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梅雨前線北上中 後編

 昼休みの人が多い廊下をずんずん進みながら、サツキは無限に増幅するイライラを堆く募らせ続けていた。

「どこ行くのさ」

「うるさい」

「一緒に話そうよ」

「黙れ」

 原因は、ひとえに歩調を合わせて一定の距離を保ちつつ、ずっとサツキの背後を着いてくる人物がいるためだった。他に誰がいるわけでもない。ケイタだった。

 もう今日はこのまま早退して、明日から登校拒否してやろうかしら。どこか身体の調子がおかしいわけでもないのに、ずかずかと歩調を速めながら、サツキはそんなことを考えた。たった一人の人間がいるためだけにそんな行動に出ることは、サツキの主義に反するものだったが、半ば本気で考えてしまった。このやかましいバカに付きまとわれることのない平穏な日々が実現するというのならば、なんと幸福で素晴らしいことなのだろう。ついつい思ってしまうほどに、ケイタは執拗で、鈍感で、そしどこまでも能天気な迷惑野郎だった。

 そもそもこのようなことになった大本の原因は、ケイタがサツキに惚れてしまったからだった。クラスが一緒になった高校二年の春、一年生の時のような初々しさは見当たらないもののどこかよそよそしいクラスの中で一人外を眺めていたサツキは、ケイタに一目見られて惚れられてしまった。直感的に、または野生的に、サツキはケイタに仲良くなりたいと思われてしまったのである。

 それからは連日の「好きだ」口撃である。もううんざりだった。口にぐるぐるとガムテープを巻いてやりたかった。そのまま窒息してしまえばいい。想像した、ふごふごと鼻を大きくさせて苦しそうな呼吸をするケイタの姿はどこか滑稽で、サツキのイライラを少しだけ発散させてくれた。

 ケイタが口にしている「好きだ」という言葉は、サツキにはまったく理解できないものだった。その言葉が持つ意味が分からないのではない。ケイタが口にしている意味が分からないのだ。もっと違う言い方があるのではないかと、腹が立ってくる。なぜならば、サツキにはどう考えてもケイタに好かれているという実感がなかったのだ。

 いや、好いてはいるのだろう。交友関係を持つ程度にはなんら差し支えない感情だとは思っている。しかしながら、そこからは恋愛感情の如何をまったく汲み取れなかった。たとえ最初はあったとしても、サツキにはもう感じ取ることができなくなっていた。ケイタにしてもそれで不自由に思うようなことはなかっただろう。擦り切れた言葉は、持ちえたはずの意味を徐々に失っていくものなのだ。

 そんなわけだからサツキはますます苛立ちを深めるのである。もう少し言葉を選んでくれていたらよかったのにと繰り返し考えては腹が立ってくるのだ。要らぬ考えを巡らせてケイタのことが怖くなった自分が恥ずかしかった。仕方がなかったと言えなくもないような気もするけれど、それでも明確に消したい過去の汚点になっていた。

 ――誰かのせいで……!

 サツキの歩みは更に早くなる。

 こんなはずじゃあなかった。本当は、もっと静かに過ごしていられるはずだった。

 二年生になったサツキは、意図して周囲に近寄り難い雰囲気を撒き散らしていた。できるだけ人付き合いを遠ざけていたかった。煩わしいという思いもあったし、苦手に思っていたのだ。だから一人で外を見るよう心がけていた。生れ付きの三白眼のお陰で、本人が思っていた以上にサツキはいつも不機嫌に見て取られていた。いい兆候だった。

 一人で外を眺める時間が膨大になったサツキは(といっても、実質、新学期が始まって一週間しかなかったわけだが)、楽だと実感する一方で、どんどん気持ちが凍っていくような感覚を覚えていた。そういえば、と数ヶ月前にあったある出来事を思い出す。話をしながら普通に相手を見ているつもりだったのに。次第に相手の口ぶりがおとなしくなっていった。妙に気まずい空気が満ち始めていた。最終的には話し相手に要らぬ気を使わせてしまったことがあった。

