黒緑を育む 下
ジュリとツバサ、この二人が初めて顔を合わせることになったのは、ジュリが受験を控えた中学三年、ひとつ下のツバサが二年生だったある日のことだ。季節は秋。紅葉に色めく、学園祭が最盛期の頃だった。知り合いが通っていると言う友達の誘いで、ツバサはとある中学の学園祭に向かうことになった。立ち並ぶ展示物や、行われるステージの数々。波のような人ごみに疲れてふらりと立ち寄った部活主導のバザーの店先で、ツバサはジュリの名前を聞いてしまった。
同じくして、友達がツバサの名前を呼んだのも二人の目が合う原因となった。客だったツバサと店員だったジュリは、嫌というほどに聞き親しんだ名前が不意に耳に届いて同時に顔を上げると、そのままぴくりとも動かなくなった。
背後から、同じく店番をしていた後輩に声を掛けられなかったら、呼吸を忘れてしまっていたのかもしれない。文字通り固まるようにして静止し見詰め合う形になったジュリは、はっと息を吹き返すと慌てて活動を再開させた。苦笑いでおどけて、不思議そうな視線を行き来させる後輩を誤魔化そうとする。対照的に、ツバサの表情は固まったままだった。
一目顔を合わせただけで、二人には分かったのだ。相手は紛れもなく本人である。散々父親が口にしていた相手――。今まで口上にしか上がらなかったはずの人物が目の前の人であると分かってしまったから、胸中には複雑な感情を抱かざるを得なかった。
どうしてここに居るんだという驚き。せせり上がってくる対抗心と植えつけられた疎ましさ。ツバサは一刻も早くこの場を去りたくて堪らなかった。そうでなければ憎まれ口が出てきてしまいそうだったのだ。初対面なのに、だ。そんなことは無論ごめんだったし、醜態を晒すくらいなら逃げ出す方が幾分もましだった。拳はぎゅっと形を作った。
一方で、同等の驚きを覚えていたものの、ジュリはようやく会えたという嬉しさに包まれていた。よく分からないままに比べ続けられていた相手はどんな人なのか、距離を置くよりも人物像を知りたいと、ずっと思っていた。ツバサの父親がどんな人物なのかは、自身の父親と会話の端々から漏れてくる情報によって大体は想像できていた。自分と同じで口うるさく思っているのだろうか。煩わしいなあと思っているのだろうか。ジュリは理解しあえるかもしれない相手を突然前にすることになって、恥ずかしいような嬉しいような大きな戸惑いを感じていた。
――ジュリがいる。
――ツバサがいる。
双方それぞれに思いながら、ちらちらとその姿を除き見た。
けれども、端から印象に食い違いを生んでいた二人だった。この後、バザーにいたジュリの後輩がツバサの友達の知り合いだったために、店先で二三立ち話をする羽目になるのだが、生まれた差異は、縮まるどころかどんどん明確になるばかりだった。歩み寄ろうとするジュリの歩調は、遠ざかるツバサの足並みに着いていくことができなかったのである。
ツバサがジュリを避けようとする態度を見せる。当然のことながら、次第に空気は悪くなっていった。異変を察したツバサの友達とジュリの後輩はどうしたのかと不思議に思ったが、苦笑を深めるばかりのジュリと、この場所に居たくなさそうなツバサは、何ら答えを出さなかった。最終的に、ツバサが違う場所に行こうと友達に提案して、無理やりそれを通した。立ち去っていくツバサの背中を見送りながら、ジュリはこの先ずっと抱えることになるもどかしさを覚えずにいられなかった。
そんな出会いのタイミングは良かったのか、それとも悪かったのか。答えはそれぞれの見方によって変わってくる。未だに娘たちのことを卓上に持ち出して口喧嘩を続ける父親をいい加減疎ましく思い始めていたツバサにとっては、その影響下から抜け出す確かなきっかけになったし、同時に話しぶりから伺えたジュリの人柄を知って長らく引き摺ることになる自己嫌悪を引き起こす羽目になった。勉強に打ち込んでいたジュリにしてみても、鬱屈としていた毎日に大きな風を生むことになったし、仲良くなりたいと思っていた人が厚い壁を作り、自分から距離を取ろうとするのを知って切なくなる日々の始まりになった。
