12
期末テストを無事に乗り越え、夏休みまであと数日。午前授業のその日、僕は屋上の扉を開けた。
瞬間、むわっとした熱気が押し寄せる。もうすっかり夏だ。蝉が鳴き喚き、空には入道雲。嫌いじゃない景色だ。特に屋上は快晴が一望できる。もっとも、その分他の場所より暑いんだけれど。
貯水槽の裏、日陰になった部分を覗き込む。……やっぱり、彼女は僕の期待を裏切らない。
「やあ」
「ん」
トバリは暑苦しそうな黒髪を物ともせずに、ちろちろとアイスを舐めていた。僕はその隣に腰掛ける。
「…………腕、平気?」
「おかげさまで、あとちょっとで抜糸だそうです」
僕の左腕は、三角巾で吊られた状態となっていた。あの後病院へ行ったら、何故もっと早く来なかったんだと医者に怒鳴られてしまった。がみがみと言われながら腕を二十三針も縫われるのは決して気分のいいものではなかったが、まあ今回の罰だと思って大人しくしていた。
教師たちには、「夜野帷と一緒に机を解体していたら机から転がり落ちて怪我をした」と説明しておいた。大半の教師がそれで納得したのだから、トバリの知名度も意外と捨てたものではない。仙崎さんとはあれから会話を交わしていないが、自尊心の高い彼女のこと、まさか自分からあの日の真実を教師に告げるはずもないだろう。
こうして、僕らの生活は日常に戻ったのだ。…………いや、以前と少しだけ変わったところがある。
「そういえば、トバリってあれ以来ちゃんと弁当の時に割箸もってくるようになったよね」
「そう?」
「うん。あと、僕に対してよく喋ってくれるようになった」
そう言うと、トバリは一瞬むっとした顔になったが、すっと遠くを見つめながら呟いた。
「――――シイナが、あたしを夢から覚まさせてくれるから」
風が吹いた。
僕には彼女の言っていることはわからなかったけれど、それが彼女にとって大切なことだというのはわかった。
「――――あの時。シイナがあたしを引き上げてくれなかったら、あたしはきっと、今も自分の夢の中にいた」
あの時、というのは、あれか。僕が彼女を抱擁していたときのことか。小刻みに震える華奢な身体。…………今は思い出さないでおこう。悶死しそうだ。
「要するに、シイナは目覚まし時計ってこと」
ひどいなあ、と言いかけて、口をつぐんだ。彼女のいつもは青白い頬が、ほんの少しだけ薄紅色に染まっているような気がしたからだ。
ふと、聞いてみたくなった。
「トバリはさ、僕のことをどういう人間だと思う?」
「いきなり何」
「いいからいいから」
「…………臆病者」
その答えを聞いた瞬間、身体の芯から情動がこみ上げてきた。押さえきることができず、それは笑いとなって体外へ放出される。
――――そうか。今になってやっとわかった。彼女の本心が見えなかった理由。僕は彼女の前で仮面を被っていなかったからだ。蜘蛛の糸は、仮面を被らないと操れない。そして僕は、トバリの前で仮面を被る必要なんかなかった。
要するに、僕らは似た者同士だったのだ。非日常にいながら日常を求めていたトバリと、日常にいながら非日常を求めていた僕。それは対極にあるようで、実はとても似通っていることなんじゃないだろうか。
「――――好きです。付き合って下さい」
僕はいつの日かと全く同じセリフを、自然と口にした。でも、今度は実験なんかじゃない。
するとトバリは目を見開き、咳き込み、眉をしかめ、考え込み、首をかしげ、挙句の果てには溶けかけたアイスをコンクリートに落とすという芸当を繰り広げた後、言った。
「………………………………考えとく」
あははは、と僕はまた笑った。やっぱり、トバリはトバリだ。他の誰にも代わることなどできはしない。
二度目の玉砕。けれど、彼女の頬が気のせいなんかではなく赤らんでいることや、そわそわとあちこちを見回していることを考えれば、この答えもそう悪くはない。
「じゃ、僕はそろそろ帰るよ。今日は親に家事を手伝えって言われてるんだ」
カバンを持って立ち上がろうとする。すると、
「待って」
ワイシャツの裾を引っ張られた。
「…………シイナは臆病者だけど、悪い奴じゃない。それに、あ、あたしを助けてくれた。それに、毎日あたしに付きまとって、まるでストーカーみたいだ」
むう、何て言われようだ。最初と最後で言ってることが全然違う。
「で、でも。あたしは…………その。シイナが一緒じゃないと、あたしはまた…………引きずり込まれるかもしれない。悪夢に。それは、もう嫌だ。だから――――ずっと一緒にいろ。げ、下僕ぐらいにはしてやる」
目を伏せ、ワイシャツを掴みながら、淡々と告げる彼女は――――普通の、女の子だった。
「下僕ねえ…………せめて保護者くらいにしてくれないかな」
「シイナのくせに生意気」
むう。…………まあ、仕方ないか。下僕だろうがなんだろうが、彼女からこのような答えが聞けるとは思ってもみなかった。
「はいはい。わかりましたよ。――――じゃあトバリ、また明日」
「…………うん。明日」
僕は屋上を後にして、扉を閉めた。鋼鉄製の扉は、僕とトバリを厚く隔てた。けれど、それも一瞬だ。明日になれば、また彼女に会える。
ふと、気づく。
これは、いわゆる「日常」というやつなんだろうか。今まで、唾棄すべきだと思っていた日常。…………でも、これが日常だとしたら、そんなに悪いものでもないかもしれない。
校舎を出て、空を仰ぐ。校庭を見る。今は新緑の桜の木を見る。そして最後に、校舎を見る。
その全てが今まで以上に色付いて見えたのは、きっと見間違いではないだろう。
おわりです。
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