 あのさ、と気まずさの中でおずおずと切り出したその人物は、サツキの機嫌を伺うようにして、どうして怒っているのか分からない、睨まれてるみたいで怖い、と申し訳なさそうに伝えてきた。サツキにしてみても驚きだった。どうしてそんなことを言うのか分からなかった。サツキは普通に話していたのだ。相手に対して煩わしいとか面倒だとか、何一つ考えることなく話していた。

 慌てて上目遣いで様子を伺ってくる相手に、そんなつもりはないよと、怒ってなんかないと微笑みかけたものの、それ以来サツキはあまり嬉しくない噂を聞くようになった。相手があまりよろしくなかったのも原因として考えられるのだろう。その子はとても可愛くて、男子はもとより女子の中でも人気者。か弱いお嬢様気質とでも言うべき雰囲気を放っていたために、不要な従者達が生まれていたのだ。

 ――霧島ってさ、しょうちゃんのこと嫌ってるらしいね。

 ――えー、なんでー?

 ――さあ。自分より可愛がられてるからとか?

 ――うわぁ。なにそれ、酷くない? 霧島最悪。

 ――しょうちゃん、可哀想。

 ――身の程を知ったほうがいいんじゃねえの?

 ――キモイんだけど。

 ――ブス。

 ――死ね。

 たとえそこに真実がなかろうが、ちょっとしたきっかけで言われてしまうことはやっぱり言われてしまうのである。全てがサツキの背後で行われていた。サツキの目の届かない場所で、サツキの目の届かないうちに、着々と伝染し続けていた。そんな表には決して出てくることのない悪意を感じながらも、日々の中では気にしていない風体を保ち続けていた。変わらぬ笑顔を振り撒き、誰が陰口を言っているとも分からないままにおしゃべりをして、サツキは一人で静かに傷ついていった。

 悔しくなかったのかと問われれば、悔しかったとサツキは答える。悪くはないのに、理不尽な排斥を受けることは非常に堪えることであったのだ。だが、だからと言ってなにができたのだろう。ことの発端となった相手の周りには優秀な護衛が目を光らせていたし、サツキ自身それらに抗うだけの強さを持っているわけではなかったのだ。だから、仕方がないと思った。諦めるにも似た思いを抱きながらも、次第に人を遠ざけるようになった。どうせ、もう半年もしないうちにクラスは変わるのだという思いもあった。

 だから、何もしないまま、成り行きに身を任せていた。一人でつまらなさそうに頬杖を突いて、外を眺めながら時間を潰すことが増えた。周りからはますます感じ悪く取られてしまい、人は前にも増して近づいてこなくなった。そのうち、霧島は孤高の人などというような認識が広まってしまった。雪が降り始めた頃、当初の人物との誤解はいつの間にか消滅していたものの、クラスメイトとの距離はもう二度と戻りはしなかった。

 数ヶ月前のサツキは、そんな気楽だけれども死ぬほど淡白な日々を過ごしていた。だから今年もそれが続くと思っていた。日々に慣れていたし、人に苦手意識を抱いてしまうようになっていたから、一人でいることはそんなに苦じゃなかった。それに、それでもやっていけないことはなかったのだ。一人でいる分だけ自らに責任がかかり、それだけ大きくなれる。強くなることができる。空元気で考えて、それでもいいやと思ってしまった。きっと、三年生になっても変わらないのだろうと思った。そのまま卒業してしまえばいいと考えていた。

 なのに、ケイタと出会ってしまった。鬱陶しい阿呆に付きまとわれることになってしまった。

 サツキの日々は激変する。静かだったはずの毎日は急にやかましくなり、凪いでいたはずの感情は荒立つようになった。怒鳴って逃げて、ちょっと前までは気味が悪くなって、姿が見えないと安心するような日々を過ごしていた。