どちらにしてみても、確かな転機にはなったのだ。殊ジュリに関しては、変化に著しいものがあった。
良くも悪くも、これまであからさまに人から距離を置かれるということを経験したことがなかったジュリだった。相変わらずしょうもないいざこざを続けていた父親のことは面倒だとは思いつつも、それなりの仲で笑って過ごすことはできていたし、朗らかで陽気な母親とは、ますます親しく、姉妹のようだと周りから言われるほどに仲良くできていた。友達も、多くもなく少なくともなく、また浅過ぎず干渉し過ぎない関係を保ち続けていた。周囲の人々に恵まれていたと言うのもあるが、ジュリ自身人付き合いが上手かったのだ。もちろん、嫌われたりだとか、喧嘩したりすることがなかったというわけではないが、それでも順風満帆な友好関係を築き続けていたといっていい日々を過ごしていた。
そんなジュリの目の前に現れた、おそらくそれなりに話が合うであったはずのツバサの反応は、ジュリにしてみれば本当に衝撃的なものだった。純粋に、ただただ避けられるばかりの関係というのは、少なからず、ジュリには堪えた。そもそも話しかけることが難しかったのだ。わずかな切り口から話を広げようとしても、素っ気ない態度と返事であからさまに壁を隔てられてしまった。抱いていたはずの理想は、早々と幻想へとその姿を変える。けれど、それでもジュリはその幻想が実現できるものだと信じるようになった。むしろ、ツバサに距離を取られたことを思い返せば返すほどに想いは強くなっていった。
無い物ねだりなのかもしれない。手を伸ばせば伸ばすほどに遠くなるから触りたいと思ってしまうだけなのかもしれない。学園祭の火を思い出してはそんな風に考え、ジュリはひとり思い悩んだ。どうしたって触れ合えない人がいるのかもしれない。避けられるしかない関係があるのかもしれない。二人がそういった関係にならざるを得なかった理由は、ジュリが知らない間に着々と組みあがっていたのだ。人は一人だけでは交流することができない。絶対に相手が必要になるのだ。そして相手には相手の、自分とは違った人格を持った考えがある。
理解はしていた。ツバサが自分と同じような日々を送っていたわけがないのだ。ジュリの知らない毎日の中に、想像が及ばない葛藤がなかったなどとは言えるはずもなかった。
けれども、そうだからこそジュリの幻想はより実像を伴ったものとして大きく膨れ上がっていった。どうして避けられているんだろう。どうして仲良く笑い合うことができないんだろう。
どうしてこんなにもツバサのことが気になるんだろう。
答えは、ジュリにも分からなかった。けれど、ただ単に比べ続けられていた存在だからというだけではない理由が根底に流れているような気がしていた。
ジュリの中で、分かり合いたい、分かり合えないわけがないという思いだけがいたずらに大きくなっていた。あの日の出会いを思い出し、思い浮かべたツバサの姿に声をかけては、はるか高く、小さな湧き水から始まった流れが急勾配な谷間を抜けて、時折飛沫をあげながら加速していく。参考書を開いたままの学習机に向かいながら、ぽうと一時間近くも手を動かさない日々をジュリは幾夜も過ごすことになった。
ツバサのこと、縮まらない距離のことを考えると、その背後にはいつも父親の影がちらついていた。ジュリの父親にしてみても、口を開けばいつも娘たちの名前が挙がっていたのだ。ツバサちゃんがどうだったとか、まだジュリの方がすごいなとか、幼い頃から耳飽きるほどに聞かされていた。そして実際耳飽きた。
ツバサと比べて、端から人との競争が苦手だったジュリは、すぐに口うるさい父親よりも大らかな母親に影響されることを選んだ。食卓で掛けられる馬鹿げた兄弟論争の比較にはほとんど耳を貸さずに、適当に相槌を打つだけで済ませることにした。その結果、父親の機嫌を損なうことはままあったが、間に母が入ってくれたのがよかった。あるとき腹を据えて母親が怒声を上げると、それ以降父親の比較論議は数を減らしていった。
