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僕が周囲に対して不可侵の仮面を被るようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
少なくとも、サンタクロースが実在すると信じていた頃や、ゲームや漫画にのめりこむようになって、いつか自分のところにも異世界からの使者が現れて僕を非日常へと誘ってくれるのだと信じていた頃は、まだ普通の、ちょっと空想癖が強いだけの子供だった気がする。
僕は昔から日常というものが嫌いだった。別にいじめられたとか、家庭の問題があったとかじゃあない。むしろ家族は仲が良く、友達も多く、成績もそこそこ良いという、本当に絵に描いたような平穏な生活を送ってきていた。
でも、それでも――――いや、それだからこそ、僕は非日常を求めた。
同じ毎日の繰り返し。同じような会話。同じような内容の授業。ぬるま湯という名の安寧に包まれて、そこからちょっと出てみたいと思うのは、人の性じゃないだろうか。
最初、僕は非日常そのものを求めた。それは例えば未確認飛行物体であったり、魔術であったり、未確認生物などといったオカルトちっくなものを調べたりだとか、いつの日か本当に異世界に行ける日が来るんじゃないかと想像力を膨らませ、その日を心待ちにした。
そしてそれが虚構――――少なくとも宇宙人と遭遇したり、ファンタジーに巻き込まれる可能性は天文学的なレベルの小数点以下になるくらい低いとわかると、僕は日常の中の非日常を求めた。
無謀にも恐怖スポットに一人で出かけたり、不謹慎ながら大停電や台風が起きてそれがしばらく続かないかなと心の隅っこで考えたり。
中学生になり、それすら期待のできないことだとわかると、僕の非日常に対する欲求は更に高まった。いくらゲームや小説の世界に没頭しても、やはり帰ってくるのはこの日常なのだ。いっそのこと不良にでもなってやろうかとも考えたが、馬鹿げた考えはすぐに捨てた。暴力による非日常は好みではないし、犯罪はスリルこそ味わえるだろうが周囲への迷惑・僕の将来などを考えたらハイリスク・ローリターンだ。
僕の思考は次第に侵されていった。目の前で笑っている友人に、罵詈雑言をぶつけてみたい。嫌なクラスメイトをいじめてみたい。学校中の窓ガラスを割ってみたい。テストの名前欄に織田信長と書いてみたい。しかし、物事には常にリスクが付きまとう。僕はそのリスクを恐れて、欲望を自らの内に抑えこみ、砂漠のような心で日常を消化していった。忍耐と比例して高まる渇望。それは禁断症状に陥った薬物中毒患者にも似ていた。
そして恐らくこの頃からだろう。僕が周囲に対して仮面を被るようになったのは。
仙崎さんの言った通り、穏やかで親切、誰にでも公平、友人は多いがそれでいて誰とも深い繋がりを持たないという仮面。
たとえ自己暗示であったにせよ、それはいくらかの効果をもたらした。常に物事を客観的に見れるようになり、周囲の人間の考えが何となくではあるが読み取れるようになっていったのだ。誰かが垣間見せる言動から、その人の本質を知る。すると不思議なことに、僕の言動一つでその人の行動が操れるのだ。操るというと過言かもしれない。例えば友人と喧嘩した子には適したアドバイスを、別れたがっている恋人たちには裏で調停を、自分に自信がない子にはその子の求めている言葉をかけることによって、状況は変わった。勿論、僕が行ったのはこのような良いことばかりではないが。
僕は人間関係の操作にのめりこんだ。神の視点から俯瞰する人間関係というのは蜘蛛の巣のようなもので、僕はその糸を好きに千切ったり結んだりできるのだ。そして、それは誰にも気づかれることはない。ノーリスク・ハイリターン。僕の望んだ非日常とは少し異なるが、ある程度の欲は満たすことができた。
そしてその仮面にはもう一つの効果があった。周囲と自分を隔絶することで、犯罪に走りそうな自分を抑制することができたのだ。
しかし、いくら周囲の関係を自分の思い通りに変えても、根源的な部分は満たされなかった。何故なら蜘蛛の巣の操作は「日常」の操作に過ぎないからだ。
磨耗する神経と昂ぶる欲求を受験勉強という形で紛らわせつつ、僕の中学時代は終わりを告げた。
――――そして春。僕は、夜野帷と出会ったのだ。
忘れもしない、入学式の日。式が始まる前に立ち寄ったトイレ。その小窓から見えた桜満開の裏庭。そして、そこにいた彼女は、両手に桜の枝を持って、花びらをむしゃむしゃと食べていた。
その姿を見た時、全身が歓喜に粟立ったことを今でも覚えている。
式のことなど忘れて裏庭に駆けつけると、彼女はちゃんとそこにいた。幻覚ではなかった。
手入れなど無縁であろう黒髪と、制服に「着られている」ような小さな身体。生死を問いたくなるほど血色の悪い肌と、胸に飾られた新一年生を表す花。
彼女は花壇に座って足をぷらぷらさせながら、肩で息をする僕をその鋭い三白眼で睨みつけていた。
「――――君、ここで何してるの?」
僕の問いかけを、彼女ははっきりと無視した。
「もうすぐ式始まるけど、行かないの?」
「君、名前なんていうの?」
「桜の花、美味しい?」
「どっから折ってきたの?」
体育館で粛々と入学式が進められている中、僕は軟派師もかくやという勢いで彼女を質問攻めにした。その全てを彼女は無視し、やがて桜を食べ尽くすと、ひょいっと花壇から飛び降りた。
ここで逃してなるものか。もう一度、彼女の前に回りこんで名前を聞く。
すると彼女は、不機嫌そうに目を逸らしながら、
「……………………夜野帷」
彼女の甘く低い声は僕の鼓膜を突き抜け、脊髄までをも震わせた。
この世に神がいるのなら、その御足の甲に口付けでもしてやりたい。――――非日常からの使者は、確かにやって来たのだ。
嬉しいことに、彼女の行動は全てにおいて常軌を逸していた。例えば、桜を食べていた理由が単に『美味しそうだったから』だと彼女に聞いた時なんかは、眩暈がした。もちろん、歓喜によるものだ。クラスこそ違ったものの、僕は彼女に付きまとい、彼女が異常行動を一つする度に、えも言えぬ恍惚感に浸った。
僕の望む「非日常」とは、つまるところ何でも良かったのかもしれない。ただ単に、僕は死人の心電図のような平坦な日常から抜け出したかっただけなのだ。
だから僕はトバリの引き起こす「日常の中の非日常」を間近で見ることで自己を投影し、いわゆる「摩り替え」を行っていた。相変わらず、周囲に対しては嘘で塗り固めた仮面を被りながら。
人は誰でも二面性を持っていて、仮面を被る僕はその人の本質を見抜くことができる。
でも――――トバリと親しくなって一年が経ったが、彼女のもう一つの顔だけは、見えてこないのだ。