 そのことが、サツキには少し不思議に思える。もしこのままお互い知らないままだったら、偶然クラスが一緒にならなかったのならば、果たしてどうなっていたのだろうと。起こり得なかったことを考えてもどうしようもないのだが、ふとした瞬間に考えてしまうのだ。私はどんな毎日を過ごしていたんだろう……。

「霧島さん、そんなに急いで――もしかしてトイレだったりするの?」

 後ろから声を掛けられて、きっと穏やかな日常が続いていただろうにと、サツキは忌々しく思った。

 ため息を吐き、前を向けば、ちょうど廊下の突き当たりにやってきていた。左に折れれば階段がある。サツキは今しかないと思った。ストーカー気質の鈍感バカ野郎を振り切るには、もう今この瞬間しかない。

 少し背後の気配を確認してから、隙を見て思いっきり右足に力を込めた。左に曲がると同時に強く踏み込んで加速。二歩でできる限りトップスピードまで持っていき、一番上から四段飛ばしで降り始めた。サツキは陸上部に所属している。三階から一階まで一気に降りて廊下を走り抜ければ、ケイタから逃れられるような気がした。

 当然のことながら脚には自信があるサツキだ。長い髪の毛を逆立てながら、飛ぶようにしてするすると階段を降りていった。四歩といかずに踊り場から次の踊り場へと降りていく。手摺を駆使し、できるだけ降りてきた勢いを殺さないように遠心力に任せたターンを決める。一歩進むごとに、一階から四階まで全ての階に突き刺さるかのような足音が響いていた。

 途中で誰ともすれ違わなかったのが幸いした。そうじゃなかったら酷い事故を引き起こしていたかもしれないし、なによりも翻るスカートのために恥ずかしい思いをしなくてはならなかった。ともあれ、サツキはものの十数秒で階段を駆け下りることに成功した。しかしながら、まだ安心することはできない。不意を突いてやったために離れることができたものの、上からはどたどたと地鳴りのように大きな足音が聞こえてきていた。ケイタは慌てて後を追ってきていたのである。

 振り返ることなどせず、階段を踏破したサツキは更に両足に力を込める。今度は全力疾走だった。職員室や保健室、進路資料室に玄関などが集中する一階は、生徒が多いその上の階に比べれば随分と走りやすい。目的地を思い浮かべて、サツキはがらがらの廊下を駆け抜けていった。逃げ切ってやる。そんな決意と共に。

 言うなれば風になったような感覚だった。空気を切り進む感触が肌に、音が耳に届いていた。情報が身体に奇妙な浮遊感を生んでいた。思いっきり廊下を蹴っているはずなのに、手足が変にばたついているような感覚がある。そんな不思議な疾走感を味わいながら、サツキは全力で先を急いでいだ。

 校舎と校舎とを繋ぐ渡り廊下。購買部のおばちゃんが颯爽と駆け抜けたサツキを不思議そうな視線で追いかけた。

 再びリノウムの廊下。人影がちらほらと確認できた。歩く教師の姿もある。まずいと瞬間サツキは思った。けれど、すぐに気持ちを持ち直した。

 全ては追っかけてくるケイタが悪いのだ。自分は何も悪くない。自然とにやける頬を直すこともせず、サツキは人影の左右を通り抜けていった。背後には怒声が投げかけられた。

 無視。続いて体育館通路。館内からバスケットボールが床を叩く音が響いてきていた。上履きが床を擦る音も、楽しそうな掛け声も聞こえてくる。サツキはそんな体育館の周りを周回するような形で通路を走り抜ける。

 最後に武道館脇の猿渡に出た。人気のないその場所を疾走していく。少し緑の匂いがしたような気がした。

 そうしてサツキは、目指していた大きな記念樹の元まで辿り着いた。

 上履きのまま記念樹に近づき、幹に手を突いて息を整える。振り返って、ケイタが追ってきていないことを確認した。人影も気配もなし。ようやくひとつサツキは安堵の笑みを浮かべた。そのままがっくりと肩の力を抜いて項垂れる。バカバカしくて笑えてきてしまった。振り返り、幹に背を預ける。ずるずると、腰は自然に下りていった。

