五年三ヶ月
一年前、最愛の友人が死んだ。
学校から彼女と一緒に帰る途中、前方にふらふらとおかしな運転をする大型の車がぼんやりと見えた。周りでどよめきが起こる中、車が蛇行しながら猛スピードでこちら側に漸近してきたのを皮切りに、どよめきは耳をつんざくような悲鳴に変わる。
あぁ、逃げないと。そう思った時には既にナンバーがはっきりと見えるほどに車は私達の方へ距離を詰めてきていた。
——ダメだ。反射的に、彼女を押し出そうと左を向いた。だがその刹那、車の軌道上から外れたのは彼女ではなく私だった。彼女に強く押され、勢いよく右側に突き飛ばされた瞬間、左から聞こえてきたバンという衝撃音と、固いものが砕ける鈍い音。地面に倒れこんだ後、左から流れてくる生温かい液体が下腿に当たる不気味な感触。鼻をつく鉄の匂い。遠くから聞こえてくる救急車の無機質なサイレン音。
私は俯き、じっと真下のコンクリートを見つめていた。それからは一度たりとも左を向くことは出来なかった。何が起こったか理解したから。それを視覚という最も確実性のある感覚器官で認識したくなかったから。
それから先のことは何も覚えていない。唯一覚えているのは色鮮やかな花々に囲まれ、純白の棺桶の中で白雪姫のように眠る彼女の顔だけ。その顔は皮肉にも、私が今まで見てきた中で最も美しかった。だがその死に顔を思い出すたび、受け入れたくない悲痛な現実をいつも思い起こさせた。
去年の今日、彼女は——如月美帆は死んだ。
それから一年、私はセミの抜け殻のように空虚な毎日を送ってきた。最大の精神的支柱を失い、自分が生きる意味すらも見いだせなくなっていた。中学に進学しても他人とうまく関わることが出来なくなり、友達と呼べる存在はほぼ皆無に等しかった。
そして今日、私は美帆とよく遊んだ裏山の広場に足を運んでいた。誰もいない物静かな地面に古びた木製の長椅子一脚がぽつんと置かれている以外は何もない寂れた場所。それでもここは私にとって彼女と共に過ごした日々の面影が色濃く残るかけがえのない場所だった。
長椅子に座り、街を一望する。ゆっくりと走る電車も、乱立するオフィスビルも、整然と並んだ民家も、それらを囲い込むようにそびえ立つ濃緑の山々も、昔から何も変わらない。対照的に、左隣にぽっかりと空いた一人分の小さなスペースだけが不可逆的事実を痛感させた。
このベンチで彼女とたくさんの話をした。クラスメイトの話、読んだ本の話、将来の話。
これからもずっと、彼女と思い出を紡ぎたかった。一緒に海に行きたかった。一緒にテスト勉強をしたかった。同じ制服を見に纏い、真っ赤な夕焼けに照らされながら一緒に帰りたかった。一緒に進路のことで悩みたかった。学生らしい遊びをしたかった。
ずっと一緒に、いたかった。
眼下に広がる街に濃いモザイクがかかるように視界がぼやける。熱い液体が頬を伝い、スカートと地面の土を濡らしていく。何百回泣いたって何も変わらないのは自分が一番よく知っているのに。泣くと気分が楽になるわけでもないのに。むしろ泣くたびに悲しみは増幅され、心はまるで破裂寸前の風船のようだった。
立ち上がり、前方の柵に手を掛けて真下を覗く。眼下に広がる、落ちれば間違い無く助からないであろう険しい崖。
途端、ずっと抑えてきた自死願望が心の奥底からふっと湧いて出る。この柵を越えてここから飛び降りようかという思いつきがふと脳裏を掠めた。何もかもを終わらせる。その最悪の思いつきは、今この瞬間は禁断の果実のように甘美な魅力を漂わせていて、ズダボロの私を惹きつけてやまなかった。
柵をぎゅっと握り締めながら右足を柵の外に出す。心なしか足先に当たる風は真冬のように冷たく感じた。
その瞬間、海馬から溢れ出るように走馬灯が駆け巡る。そのほとんどが美帆と過ごした美しい思い出で、これを見てから左足を投げ出すことに決めた。高速で再生される五年三ヶ月の最高の思い出。その映像を締め括ったのはちょうど一年前、私を突き飛ばした美帆の顔だった。不条理感、恐怖感、満足感、それらが入り混じった瞳。
ハッとした。今やろうとしていること、それが美帆が命をかけて繋いでくれた命を捨てることであると、私は初めて気が付いた。それが彼女に対する最大の裏切り行為であることに、私は気が付いた。
申し訳なさと自己嫌悪で胸がいっぱいになり、自死願望が霧散する。こんなにも愚かな自分をぶん殴りたくなる。
生きるしかない。
でも辛い。生きる希望を失っても尚生きるのはずっと醒めない悪夢を見ているかのようで、ただただ辛い。
目を拭って暗然と空を見上げると、美しい天の川が満点の星空を裂くように鎮座し、煌々と光り輝いていた。真下に居を構える人間達をこのまま吸い込んでしまいそうなくらい巨大で、今までに見たことがないくらい美麗な天の川。ずっと前と下しか見てなかったせいで、全くその存在に気が付かなかった。
あぁ、すっかり忘れていた。今日は七夕だったな。そんなことをふと思った時、前からびゅんと強い風が吹き抜けた。夏には似つかわしくないような、北風のように冷たく、どこか心地良い風。思わず目を瞑る。
「え……あれ」
風が吹き終わると、後ろから戸惑いが混じった小さな声がした。何千回何万回も聞いた、滑らかで人懐っこい声。
目を開き、後ろを振り向くとベンチに佇む少女が一人。先程まであった物悲しいスペースを埋めるかのように。織姫が私の心底にある叶うはずのない願いを見透かしたように。彼女はそこにぽつんと座っていた。
如月美帆が、そこにはいた。