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袖振りあうも... 後編  作者: 月のひまわり
7/10

二十  唐獅子の根付け

 シャイニータウンでは、朝、清掃スタッフが綺麗に片づけ、掃除機をかけたロビーでも昼過ぎには飴やチョコレートの包み紙などが床に落ちていたり、新聞や雑誌が出しっぱなしになっていたりする。比奈は紙くずを拾ったり、新聞や雑誌を片付けていた。

「まだ二時半か…」いつの間にか比奈の傍に来た所長が、腕時計を眺めて呟き窓の外に目をやった。「ついに降ってきたな」

 一面のガラス窓の向うでは、雪がチラチラと舞い始めていた。

「今日は静かですね」比奈は所長の顔を見あげた。

 シャイ二―タウンでは、二月に入ってから何事も無く平和な日々が続いている。

「寒いから皆さんお部屋でテレビでもご覧になっているのでしょ。しかし、この分だと積もるかも知れないな……」

 比奈たちのアパートのある浜辺付近では、どんなに寒くても雪が降ることは滅多にないが、山の中腹にあるシャイニータウンではよく雪が降る。

「所長!小林さんがお具合が悪いそうなんですが」美穂の声に二人が振り返る。

「小林さんか。じゃちょっと比奈ちゃん」比奈をチラッと見た所長が言い直した。「良いわ良いわ。あの人巨漢だからね、アッちゃんと行ってくる。比奈ちゃんは事務所の方を頼むね。須賀さんもすぐに帰ってくるから」

 所長と美穂が慌ただしくロビーを出て行った後、比奈はロビーの片づけを終えて事務所に入った。するとすぐに電話が鳴り始めた。一瞬、電話を見つめる比奈。シャイニータウンに勤めるようになってから、人との応対には大分慣れてきたが、電話はまだまだ苦手である。黙って見つめているうちに電話は切れた。ホッとした半面、何故、早く出なかったのだろうと良心が疼く。

 電話を見つめていると再び電話が鳴った。

「はい。シャイニータウンでございます」今度はすぐに出た。

「一之瀬比奈さんをお願いします」押し殺した声が言った。

「あたしですけど……」

「一之瀬比奈か?」

「はい」

「すぐにスマホを見ろ」そう言うなり電話は切れた。

 何が何だかわからなかった。慌てて受話器にかじり付き、「もしもし、もしもし」と叫んだものの、受話器の向こうからはツ―ンという音がするばかりである。

 比奈はロッカーに走った。

 大きく息を吸ってリュックのボタンを外し、スマホを取りだした。健太からのメールが入っていた。画面いっぱいに健太の写真。唇から血が流れ、顔中青黒く腫れあがっている。そして、「エントランスを出て少し下ると、灰色の車が止まっている。その車に乗れ。誰にも言うな。言えば健太の命は無い」と記されていた。

 比奈はリュックにスマホを放り込み、そのまま担いで外に飛び出した。

 何も考えなかった。考える余裕など無かった。

 外へ出ると、エントランスからは死角になる張り出した木の陰に、灰色の車がひっそりと止まっていた。比奈が傍を通り過ぎようとした時、ドアが開いて中から出て来た手が比奈の手首を掴み、と同時に後ろからお尻を蹴飛ばされて、比奈は一瞬のうちに車の中に引きずり込まれていた。腕を捩じり上げられたまま口に何かを押し込まれ、バタンとドアの閉まる音がして車は発進した。アッと言う間もない電光石火の早業であった。比奈はシートとシートの間の床に転がされ、デカイ足がその背中を押さえつけた。身動きが出来ない。

 健太はどうしているだろう……、比奈は健太を想った。

 顔中があんなに腫れあがっているところを見ると、よほど酷く殴られたに違いなかった。昔の仲間に捕まってしまったのかもしれない。早く助けなければ殺されてしまう。なんとかおばさんに報せなければ……。

 比奈はこの時になってメモ一枚残して来なかったことに気がついた。おばさんは、あたしが誘拐されたことに気がついてくれるだろうか。ああ、どうしてメモを残して来なかったのだろう……。

 あ!でも、スマホがある。スマホの電源は入ったままだ。あたしが居なければ、おばさんはGPS機能であたしの居場所を見つけ、きっと助けに来てくれる!

