黒緑を育む 上
漂っていた空間が不意に暗闇に侵食され始める。勢いは苛烈を極めた。感覚は一気呵成に暗闇へと侵されていき、間を空けることなくそれが暗闇であることを認識する。ずっと闇も光さえも存在しない無意識の海を遊泳していたサツキの意識は、閉じた瞼の裏側を視覚し、同時に重力によって縛り付けられている肉体的な感覚を思い出した。
ゆっくりと瞼が開かれる。寝起きの、ぼんやりとなかなか焦点の定まらない瞳が最初に捉えたのは、薄暗い部屋に覆いかぶさる何の変哲もない簡素な天井だった。
目覚めというものは、たとえどんな時でも場合であっても、基本的に残酷なものであるとサツキは常日頃から思っている。痛みや苦しみ、孤独や心細さ、喜びや楽しみが存在しない虚無の無意識空間から、唐突に様々なしがらみに囚われる現実世界へと引き戻されるからだ。何も存在しなければ心は波立つ理由を持ちえない。凪いだ精神状態以上に心地よい状態などありえないと思っているサツキにとって、六月も中旬に差し掛かった本日の起床も、相変わらず残酷なものに変わりなかった。
いや、より正確に表現するのならば、二度寝の後の起床と記した方がいいのだろう。ベッドのすぐそばに置いてあったデジタルの目覚まし時計は、すでに時刻が八時半を少し回ったところであることを黄緑色の電色光で示している。
辺りはしんとして静まり、人の気配がまるで感じられなかった。未だぼんやりとしたおぼろげな思考状態のままにあったサツキは、皮膚の下に氷が敷き詰めてあるような肌寒さをぞわぞわと感じて、もそもそと動き掛布団を身体に引き寄せた。
いま家の中にはサツキしかいない。両親も弟も外出してしまっていた。瞼を閉じて、小さく縮こまる。じっとりとべた付くパジャマの感触に、サツキは噴き出した汗の量を想像した。できるだけ早く着替えた方がよさそうだった。
しかしながら、サツキはどうにも動き出すことができないでいた。堪らなく億劫だったのだ。ベッドから起き上がることさえ煩わしい。ましてや服を脱ぐようなことは甚だ大変なことに思えて仕方がなかった。平時の状態と比べて不自然に火照り熱を篭らせている身体は、ずんぐりと鈍く昨夜よりも重たく感じられた。
サツキは数日前から厄介な風邪を引いていた。季節の変わり目にやってくる風邪というものはじびじびと長引いたり、やけに酷くなったりといやらしいものであるのが常である。そんなただでさえ面倒な風邪を、悪いことにサツキはこじらせてしまっていた。体温を計るたびに、体温計は三十八を中心に前後三、四分を行き来する。いつもなら漲っているはずの気力は、節々の間接から霧状となって漏れ出してしまったようだった。健康な時の半分ぐらいの速さでしか動ける気がしない。萎んだゴム風船に気持ちがあるとすれば、こんな気分なんだろうなとサツキは思っていた。
身体がだるい。咳と鼻水が止まらない。不定期にやってくる激しい頭痛は、白波のように頭蓋骨に打ち砕けては引いていく。加えて、食欲までもほとんど皆無に等しかった。無理やり胃に押し込んだ栄養たっぷりな病人食の数々は、どれも味を感じられなかった。腹痛や吐き気など、お腹周りの変調だけでも現れなかったが唯一幸いなことだった。これでもし胃腸までやられてしまっていたとなれば、あまりの辛さにサツキは健康な人や風邪を引いてしまった自身のことを呪っていたに違いない。風邪は心の持ちようにまで影響を及ぼし始めていた。
引き寄せた掛布団を顔まで被りながら、サツキは起きてから早々に詰まった鼻腔をうざったく思った。もぞもぞとそばに置いてあったティッシュ箱に手を伸ばす。鼻をかんだ音は、ぶ厚い膜を間に挟んでいるかのように遠く、くぐもって聞こえた。
今日で学校を休み始めて三日が経過していた。始めの一日二日こそ風邪薬を服用して勇んで登校したものの、容態は一向に回復しなかった。余程サツキの免疫力が衰えていたのか、さもなければ性根の腐った性格をした風邪菌だったのだろう(サツキは後者だと考えている)。心配した母親が、翌日から学校を休ませるようになった。同日に診察した医者は、薬を飲んで安静にしていればすぐに治るよ、などと適当なことをぬかしていたが、サツキの実感とは甚だかけ離れた気休めにしかならなかった。
