黒緑を育む 中
昼食はうどんを茹でて食べた。たとえ冷凍であっても、乾麺よりも生めんのほうが百倍うまいなあと思いながら、サツキは一人ずるずるとうどんを啜っていた。
リビングには不自然に楽しそうな声が響いている。話し声のない食事ほど淋しいものはないと思い、サツキがテレビをつけていたのだ。未だ朱が差す頬をしながら、黙々とうどんを啜る。出汁の利いた温かなめんつゆがほどよくうどんに絡んで、サツキの身体を芯から暖めてくれた。朝、出勤前の母親に食べるように差し出されたほうれん草のお浸しは、うどんの具としてトッピングされている。
大きな笑い声がテレビから漏れてきた。サツキはまったく反応を示さない。
考えてみれば不思議なことだった。サツキは人の声を嫌って、家族が出払ったことをありがたく思っていたのだ。それにも関わらず、昼食時にはテレビをつけている。より耳障りな音声で部屋を満たしている。
変化の答えは、降り続く雨にあった。
午前中、部屋のベッドに横になって降り続く雨の音に気が付いたサツキは、しばらくはその静かな音色にじっと耳を傾けていた。染み込む雨音は身体と外界との境界を曖昧にし、そっと目を閉じたサツキは数回夢の中へと溶けていった。
そうして何度目かの夢を見て再び目が覚めたときだった。変わらない部屋の中の内装に目を配り、しばらくの間続く雨音に耳を澄ましていた。
不意に、あの激しい頭痛が訪れた。まただ、とサツキはうんざりしながら思った。ズキンと、内部から頭蓋に釘を打ち込んでいるような痛みが周期的に到来し始めたのだ。ただこのときの頭痛はいつものそれ少々異なる種類の頭痛だった。
経験上、頭痛の痛みは段階的に強くなって天井を打つと引いていくのが常だった。回数は多くても二十回。それ以降は、安静にしていれば気になることはなかったし、完全に引いてしまうこともあった。
しかしながら、この時の頭痛は初っ端から強い痛みを引き連れてやってきた。五寸釘を半分くらい一気に打ち込まれたような痛みに、サツキは思わず呻いてしまった。痛みは出鱈目に強弱を繰り返す。十三回目の痛みで、危うく五感を手放しそうになった。
――これはまずい。
直感的にサツキは思って、医者から貰った頭痛薬を飲もうと近くのテーブルに手を伸ばした。
痛みのせいで頭が持ち上げられない。テーブルの上では掌が暴れ回るばかりだった。お目当ての薬の感触は一向に訪れる気配がない。置いてあった小物がばらばらと床に落ちていくばかりだった。その間にも頭痛は壊れた機関銃のように脈打ち続けている。唐突にサツキはどうしようもない大きさの淋しさに襲われた。
誰も居ないこと、そばに居てくれないこと。声を上げても様子を見に来てくれる人が一人もいないという事実が、胸の中で急速に膨れ上がった。
確かに一人は気楽だった。静かな空間だと穏やかな気持ちでいられたし、雨の音も心地よかった。
でも、それでも一人は淋しい。根本的に淋しいのだ。
全てのことを自分でやる必要があるし、何かしようとするたびに弱った身体の脆弱さをいやと言うほど味わう羽目になる。一人は孤独だ。苦しい。何もできない。だから、助けてほしい。なのに、そばに誰も寄り添ってくれない。
胸の中を満たした膨大な量の淋しさを受け止めて、なお微笑むことができるほどの強さを、サツキはまだ身につけてはいなかったのだ。
そういえば、とサツキは今朝のことを思い返す。両親は二人ともサツキ一人を家に残して会社へ向かうことを口々に済まないと謝っていた。きっと二人は知っていたのだろう。この淋しさのこと、一人でいることの弱さを。だからあんなに暗い表情をしていたのだ。
――誰かと確かな関係があるということはなんと幸福なことなんだろう。