 そう思うと比奈は少し落ち着いた。


 その頃、シャイニータウンの事務所では、外れて放り出されたままの受話器を見て、所長と須賀が不安げに顔を見合わせていた。一之瀬比奈は二度ほど逃亡を企てた過去があるが、それには其々理由があったし、普段は真面目な子である。用もなくこんな中途半端なことをするとは思えなかった。何かあったのだろうか……。

「いずれにしても蓮杖さんに」須賀がインターホンを取りあげた。

「ちょっと待て」所長は壁の時計を見上げた。三時を少し回っている。「そろそろ事務所に戻ってくるんじゃないか。蓮杖君は今日は早番だろ」

 所長が言い終わらないうちに、克代が事務所に入って来た。

「あ、蓮杖さん。今連絡しようと思っていたんですけど」

「比奈君の姿が見えないんだ」須賀の言葉を所長が引き取った。

「居ない?」言うより早く克代は比奈のロッカーを開けた。リュックが無い。「何かあったんですか?」克代の目付きが険しくなった。

「こちらが知りたい位だ」所長の瞳が不安に揺れる。

 克代は所長に比奈への連絡を依頼し、自分は徳次に電話をかけて比奈が居なくなったことを告げた上で、すぐシャイニータウンに来るように頼んだ。何らかの理由で飛び出したのなら、比奈は必ず徳次の家に向うだろうし、それならきっと徳次が見つけてくれる。

 それとも何か……、不安が、どす黒く重いガスとなって克代の胸を占めてゆく。


 床に転がされている比奈の身体に、車の振動やモーター音が直に伝わってくる。そんな中で『蜜柑の花咲く丘』のメロディが微かに聞えてきた。

〈どうぞ、コイツ等がこの着信音に気が付きませんように!〉そう祈りつつ、比奈はそろそろと不自由な手を動かす。リュックのボタンになかなか指が届かない。少しずつ指を動かして、やっとボタンに手が触れた瞬間だった。

 比奈の背中を踏んづけている男が舌打ちして比奈の頭を叩き、それから、リュックのボタンを外してスマホを取り出すと電源を切ってしまった。

「海岸へ」男が低い声で命令した。

「へい」運転する男が答えた。

 暫く走って車が止まった。比奈の背を踏んづけている男が、「ん」と言って運転手にスマホを渡す。

 ドアが開いてひんやりとした空気が流れ込んできた。磯の香がする。精一杯床から頭を持ち上げて、胸一杯に空気を吸い込んだ時、ボチャンと音が聞こえた。

 あー、スマホは海に捨てられた。絶望が比奈を襲う。


「比奈ちゃん見つかったかや?」徳次が慌ただしくシャイニータウンの玄関を入って来た。

「徳ちゃん。こっちこっち」事務所から手招きをする克代。

 事務所では全ての出入り口の防犯カメラを調べているところであった。

「ちょっとこの車」須賀が鋭い声を出した。

 画面には、裏門を出て行く灰色の車が映し出されていた。

「見たことの無い車だわ」須賀が所長に同意を求める。

「トヨタのボクシ―だな」画面を覗き込む所長。ナンバーは泥で汚されて数字が読み取れない。緊迫した空気が事務所を包む。

「警察に電話を」所長が克代を振返った。「良いですね蓮杖さん」


 車が止まった。背中を踏ンづけていた足がどけられ、比奈は手荒く車の外に引きずり出された。そこは倉庫か屋内駐車場か、車が四、五台は駐車できそうな広さだが、隅の方に黒い車が一台止まっているだけで後はガランとしている。

 比奈を誘拐してきた男は二人、比奈を踏んづけていた方は、身長は優に百八十センチは超えると思われる大男でゴリラによく似ている。運転してきた男は、痩せてはいるが比奈より背は高いのに、ゴリラ男と並ぶと随分小さく見える。二人とも大きなサングラスとマスクをかけ、頭髪は金色に染めていた。

