二十二 天空への光
翌日、知之は蓮杖明良を世田谷の自宅に迎えに行き、会社まで送った。
蓮杖ホールディングス本社の休日は土曜日曜そして祝日である。しかし明良は知之に、本社の休日に拘らず、自分の都合の良い日を休日にして良いと告げた。
「私は社長の御出張中に休みを頂ければ充分でございます」とそう言って知之は頭を下げた。本社は休みでも傘下のレストランは休日の方が忙しい。明良は土日には傘下のレストランを視察したり得意先との接待ゴルフなど、休みの日でも結構忙しかった。というより、むしろ休みの日の方が車を必要としていた。だから明良は、知之が自分からそう申出てくれたことに好感を持った。
知之自身にしても働いている方が有難かった。暇があれば、どうしても思考は酒に向いてしまう。
勤め始めてから二週間が過ぎた頃、明良はシンガポールに出張した。予定は三泊。羽田飛行場への送迎があるから、中二日が知之の完全な休日であった。ところが奈緒美から送迎を命じられた。
娘の優香が友達の誕生パーティに招かれたので、その送り迎えをして欲しいというのである。知之は働くことも運転することも少しも苦にならないが、奈緒美の送迎だけは気が重かった。奈緒美は権高な物言いをするし、『奥様』と呼ばないと、露骨に不機嫌な顔をするからだ。
史恵から明良の正妻は克代と聞いており、明良からも今は事情があって克代は留守にしているが、いずれ帰ってくると聞いているので、奈緒美を『奥様』と呼ぶことに知之は抵抗があった。何しろ蓮杖家の正夫人克代は一之瀬家の大恩人なのである。
優香の友達の家は多摩川の近くの閑静な高級住宅街にあった。
上流階級の人から招かれたことがよほど嬉しかったのか、奈緒美は車の中で「良家の子女でなければ合格出来ないのよ」と、セント薔薇学園の受験がどれほど大変だったかを得々として語った。だが、その言葉の端々に不安気な様子が顔を出す。
知之はふと、この人もかつての自分と同じではないかと感じた。自分を見失い、本当に大切なことは何かわからなくなっているのでは…と。
「まもなく高速の降り口です」カ―ナビが伝えた。目的地はすぐそこだ。
「これまでのお友達とは違うのだから、お行儀よくしてなきゃ駄目よ」と、緊張気味の奈緒美の声が背中に聞こえる。
知之は比奈を想った。あの子は毎朝、夜明け前に浜辺へ行って太陽を拝むのだと言っていた。
「暗いうちからじっと待ってるの。水平線に顔を出すと太陽は光の矢となって、比奈の身体の中に飛びこんで来るんだよ」目を輝かせ、頬を紅潮させて比奈は語った。「隣に何人いても、光は比奈だけに向って突き進んで来るの。そりゃ自然と手が合わさって拝んじゃう位おごそかだよ」
知之はいつの日か自分もその日の出を拝みたいと思っていた。そして今、もし奈緒美が暗黒の心で悩んでいるのなら、その日の出を見せてあげたいと思った。
二月はもう終りかけていた。
天気予報は雨を告げていたが、まだ降り始めてはいないので、克代は比奈を連れて浜に出た。春はもうすぐそこまで来ていたが、夜明け前の砂浜はまだまだ冷たい。それでも浜に立つと砂の感触が裸足に心地がよい。雲が厚く垂れこめ、太陽の姿が見えなくても手を合わせるだけで、不思議な位に清々しい気分になる。
この日、克代は久しぶりのお休みであった。本来であれば溜った洗濯ものを片づけたいところであるが、この空模様では予報通りいつ降りだすかわからなかった。出勤する比奈を見送ると克代はもう一度布団にもぐり込んで、次に目覚めたのは昼過ぎであった。
何時だったか……、比奈がポトフが好きだと言っていたのを思い出し、克代は簡単に掃除を済ませると、降りだす前にと急いで買い物に出かけた。克代はポトフにジャガイモは入れないが、比奈は入れると言っていた。忘れずにジャガイモを買わなければ。
スーパーから帰ってくると、外階段を下りてくる大家の奥さんと出会った。
「今日はお休みって言ってたからね、沈丁花を持って来たのよ。あんまり良い香りがするもんで」
「あら、私も今お宅に寄ったのよ。お饅頭を買ってきたから。玄関が開いてたから置いてきたわ」二人で他愛なく笑いあい、大家の奥さんは後で煮物を届けると約束して帰って行った。