 なにをしているんだろうと、ケイタと一悶着を起こした後でサツキはよく考える。なにを楽しんでいるんだろうと。

 サツキはケイタという人物のことこそ嫌いだったが、こうして追い駆けっこをして少し疲れることはそれほど嫌いではないのだった。むしろ面白いと思っているほどだ。どうしてなんだろうと考えるたびに、ただ単に体を動かしたいだけなのだろうと、サツキはいつも結論付けるのだが、これがどうしてか部活動のときとは違った爽快感があった。逃げるということに快感を覚えてるのかもしれない。校内を走るから楽しいのかもしれない。具体的な原因は分からないものの、陸上のトラックを駆け抜けたあとの、限界まで至る達成感とはまた違った喜びがそこにはあった。

 純粋に走るだけじゃない、もっと様々な要因が混み合ったが故の喜びが、そこにはあるように思えた。

「お、見つけた」

 ざわざわと、風に揺られ木漏れ日を千万に散らす木の葉を見上げていたサツキは、聞こえてきた声に露骨に顔をしかめた。

「いきなり走り出すなんてずるいじゃないか」

 なんの断りもなくごくごく自然に、自らがそこに納まるのが一番だというように、ケイタはサツキの隣に腰を降ろした。

「お陰でちょっと探しちまった」

 見つけてくれなければよかったものをと、サツキは微笑みかけてくるケイタのことを苦々しく思いながら睨みつけた。こいつの脳内シナプスは正常に働いているのだろうかと本気で考えてしまった。

 にこにこと、睨みつけるサツキの眼差しを一身に受け止めていたケイタは、ほっと小さく息を吐くと、ふと広がる青空を見上げた、つもりだった。

 真っ青なはずの空は、しかし木の葉に遮られてまったく見えなかった。ぼんやりと、空白の中に文字が滲み浮かび上がるようにして、ケイタは残念だと思った。霧島さんと一緒に並んで座って綺麗な空を見上げることができたらよかったのにと、そうすれば二人でとても素晴らしい時間を過ごすことができたのにと、勝手なことを考えて、それからそっと微笑んだ。

「葉っぱ、すごいな」

「……もう六月だもの、当たり前じゃない」

「だねえ」

 言って、ケイタは目を閉じた。そよぐ風が心地よかった。風は若葉の匂いをまとっていて、もしかしたら黄緑色をしているんじゃないだろうかと、暗い瞼の奥でケイタは考えた。だとしたら、とても綺麗なんだろうなと。

 そういえば、緑という言葉を前面に押し出した歌があった。明るく軽快な音色に乗せて、父親と息子が語り合う歌詞だった。メロディをふと思い出して、ケイタはふんふんと鼻歌を紡ぎ始める。歌詞は二番までしか知らなかった。当然のことながら七番まで歌詞が続くなんてことは知るはずがなかった。吹きぬける風の心地よさと歌の明るい音色を思い出して、思わず歌いだしてしまったのだった。

 隣で目を閉じたまま気持ちよさそうに鼻歌のグリーングリーンを歌いだしたケイタをじと目で見つめつつ、サツキはこっそりため息を吐いた。

 だめだ。やっぱり、こいつからは逃げられない。学校という閉ざされた場所では、どうにも限界があるのだ。登校する限りケイタとの接触は避けられない。顔を合わせる度に憂鬱になることだった。

 ――私は一人になりたいのに。

 膝を抱えて小さくなってから、サツキは地面の草を引きちぎった。弱い風に載るように、ぱらぱらと目の前で落とした草は、けれどひとつも風に載ることなどないままにサツキの膝の上に落ちるばかりだった。