テーブルの上の掌は動くことを止めていた。
頭痛は、いつの間にか我慢できるくらいに弱くなってきていた。
それからである。部屋中を満たす雨音が、または沈黙が、サツキにとって、とても冷たいものに感じられるようになってしまった。のそのそとベッドから起きてコンポの電源をつけたくらいだ。相当参っていた。誰でもいいから声が聞きたくて、サツキはラジオを聴くことにした。
スピーカーから男性の低い声が聞こえたとき、ようやくサツキはひとつ安心して、それから昼食を取るまで眠ることなく布団にくるまっていた。昼食時にテレビをつけたのも、まだそのときの淋しさを引き摺っていたわけである。
ずるずるとサツキはうどんを啜る。今日、珍しく寝坊した母親が昼食の作り置のことをしきりに気にしていたのを思い出した。あの時は単に作る手間を考えてのことなのだろうと思っていたけれども、どうにも違うみたいだ。そこには確かな思いやりが存在していたのだ。
終始音を立てて温かなうどんを食べ終えたサツキは、テレビを消し、再び自室のベッドへと戻ると、まだどんよりと熱を持った重たい身体を布団の中に潜り込ませて目を閉じた。
きっと精神的な温かさは、誰かとの交流なしでは得られないものなのだろうなと思った。ラジオからは落ち着いた女性の声が聞こえてきていた。
三種類の傘が固まって先を急いでいた。
しとやかに降り募る雨の中を、先頭を歩くケイタは早足で進んでいる。待ち焦がれた三日ぶりのご対面だった。浮き足だす足を何とか地に据えて、一秒でも早くサツキの家へと向かっていた。
「おい。ケイタ早ええよ。落ち着け」
後ろからツバサの不機嫌な声が飛ぶ。振り返り、ケイタは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。手にしたビニール袋ががさごそと音を立てる。
「なんか調子に乗ってるみたいだけどさ、霧島さんに何言うつもりなんだよ。下手なこと言うと、今日こそ本気で嫌われるぞ」
珍しくにやにや顔を引っ込めていたツバサにそう言われた。途端に、高揚していたケイタの気持ちはすとんと地面に足をつける。どうしようかなと、ケイタは独り言のように口にした。
サツキと共に記念樹の下で時間を過ごした一件があってから、かれこれ三週間あまりが経っていた。あの日以来、ケイタはサツキに向かって気軽に声をかけることができないでいた。言っても、実際声をかけなくなったわけではない。むしろより積極的に話しかけるようになったと言った方が正確な状態だった。
ただ、内容に変化が見られていた。言葉を選ぶようになったのだ。簡単に口に出せなくなった。伝えるべきことを懸命に伝えようと考えるようになった。お陰で会話をするだけで両肩にちょっとした緊張が走るようになってしまったし、ため息を吐く回数がめっきり増えたように感じていた。伝えるということと、分かりたいと思って行動することの大変さに、ケイタはようやく気がついた。
それでも、多少なりとも会話が成立するようになったのは進歩だと言っていいただろう。積み重ねた言葉によって得られる対価は、ケイタを喜ばせるのには確かに上等なものだった。言葉を受け止めてもらい、更には返してもらえる。一方的な感情のぶつけ合いに過ぎなかったケイタとサツキとのコミュニケーションは、ようやく一般的な意思疎通のツールとして機能し始めていた。
「なあに? ケイタ君ってサツキのこと好きなの?」
興味深そうな声に、考え込むケイタは反応を返すことなく、ツバサだけが苦々しく表情を歪めた。一瞬空気が澱む。発言したのは、ケイタ、ツバサと共にサツキの家を目指していた一人の女の子だった。名をジュリと言う。サツキが所属している陸上部の先輩だった。
