捉える事は不可能だった。
「まあ、何も見えなかった私たちにピッタリの最期じゃない?」
「あは、たしかにね」
二人は顔を見合わせ笑った。その後、二人は時間になるまで思い出話をして時間をつぶした。
二人の出会い、二人とも漫画が大好きだったこと、ミクの絵をサナが大好きだったこと、サナのストーリーをミクが大好きだったこと、二人で漫画家を目指したこと、そして初連載の作品のこと、予想以上のヒット作を出したこと、そして連載が終わって編集部と読者が次回作を期待していること、自信を持って持ち込んだ新作をことごとく断られたこと、もう二人には何も書けなくなってしまったこと、二人の思い出を語りつくした。
そして時間になった。
「……よし、じゃあ始めるね」
「……うん」
二人に悔いは無かった。自分たちの愛情を持って作り出した作品を編集部は認めなかった。何が悪いのかは全く分からない。がんばれと言われても、もうアイデアもないのだ。二人の頭の中は完全に空っぽだった。それに却下を出し続ける編集部に嫌気がさしていた。
ミクはリュックから大量の原稿用紙を取り出した。全て彼女たちの大切に描いた漫画たちだ。彼女たちが愛し、編集部は唾を吐いた作品たち。ミクはぎゅっとそれを抱きしめた。
「私たちは世界一の漫画家だよ! 全部最高に面白いんだ! 大好きだよ!」
「面白いだけじゃないよ! 絵も世界一上手いしね!」
二人して原稿用紙にハグをした。ぐちゃぐちゃになった原稿用紙の間から、一枚の用紙がぽろりと崖の下に落ちていった。
「「私たちは世界一の漫画家だ!! バカヤロー!!」」
そう言って二人は原稿用紙を海へ向かって放り投げた。はらはらと風に乗ってゆっくりと下へ沈んでゆく。
「……」
「……」
二人は身を乗り出してその様子を見ていた。一枚、また一枚と見えなくなっていく。二人が愛した作品が死んでゆく様子を無言で最後まで見ている。
そして全てが見えなくなると二人は泣いていた。
「クッソ! 何が悪かったんだよ! 最高のストーリーと最高の絵だろうが! クソ編集が死ねッ!」
泣きわめくサナをミクが優しく抱きしめる。
「……サナ、もういいんだよ。そろそろ行こう……」
「うん……」
二人は慰めあいながら崖に向かって一歩、また一歩と進み始める。
死んだら次はどこに行くんだろう。天国かな、それとも地獄かな、それともそんなものは無いのかな。ミクは足を動かしながらぼうっと妄想した。
「サナ、準備はいい?」
「……うん、いつでも」
崖は当たったら痛いのかな、夜の海は冷たいのかな。サナは眼下にある闇を見ながら思った。
「……じゃあ薬飲んだら、いっち、にっ、さんで行くよ」
「……うん、分かった」
サナはゆっくりと頷いた。
ミクはそれを見てリュックの中の小瓶を探す。特殊なルートで手に入れた薬だ。飲むと数秒後に意識を失うらしい。その薬を飲んで崖下の海に飛び込む、二人の自殺プランは完璧だった。
「あれ、どこだろう?」
ミクはリュックをごそごそと漁る。ふと一枚の原稿が手を触れた。まだあったのかとミクはそれを取り出す。さっきので全てじゃなかったようだ。
「もう、なに!」
ミクはぶっきらぼうにそれを取り出し投げ捨てる、つもりだったが手を止めた。
「……っ!?」
「えっ」
それは他愛もない原稿用紙だった。下手くそな絵とオチの無いストーリーの四コマ漫画。
「これって……」
サナがミクからそれを奪い取るように見る。
「これ、私たちの……」
「……最初の漫画だ」
二人はその陳腐な作品に目を落とした。主人公は名もない女の子。彼女は野球少女だった。
1コマ目は少年を相手にバットでねじ伏せているコマ。そして2コマ目は年を重ねた少女が少年相手に苦戦しているコマ。少年のセリフには「女じゃ勝てねえよ」と書かれていた。そして3コマ目、少女が少年に完全に敗北したコマ。少年が「女のくせになんで野球やっているんだ?」と問いかけている。そして4コマ目、少女は笑っていた。コマいっぱいの笑顔でこう言った「大好きだからだよ!!」。
「……ぷっ、なにこれ」
「ひどいね」
ミクとサナは過去の自分の作品を見て笑った。何もかもが酷い、酷いけれど今の二人には何よりも温かかった。
「ふふっ」
ミクは野球少女の気持ちを考えていた。一般的に女性は男性より体の成長が早いと言われている。一時的に男性を超すスポーツ力を身に着けられるだろう。けれどそんなのも一瞬で、中学に入るとあっさりと抜かされてしまう。きっと彼女の中にも負けられないプライドもあっただろう。そして挫折、悔しくて仕方がなかった筈だ。でも彼女は野球を辞めなかった。なんでだろう。
「大好きだから、か……」
サナは優しい目をして原稿用紙を撫でながら言った。
「……大好きだから」
ミクも彼女の言葉を口にした。私は何で絵を描いているのだろう、答えは簡単だった。
ミクはリュックの中から小瓶を取り出して海に向かって投げ捨てた。
「サナ! 描きたい絵があるんだ!」
「おっ、奇遇じゃん。私も面白いストーリーがあるんだ!」
「サナ……」
二人は立ち上がる。眼下には海が広がっている。
「あっ、きれい」
「ほんとだ!」
海には星空が映っていた。水平線まで目で追っていくと全く同じ美しい星空が広がっていた。それはもうどうしようもないほど綺麗だった。
「よっし、じゃあ帰るよ!」
サナは車のカギをぶんぶん振り回して下山していく。
「あ、ちょっと! まってよー!」
ミクは急いでサナを追いかける。あ、私たちこんなに元気だったんだ……。胸には1枚の原稿用紙が大切そうに抱えられていた。