自身が発する口呼吸の音だけがサツキの耳に届く。家族が皆外出してしまった家の中には、何一つ物音の原因となるようなものは存在していなかった。共働きの両親は今日も自らに活を入れて出社して行ったし、最近生意気を口にするようになった弟もいそいそと戸口を出て行った。一人パジャマ姿でお粥を食べていたサツキだけが、そんな三人の後姿を見送った後で再びベッドに横になったのだ。自分以外誰もいない家の空間。そのことを、サツキは少しだけありがたく思っている。
べつに両親が嫌いだとか、弟がむかつくからだとか、そんなちんけな理由からではない。サツキはむしろ両親のことをありがたく思っているし、弟のことも可愛がっているつもりだった。ただ、今だけは何者にも邪魔されない完成された静寂がほしかった。雑音をできるだけ遠ざけておきたかった。主に、折を見て訪れる津波のような頭痛を増長させるのが一番の原因だったけれど、そもそも声がしたり物音がしたりするよりかは、サツキは静かな空間の方が幾分も好きだった。
寝返りを打って、再びサツキはぎゅっと身体を小さくする。がさごそと布団が擦れあう音がしばらく続くと、後は何も聞こえなくなった。静寂だけが満たす部屋の中で、サツキはじっと息を潜める。呼吸音が耳障りだった。意識してしまったら最後、耳に纏わりつく音を小さくするにはゆっくりと呼吸する他なかった。
「…………雨」
しばらくしてから、ぽつりと口にした。頭まで被っていた布団を少し持ち上げて、洞窟の奥から窓の外を見る。薄いレースのカーテン越しに見た町並みには、明るさがほとんど感じられなかった。空気に触れすぎた町並みが、片っ端から酸化して色褪せてしまったようだった。
窓の向こう側で、糸のように長く細い雨が降り続いている。つい先日訪れた本格的な梅雨の到来は、サツキの部屋の空気にもしとやかに影響してきていて、湿っぽいにおいがどことなく漂い溢れていた。
小さな小さな鎖を、フローリングの上にゆっくりと引き摺るような音が、絶え間なく空間を満たし続けている。その決して途切れることのないささやかな音色は、静かに世界中を埋め尽くそうとしているようにサツキには思えた。
午前の授業を二つ終えた後に、ようやくケイタは教室の中にサツキの姿が見えないことに気がついた。当然のことながら、黒板の隅にはサツキが欠席していることが明記されている。他のクラスメイトたちは当たり前のように全員知っていた。ケイタだけが今の今までまったく気がつかなかったのだ。素振りさえ見せることがなかったその鈍さは、ある種の崇高な風格を湛える極地にまで達したと言っても過言ではなかった。
ただ、何も考えがなかったわけではない。サツキの欠席に気が付かなかったのにはとある理由があった。
ケイタは、朝から姿の見えなかったサツキが遅刻してくるものばかりに思っていたのだ。
昨日一昨日と共に学校で顔を合わせることが叶わなかったケイタは、まったく味気ない時間を過ごしていた。授業は相変わらずつまらないし、いつも以上に眠たくなる。姿が見られないだけで日々は色を失い、単調に単調を重ねた平坦なものになってしまっていた。サツキがいない。やる気は乱高下し続けていた。サツキの存在はケイタの中で大きなウェイトを占めるようになっていたのだ。
だから、いい加減サツキには登校してもらわなければならなかった。そうじゃなければ、退屈すぎて腐ってしまいそうだったのだ。それで導き出されたのがサツキの遅刻である。ケイタ自身、どんなに酷い風邪を引いても二日も寝ていれば完治してしまうというのも要因のひとつにあった。おそらくサツキにしたってそうだろうと思い込んでいた。
そもそもしっかりと黒板を見なかったのが悪いのだが、自分の経験をサツキに適応し勝手に期待していたケイタには、現実ははいささ残酷すぎた。欠伸を噛み殺し噛み殺し、何とか眠らずに退屈な世界史の授業から解放されと言うのに、ケイタは力なく机に突っ伏してしまった。束の間の休息を満喫し始めた騒がしい教室の中で、その姿は陸に引き上げられた蛸のように浮き立っていた。