「……そう、なんだろうな。熱烈な片思いをぶつけまくってるよ」
返事をしたツバサに、苦笑いを浮かべてジュリは嘆息を返した。ケイタはそんな二人を無視してなお考え込んでいた。
「相当なもんだね」
背中を眺めてジュリが呟く。
「ああ」
答えるツバサの表情を覗き込むと、ジュリはほんわかと微笑んだ。
「大変ね」
「べつに」
不機嫌に尖っていくツバサの唇を見て、ジュリは小さく声を漏らした。気が付いて、ツバサはきつくジュリの方を睨みつける。
「変なこと考えんな」
「考えてないよ」
「考えてただろうよ」
「どうして分かるの?」
「笑ったじゃないか」
「理由なく笑ったらいけない?」
微笑を返してくるジュリを見て、ツバサの不機嫌はますます加速していく。そもそもジュリと共にいることが居心地の悪いことなのだ。内情をあれこれと想像されるなんてまっぴらごめんだった。
このままジュリと言葉を交わしたとしても不機嫌になる一方なのは明白だった。端っからうまく交流できる相手でも、またしたい相手でもないのだ。ツバサは歩調を速めると、ジュリの下から少し離れて、未だ考え続けているケイタの背中に声を掛けた。
「ケイタ、いつまで考えてるんだ」
「――辛かったか、なんて聞いてもいいんだろうか……」
「お、い!」
耳元でツバサが声を大にした。声に驚いてケイタは飛び上がった。
「急に何するんだよ。びっくりするじゃないか」
「少しは前見て歩け」
「あ、うん。分かった」
ぶすっと頬を膨らませるツバサに、素直に言葉を受け止めて反省するケイタ。
「面白い人だねえ」
二人の後ろに続きながら、ジュリは一人でけたけたと笑った。
二人がジュリと偶然出会ったのはとある青果店でのことだった。見舞いの品は何にするんだとのツバサの問いに、無論果物でしかるべきと答えたケイタが向かうと口にしたのは、良品を取り揃えている代わりに少々値の張る青果店だった。ツバサは金の無駄だと言って笑ったが、ケイタは本気だった。
「そこらのスーパーでも十分なのに、わざわざ高いもの買いに行くんだ?」
「もちろん。想いがあればなんて言うけれど、蜜のないスカスカのりんごを貰ったって実際嬉しくないんだよ」
「スーパーにも十分蜜を蓄えたりんごはあると思うけど」
「だから高いところに買いに行く」
「話聞けよ」
このような会話を繰り返して、最終的にツバサが折れた。というか、どうせなら一緒に付いて行き、馬鹿みたいに果物を選んでケイタを困らせてやろうと思ったのだ。ざわつく胸中も少しは納まるかもしれなかった。何といっても代金は全てケイタ持ちだったのだ。にひひといやらしい笑みを浮かべたツバサを引き連れて、学校帰りにケイタは意気揚々と青果店へと向かった。
ガラス張りのショーケースに果物を陳列するような店内での買い物は、終始豪胆を極めた。真摯にお見舞いのことだけ(!)しか考えていなかったケイタと、悪乗りに拍車をかけたツバサが一緒だったのだ。次から次へと店内には注文が飛んだ。
「ケイタ、イチゴってビタミンCが豊富なんだぜ? 風邪にはさ、やっぱり栄養が第一だよ」
イチゴを購入。
「バナナってさ、簡単に食べられるエネルギー源だよね。いま霧島さん食欲ないだろうし、買っていくといいんじゃないかな」
バナナも購入。
「おお、さくらんぼがある。お見舞いも定番ばっかりだとつまんないよね。喜ばれるかもよ?」
さくらんぼ購入。
「やっぱりねえ、メロンは定石だよねえ。ないとお見舞いって思えねえもん。な、ケイタもそう思うだろ?」
メロンを購入。
購入、購入、購入――。
