序章3 契約
沈黙が落ちる。
魔王は口をあんぐり開けたまま、私を見上げていた。部屋には、時計の音だけが鳴り響く。
「ちょっと、聞いているの? 資産と権限を寄越しなさいと言っているの」
「待て待て。どうしてそうなる」
「あら、あなたにとっても私にとっても都合が良いじゃない」
「それは……」
肘掛けに身体を預け、魔王は押し黙る。どうやら、私の提案を真面目に検討しているらしい。魔王が情けない顔で部下に視線をやる。しかし、部下達も目を泳がせるばかりで、魔王への助言は無い。
しばらく考え込んでから、魔王は居住まいを正した。
「……分かった。お前に全部譲る」
部下達は一瞬ざわついたが、すぐに魔王の決定を受け入れた。彼等も、本当は魔王が心配だったのだろう。ママ依存には引いていたが。
「譲るのは構わんが……良いのか? お前は王国の姫だろう?」
「勿論、王女としての立場を捨てるつもりは無いわ。だから魔王の椅子には座らない。魔王もその部下も、魔王城も。全部ひっくるめて私の配下になってもらうわ」
そう。それが良い。人間でも魔族でも、向いてないことを嫌々やるのは疲れるだけだ。自分だけじゃなく、周りにも迷惑がかかる。誰も幸せにならない。だから、こうするのが一番だ。
「そうか。しかし、それでお前に益はあるのか? 私は楽が出来てありがたいが……」
「あなたの資産を貰うと言ったでしょう? 今王国の財政が厳しいのよ。本来、こういう土地は国に返還されるものだし、有効利用しなきゃ。それに、あなた達が人間の脅威でなくなるのも大きいわ」
魔王は納得したのか、小さく頷いた。
「じゃ、契約成立ね。改めまして、王女リコッタよ」
「魔王レンニュウだ」
私が右手を差し出すと、魔王は慎重に握り返した。尖った爪が、私の手に刺さらないように。
「さて、これからどうしましょうか。城内を見ておくべきかしら。いかんせん、あなた達のことをよく知らないのよね」
ある程度は、幽閉されている間にグール・ドッグ達が教えてくれたが、十分ではない。彼等を管理することになった以上、「知らない」では済まされない。
「城内で特別なものは研究室くらいだ。他は貴族の邸宅と変わらない。質問があれば答えよう」
「そうねぇ……部下を何名か喚び出したみたいだけど、ママは喚ばなかったの?」
「悪魔同士だと格上の相手を召喚出来ない。よって、喚んだのは部下だけだ。人間が召喚に臨む場合は、本人の知識と資質、あとは供物の量と質だな。黒魔術を齧っている程度の一般人なら、良くて下級ゴブリンまでだろう」
どうりで。それなら、魔王に向かないレンニュウが魔王になったのも理解出来る。最初に喚ばれたのがレンニュウで、一番格上だっただけのことだ。
と、なると。ギー公爵には、そこそこ黒魔術の素質があったのかもしれない。魔界におけるレンニュウの地位は分からないが、下級ゴブリンよりは高そうだ。
「研究室っていうのは、動物を魔物化するための設備かしら」
「それもあるが……魔物の複製や、魔力使用の効率化も研究している。他にも色々……」
なんというか、王立の研究所よりしっかりしている。決断力が無い割に、こういうところは気が回るらしい。ママの指示かもしれないが。
「そうだ、一度王城にも戻らないと。さすがにこの格好では帰れないから、お風呂と着替えをお願い出来る?」
「分かった。ギー公爵が温泉を引いていたらしくてな。整備して、使えるようにしてある。すぐ用意させよう」
「温泉!?」
それは嬉しい。魔族が衛生面に気を使っているとは思わなかったので、入浴設備には期待していなかった。
清掃のため湯を抜いているとかで、準備を待つ間、研究室を案内してもらうことにした。
「ここでは、動物の魔物化と同時に、魔物化した動物を複製する研究をしていた。と言っても、オリジナルのような知能は無い。『よく出来た人形』というレベルだ。魂も無い。命令を簡単なものに留めるか、遠隔操作しないと役に立たん」
「十分凄いわよ。それより、動物の魔物化はもうしないでちょうだいね」
レンニュウは「ああ」と頷いた。どのみち私の配下になった時点で、要らなくなっていたのだろう。