ツバサはどうだったんだろうと、傘に当たる雨の音を聞きながらジュリは思いを馳せる。先を歩くツバサは、あの日から三年が経とうとしている今でも近づいてきてくれそうにはなかった。それが残念で、もどかしくて、浮ぶ笑顔はどれも淋しくなるばかりだった。
いつの間にか上手に笑う方法を忘れてしまったような気がする。思って、ジュリは足下を見た。雨に濡れたアスファルトは少し青みがかかっているように見えた。
一緒に来なかった方がよかったのかもしれない。青果店でツバサに拒絶された時から抱いていた想いが、唐突に重く圧し掛かってきていた。思えば、空回りばかりしていた一方的な付き合いを続けていたのだ。手紙を送り、後輩伝えにアドレスを聞いてメールを送り、返事など返ってこなくても、どれだけ素っ気なくても、通じ合えていると信じた中学時代を過ごしてきた。同じ高校に入ったと知った時は、自分勝手に喜んだりしていたのだ。メールだけは、定期的に送り続けていた。
けれど、相手が拒んでいるのならば、その意図を汲んで身を引くのが思いやりだったのかもしれない。連絡など取らず、離れるがままにしておくのが優しさだったのかもしれない。全てが身勝手なわがままのせいで、お陰でツバサは嫌な思いをして、ジュリ自身も悲しい思いをしていると言えなくはないのが現状なのだ。
急流を止めるだけの意思を持つことができなかったことが、今更になって猛烈に恥ずかしかった。
「お。ここかな。着いた着いた」
明るいケイタの声がする。一行はサツキの家に到着していた。ジュリは俯いていた顔を持ち上げる。少し離れてしまったところから、ツバサが振り返ってこちらを見ていた。その瞳が、表情がまっすぐジュリに注がれている。射竦められて、ジュリは止まっていた足を一歩踏み出した。同時にツバサはふいっと前を向く。
急流がまたひとつ支流を飲み込んで大きくなった。
今更ありようを変えるなんて、できるわけがないのだ。立ち止まり、不安を感じても、流れは低いところにしか流れてくれない。たとえ一時だけでも塞き止めることができたとしても、絶え間ない湧き水を遮り続けることは、土台不可能なことなのだ。自らのスタンスを柔軟に変えることができるほど、できた人間ではないと分かっていた。
ならばどうすればいいのだろうか。
一歩一歩、ケイタとツバサが立っている玄関先に近づいて行きながら、ジュリは考えを加速させていく。猛る飛沫が辿り着くのは、決まっていつもひとつの河口でしかありえなかった。
何度目かの夢から目覚めたサツキは、ぼんやりとした頭で玄関のチャイムが鳴っているのに気が付いた。しんしんと続く雨音に、チャイムの音はいやに浮き出て聞こえてきていたのだ。
どうせ新聞の勧誘とか、訪問販売とか宣教活動の類なのだろう。判断して、サツキは居留守を使うことにした。真面目に突き返して疲れるのも馬鹿馬鹿しかった。
寝返りを打ち再び目を閉じる。しばらくじっとしていたものの、咽喉の渇きが少しだけ気になり始めた。風邪に水分補給は大切である。加えて、朝から寝ていたためかあまり眠れそうになかった。もしかしたら、ちょっとずつ快方に向かっているのかもしれない。サツキの体内の白血球が、ようやく戦況を有利に進められるようになったみたいだった。
ならば、尚のこと応援物資を提供するのが宿主が行える唯一のことではないだろうか。考えたサツキはスポーツドリンクを飲んで、そういえば少し小腹も空いたような気もしていたので果物も食べようと、自室からリビングへと降りていった。
階段を下りて薄暗いリビングを抜け、キッチンの冷蔵庫を開ける。ガラスのコップを取り出して、八分目まで半透明の液体を注いだ。口をつけて一気に煽る。咽喉がごくりと音を立てた。どうやら感じていたよりもずっと身体は水分を欲していたようだった。サツキはもう一杯コップにスポーツドリンクを注ぐ。飲み終わると、幾分か乾きは潤ったような気がした。