当然のことながらそんなにたくさんは買えるはずがなかった。そのことに、ケイタは会計をする時になってようやく気が付いた。開いた財布の中身があまりにも貧相だったのだ。背後ではツバサが一人腹を抱えている。振り向いたケイタは苦々しい表情で睨みつけた。鋭い視線を ツバサは蚊ほども気にすることなく、そっぽを向いて無視する。
無言のまま一向に会計を進めない二人を前にして、訝しがりながらも注文を聞いていた店のおじさんは少しだけほっとしたようだった。正直なところ、普通の高校生にはこんなにも買えるはずがないと思っていたのだ。振り向いたままのケイタに向かって、何を戻しますか、と優しく話しかける。商品はもう袋に詰めてあった。
「すみません」
「いえいえ、これも商売ですから」
苦笑を浮かべるおじさんが穏やかな人でよかったと、ケイタは心の底から思った。嫌な顔をされて当然だったのだ。もちろん、浮かべた表情は接客上繕わなければならない態度だったのかもしれない。けれど嫌な顔をされるよりは百倍もましだった。もう一度一から選び直してみますと答えたケイタに、おじさんは、分かりましたと苦笑いで答えてくれた。恥ずかしかったが同時にありがたかった。
そんなこんなで再び果物を選び始めたケイタだったが、ツバサの悪意ある介入がなくなるや否や、恐ろしいまでの優柔不断を発揮し始めた。ガラスケースを覗き込んでは首を傾げ、左右に視線を行き来させてはうんうん唸る。りんごはもう決定していた。残り一種類を なかなか選ぶことができずにいた。
前傾姿勢で眼光を鋭くさせるケイタの後姿を、ツバサはじっと見ていた。よくそこまで熱心になれるものだと呆れていた。
――それほどまでに気に掛けているのか……。
ため息を吐いてすっかり手持ち無沙汰になってしまっていたツバサは外を見る。近くには喫茶店も本屋もなかった。降り続く雨を見るくらいしか暇を潰す方法は見当たらなかった。
町には細い雨が降り続いていた。弱々しいものの、確かな質量を持って降り続く雨だった。燻る町並みを、ツバサはじっと眺め続ける。薄暗い風景はしんと気持ちまでも静かにさせて要った。
しばらくしてから、ツバサは遠くから近づいてくるひとつの傘に気が付いた。膝上で翻るスカートは、見慣れた高校の制服である。誰だろうと、ツバサは興味を持った。
その人は緩やかにウェーブを掛けた髪をふんわりと纏っていて、足下を見つめる表情には確かに見覚えがあった。
どくんとツバサの心臓が脈を打つ。まさかと思った。
そこにツバサがいるなどとは知る由もないジュリは、慣れた様子で店内に入ってきた。傘を畳み、入り口の傘立てに突き刺す。入店に気が付いて、悩み続けるケイタを困ったように見つめていたおじさんは、ぱっと顔を綻ばせた。ケイタのそばを離れると、ジュリに向かって何気ない挨拶を交わし始める。どうやらジュリはこの店の常連らしかった。
ケイタを指差しておじさんは何かしらのことを口にする。ジュリはその一言一言をしっかりと受け取って、適切な相槌を打ち、誘導されるがままにケイタの姿を見る。朗らかな印象は決して崩れることがなかった。どんな時でも、誰に対してもそうなのだ。ツバサの拍動はどんどん加速していく。
できれば顔を合わせたくなかった相手だった。言葉など交わすことなく三年間を終えたいと思っていた。それでもどうしても気になってしまって、また親の影響もあって同じ高校に入学したものの、遠くから存在を確認するだけでよかったのだ。ひとつ上の学年。ツバサは時折視界の端にジュリの笑顔が咲いているだけでよかった。それだけで胸中はざわつき、それ以上の接触など考えもしなかった。
なのに、談笑を交わしながら目的の買い物をさっさと済ませてしまったジュリが、不意にツバサの方を振り返る。
