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翌日。登校し教室に入った僕は、仲のいい連中と挨拶を交わしながら自分の席についた。
そして、隣には。
「おはよう、仙崎さん」
「……………………おはよう」
声は小さく、目線も僕をちらりと一瞥しただけだったけれど、一応返事はしてもらえた。もっとも、一瞬見えた目が赤く腫れぼったかったり、彼女を取り巻いているグループからの嫌悪の視線を感じていると、一概に良かったとは言いがたい。
実を言うと、昨日家に帰ってから、僕は猛省していたのだ。
『――――僕は、仙崎さんが言うような人間じゃない』
『それに、君じゃあトバリの代わりにはなれないよ――――絶対にね』
いくら仙崎さんが鬱陶しかったとは言え、あんなこと言うべきじゃあなかった。当然、僕が仙崎さんをフった事実とその際の僕の暴言はクラス中に伝わっていることだろう。彼女を含め、クラスメイトたちとはまだあと二年間も教室を共にしなければならないのだ。それなのに、ここで僕の悪い噂が立ったりしたら困る。
もっとも、僕の心配は杞憂に終わることとなる。
何故なら、それよりももっと話題性のある噂が学校中に蔓延し始めたからだ。
***
最初におかしいと思い始めたのは、放課後トバリと一緒に帰宅している最中だった。普段なら視界に入っても即座に忌避するはずの生徒たちの一部が、やけにトバリに好奇心丸出しの視線を送っているのだ。そして、彼女を見ながらひそひそと囁きあう。
そして、僕が自分の教室に入ろうとした時に、扉越しに聞こえてきた女子たちの断片的な会話。
――――知ってる? 夜野さんて――――えー、嘘ぉ――しかもね――――
僕が扉を開けると、女子たちは一瞬笑顔のまま固まって、それから慌てて話題を変えた。
最初はまたトバリが何かやったのかとも思っていたが、それが日を追うごとにエスカレートし、一週間も経った今では学校中の生徒がトバリに好奇の視線を送るようになっていた。これは異常事態以外の何物でもない。
これはもう、トバリの新たな奇行とかいうレベルの話ではない。そもそも、それなら真っ先に僕がトバリ本人から聞いている。それだけはわかるのだけれど、肝心の部分が僕の耳に届かない。トバリの側近ということで、クラスメイトも、学校中の生徒も、意図的に僕の前ではその話を避けているようだった。普段仲の良い奴に個別に聞いても、適当に話をはぐらかされて終わる。これは、友人思いだと取るべきなのかただ単に関わりたくないだけと取るべきなのか。
濃霧に纏わりつかれているかのような不快感と、自分の知らない事態が進行しているという焦燥感にも似た苛立ち。
トバリにそれとなく聞いても、恐るべきことに「……何の事」と逆に聞き返されてしまうという始末だった。
だが、それでも僕はトバリと一緒に行動したし、クラスに対して何も知らない愚者を演じ続けた。
「――――シイナ、飲み物買ってきて」
昼休みの屋上。焼肉弁当を空にしたトバリは、コッペパンを頬張る僕に何の遠慮もなく言い放った。
「…………自分で行きなよ。僕はまだ揚げパンが残って」
「りんごジュース」
「せめて、僕の牛乳で我慢してくれないかな」
「牛の乳には興味ない」
何と言う嫌な言い方。というか、牛と僕に対して激しく失礼だ。それに、うだるような暑さの中でわざわざ購買の近くにある自動販売機まで行くのは非常に面倒くさいことこの上ない。
しかし、結局僕は自販機へと向かっていた。動こうとしない僕に業を煮やしたのか、トバリが貯水タンク横の梯子を登りはじめたからだ。いや、もちろん貯水タンクがそう簡単に開けられるはずもないが、何と言うかあれだ。短いスカートでそういうことをされると、その。困る。
すでに昼休みも半分過ぎているせいか、自動販売機はそんなに混んでいなかった。りんごジュース、ね。意外とトバリは子供っぽいところがある。まあ、それを本人に言ったら蹴られるだろうが。
ボタンを押し、取り出し口から商品を取り出す。パンを食べる時間は果たして残っているだろうかなどと考えつつ振り返ると、
「やっほー、椎名くん」
ぎょっとした。
そこに立っていたのは、にこにこと満面の笑みを浮かべた仙崎さんだった。
「……あれ、仙崎さん。何か買うの?」
僕は動揺を悟られないよう努めた。何か変だ。あの告白以来、彼女とこんな風に話すのは今日が初めてだった。
「ううん。ただちょっと、椎名くんてばニブチンだなあと思ってさ」
「出会い頭に失礼だね。僕のどこが鈍いって?」
「だって、こんなに噂になってるのに気づかないんだもの」
瞬間、心臓が跳ねた。
「…………何のこと?」
「やだなあ、言われなくてもわかってるくせに。夜野さんのことだよ」
ペットボトルを持った手が冷たさに痺れ始め、それとは対照的に首筋には汗が浮かぶ。
「夜野さんてすごいよね。テレビとか新聞に載るなんて、有名人じゃん」
テレビ? 新聞? 彼女は何を言っている?