一方で、チャイムは執拗に鳴り続けていた。ステンレスの流しにコップを置いたサツキは、露骨に不機嫌な顔をして玄関の方を振り返る。うるささに腹が立ち始めていた。もうそろそろ不在であると観念してもいいぐらいに時間が経っていたのである。今まで受けた勧誘も、多くてせいぜい十回前後が限度だった。なのに、今訪れている人物はその回数をはるかに越えても尚チャイムを押すことを止めようとしないのた。しつこい。非常にしつこい。加えて腹立たしいことに、回数が増すほどにチャイムとチャイムとの間隔が短くなってきていた。最早連打しているといってもいい。仏であっても不快にならざるを得ないほどの速さで、チャイムは鳴り続けていた。
しかしながら、一度決めたら早々に変えることを潔しとしないのがサツキである。こうなれば我慢比べだと意気込んで、無視する姿勢を強固にした。聞こえないと暗示をかけて、バナナでもないかとキッチン周りを探してみる。しかしながら、バナナはおろか、果物は何一つとしてありそうになかった。腕を組んでサツキは困ってしまう。お腹は淋しいままだった。やっぱり何かを口にしたい。そうだ、アイスでも食べようと思った。冷凍庫を開いて、見つけたアイスに手を伸ばす。未開封だった箱を開いて包装されたアイスを食べようとしていたところで、玄関の戸が激しく叩かれた。
「霧島さん、居るんでしょ。玄関開けて」
びっくりして飛び上がったサツキが耳にしたのは、あの忌々しいケイタの声だった。次いで、暴走を始めたケイタを落ち着かせよう、慌てた誰かの声が聞こえてくる。ケイタの他に二人は人が居るようだった。なおさら扉を開けたくなくなったサツキだったが、他にも人がいるとなれば別である。もしかしたら、学校で配られたプリントを持って来てくれたのかもしれなかった。ケイタの顔を見なければならないのは癪だったが、渋々玄関へと移動した。
ロックを外して、ドアを開く。足下の先に見えた誰かの靴を見たときに、身だしなみを整えて居ればよかったと少し後悔した。ちょっと待ってと声を出して扉を閉めようとする。けれども、もう遅かった。がしりと、開いた扉にケイタは手をかけていた。隙間に足をねじ込まれて、閉じようとしていた扉は強引に開かれてしまう。
「霧島さん、大丈夫?」
そんな第一声と共ににょっきり顔が出現した。押し返そうと、サツキの手は自然と素早く伸びていく。しかしながら、軽く掴まれてしまった。そうなると、もう目の前にいるうざったい男をどうにかする手段はなくなってしまう。仕方ないので、サツキは不機嫌なのを目一杯あらわにして鋭く睨みつけた。ケイタの心配そうな表情は何一つ変わらない。
腹の立つ。
思い、掴まれた手を振りほどこうと力を込めた矢先に、背後に立っている人物が目に入った。なにやら複雑そうな渋面を浮かべてこちらを見ている口も利いたことのないクラスメイトと、柔らかな物腰が印象的な部の先輩のニコニコ顔が並んでいた。そして目の前にはできることならあまり顔を見たくない人物が居るときている。なんともバラエティに飛んだラインナップだなあと思った。
「あの、なんでしょうか?」
無理やり手を振りほどいてケイタに睨みを利かせてから、サツキはいぶかしむように訊ねた。訪れた三人の意図がよく分からなかったのだ。同時に、執拗に家の中に入りたそうにしているケイタの態度が目障りだった。
「霧島さん、説明するからさ、まずは中に入らせて」
「お前は落ち着け、な」
「サツキちゃん、私たちね、お見舞いに来たんだ」
矢継ぎ早に口にされたそれぞれの言葉の中から、サツキはしっかりとキーワードを拾っていた。
「見舞いですか」
口にすると、ジュリはほんわかと頷いた。それを見て、サツキは珍しいと思う。あまり交友は広くはないのだ。この休んだ二日、誰も来なかったし電話もなかったからそんなものはないのだろうと思っていた。それになくてもいいと思っていた。正直、クラスメイトとの距離の取り方がまだ分からなかったのだ。誰かが家に訪問などさようものならば、何をしたらいいのか、また喋ればいいのかが分からないままに途方に暮れていたことだろう。サツキはまだクラスに溶け込めている自信がなかった。