そんなケイタの背後に忍び寄る影がひとつ。抜き足差し足近づくや、両脇腹を思いっきりくすぐり始めた。
んはっ、とも、おほっ、とも取れない奇声を発しながらビクンと飛び上がって、ケイタは身を捩り始める。
「ちょ、や、やめい!」
勢いよく立ち上がって後ろを振り返った。両手を挙げて手を離していた人物――いつも意味深なにやにや顔を浮かべているツバサは、頭ひとつ背の高いケイタの怒った顔を見上げいた。
「なにすんだよ」
「いやあ、暗いからさあ。こう、がつんとひとつ元気付けてやろうと思って」
「余計なお世話だ」
気を害してそっぽを向いたケイタを、にやけた笑みを深くしたツバサがしつこく追求する。
「お相手さんがいないから落ち込んでるのかい?」
言葉に、ケイタはゆっくりと振り返った。表情は厳しく、眉間には皺が寄っている。あからさまに不機嫌な顔をしていた。
「だったら何だよ」
「べつに。熱心なことだと思うだけさ」
「それだけじゃないくせに」
「ほんとだぜ? 人聞きの悪いことを言わさんな」
答えて、ツバサは肩を竦めた。ケイタは疑念のこもった目を投げかけて続けていた。
絶対、よからぬことを考えている。ケイタには確信があった。何せ、二人の付き合いは相当なものだったのだ。ケイタの記憶に刻まれたツバサに関する多くのエピソードが、ここぞとばかりにありありと光を放ち始める。決して煌々たる清らかな光ではない。臭気を光で表したような、禍々しい眩きだった。ツバサは油断ならぬ人物なのだ。そのことをケイタは実によく理解している。
「まあそんなに邪険にしないでちょうだいな。今までだってケイタにはそんなに悪いことしなかっただろ?」
「去年のクリスマス……」
「やだなあ、あれはジョークじゃないか」
へらへらと笑うツバサを睨みながら、あんなジョークがあってたまるかとケイタは憤った。思い出して、ますます視線は厳しさを増した。
雪がちらついていた去年のクリスマスの出来事である。帰路に着こうと学校の校門をくぐったケイタは、突然見知らぬ女生徒からプレゼントを手渡された。彼女は極度の緊張のためか青い顔をした上に妙に慌てていた。押し付けられるようにして十センチ立方の小箱を受け取ったケイタも釣られて赤くなってしまったほどだ。走り去っていく後姿を呆然と眺めていた。そこを背後からツバサに声を掛けられたのである。
「何だよ、今の子」
思えば、ツバサの笑みはいつにも増して濃くなっていたような気がする。しかしながら突然のことに驚いていたケイタには、そんな小さな変化に気が付く余裕などあるはずもなかった。たどたどしく事の次第を伝える。少しは嬉しかったのだ。
「それさあ、ケイタに気があるってことなんじゃねえの?」
肘でわき腹を突きながら囃し立てるツバサの言葉に、ケイタは簡単に翻弄されてしまった。終始、スポンジの上を歩いているかのような現実感のなさを抱いたまま、ツバサと別れ家に帰った。逸る気持ちを抑えつつ、それでも強く脈打つ心臓の確かな音を聞きながら、ケイタは小箱の包装を開いたのだ。
「ゴキブリの塊をクリスマスプレゼントとして贈るのはジョークじゃ済ませない」
当日のことを思い出して鳥肌を立てたケイタは、厳しい口調でツバサに反論した。あの中身を見たときの恐怖、黒い影がわさわさと部屋へと解き放たれていった絶望感、そして箱の底に貼り付けてあったツバサの筆と見られるメッセージに、もう六ヶ月近く経とうとしているが、ケイタは真新しい怒りを覚えた。
「でもケイタ、受け取った時いい表情してたぜ?」
問題はそこではないのだと声を荒げてやりたかったが止めた。どう転ぼうとツバサが反省することなどありえないことが、よく分かっていた。なにせ、少々度が過ぎるイタズラこそがツバサの生き甲斐なのである。とんだ生き甲斐もあったものだとは思うが、なにぶんどれだけ言葉を尽くしても変化が見られなかった性分だ。更正は無理だと諦めていた。
「霧島さんにだけは、変なことするなよ」
釘を刺して置いた。今までにツバサの魔の手にかかった者は老若男女隔てなく数知れないのだ。ほんの気まぐれで、サツキにまでも危機が及ぶ可能性は十二分に考えられた。
「大丈夫だって。心配すんな。ケイタのお姫様には手は出しませんよって。あの人おっかねえもん」