悪事を見つかった子どものように息を呑んだツバサの表情を見て、ジュリの柔らかな印象が一瞬だけ硬直した。ジュリにしてみても思い入れのある相手との再会だったのだ。すぐに普段の気持ちを持ち直し、顔に笑みを浮かべる。久しく会っていなかった旧友に向けるに相応しい、最良の笑顔を心がけたつもりだった。
けれど、思いとは裏腹に、ツバサは動揺してしまっていた。そんな表情を向けて欲しくなかった。ツバサはジュリに対して強い劣等感を抱き今まで生きてきた。一時は憎しみにも似た感情にまで強まった時もあったのだ。なのに、ジュリはいつも優しかった。笑顔を返してくれた。
その度に、たちまち劣等感は自己嫌悪へとその姿を変える。朗らかなジュリといじいじと感情を育み続けるツバサ。その場に存在する大きな違いに、劣等感は更に生み出され、自己嫌悪との螺旋は下へ下へと続いていくばかりだった。
ツバサはジュリの笑顔が心底苦手だった。ジュリの微笑みは、過去も現在も、いつどんな時であってもツバサの心を乱して止まないものに違いはなかった。
たじろぎ身を固く構えたツバサに向かって近づいていくジュリの姿は、傷つきながらも毛を逆立てて牙を剥き、全身で警戒をあらわにした野良猫に向かって、そっと優しく手を差し伸べるかのような穏やかさに満ち溢れていた。
「久しぶりだね」
柔らかな声だった。
「……そうだな」
答えたツバサはすぐにでも逃げ出したかった。劣等感と自己嫌悪との連鎖がまた始まりそうになっていた。
ツバサのジュリに対する過度な反応のそもそもの原因は、二人の父親にあった。二人の父親は兄弟だったのだ。それも、とりわけ仲の悪い兄弟。顔を合わせればすぐさま相手を見下すような自慢話に始まり、最後には必ず口論になる。双方嫌な思いをして別れることが常だった。不仲の原因が何なのかは、娘であるツバサとジュリには一向に分からなかった。父親たちも敢えて口を開くようなことはしなかった。話すようなことでもなかったのだろう。おそらくはほんの些細なこと。どちらかが折れて、水に流してしまえばすぐにでも解決するようなことだったのだ。
証拠に母親同士は異様に仲がよかった。時間を取り合ってはお茶に出かけ、おしゃべりに興じて、夫同士の不仲を肴に大いに笑い合ったほどだ。共に大らかで陽気な性格だったのも交流を深める一員となっていた。繋がりを深めていく母親同士の影響は、ジュリの人格形成に大きく影響していった。
ツバサにしても母親同士の交流から影響を受けることができたらよかったのだ。けれども、気難し屋で負けん気の強い幼少時代を過ごしたツバサは、父親の影響を受けてしまった。ことあるごとに衝突し互いを見下し続けていた二人の父親は、互いに子どもが生まれたのを契機に比較対象を相互の子どもたちに移行させ始めたのだ。
勉強だ、美術だ、音楽だと、学校から帰るたびに口うるさく言われた父親の言葉が、ツバサの耳には今でも聞こえてくる。口上に挙がる名前はいつもジュリだった。母親は気にしなくてもいいと擁護してくれたが、それでも気にしてしまうのがツバサという少女だ。性格は徐々にひねくれていく。いつの間にか悪ガキの烙印を押されてしまっていた。
「ねえ。あの子、すっごい悩んでるそうだけれど、一体どうしたの?」
そんなツバサの心境などお構いなしに、ジュリはケイタのことを指差して話を進める。渋々ツバサは答える羽目になった。
「……クラスメイトのお見舞い」
「ふーん、そうなんだ」
微笑み、ジュリはケイタの後姿を見る。
「えらいねえ」
呟いた目の前の小さな後頭部を見ながら、ツバサは心中で反論していた。えらくなんかないんだと。言い出したのはケイタで、自分は単なるお付でしかないんだと。そもそも邪魔するつもりで付いてきたのだ。褒められるような立場ではなかった。
「……どうかしたの?」
「べつに。何でもない」