部活にしてみてもそれは同じで、自身の記録との競技だと考えていたサツキにとっては、ジュリの訪問さえ驚きに値するものだった。元々誰かと活発に交流することが少なかったのに加え、年度末に経験したクラスでの体験から、サツキはより一層自分と生み出した記録にしか興味を示さなくなっていた。そのため、他の部員に対する態度は素っ気ないものになっていたということを重々承知していたのである。あまり良くは受け取られていないだろうと。
だからサツキには目の前にジュリが居ることが不思議でならなかった。確かにジュリは穏やかな人で、部員に対しては優しく、信頼を集めていたように思える。すでに卒業した先輩が部活を辞めて、新たな部長を決めることになった際には、多くの部員から部長に推薦されることになったほどの人物だ。結局部長は荷が重いということで辞退したけれど、確かに人望の厚い人物だった。面倒見もいい。しかし、だからと言って見舞いにまで来る理由にはならないと思った。この二日なんの音沙汰もなかったことがサツキの疑問を加速させていた。
しかしながら、
「そう、お見舞い」
対するジュリは朗らかに答えるばかりで、
「だから、家の中に入れさせて」
ケイタは暴走気味、
「お前は落ち着け」
そして、唯一、確かツバサという名前だったはずのクラスメイトが、ケイタに冷静な突っ込みを入れてくれるぐらいだった。
コントのようだと思いながら、同時にサツキはどうしたものかと戸惑っていた。プリントの受け渡しならば玄関で済ますことも可能だったが、見舞いとなるとどう対応すればいいのかが分からなかった。ケイタは手にビニール袋をがさごそさせている。受け取って追い返してもいいのだが、後ろに立つ二人の扱いはそれではいけないような気がしていた。興味を持ってもらえないぐらいならなんともなかったが、嫌われることは怖かったのだ。ここでぞんざいに扱ってしまって、後でそのことを吹聴されては困る。一年前のことを思い出していた。
けれど、ならばどうすればいいのだろう。ケイタは入れたくないのだ。けれど、ケイタだけ放り出して二人を入れるなんてことが可能なんだろうか。そして、ケイタを追い出したことを非難されるようなことにはならないのだろうか。
考えるにつれてサツキの思考は白くなっていった。少し良くなったような気がしていたとは言っても、病み上がりの身体には変わりないのだ。考えがまとまるわけがなかった。
白んでいく思考に、サツキは焦りを覚え始めていた。どうしたらいい、どうするのが最善だろうと考えようとするたびに頭が熱くなった。目が忙しなく泳ぎ始める。
その行為が一瞬の気の緩みを生んでしまったことを、サツキはすぐに激しく後悔することになる。
「お邪魔します」
「……あ。おい、このバカ。勝手に入んな」
「おお、でかい、テレビがでかい」
「出てけ。今すぐ出て行け。コラ」
始まった言い争いを、玄関先に取り残されたジュリは共に残されたツバサと一緒に聞いていた。
「よくやるよ」
「毎度のことなの?」
ぼやいたツバサに、ジュリが話しかける。
「……まあ、しょっちゅうかな」
「へえ」
面倒くさそうに返された返事には反応せず、ジュリは興味深そうに家の中を覗き込んだ。
「あの子があんなに声を荒げてるの初めて見た」
呟くジュリを、ツバサが無言のまま見つめる。
「あの子、部活でも口数少ないから」
苦笑しながらそう口にしたジュリに見つめられて、ツバサは視線を逸らせる。態度にジュリはまた厚い壁を感じた。やはり、まだダメなのだろうか。まだ時間がかかるというのだろうか。思い項垂れると、渓谷を流れ降りてきた急流が思わず口から漏れ出してしまった。
「どうして、かな。私がやっぱり悪いのかな」
呟いた声に、ツバサは身体を硬直させる。下を向いたままのジュリは気が付かないままに言葉を続ける。もう、止めようがなかった。
「私は、私はあなたと分かり合えると思ってた。あなたのお父さんも私の父さんと似たような人なんだろうなって勝手に思ってたから。それに、母さん同士は仲がよかったじゃない? だから私たちもって。共通するところがあるし、ずっと比べ続けられて嫌だったねって。でも、でもさ、違うのかな」