言いながらも口調からはまったく真意が見えないのがツバサである。ケイタの心配は積もるばかりだった。だが、いくら心配したところでやるときはやるし、やらないときはやらないのがツバサのイタズラだ。思い返せば、病人には優しかったような気もするし、子どもには手加減をしていたような気がする。老人は腰を抜かして動けなくなるほど驚いていたし、おっさんは涙を浮かべて走り去っていったはずだ。
不安はまったく拭えない。拭えないが、それでも気にしていてもしょうがないだろうとケイタは結論付けた。要はツバサの匙加減でしかないのだ。
「本当に自重しろよな」
「へいへい。嫌だねえ、熱に浮かされた男ってのは」
呆れ顔で答えたツバサの言葉に、ケイタは敏感に反応した。
熱。
サツキは今も随分と治りの遅い風邪に苦しんでいるのだ。ツバサの出現によって一時は身を潜めていたサツキへの心配が、再びケイタの表情を曇らせた。
「まだ、良くならないのかな……」
口うるさい言葉になどすっかり興味を失くし、キョロキョロと落ち着きなく視線を周囲に配っていたツバサの隣で、ケイタが大きく肩を落とした。盛大なため息が後に続く。声は消え入りそうな程にか細かった。
「じゃねえの? 学校休んでんだもん」
「だよなあ……」
呟いたケイタには、今世紀最大の不幸を前にしているというのに、何一つなす術が見つからなかった。もとよりできることなど皆無に等しかったのだが、局への申請が二時間遅れたために、ベルに発明を先取りされてしまった発明家のような気分になった。種類こそ違えど、自分自身の力では到底どうにもならない事態というものは、気持ちをとても弱くする。
心配することしかできない。良くなるように、遠く学校から祈ることしかできない。サツキの苦しみを取り払う力にはなれない事実は、ケイタの背中にずしりと圧し掛かってきていた。重さで項垂れた頭の角度は更に大きくなる。
隣で哀れな長身の友人の姿を横目で窺っていたツバサの目つきは、少々冷めたものになっていた。鼻で笑ってから口を開いた。
「ちゃちな風邪で死んじまうようなガキじゃあるまいし、そう悲嘆に暮れることはねえよ」
「でももう三日になるじゃないか。ただ事じゃない」
「そりゃ時には酷い風邪を引くこともある」
「俺ならどんな風邪でも二日で治るよ」
「それはケイタが特殊なだけだ」
「……そう思えば、最後に登校してきた時も調子悪そうだったかも」
ぐじぐじと心配事を口にするケイタを見ながら、ツバサはどうにも面倒くさくなってきていた。始めこそ、なにやら急に肩を落として机に突っ伏してしまっていたケイタを元気付けようと思っていたのだが、これではツバサまで滅入ってしまいそうだった。周りの様子には無頓着なままいつも眠たそうにしていたはずのケイタが、やけに饒舌なのも気に食わなかった。そう言えば、最近いつにも増してケイタは授業中にそわそわして落ち着きがなかった。姿を思い出して、ツバサの機嫌はますます悪くなる。
単純に、ツバサはサツキを疎ましく思っていた。これまでケイタに構っていたのはツバサくらいのものだったのだ。眠そうなケイタに付き合ってやれるのは自分くらいしかいないと思っていた。
けれどそこにサツキが現れた。ケイタは大きく変わってしまった。そのことが何よりも腹立たしかったし、自分だけが友達だったケイタを横取りされたような気がしてツバサは落ち着かなかった。
そもそも、ツバサとケイタの出会いは小学校時代にまで遡る。その頃からぼうっと眠そうにしていたケイタを見て面白い奴だと思い、ツバサが話しかけたのが始まりだった。周りに無関心なケイタと、悪名高き悪ガキだったツバサという奇妙なコンビは、それ以来付かず離れずで日々を過ごしてきた。ツバサがケイタにちょっかいを出してケイタが面倒くさそうに顔をしかめるのが専らだったが、なぜか息が合った。ツバサはケイタの隣だとどんな場所よりも活き活きすることができたし、自然に振舞うことができた。ケイタの一番の親友であるとの自負は、ツバサの中で自ずと育っていった。どんな時でも変わらないケイタの人柄が面白くて、だらだらと中学校でもつるんでいた。