「どうして私になんか構うの?」

 聞こえてきた唐突な質問に、ケイタは鼻歌を止めて目を開いた。見れば、隣で膝を抱えたサツキが、首を捻ってケイタの方を向いてきている。その素朴な視線に、ケイタはまず身体をサツキの方に向けた。それから立てていた膝を正座に直して、まっすぐに視線を見返した。それがケイタにできる精一杯の誠心誠意だった。

「好きだからです」

「それはもう聞き飽きたよ」

 苦笑して、サツキは首を元に戻した。膝に顎を載せて、再び無視の姿勢に入った。バカでアホで能天気なケイタをやり過ごすには、これしか実用的な対策がないのだ。それしか知らなかった。

 そんなサツキの様子を見て、ケイタも黙ることにした。しばらくサツキの様子を見ていたが、ふと頭上を見た。葉っぱしか見えなかったけれど、隙間から宝石のように光る木漏れ日を見ることができた。頬に当たるじんわり温かな光が素早く顔の上を移動する。もう一度視線を戻してみれば、木漏れ日を浴びながら、柔らかな苦笑を浮かべるサツキの姿がとても神秘的にケイタの瞳に映った。

「私なんてつまんないじゃない」

 ぽつりとサツキが呟く。

「オシャレに気を使ってるわけでもなければ、テレビとか、雑誌とかに精通しているわけでもない。交流が少ないから校内の恋愛事情も知らない。そもそも、目つきが悪くていつも機嫌が悪いように見える。そんなつまんない女の子を捕まえてさ、あんたはなにがしたいのさ」

 訊ねられて、ケイタは返事に詰まった。ここはしっかり答えなければならない場面だと頭では理解していた。けれども、なかなか言葉が出てこない。適切な、または正しい言葉が自身の中に見つからないのだ。それがもどかしい。とてもとても、もどかしかった。

 ケイタ自身、最近「好きだ」という言葉は少し違うような気はしていたのだ。だから、もう使えない。使わない。ここは真剣に本心を伝える場面なのだ。考えて考えて、見つけ出した本当の気持ちをちゃんと伝えなければならない。殊サツキに関しては異常にしつこくなるケイタだったが、同時に勘の冴えや頭の回転も鋭くなるみたいだった。そんな、活性化した頭でふつふつと考える。どうして俺はサツキのことが気になるんだろう。

「……落ち着く、からかな」

 続いた沈黙の間に考え抜いた答えを、ケイタは口にした。

「落ち着く?」

「そう。落ち着く」

「なにそれ。ぜんぜん分かんないよ」

「うん。俺もよく分からん」

 なんじゃそりゃと、サツキは表情を歪ませた。

「でも、だから俺、霧島さんと話がしたい。落ち着くから一緒にいたいんだ」

 まっすぐサツキの方を向いて、ケイタははっきりとそう告げた。目の前のサツキは、変わらず組んだ腕の上に顔を載せていたものの、少し驚いたような、目を大きく開いてケイタの方を見つめてきていた。

 ――ああ、なんだ。そんな顔もできるんじゃないか。

 予期せず珍しい表情を見ることができたケイタは、サツキがどうしてそんなに否定的に自分を捉えているのか、また己の本当の気持ちがどういった言葉で表せることができ、どうすればしっかりと伝えられるのかが未だに分からなかったのだが、それでも今はこれで十分なような気がした。

 不意に、予鈴が鳴る。聞いた二人の身体はびくりと反応し、どちらともなしに即座に立ち上がった。ここは帰るべき教室から一番遠い場所なのだ。全力で走らなければ、とてもじゃないけれど間に合う距離ではない。

 先に陸上部のサツキが走り出す。そのフォームはほとんどぶれることなく、一気に来た道を引き返して行く。後ろを、ケイタもぴったりとマークしてきていた。一応、バスケ部に所属している。足は速いほうだった。