 運転手が比奈のリュックを掴んで引きずって行く。不愉快だが、比奈にしてみれば、身体を触られるよりはリュックを掴まれた方がまだましと言えた。

 連れていかれた所は駐車場の奥にある殺風景な部屋で、右手の壁にもドアが一つ、床はコンクリート、窓は無く、天井から吊るされた蛍光灯がガランとした室内を寒々しく照らしている。

 運転手が比奈の背中からリュックを剥ぎとって放り投げ、部屋の隅にあった椅子を中央に持ってきて、比奈を座らせると椅子の背に両手を回して括りつけた。その間に、金髪ゴリラの方は、右手のドアを開け出て行った。音からしてもドアは重く頑丈そうだ。

 比奈を写真に撮ると、運転手も「静かにしてろ」と一言残して部屋を出て行った。

 健太は何処に居るのだろう?

 もしかしたら健太はもう殺されていて、あの写真は、私をおびき出す為の囮だったのかもしれない。そう思うと不安で胸が押し潰されそうだった。何故、出てくる前におばさんに相談しなかったのだろう。せめて、メモの一枚でも残してくるべきだった。又しても後悔が湧きあがる。


 シャイニータウンの事務所には警官が配備され、逆探知の機械がセットされた。

 電話が鳴った。警官が耳にレシーバーを当て須賀に合図を送る。

「はい。シャイニータウンでございます」須賀が言った。しかし、その電話は入所者の安否を確認する親族からの連絡であった。テレビのニュースが、インフルエンザの大流行を告げた後、寒波襲来で山間部には雪が降り、厳しい寒さが予想されると報じた所為か、入所者の安否を確認する親族からの電話が相次いでいる。

 電話が少し途切れて静寂が続いた後、再び電話が鳴った。誰もが入所者の親族からの電話だと思った。

「はい。シャイニータウンでございます」手慣れた様子で須賀が答える。

 ところが、その電話は一瞬沈黙した後、金属的な女の声で、「蓮杖克代さんをお願いします」と言った。その瞬間、全員に緊張が走った。桐生と名乗った刑事が須賀に、会話を引き延ばすように合図を送ると同時に、部下の警官が逆探知を始める。

「どちらさまでしょうか?」須賀が、打ち合わせ通りのんびりと言ったが、声は震えていた。

「阿部と言います……」

「少々お待ち下さい。蓮杖さあん」すぐ隣に居る克代を、須賀は時間を稼ぐ為に、わざと大きな声で呼んだ。一、二、三と十まで数えて克代が電話に出る。

「お電話代りました。蓮杖ですが」

「一之瀬比奈を預かっている。一千万円用意しろ!警察に知らせたら比奈の命は無い。次はお前のスマホに連絡する」声の主は男に代り、口早に告げた。

「ちょ、ちょっと待って!どういうこと、比奈ちゃんは無事なの?」焦って喋る克代の言葉を途中で遮り、「スマホを見ろ」と言うなり電話は切れた。

「逆探は?」桐生が部下に訊ねた。

「わかりましたけど使い捨ての携帯で、基地局は東京です」部下はそう言って肩を竦めた。

「奥さん、スマホを見てください」桐生が言った時には、既に克代は事務所を出かかっていて「アパートに置いたままで…、すぐに取って来ます」と、振り返って答えた。

「ちょっと待ってください」桐生は慌てて克代を引き止め、所長に「比奈さんは二時過ぎまではこの事務所に居たんですね」と改めて確認した。

「電話が東京からかけられている所をみると、大掛かりな組織だと思われます。車のナンバーも汚されていますしね。この事務所も見張られている可能性があります。警察が介入していることがわかるとお譲さんが危険です」

 恐らく、今後、犯人からの連絡は蓮杖克代のスマートホンにかかってくるだろう。であるならば、いつまでも警察がシャイニータウンにいる意味は無い。事務所にも迷惑がかかるし、なによりも此処では警察が介入していることがばれ易い。事実、いつもとは異なる雰囲気を感じ取った入所者達が三々五々ロビーに集まり始めていた。高齢者たちは、普段と違う状況には実に目敏い。