「こっちは少ない魔力で効率よく術式を行う方法を研究している。人間界では、魔力を節約しなくてはいけないからな」
ほうほう。
「科学技術の向上にも力を入れている。術式に杖などの媒介を使うと魔力の節約になるが、これに科学を組み合わせることで、さらに燃費がよくなるという訳だ」
ふむふむ。
「医療分野では、治療以外にも基礎治癒力についても研究している。これも魔力の節約だな。回復術式もあるが、なるべく使いたくない。新薬の開発や栄養学、義肢、ワクチン、病の早期発見。とても重要な分野だ。研究室の広さは他の部署の倍以上ある」
…………。
………………。
……………………進んでやがる。
用意して貰った風呂に浸かりながら、私は敗北感を味わうこととなった。人間が持っていない技術を持っているのは分かる。しかし、それだけでは片付けられない、明確な差があった。彼等は未来からやって来たのかと思うほどに。
風呂も綺麗だ。湯は循環しているし、鏡や石鹸も質が良い。
「着替え、ここに用意しておくわよ」
「ありがとう」
もこもこの泡は、良い匂いがした。好きに使って良いと言われているので、遠慮なく溜まった汚れを落とす。そして風呂の気持ち良さにも負け、文明レベルの差など、どうでも良くなっていた。
「あーさっぱりし……」
何これ。
ビスチェ、コルセット、レオタードを足したような服、とでも言えば良いのだろうか。それにしては装飾がおかしい気もする。
素材は革だろうか。胸元から腹部にかけて、大きく開いていている。下半身は股の部分がやたら細く、尻側にいたっては紐しか無い。
そして、おそらく胸を盛る為に用意された大量の詰め物。
私はバスローブを羽織り、疾走した。
「こんな破廉恥な服がありますか!!」
叫びながら、扉を力任せに開く。玉座の間、レンニュウと面会した部屋だ。レンニュウは先程と同じく、椅子に腰掛けていた。
バスローブでうろつくのも十分はしたないのだが、そんな事を気にしている場合ではない。何しろ、バスローブの方が布面積が大きいのだから。
「他に着替えは無いの!?」
「あら、気に入らなかった? じゃあ、こっちの服を……」
「それは紐と何が違うのよ!」
豊満な彼女は、その肢体を隠そうとしない。谷間を強調した佇まいは、堂々としている。誰だ、この女に着替えを用意させたのは。
私はレンニュウを睨む。
「まともな服を提供出来る者はいないの?」
「そう言われても……。ここの魔族は男女比が偏っているし、女悪魔はほぼ淫魔で……」
「あんたの趣味?」
「私は小柄な清楚系の方が好きだぞ」
真逆じゃないか。
「いっそ、男装でもしようかしら。一から仕立てるのも大変だし……」
「服なら一晩で出来るが」
「えっ?」
まさかと思ったが、ここは魔王城。本当に可能なのだろう。
「先に言って欲しかったわ」
「そうだな。しかし、婦人服のデザイナー役は露出が好みだ」
駄目じゃねぇか。
「……そうだ。それなら、あんたが描きなさいよ、デザイン画。清楚系が好きなら、露出も無さそうだし」
拒否権は無い。
別に自分で描いても良いのだが、純粋にレンニュウのセンスに興味がある。本人は困惑していたが、部下に紙とペンを用意させ、自室にこもった。
翌朝、私は用意された服に袖を通す。
ペールピンクのワンピースは、やや細身のデザイン。上半身のラインがはっきり出るが、いやらしさは無い。スカートはタイト過ぎず、広がり過ぎずの膝下丈。
上から羽織るのは、オフホワイトの長袖ボレロ。ボタンは無く、一番上の部分をブローチで留める。サーモンピンクのリボンだ。
靴はリボンと同じ色で、合わせる長靴下はボレロと揃い。
髪飾りにエメラルドグリーンを採用したのは、差し色だと思われる。珠が連なっているだけの、シンプルな飾りだ。
清楚系が好みというのは本当らしい。派手さが無い分、品も良く見える。
「どうだ? 気に入らなければやり直すが」
「まさか。気に入らない服を着てあげるほど、私はお人好しじゃないわ」
王城に戻ったら、ワードローブに加えよう。装飾が少ないので、着回し出来る。王族とはいえ、豪勢な生活は出来ないのだ。
「馬車の用意は?」
「出来ている。いつでも出られるぞ」
こうして私は、魔王と盟約を交わし、王都へと凱旋するのだった。