ジュリが顔を上げる。顔を背けたままのツバサの姿が目に入った。流れる勢いは、更に支流を加えて速くなる。食いかかるようにしてジュリはツバサに詰め寄った。
「ツバサは、私のことが嫌い? 会いたくないと思うほどに嫌いなのかな。喋りたくなくて、メールも煩わしかったかな。私は一方的で、独善的で、うざかったかな?」
「そんなんじゃ――」
「ほんと、出て行っ――」
振り向き、苦しそうな表情で口を開いたツバサの言葉に割り込むようにして、家の中のサツキが思いっきり咳き込み始めた。
「霧島さん」
すぐに、側でサツキから罵られ続けていたケイタが声をかける。尋常じゃない咳き込み方だった。
その咳は外に居た二人も聞こえてきた。何かを言いかけたツバサも、泣き出しそうな表情で捲くし立てたジュリも、身を翻すと慌ててリビングに入ってきた。
ケイタは膝を突いて、半ばパニックに陥ったように大丈夫、という言葉を繰り返すことしかできていなかった。すぐ側で蹲り咽喉に手を当てて苦しそうに顔を歪めていたサツキは、冷や汗までかき始めていた。無理をし過ぎたのである。形を潜めていたはずの頭痛までもが再びサツキを襲い始めた。
止まらない咳に激しい咽喉の痛みを感じながらも、がんがん響きを上げる頭で最悪だとサツキは思う。こんな姿は見せたくなかった。家族ならまだしも、ほとんど関わりを持ったことのないクラスメイトと先輩には弱ったところを見せたくなかった。そんな姿を見られたら、いらぬ心配を与えてしまう。同情や憐憫で関わってほしくはなかった。サツキは懸命に身体を叱咤する。咳を止めようと息を止めるたびに、頭痛は激しく頭蓋に打ち寄せた。
その時、背中に温かさを感じた。
「大丈夫? 横になったほうが良くない?」
見上げれば、ジュリが心配そうに声をかけてきていた。大丈夫です、すぐに良くなりますとサツキは返事をしたかった。なのに、咳のせいで言葉が出ない。滲んだ涙がジュリの姿をぼやけさせた。
「馬鹿野郎。霧島さんは病人なんだぞ。ちょっとは考えて行動しろよ」
「……ごめん。俺、テンぱってちゃって」
「あたしに謝ってどうすんだよ」
ツバサはケイタを叱っているみたいだった。正直、誰のせいでこうなったんだと思いながら大丈夫ばかりを繰り返すケイタの声を聞いていたから気分がよかった。しょげた姿に、ざま見ろと思う。
サツキは、なんだか笑えてきてしまった。
止まりそうにない咳に、激しい頭痛、涙を両目に溜めながらも、咳の合間に笑い声を漏らすと言う奇妙な状態になったサツキを、ジュリはますます心配した。
「あそこのソファーまで連れて行こう」
ツバサの提案に、ケイタがサツキを運んだ。ソファーに横にすると、サツキの咳は一段と酷くなって、反動で頭痛も酷くなった。
心配そうに覗き込んでくる三つの顔を滲む視界の向こう側に見ながら、サツキは格好悪いなあと思った。恥ずかしさを感じ、ダメだなあと思うと目を閉じた。訪れた暗闇には、騒音に近いサツキの咳と雨の音しか届かなかった。痛い。苦しい。辛い。もう嫌になってしまいそうだった。小さいはずの雨脚が嫌に大きく響いていた。
「霧島さん、薬、どっかにないの」
肩を揺さぶられて目を開く。ツバサが身を乗り出していた。何とか二階と口にすると、立ち尽くすケイタを尻目に、ツバサは素早くリビングを後にした。
「ちょっとタオル貸してもらったから」
そんな声が聞こえたかと思ったら、額に何かが乗せられたのを感じた。ジュリがサツキの頭に濡れたタオルを置いてくれたのだ。冷ややかな感触だった。けれど、心地よい冷たさだとサツキは思った。
再び目を閉じる。次第に咳は治まっていった。同時に、頭痛も奥深くに引いていく。残ったのは暗闇と、終わらない雨の音色だけだった。
一人のとき、雨音に心細さを感じたのはサツキだった。どうしようもなく淋しくなって、溜まらず誰かの声を聞かずにはいられなくなった。けれど、今は違う。ぜんぜん淋しさは感じない。目を開けばそこに誰かの存在があることをサツキは知っていた。
「よかったぁ。咳止まったぁ」
「あ、止まったのか? 一応薬持ってきたけど」
「はあぁ。どうなることかと思った」
