二十一 父と娘
克代から比奈の具合が悪いと連絡を受けた史恵は、取る物も取り敢えず知之と一緒に電車に乗っていた。最初は知之を連れてゆく気はなかった。あれだけ父親を拒否してきた比奈が、今、知之と会ってどうなるか……、そう心配したからだ。それは、克代からも言われていたことである。
しかし、「もし比奈が嫌がるなら自分は会わなくても良い。だけど、行くだけは一緒に行かせてくれ」と懇願する知之に駄目とは言えなかった。
一刻も早くと、なけなしの金をはたいて買った新幹線の切符であったが、まだ品川、まだ新横浜と、舌打ちしたくなるほど遅い!
克代は詳しい病状を話さなかったが、比奈に何があったのだろうか。クリスマスにはあんなに元気だったのに…。風邪位なら電話などかかって来ないだろうと思うと、史恵の胸は張り裂けそうだった。まさか、またリストカットなど…、嫌な想像ばかりが頭を占める。史恵の隣で知之も青い顔で俯いたきりであった。
ようやく熱海駅に着き、史恵と知之は連絡通路を伊東線乗り場の一番ホームに向かって走った。走ったところで伊東線の発車時刻が早くなるわけではない。それでも二人は走らずにはいられなかった。
新幹線出入り口にも連絡通路にも、目付きの鋭い刑事達が張り込んでいることを、目を血走らせて急ぐ二人は知るよしもなかった。
同じ熱海駅に日置が姿を現したのは、それから三十分も経っていなかった。
黒いダウンのコートを着て黒い帽子を目深に被った日置は、辺りに目を配りながら連絡通路を通り過ぎ、新幹線入口に向かうエスカレーターに乗った。エスカレーターはゆっくりと二階へ昇ってゆき、日置がステップから二階の床に降り立った瞬間だった。
掲示板を見たり、スマホを操作してエスカレーターに背を向けていた二人組が、電光石火の早業で両脇から日置を挟んだ。
「日置浩二だな」
観念したように日置は素直に頷き、一瞬身体の力を抜いて従うふりをみせ、僅かな隙を逃さずに刑事を突き飛ばすと同時に身をひるがえし、階段を飛ぶように走り下りた。だが、階段の下にも同じようなトレンチコートを着た刑事二人が待ちかまえていた。
日置はその内の一人に体当たりしようとして交され、反対に背中を蹴られて床に這い蹲り、反動で帽子が飛んで金髪が現われた。
シャイニータウンに掛かってきた電話が、東京からのものだったことを考慮し、桐生刑事は念のために、熱海駅に同僚を張りこませると共に、改札や各ホーム、特に新幹線入口を見張るよう熱海警察にも頼んでおいたのだった。
熱海警察署に連行された日置は、最初は空っトボけていたものの、隠し持っていた健太のスマホを見つけられ、その中に痣だらけの健太の写真や椅子に括りつけられた比奈の写真を突きつけられて観念し、熱川近くの廃屋に二人を閉じ込めたことを白状した。
「比奈の、比奈の容態は?」駅に迎えに来た徳次に、縋りつく様に史恵は訊ねた。
「それが…まあ」徳次の返事は要領を得ない。
いつだってこの人は、全く、起きてるんだか寝てるんだか……。何故、比奈はこんな男を信頼するんだろうか、と史恵は無性に腹が立ってきた。
「よほど悪いんでしょうか?」
「それがその…、まあ、話は克ちゃんから」言葉を濁したまま徳次は車を発進させた。
しかし、家に克代は居ない。
「お譲さんを無事救出しました」との連絡を受けて克代は、すぐさまタクシーに乗って稲取へ向かっていた。救出された時、健太は意識が無く比奈もぐったりしていたので、念のために稲取の総合病院で健康状態を検査すると聞いたからである。
「ご挨拶が遅くなりましたが、この度はいろいろとお世話になりまして……、私、比奈の父親で一之瀬知之と申します」青筋を立てた史恵の額を見て知之は、史恵が次に口を開く寸前に、後部座席から徳次に話しかけた。
「はあ…。丘野徳治です」ハンドルを切りながら、徳次が答えた。
「蓮杖さんは?」史恵が二人の会話に割り込んだ。
「今、稲取の病院へ行ってるだが」
「病院!」史恵の声が甲高くなる。「そんなに悪いんですか?」史恵の脳裏に去年の出来事が蘇る。切った手首から流れ出る血を押えながら、病院へ向かったあの日。あの時の比奈の蒼白な顔。