どうやら顔に出てしまっていたらしい。振り向いたジュリに声を掛けられると、ツバサは憮然として返事をした。できるだけ荒波を立てないままにやり過ごしてしまおうと心に決めた。ちょうどそのとき、ケイタがようやくおじさんに声をかけた。
「これください」
「はいよ、イチゴだね。どれくらい買うのかな」
「できるだけ多く」
ようやく進展が見られたケイタの背後を、ツバサとジュリはそれぞれの想いを抱きながら見つめていた。同じ室内にいるはずなのに、目の前の二人と、ツバサとジュリを包む空気とでは明らかな違いがあった。その居心地の悪さに、ツバサは思わずその場を後にしようと考えてしまう。下を向くとジュリに訊ねられた。
「クラスメイトって、誰のとこに行くの?」
ツバサには、何となく裏に隠れた意図が分かるような気がした。
「どうして知りたいんだよ」
「聞いちゃいけなかった?」
「……そんなことはないけど」
「お待たせ」
ツバサが答えに窮していたところに、ようやく会計を済ませたケイタが満足そうな表情で帰ってきた。
「いやあ、ようやく決まったよ、ツバサ。――と、この人は?」
ツバサは答えなかった。
「あの、ジュリです。初めまして」
「あ、どうも。俺、ケイタって言います。なんか機嫌悪いみたいだけど、こいつはツバサ」
「知ってる」
「え」
ケイタは、微笑を浮かべるジュリと居心地が悪そうにしかめっ面をそっぽに向けたツバサとを交互に見た。ふんわりと、穏やかな女性らしさが全体から自然と滲み出しているジュリと、おそらく自分で切っているのだろう短い髪の毛を気にする様子もなく掻き毟る男勝りなツバサとの間にどんな繋がりがあるのか、ケイタには見当も付かなかった。中学が一緒だったりするんだろうかと思ったものの、関係について言及はできなかった。ツバサに鋭く睨まれていたのである。ともすれば殺意すら滲んでいるかのような視線に、ケイタは純粋に怖気づいた。おっかないと思いながら、卒のない言葉で沈黙を埋めた。
「知り合い、なんですね」
「そうなの。ね、ツバサ」
顔を向けてきて同意を求めたジュリに、ツバサはケイタの時と同じく返事をしなかった。恣意的だったケイタの時に比べると、幾分か強い感情に突き動かされての無反応だった。
その態度にケイタは違和感を覚える。ツバサらしからぬ行動だった。いつものツバサならば、無視なんて幼稚な手段に出るはずがなかった。
二人は知り合いだという。けれども漂っているこの空気はなんなんだろう。とてもじゃないが、普通の関係には思えなかった。もしかしたら、以前何かあったのかもしれない。思ってしまうほどに、介入し難い気まずさを二人の間にケイタは感じていた。
かくして、三人の間には沈黙が流れ込んでくる。
ツバサは不機嫌で、ジュリはそのことを気にしている様子だった。そして、ケイタは何がなんだかよく分からずにおどおどするしかなかった。これ以上悪化しないで欲しいと、よく分からないなりに祈ったりしていた。そんな三人に、店のおじさんも不思議そうな視線を送ってきていた。野次馬のような、少々興味津々な表情だった。
空気は徐々に、そして確実に澱み続けていた。それぞれの思いがぐるぐると編み合わさり、捩れ、その末にいたたまれない臭いを充満し始めているかのようだった。居心地の悪さは息苦しさにも似ながら周囲へと伝播していく。おじさんは息が詰まったかのような錯覚を覚えながらも、固唾を呑んで三人の動向を見守っていた。出来上がった小さな円の中心では沈黙だけが密度を増していく。
「……その、お見舞いって聞いたけど、その子そんなに酷いのかな?」
そんな中、何とか突破口を開いたのはジュリの一声だった。
「あ、実は俺たちも分からくて。その、確認も兼ねて行こうかなあって、思ってたんです」