 走ってきた経路を全力で辿りながら、周囲の注目を集めていく。廊下では教師に怒鳴られ、購買ではおばちゃんの奇特な視線を浴びた。二人は同時に階段に辿り着く。二段飛ばしで駆け登り始めた。早急に息が上がり始める。身体は発熱を大きくしている。これからじっと椅子に座り続けなければならないというのに、無駄な運動をしてしまっていた。

 なのに、サツキは少しだけ楽しかった。

 ケイタはとても嬉しかった。

 そうして飛び出したときと同じように、勢い良く二人は教室に駆け込んだのだった。

 タイミングを見計らったように、チャイムが再び鳴る。号令がかかって授業が始まる。

 窓際の一番後ろの席に座るサツキは、集まるクラスメイトの好奇に満ちた視線の中に、ふとこちらをしんと見つめてきている眼差しがあることに気が付いた。辿ってみれば、そこには表情を崩しながらも、瞳の中には頑なな強さを持ったケイタの姿があった。またかよ、とサツキは思う。けれど、その目の真剣さと屈託のない笑顔とのギャップに思わず笑みがこぼれてしまった。バカみたいだ。思って、くすくす笑って、サツキは再びグラウンドを見下ろした。

 誰もいないグラウンドは、やっぱり殺風景で面白みに欠ける景色だった。けれどそんな景色を見ながら、サツキは先ほどの全力疾走を、そして記念樹の下で言われたケイタの言葉を思い出していた。悪くないなと思った。悪くない。思いながら思考の中にどんどん沈んでいく。

 蹲った荒野は依然乾いたままだ。赤土の大地はひび割れ、空は鈍色、風は唸りをあげて吹き荒んでいる。だが、膝を抱え、耳を塞いだサツキの目は、そこに見慣れないものを捉えていた。足下に場違いなほどに小さく弱々しい双葉が芽吹き始めていた。

 一方のケイタはサツキから視線を戻すと、前を向いていた。前を向いたまま、飛び上がりたいほどの感情の波を味わっていた。

『霧島サツキが笑ってくれた』

 その事実は、ずっと罵り続けられてきたケイタにとってはいささかインパクトが強すぎる出来事だった。なにしろ、大袈裟ではあるが、存在を認めてもらったに等しいことだったのだ。

『霧島サツキが、笑ってくれた!』

 密林の中で歓喜のざわめきが大きくなる。鳥は羽ばたきながら歌を奏で、ゴリラは胸を叩く。風などほとんど吹かないはずなのに、木々が揺れて葉が音を立てた。蛇は地べたで空高く首を伸ばしていた。

 激しい感情の波に揉まれる中で、ひっそりとケイタの肉体は今までになかった反応を示していた。サツキの微笑を見たときに激しく胸が脈打ったのだ。どくんと、耳のすぐ側で鼓動を刻む心臓は血流を激しくし、ケイタの目には世界が輝いているように見えた。

 その日一日、ケイタは残りの授業で居眠りをしなかった。いや、あるいはできなかったのかもしれない。


 そんな二人が紡ぎ出す、ある初夏の日のお話。もうすぐ雨がやってくる。


(おわり)


お読みいただきありがとうございました。区切りがよかったので前後編にしてみましたがどうだったでしょうか。また機会があったら、違う時期の二人のことを書いてみたいと思います。

今回、書き終わって視点の転換と時間軸の交錯が少し気になりました。もしご意見があれば残してくださると嬉しいです。

それでは。


(追記)

完結していたものに指摘をいただき書き加えてみました。

陸上の描写について違和感を覚えた方、よろしかったら一報ください。なにぶん知らないことを書いたもので不安がいっぱいです。

あと読みやすさでしょうか。携帯さんには不親切で横書きでも読みにくいだろうとは思うのですが、縦書きにした際一文が長すぎるといったようなことはあるでしょうか。これもご意見いただけたら幸いです。

連載します。次も前後編で一話が長いですが、よろしかったらお付き合いください。

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