「あの…、私たちも病院に向かっているんでしょうか?」史恵は車窓に見える暗い山道に目を凝らした。
「いや、克ちゃんに一先ずうちへって」
「病院は遠いんですか?」
「いや。そう遠くはねえけんど…。蓮杖氏が身代金を持って来るかもしんねえから」
「身代金?」史恵と知之は顔を見合わせた。
「あ、いや。それに…」徳次は口ごもった。果して病院に知之を連れて行って良いものかどうか……。
「あの…、それでは私はタクシーで…」史恵は一刻も早く比奈の傍に行きたかった。あの子がどんなに心細い思いをしているだろうと思うと、のんびり待ってなどいられない。それをこの男は何故理解しない。やはり昼行燈だ。もし、比奈が知之に会いたくないのなら、知之は外で待たせておけば良いではないか。遠くからでも比奈の元気な姿を見れば、知之も納得するだろう。
「いや。申しわけないけんど旦那さんにはうちで待っていてもらって、蓮杖氏がいつ到着するかわからねえもんで……。奥さんは病院までオラが送ります」
シーンと静まり返った中で、時々カサ…カサと木々が密やかな音をたて、ミシ…ミシと家が微かに鳴る。そんなひっそりとした自然の音が知之に昔を振り返らせた。今まで逃げていた色々なことを思い出す。
人に解雇を告げることなど私はすべきではなかった。解雇が人にどのような影響を与えるか、そんなことを考えようともしないで、私は経営企画室室長になった。
いや、本当は考えるまでも無くわかっていた。心の片隅で、良心がそんな出世話は断るべきだと疼いていた。だけど私は引受けた。今考えると、魔がさした、としか思えないが私は引受けた。
大体、大勢をリストラする羽目に陥ったのは重役達の過ちだろう。だったら重役達から順に退くのが筋ではないか。トップ一人の辞職で何十人の従業員が救われるか。
そんな良心の呟きに私は蓋をした。眼が眩んだからだ、欲に!
目が眩むと見えるべき物も見えなくなる。
そして、私は言われるままに多くの人に馘首を宣告し、彼等を地獄に突き落した。その結果として当然のように報いを受けた。報いは一番弱い比奈を直撃し、今、この期に及んで私は一番大事な娘を救うことすら出来ないでいる…。
エンジンの音で、知之は過去から呼び戻された。蓮杖氏か、それとも徳次さんが戻ってきたのか…、知之は外に出た。見上げると迫りくるような星空。星の一つ一つが信じられないほど大きく、キラキラと輝いている。
「済まんです。一人にしてしまって」車から降りた徳次が詫びた。
「いえ。貴重な時間を頂きました」清々しい気持ちで知之も頭を下げた。
「蓮杖氏は?」
「まだ、御見えでは無いようですが、比奈は?」
「大丈夫です。今は安定剤を呑んで眠ってるけんど、怪我も無く無事です。ただ、健太が」
「健太とは?」
「一緒に誘拐された子ですが、どうも薬を飲まされたようで」徳次は心配げに眉をひそめた。
比奈と健太を連れて克代が帰って来た時、徳次の家には、知之と蓮杖明良と乾弁護士が待っていた。比奈は座敷に入るなり、人々から離れて隅にひっそりと座っていた知之を見つけ、何も言わずに隣にピタリと寄り添って座った。
そこには紛れもない父娘の信頼関係があった。
克代が見ているのにも気付かず、比奈は父親の手を取って無心に指を広げたり、折ったりを繰り返していた。あれほど憎んでいても、親子の情愛とはそんなものなのだろうか…。それとも、酒気の抜けた父親を比奈は見抜いたのか。
「お騒がせして申し訳ありませんでした」乾弁護士に促されて、健太が頭を下げ、話し始めた。
「あれは三日前のことでした。事務所を出て予備校へ向う途中、突然、日置が目の前に現われたんです。逃げようとしたんですが、鳩尾にイッパツ食らっちゃって……。アイツはボクシングやってましたから、パンチが半端ないんです」
「それは兎も角、なんで比奈が」尖った声を出した史恵を乾弁護士が止め、健太に先を促した。