続いて口を開いたケイタはちらちらとツバサの様子を伺っていたが、ことごとく無視されてしまった。
「なんて名前の人?」
「あ、霧島サツキってクラスメイトのとこですけど」
「サツキって、もしかして陸上部の?」
「え、ええ。そうです。ツバサから聞いてなかったんですか?」
訊ねたケイタに、ジュリは困ったような笑みを返した。
「……私ね、先輩なの。陸上部のね。だから、風邪で休んでることは知ってたけど、あなたたちが向かう先がそうだとは知らなかった」
質問には答えていなかった。意図して答えなかったのは明らかだった。そのことが少しだけケイタには気になる。けれども、すぐに顎を掴んで考える素振りを見せ始めてしまったジュリを前にして、軽々しく訊ねるのは憚られた。場の雰囲気が閉塞的だったし、ジュリがそれを望んでいないことは分かっていた。その結果、ケイタは言葉を次ぐタイミングを逸してしまうことになる。何かしらの声をかけようかと試みて口を動かしたものの、最終的には静かに噤むことにした。そんなケイタの隣で腕を組みながら、ツバサはひしひしと嫌な予感を抱き始めていた。
しばらくの逡巡の後に、二人の視線を一一身に集めていたジュリがぱっと顔を輝かせる。
「決めた。私も一緒に付いていく」
「え」
ケイタは驚いた。ツバサが大きく顔をしかめる。どうして一緒に行こうなどと口にするのかが分からなかった。尚も一人表情を明るくさせたままのジュリが、はつらつと言葉を続ける。
「クラスメイトがお見舞いに行くんだもの、部活の先輩なのにそれを聞いて黙っちゃいられないわ。それに人数が多い方がいいでしょう」
「確かに」
提案にケイタは頷いた。空調の悪かった空間に、開いた窓から新鮮な空気が流れてきた気分だった。
「よし、じゃあ――」
「じゃあ、二人で行けばいい。あたしは帰る」
ツバサが言葉を挟んだ。窓がぴしゃりと音を立てて閉じられる。遮られる形となったケイタは口を開いたまま固まってしまっていた。視界の中でツバサが出口へと歩き始める。我を取り戻すと、慌てて声をかけた。
「お、おい、どうしたんだよ、いきなり」
「帰る」
言い放つツバサからは、頑なにこの場から立ち去ろうとする意思が感じられた。ケイタはその原因であろう人物を振り返る。どうしたらいいのか分からず、呆然と困ってしまった様子のジュリは、ぽつんと小さく立ち尽くしていた。その姿に強い憐憫が駆け上がっていた。
ケイタには二人の間の確執は分からない。過去に何があったかなんてことにはほとんど興味がなかったし、一方的であろうが反目し合っている二人なのだ、間に潜んでいる重い話には関わりあいたくないのが本音だった。口を開けば、そこから言い争いが始まるのかもしれない。一見したところでは朗らかだったジュリにしてみても、内に秘めたる想いが外見と近しいとは言えないのだ。捻くれ者のツバサが離れようとしている相手でもある。どんなことになるかは分からなかった。
しかしながら、同時にこのままではダメだとも思っていた。二人をこのまま別れさせてはいけない。この機会を逃がしてはいけない。ほとんど衝動的に思っていた。強すぎる感情を抱いているからこそ、衝突しなければ進展しない関係というものもあるのだ。突き動かされるようにして、逃げ出そうとするツバサの腕を掴んだ。
「待てって。別にいいじゃない。一緒に行ってもらおうよ。霧島さんだって、部の先輩が来てくれたら嬉しいよ。それにさ、ジュリさんも言ってたけど、お見舞いは一人でも多い方が絶対元気になるって」