仙崎さんは目を細めた。鼠をいたぶる猫のように。
「あはは、やっぱりまだ知らないんだ。…………じゃあ、ヒントをあげようか」
動けないでいる僕の元にやって来て、彼女は囁くように告げる。
「いくら得意だからって、授業をサボるのはいけないコトだよ」
得意。サボり。その言葉に、ある記憶がフラッシュバックした。新聞。プリント。――――そうだ、あの時貰ったプリントには、何て書いてあった?
「――――じゃあね、椎名くんっ。以上、学級委員からの忠告でした!」
ぱたぱたと走り去る仙崎さんをよそに、僕は固まったまま動けなかった。断片的な記憶が繋ぎ合わさって、それは一つの仮想を作り上げる。
我に返ったのは、「そこ、どいてくれない?」という上級生の声であった。それで、自分がまだ自販機の前にいること思い出す。そして、手に持ったペットボトル。…………ひとまず屋上に戻らなければ。
「――――遅い」
トバリはさっそく文句を言ってきたが、脳の処理能力が追いつかない僕はろくな返事もできなかった。
普段と違う僕を不審に思ったのか、
「何かあったの」
なんて聞いてくる。最初は存在すら無視していたトバリが僕のことを気にするようになるなんて、人類が月に立つのと同程度の偉大な進歩なのだが、今の僕はとても素直に喜べるような精神状態ではない。なんでもないよ、と適当に返した。
トバリは不審そうだったが、ペットボトルのフタを開けると無表情に戻った。美味しそうにりんごジュースを嚥下する彼女を見るうちに、僕の心も次第に平静になってくる。
僕が今までに授業をサボったのは、あの情報の授業だけだ。しかし、何故それを仙崎さんが知っている? 僕はあの時座っていた給水タンクの陰に、もう一度座ってみた。…………なるほどね。これなら合点がいく。――――その場所は、情報で使うコンピューター室の教室内が少しだけ見える位置にあった。
そしてあの時貰ったプリント。確かあそこには、『新聞社データベースの活用法』なるものとそのURLが載っていたはずだ。あのプリントは、どこにしまっただろう。記憶の糸を必死に辿る。…………そうだ、つい雑多な書類を入れるファイルにしまい込んで、そしてそのファイルは今――――家にある。
僕は自分の愚かさに、貯水槽の中に飛び込んで溺れ死にたい気分に駆られた。あれがなければ、どうしようもないじゃないか。放課後に調べようと思っていたのに。
…………いや、落ち着くんだ。仙崎さんの言葉に惑わされるな。焦る必要はないんだ。これは、家に帰ってからでも充分間に合うレベルの問題だ。何故なら、噂が立ち始めてから今日に至るまで僕は何も知らなかったが、何の問題も生じていない。
僕はトバリを見る。少しだけ眉根を寄せていた。まさか、新聞に載るほどのことを、本人に直接聞くわけにもいかないだろう。
「ごめんトバリ、今日は用事があるから先に帰るよ」
いつも待ち合わせて一緒に帰っているわけではなかったが、トバリはほとんど毎日放課後に居残り、僕がそれに付き合っていることが多かったので、一応告げておく。
「……わかった」
昼休みが終わり、それから砂時計を眺めているようなまんじりとしない午後の授業を上の空で過ごした僕は、帰りのホームルームが終わるやいなや急いで学校を出た。
この時の僕は混乱していて視野狭窄に陥っており、『誰かにプリントを見せてもらう』という選択肢は完全に頭になかった。
――――その考えの至らなさを、僕は後に後悔することとなる。