「日置は博打で摩って借金を作り、にっちもさっちもいかなくなっていたようです。最初は、三宅さんからお金を引き出す予定をしていたらしいんですが、三宅さんは禁、禁、えーと」
「禁治産者ね、今は成年被後見人」乾弁護士が助け船を出した。
「それで、三宅さんからお金を引き出すことが無理だとわかった日置は、比奈ちゃんに目をつけたんです」
「なんで!」克代が飛び上がった。
「シャイニータウンに家出娘がいるって噂が流れてて」
「あんた!家出したって誰かに言ったの!」克代が厳しい視線を比奈に向けた。
「あ、あたし、言わないよ」
「じゃ、誰がそんな噂を流したのよ」まだ憤然としながら克代は首を傾げた。
「ア、言ったかもしれない」比奈は、入所者を診療所に連れてゆく時に、しつっこくいろいろなことを聞かれたことを思い出した。蓮杖さんとはどんな関係かと聞かれて、家出したことまで喋ったかもしれなかった。
「誰?誰に言ったの?」
「確かその時……、入ってすぐに辞めちゃったお兄さん」
「だから、黙ってなさいって言ったでしょうに!なんであんたは、そんなことをベラベラ喋んの!」怒る克代を徳次が止めた。
「そうなんです」健太が頷いた。「シャイニータウンだけじゃないですけど、情報を得るために日置達は老人ホームに人を送り込んで。普通のお宅だってそうです。家政婦として一週間から一ヶ月位住みこませて、いろんな情報を集めてそれを、いろんな地方の仲間と交換するんです。俺、あ、私が知ってる日置はそんなデカイ山を張れるような男じゃないですが、森と手を組んだんで、比奈ちゃんを売り飛ばそうなんて」
「森とは?」乾弁護士が聞いた。
「だから国際的な犯罪組織の」
「ああ、それが森って男なのね」
「ホントの名前かどうかはわかりませんが。ともかくデカイ男で」
「金髪ゴリラのこと?」比奈が口を出した。
「そうそう。アイツ」健太は頷いた。
「それがなんで比奈ちゃんの誘拐になるのかよくわからねえ」徳次が首を傾げた。
「では、私が調べたり、桐生刑事から聞いたことなども含めて時系列にお話ししましょう」お茶を一口すすってから、乾弁護士が徐に口を開いた。
「最近日本でも、高額な絵画や宝石などを狙った国際的な強盗団が暗躍していますが、彼等は家出娘や不法残留の外国人、犯罪者などを臓器の提供者として外国に売り飛ばすなどもしているようです。その組織の一員に森という男が居て、日置は森に博打で負けて借金を作り、返済を迫られていました。
もし返せなければ、日置自身が外国に売られる羽目にもなりかねません。そこで、日置は健太を使って、三宅さんからお金をせしめようとしたのですが、三宅さんからはもうお金は取れないことがわかって、比奈ちゃんに目をつけました。比奈ちゃんが家出娘と聞いていたからです。比奈ちゃんを海外に売り飛ばそうとしていることを知った健太は、それを阻止しようとして、日置に臓器売買より誘拐の方が金が取れると持ち掛けました」
「それで、あんたまた真っ黄黄に?」克代が健太の髪に目をやった。
「すいません。でも、日置が誘拐はヤバいってビビるもんで……。人身売買の船が来る日が迫ってたもんで、俺は比奈ちゃんが売られちゃったら大変だと思って、兎も角、時間を稼ぎたかったんです。だって、比奈ちゃんが船に乗せられちゃったらもう終わりですから」
「確かに、そういう危険性はありました」乾弁護士が頷いた。「最近は尖閣や竹島問題で警備が厳しくなっていますからね。此処いら辺の海岸から漁船か何かに乗せて、沖で貨物船に乗り換えさせるのかもしれませんね。健太の言う通り、船に乗せられてしまったら手の打ちようが無かったかもしれません」
「それじゃ、もし、健太さんが誘拐の話を持ちかけなければ、比奈は何処かの外国に売り飛ばされてたかもしれないってことですか?」史恵が背筋を震わせた。
「その可能性は大きかったと思います」
「それで」克代が健太に話の続きを促した。