なのに。それがこの春から一変した。高校も市の中でも有名な進学校に進んだ二人だった。去年はクラスが違ったためになかなか顔を合わせる機会がなかったので、今年からは一緒のクラスだなと笑い合った始業式の日のことだった。
教室に入るや、ケイタの両目は大きく開かれた。今まで休眠し続けていた本能がとうとう動き始めたのかと思うような変化だった。休み時間、眠そうに机に肘を突くケイタの近くの椅子に座ってくだらない話をすることができなくなった。昼休み、一緒に購買に向かって人ごみに揉まれてからご飯を食べるようなこともなくなった。どれもこれも、ケイタがサツキの下へと一目散に駆け寄っていくからだった。同じ教室に居るのに、ケイタとの距離は一年生の頃のそれよりももっと大きくなってしまったようだった。ツバサは次第にもどかしさを感じるようになっていた。
そこに生まれたのがサツキへの疎ましさである。確かにケイタの一目惚れが原因で交友が減ってしまった事実はある。サツキには何一つ悪いところはなかった。けれども、現に今もケイタは学校にいないサツキのことを気に掛けている。その想いの強さは、誰の目から見ても慮るに有り余る強さであるのは明らかだった。
サツキがケイタのことを迷惑に思っているのはツバサにも分かっている。だが、それが何だというのだ。嫌なら嫌で本当に、本気で断ればいいじゃないか。悶着を起こす二人の姿を見るたびに、ツバサの歯がゆさは増していくばかりだった。
サツキさえ同じクラスにいなければ、このような現状にはならなかったのに。他のクラスにいって時間の問題だったのではないかという反論もあるかもしれないが、ツバサにしてみればそれでも確立がうんと下がった分、現状よりも幾分もましだった。
どうして同じクラスになったんだ。休み時間になるたびにケイタの姿を眺め、そのケイタが嬉しそうに話かけているサツキに視線を移し、そのあからさまに迷惑極まりないといった雰囲気を感じるや、ツバサの中にはそんな黒い感情がひとつまたひとつと芽吹いていくのだった。
お前さえ居なければよかったのに。
ツバサが抱く黒い感情の芽吹きは、今や大きな農園を形成し始めている。緑々と四方を埋め尽くすその農園に、終わりは見ることができない。様々な外的要因から、感情はひとつまたひとつ芽を吹き、そして育っていく。
「俺、どうしたらいいんだろう」
黒い感情の畑がツバサの胸中に出来上がっているなどとは露にも思わないケイタは、顔を上げると哀願するように隣の悪友の方を向いた。そんな表情しないでくれと胸中で叫んで、ツバサは込み上げた激しい感情を見せまいとケイタから視線を外した。
「知らん。見舞いにでも行ったらいいじゃないか」
つっけんどんに声に出してから、ツバサはしまったとは思った。やってしまった。むざむざとサツキに近づけるような助言をツバサは自らで口に出してしまったのだ。
ゆっくりと振り向いて見れば、ずっと元気がなかったはずのケイタの表情には光が射し戻っていた。見る見るうちに丸まっていた背筋は起き上がり、いつもいつも眠そうに閉じられている瞼は大きく開かれてる。
「それだ。それだよ、ツバサ。たまにはいいこと言うじゃないか」
そんな嬉しそうな声に、ツバサは胸の中に複雑な感情を思い描く。サツキは本当に疎ましいのだ。けれど、そんなサツキのことで思い悩んでいるケイタに向かって解決への道を指し示すことができるのは、サツキに関わることでしかありえない。そして嬉しそうな表情のケイタを見るのは、ツバサ自身喜ばしいことであったのだ。
ケイタが元気になるのは嬉しい。けれど、その手段が甚だ気に食わない。
明るく、ようやくらしい表情を取り戻したケイタの姿を見上げながら、ツバサの中で黒い感情が一斉に生長を遂げた。双葉ほどの芽吹きだったそれらの感情は、少し大きく、葉を五つほど茂らせるようになった。
サツキ憎し。
思いながらも、浮かべたにやにや顔には決して腹の底を覗かせることはしなかった。多少引き攣ってはいたものの、元が鈍い上に舞い上がっているケイタには気づかれるはずがなかった。それがツバサという女であり、ケイタが油断ならぬ人物であると感じる原因でもあった。