沈丁花を活けると、部屋いっぱいに甘く清純な香りが漂った。すぐにキッチンに立つのも勿体ない気がして沈丁花に見惚れていると、玄関で声がした。大家の奥さんにしては随分早いなと思いつつ、克代は立った
午後五時、従業員送迎用のマイクロバスがシャイニータウン玄関横のスペースに止まった。比奈は美穂と一緒に送迎バスに乗り込んだが、その時は既に清掃や食堂係等の他の従業員で座席は埋っており、比奈は美穂と別れて清掃のおばさんの隣に座った。
従業員同士が声高に喋りあう中、送迎バスは静かに滑らかに発車した。
山を下ると従業員は次々に降りてゆき、美穂も降りた。それからバスは比奈達の住むアパートの近くのパン屋の角に止まって比奈の降りる番になった。
「今日はおばさん、来てないね?」送迎バスの運転手が比奈の顔を見た。比奈が送迎バスに乗る時は、克代が必ず迎えに出ていたからだ。「昼寝でもしてんじゃないかい」誰かの冗談に運転手も三人ほど残っていた乗客も笑い、バスは発車し、去って行った。
「お帰り」犬に餌をやっていた大家の奥さんが比奈を見ると、腰を叩きながら立ち上り、「今日はポトフを作るんだって、おばさん張りきってたわよ」と声をかけた。
「只今」比奈がにっこり笑って大家の奥さんに挨拶を返し、アパートの外階段に足をかけた時、背中に声が聞えた。
「後で漬物と煮物を届けるからって、おばさんに言っといて」
比奈が笑顔で振返り、外階段を上りきった時、玄関の戸が少し開いているのが見えた。やだねえ、この寒いのに開けっぱなしで…。比奈はわざと足音高く歩いた。
〈もっと静かに歩きなさい!〉きっと、おばさんが顔を顰めて出て来るに違いない。
けれども戸はそれ以上開かないし、おばさんも出て来ない。
トイレかな?戸を開けっぱなしで?まさかね。
「おばさん!」大きな声で呼びかけながら、比奈はドアを開けた。中はシーンとして人の気配もしないし、ポトフの匂いもしない。ただ、沈丁花の香りだけが漂っていた。
アパートの間取りは、ベランダに面して六畳間と押入れがあり、その手前が四畳半と一間幅の廊下、廊下の続きはキッチン、キッチンの隣が玄関、そしてその向こうが風呂場になっている。一畳ほどの玄関の半分は三和土で靴を脱ぐ所、残りの半分は板の間で四畳半とは板壁で仕切られている。板壁が目隠しとなって、玄関からは直に和室を見ることは出来ないが、板壁の横から首を突き出して覗くと廊下に続いて六畳の部屋が見えるのだ。
比奈は玄関から首を延して奥を覗いた。すると、突き当たりの六畳の和室に横たわっている克代の半身が見えた。あんな所に寝るなんて、いくら春とはいえ風邪でもひいたらどうすんの、と思いながら比奈はブーツを脱いで上がった。
克代は膝を曲げた不自然な格好で横になり、腹部の辺りから流れ出た血が畳の上に血溜りを作っていた。何が何だかわからず比奈はその場にへたり込み、克代に抱きついた。
克代の指がソロリソロリと動いた。指は比奈の腕をゆっくりと這い、首に到達するとものすごい力でグイと引き寄せた。克代の唇が微かに動いている。
「なに?なに?」叫ぶように、克代の唇に耳を寄せる比奈。
「ありがとう。あんたのお陰で…、私の人生は……」
「おばさん!おばさん!!」
「素晴らしい人生になった。ありが……」
「やだあ!」比奈が身体を震わせて叫んだ瞬間、克代の身体がキラキラと輝き、炎のように七色の光が溢れ始めた。すると、その光りに呼応するように、比奈の身体からも青白い光が立ち昇った。その青白い光の中にはいつか樹海で見た男や臼井則男、そして何人もの女や子供達の姿が見え、最後に大きく葵の姿が現われた。葵は晴れやかな笑顔で手を振り、別れを惜しむように大きく比奈の周りを回って、それから克代の発するキラキラと輝く光りに吸い込まれていった。七色の光りは、境目では隣の色とグラデーションを作っても、決して混じらず、美しい七色の虹となってどんどん大きくなりながら渦を巻き、部屋いっぱいに満ちると天井も壁も部屋さえも消え去って、はるか天空へ目差して昇っていった。
〈あんなに探し求めた天空への光りは此処にあったのか……〉比奈は涙を忘れて煌めく光りに見入った。
けれども、煌めく光りが天空へ去った後、比奈はたった一人そこに取り残されていた。冷たくなってゆく克代の亡骸を胸に抱いたまま取り残されていた。