瞼の向こう側で三人が浮かべているだろう表情を、サツキはありありと想像することができた。
「何笑ってるのよ」
ジュリの声がして、サツキは額を突つかれた。薄っすらと目を開くと、少し怒ったような表情をジュリが向けていた。横でケイタが半べそをかいている。ツバサは呆れたようにその姿を見ていた。温かいものがサツキの胸を満たしたような気がした。
「果物切ろうか」
と、ため息を吐いてからジュリが提案する。
「あたしがやるよ」
ツバサが返事をした。その何気ない一言に、ジュリはツバサを凝視する。少し困ったように頭を掻いて、ツバサは台所へと向かった。
後姿を、ジュリはなんともいえない気持ちで眺めた。分かり合えたわけではないだろうが、少しだけ、本当に少しだけツバサに距離を詰めてもらえたように感じたのだ。確かな前進に予期せず表情は緩んでいく。表情を直すこともしないで、足は自然とツバサの後を追っていた。
「手伝う」
背後から声をかけられツバサは振り返る。腕まくりをしたジュリが立っていた。
「ん」
頷いて、身体を横に、ジュリが立てるように場所を確保する。並んで立つのは少し窮屈だった。
緑は水を受けて花を咲かせる。道端の名もなき草ひとつにしても、行き届いた手入れを受けた観賞植物にしても変わることのない事実だ。広大な農園は、少しずつではあるものの、たくさんの流水を受けて花を咲かせ始めていた。植物にはままあることなのだが、黒緑々たる茎や葉に似合わず、開いた蕾は色鮮やかな暖色の花を結んでいた。どこまでも緑一面だった農園は、少しだけ華やいだようだった。
「ツバサは、うさぎりんご好き?」
「……あんまり」
「同じだね」
微笑むジュリを前に、ツバサは視線を逸らせる。けれど、口元には笑みが浮んでいた。目ざとくそれを見つけて、ジュリは声を漏らす。
「何さ」
「べつに」
「べつに、なら笑うことはないだろ」
言ってぶすっとなるツバサを隣にしながら、ジュリは思った。時間をかけていこう。ゆっくりでいい。全て分かり合えることはできないかもしれない。それでも、付き合っていこう。そう決意した。
切り分けたりんごと、洗ったイチゴを皿に持って、二人はサツキの下へと戻ってくる。ケイタがサツキの口元に運んで、いやいやしながらもサツキは口を開いた。
広がるりんごの食感と爽やかな酸味。飲み込むと、なんだか元気が湧いてきたような気がした。
「ありがとう」
サツキは呟いた。
「ありがとうね」
恥ずかしそうに微笑んだサツキに向けられるのは、優しさに満ち溢れたジュリの微笑と、頼もしさを感じさせるツバサの笑み、そして暑苦しいまでにほっとした表情のケイタの笑顔だった。それぞれがそれぞれに違った温もりに溢れている。サツキの中で荒野はいつしか声明を取り戻しつつあった。
「けど、あんただけは許さん」
ケイタを指差してサツキが指摘する。ええ、と動揺してみたケイタに向かって放たれ始めたサツキの罵詈雑言を、ツバサとジュリは否定するでもなく聞いていた。
止まない雨はどこにもない。差し込む陽射しは燦燦と、今日も雲の上で輝き続けている。
(おわり)
「黒緑を育む」以上で了とさせていただきます。
前回のあとがきでは前後編になるとか抜かしていましたが、見事に三部作になりました。それも三万文字超。酷い文量ですね。
ここまでお読みいただいた読者の方々。お疲れだと思います。稚作にも関わらず最後まで目を通してくださり、本当にありがとうございました。
さて、書き終っての感想ですが、ちょっと書き込みが足らなかったかなあというのが本心です。しかしながら、どこを書き込めばいいのか、繰り返し目を通すうちに分からなくなってしまいました。ですので、気が付いた点、ここが足りないと思う箇所がございましたら、ご指摘くだされば幸いです。感想もお待ちしています。
一応完結とさせていただきましたが、また違う章を書くかもしれません。そのときはまたご愛好くださいませ。
ここまで本当にお疲れ様でした。それではまたどこか違うところで。
次回は「きつねつき」を大幅修正させて完結させようと思います。頑張ります。