「誘拐に日置は躊躇っていたんですが、森が乗って来たんです。最初、森は蓮杖ホールディングスが相手なら一億だ五億だって言ってたんですが、比奈ちゃんは血のつながった子供じゃないんだから、一千万が良いとこだって言ってそれで手を打つことになりました。本当に危険なカケでしたが、それしか方法が無いと思ったんです。本当に済みませんでした」健太は畳に額を擦りつけるようにして詫びた。
「私は、健太が電話をかけて来た時に、本当のことを打ち明けてくれれば良かったと思いますがね」乾弁護士が健太を見た。
「すみません」
「健太君は脅されてそうしたんでしょう?」克代が助け船を出した。
「克ちゃん情けは無用。反省すべきはキチンと反省するだ」徳次の厳しい言い方に、比奈は思わず、「でも、健太はあたしを助けてくれたんだよ」と弁解した。
「健太の浅はかな考えがこんな事件を引き起こしただ。よく二人が生きて帰れたと、オラあ、昨日から神仏にお礼を言い続けだで。ホントなら誘拐犯が顔を見られて、人質を無事に返すわきゃあねえ。森のような犯罪者が、よくぞこの二人を生きて返してくれた…」
「それ、そこです」乾弁護士が徳次に賛同した。「日置の話では、森は二人を船に乗せることを諦めて、端からの計画通り日置を売り渡そうとしたようです。そこで日置は森の目を盗んで逃げ出して捕まったのです。森の方は、比奈ちゃんの証言で船戸瑠璃という高校生と繋がりがあることがわかったのですが、残念ながら、人身売買の船に乗って海外に逃走した可能性が強いようですが、いずれ捕まるでしょう」
「証言って?比奈ちゃんアナタ」史恵がまん丸く目を見開いた。
「何でも無いよ。高校の同級生だよ。同じ根付けを持ってたから、警察にそう言っただけだよ」
話しが終ると、健太は乾に連れられて東京へ帰って行った。
最初は警察に日置の仲間と見られていた健太も、比奈の証言や乾の弁護で、健太もまた被害者であることがわかってもらえたのだった。
「さて」克代が蓮杖明良と史恵、知之を順に見た。
「うちも人手不足で」と、克代から知之の就職先についてメールで頼まれていた明良が口を開いた。「一之瀬さんがうちで働いてくれれば有難いが」
「でも……」知之より早く、史恵が克代を見ながら口を開いた。どんな理由があるにせよ、克代は明良と別れる決意をしている。それなのに、知之が明良の世話になることは、克代の脚を引っ張る結果になるのではないか。史恵にしてみれば、比奈が元気を取り戻してくれたことが何より有難く、これ以上は克代に迷惑をかけたくなかった。だからこそ、履歴書は送ったものの、会社を訪ねるのは遠慮していたのだ。
そんな史恵の気持ちを察して、克代はニッコリほほ笑んだ。
「欠点だらけの人ですが、明良さんは人に恩を着せる様なことは絶対にしません。私のことを気遣う必要もありません」
「御主人のことは克代から聞きました。それで、暫くの間は私専用の運転手として働いて貰えれば有難いが」明良がそう提案した。
それは、知之にも史恵にも涙が出るほど有難い申し出だった。施設から戻ってきて約三ヶ月、知之は酒に未練も見せず、昔のままの穏やかで優しい知之に戻っていたが、一滴でも酒を口にすれば、辛抱が一瞬にして無駄になる。大勢の社員の一員であれば、取引先の接待や仲間同士の交流で酒を酌み交わす必要も出てくるだろう。運転手であれば、勤務中はどんなことがあっても酒は飲めない。
「昨夜は車で来ましたが、年だねえ。まあ、疲れて疲れて……」明良は自分の肩を叩いた。
知之も史恵も、そんな明良に心から頭を下げた。
「それでは……」史恵は知之の隣で、ずっと知之の指をおもちゃにしていた比奈を見た。
「あたしは帰らないよ」気配を察した比奈が口を尖らした。父親の酒乱が治ったとしても、比奈はまだ自分に自信が持てないでいた。今、帰ったら旧の木阿弥になりそうだった。
助けを求めるように、史恵が克代を見た。
克代は首を振った。返すのはまだ危ない。比奈ちゃんにはまだ死霊が憑いているかもしれないのだ。この子から死霊を追い出さない限り、また、何をしでかすかわからない。
どうしたら、この子から死霊を追い出すことが出来るのか……。ああ神様! 克代は心の中で手を合わせた。