最後のはどんな理屈だとツバサは思った。溜まった感情に任せて振りほどこうと腕を引く。けれども、掴まれた腕は一向に解放されそうになかった。それどころか少し痛いくらいだった。腹が立ってきて、ツバサは鋭い視線で背後を振り向く。目の前にいたケイタの表情は変に悲しそうで哀願するような感じだったのに、瞳の奥だけは芯の通った固さを保持していた。その眼差しに、ツバサは一瞬怯んでしまいそうになる。けれども踏ん張って睨み返した。これはケイタには分かるはずのない問題だったのだ。
「放せよ」
「いや、ダメだ。一緒に行ってもらう」
「どうして」
「どうしてもさ」
言ってからケイタは少しだけ横に身体を開いた。背後にはジュリが立っていた。
「ツバサとジュリさんは顔馴染みなんだろ? だって言うのに初対面の人と二人っきりで行けって言うのかよ」
諭すような声色に、ツバサはそのとおりだと反論することができなかった。淋しそうに眉をひそめていたジュリの表情を見た瞬間に、声は咽喉で消え失せ、逃げ出そうとしていた足から力が抜けてしまったのだ。
ツバサの腕から抵抗がなくなる。ほっとしてケイタは握っていた手から力を抜いた。もしかしたらまた逃げ出すかと思ったが、そんなこともなかった。ようやくケイタの表情が緩む。ジュリの方を見て大丈夫だと微笑みかけた。
「よし、じゃあ、行こう。すぐ行こう。今すぐ向かおう。な」
隣で元気良くケイタが口にする。心持ち俯いていたツバサの中で、五つ葉に茂っていた農園の感情がまた一斉に大きくなった。
ジュリがおずおずと近づいてくる。ツバサは下唇を噛み締めた。
風が音を立てて農園を通っていく。揺り揺られながらしなるひとつひとつの感情の先端には大きな蕾がぷっくらと膨れていた。
そんなわけで、みんな仲良く――などとは到底言えない経緯を経て、三人はサツキの家へと急いでいた。
ケイタにしてみても、一応の気は払っているつもりだった。最終的に一緒に行くように仕向けたのはケイタだった。それなりの責任は感じていたのである。ただ、極力介入は避けていた。怖いというのもあったし、問題は二人だけでしか解決できないだろうという思いもあった。いたずらに物事を難しくしてしまっては立つ瀬がない。目下の役割を二人が一緒にいるようにすることと決め付けて、ケイタは思うがままに歩調を速めていた。優先順位は、やっぱりサツキが一番だったのである。
先頭を歩くケイタ。その少し後に続くツバサ。最後尾はジュリだった。
後ろに着いてくる足音を聞きながら、ツバサは疎ましさと自己嫌悪が混ざり合った感情をぐるぐると渦巻かせ続けいていた。ジュリが口を利こうと声をかけてくる度に、渦巻きの速さは早くなるばかりだった。
本当なら今すぐにでもいなくなりたい。別れ道に出くわす度に、視線を送って逃げ出すことを考えていたのだ。けれど、ケイタの監視は存外しつこかった。いやがおうにも三人で向かうんだという意思がケイタからはびしびしと伝わってきた。
だからツバサは早々に逃げ出すことは諦めていた。その代わりに、この時間がすぐにでも終わること望んでいた。サツキの家に着いて、適当に時間を潰したらできるだけ早くお暇しよう。そう算段していた。それしか選べそうな道がなかったのだ。
歩く道すがらに響くのは細い雨音と、三つの足音だけだ。話もしたが、雨音と足音だけはずっと続いていた。ツバサの背後にしても例外ではない。その足音がツバサに苛立ちと焦燥感を与えてくる。
けれども、いい加減清算しなければならないという考え自体はツバサも持っていた。いつまでもジュリの影の中でうじうじしているわけにはいかないのだ。せっかくの機会だ、みすみす逃すことはあるまいとも思っていた。
ただ、どうすればいいかが分からない。
何をするにも二の次を踏んでしまいたくなるのがジュリに対する付き合い方だった。
それぞれの思いを濡らしながら、雨は静かに降り続いていた。




