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この毒は口に苦し

作者: 舞浜 リョウ
掲載日:2020/05/08

 札幌駅のすぐ近く、少し奥まった所にある小さなカフェ。西日に照らされた窓際の席は、いつものように僕を待っていた。

古びた洋楽と店内に充満するコーヒーの香りを楽しみながら、注文したブラックのコーヒーが運ばれて来るのを待つ。

 何気なく目をやった窓の外では、もう四月になろうというのに、一年間のここでの生活ですっかり見慣れた白い結晶が舞い始めた。フワフワと降り注いでいただけだったそれは、まばたきをする度に勢いを増す。

 だんだんと白く染まる景色に不意に割って入ったのは、風になびく赤いリボンと、黒いセーラー服の裾だった。

 僕はなぜかギュッと心臓を掴まれたような気がした。

なんだ、これは。この痛みは。

その原因を自分の中で探って、見つけてしまった。僕のある記憶を。

それは些細なものだった。他人からしたら「たいしたことない」と笑われてしまうようなものかもしれない。

しかし僕にとっては、思い出すだけで胸が締め付けられる苦い記憶だった。


「……好きな子ができたんだ」

 中学二年生のある日、友人は思いつめた顔をして僕に言った。

「でも、どうしたらいいかわからない」

 正直、なんで僕なんかに打ち明けたんだ、と思った。僕は別段、恋愛経験が豊富なわけではない。というかむしろ少ない。

だからそんなことを言われた所で、僕にだってどうしたらいいかなんてわからなかった。ただ茶化して済ませてしまおうか、とも思った。しかし彼があまりにも縋るような眼をするものだから、話ぐらいは聞いてやろうという気になった。

 彼の「好きな子」は僕と同じクラスになったことがない、顔も知らない女の子だった。名前を聞いても全くピンと来ない。

そう彼に伝えると、「とりあえず一度見て欲しい」と彼女の教室まで連れて行かれることになった。意気揚々と進む彼の隣で、そこまで乗り気でない僕はため息をついていた。

――顔を知ったところで、そうそう言うことが変わるはずはあるまい。一体どうしてわざわざ他の教室まで見に行かせるんだ。

その疑問は、彼女の姿を見て解消された。

なるほど、きっと彼は自慢したかったのだ。「俺が好いた相手は、こんなに美しいんだ」と。

教室の真ん中で友達と笑い合う彼女を見て、この学校にこんなにも綺麗な人がいるのかと驚いた。

透き通るような白い肌。小さな顔に嵌った、黒曜石のように輝く大きな瞳。動くたびに淑やかに揺れる、耳の下で二つに結われた長い髪。校則通りに着こなしているはずのセーラー服はまるで彼女のためのオートクチュールだ。ひざ下丈のスカートからは華奢な脚が伸びている。彼女の全てがとびきり上等な芸術品のようだった。

 友人が好意を寄せるのもよくわかる。僕は、声もかけられずただ見とれているだけの彼の背中を叩いた。

「応援するよ」

 そう言って笑ってみせた。変に早くなった鼓動を聞かれないよう、はっきりと。


 しかし僕の応援も空しく、彼はその後、呆気なく玉砕してしまった。そのため、彼女の話を彼から聞くことは無くなった。

 僕はもう彼女に関わることは無いと思っていた。彼女は「友人を振った女の子」以外の何者にもならないだろうと。しかし違った。僕らが通っていたのは、六年制の学校だったのだ。しかも、高等部はクラス替えが無い。彼女は僕の「三年間一緒のクラスメイト」になった。

 僕はこっそり歓喜した。もしかしたら、あの綺麗な人の「何か」になれるかもしれない。

 しかし、その淡い期待は外れることになる。

 もしもこれが物語だったら、きっと何かが起きていたことだろう。いや、物語ではないとしても、何かが起こるように行動していたに違いない。――僕が、僕じゃなかったのなら。

 僕はあくる日もあくる日も、彼女に声をかけることすら出来なかった。目が合ってもすぐにそらしてしまった。床に落ちた消しゴムを拾ってもらっても、「ありがとう」さえつっかえてまともに言えない。

 いつしか、僕は自分の感情を抑えるようになっていた。彼女を初めて見た時の胸の高鳴りも、クラスが発表された時に湧き上がった思いも残さず全部詰め込んで、固く蓋をした。

 思い返せば、ただ逃げただけの三年間だった。彼女からも、自分の思いからも。何も出来なかった。怖かった。嫌われるのが怖かった。もはやあの輝く瞳がこんな臆病な僕を写すことさえ、怖かった。

 三年間でわかったのは、彼女は読書が好きだということだけだ。それぐらいしかわからなかったのだ。ただ見ていただけの僕には。

 いつだってそうだ。僕はただ見ているだけ。大切なことからは逃げ出してしまう。きっと、今だって。


 大学進学を機に故郷から逃げ出した僕がたどり着いたのが、この街だ。

 文学少女だった彼女が、物書きの真似事をするようになった僕を知ったらなんて言うだろう。

 メロドラマが始まると妄想できるほど、もう若くはなかった。実際は彼女の連絡先だって知らない。僕は彼女にとっての何者にもなれなかったのだ。

そんなことはわかっているはずなのに、未練がましい奴だ。彼女のことなんて、あの日々に抱いた感情ごと忘れたつもりでいた。しかし、どうやら僕はまだ彼女の残像を追い求めているらしい。セーラー服を見ただけでこんなにも取り乱してしまうぐらいには。


だいぶ時間が経ったようだった。窓の外は真っ白で、当然もう赤も黒も存在しない。

 いつの間にか目の前に置かれていたコーヒーに気づいてカップに触れると、随分とぬるくなってしまっていた。

 溢れ出しそうな記憶ごと、コーヒーを飲み込む。


黒くて苦いそれは、きっと僕をこの先も蝕み続ける毒なのだろう。


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