 警察は、誘拐対策の本部を克代のアパートに移すことを決定し、克代は徳次の車でアパートに向かった。後ろを振り返ると、遠くに護衛の車のライトが見える。


 比奈が連れ込まれた事務所ではドアが乱暴に開けられ、背後から突き飛ばされたのか、健太がつんのめるようにして入って来た。

「ケンタ!」比奈が目を剥いた。その頭髪が再び金色に染められている。

「早く!」運転手が健太の背中を小突く。その瞬間比奈は、運転手はいつか伊東で会った日置とかいう花柄シャツの男だと直感した。大きなマスクをし、サングラスをかけてはいるが間違いない。

「嫌だ」痣だらけになった顔で健太が日置を睨み返した。

「なんだと!」日置の拳が健太の頬を直撃する。よろめく健太。日置は健太の襟首を掴んでなおもガンガン殴りつけ、健太がその場にくずおれると思いっ切り蹴飛ばした。

「止めて!」悲鳴を発した比奈の身体がガタガタと震え始め、と同時に青白い光が比奈の身体から湧きあがった。青白い光の中には幾人もの女や子供の姿がゆらめいている。

 部屋は瞬く間に刺すような冷気に満ち、吐く息すらも白く凍る。

 腰を抜かしてその場にへたり込んだ日置の眼が恐怖に震え、吸い寄せられるように比奈の背後を見詰める。

「あたしをどうするの?」そう言ったつもりが言葉にならず、比奈がウグウグとくぐもった声を発した途端だった。

「ギぇ~」押し潰されたような悲鳴と共に日置は口から泡を吹き、後ずさりしながらドアに辿りつくと、そのまま出て行った。

 心の中で健太、健太と叫びながら、比奈は椅子を背負って健太の傍に近づき、爪先で健太を突っついた。比奈の身体からは既に青白い光は消え、凍りつくような冷気も去りつつあった。

 呻きながら目を開けた健太は比奈に気が付くと、震える手で猿ぐつわを外し縄を解くとヨロヨロと立ち上り、一歩一歩踏みしめるようにドアに向かった。椅子から自由になった比奈もドアに突進する。二人でドアに齧りつき開けようとするが開かない。押しても引いてもドアは開かない。健太はドアを蹴飛ばそうとしてよろめき、その場にくずおれた。

「ごめん。閉じ込められた」

「どうかした?」比奈は健太の傍に膝まづく。

「飯か…飲み物になんか……たかな。身…が痺れ……」

「大丈夫?」

「比…ちゃんが……外国に…外国に売られちまうと思って…。だから、だ…ら俺」

「シッ!」比奈が健太の唇を押え、後ろを振返った。

 足音がする。きっと日置達が戻ってきたに違いない。比奈は素早く部屋の中を見回したが、ガランとした室内には隠れられそうな場所など見当たらない。

 ガチャガチャと鍵を開ける音に続いてドアノブが回る。だが、ドアは開かない。健太がドアに寄りかかるように延びているからだ。比奈は咄嗟に健太の上に乗っかってドアが開くのを防ぐ。だが、抵抗も虚しくドアは開いた。

 部屋に一歩足を踏み入れた金髪ゴリラは、鋭い視線で部屋の中を一瞥し、日置を振り返った。

「なんでもねえじゃねえか!」金髪ゴリラがドスの利いた声で吠える。

 へっぴり腰のまま首を突き出して部屋の中を確認した日置は、ドアの内側に転がっている健太を思いっきり蹴飛ばした。

「おい」金髪ゴリラが、日置に向かって比奈を顎で示す。

 日置は恐る恐る比奈の腕を掴んで引きずり、もう一方の手で転がっていた椅子を置き直すと、再び比奈を椅子に縛り付け、ポケットからスマホを取り出す。

 健太はドアの所に転がったままである。

「蓮杖さんかね?金は用意出来たか?」マスクをしたまま日置がスマホに話しかける。

「比奈ちゃんの声を聞かせて。聞くまでお金は払わない」いつもとは違って甲高い克代の声が比奈の耳に届いた。

「おばさん!」比奈が叫ぶ。

 比奈の目の前に、日置がスマホをつきつける。

「比奈ちゃん!無事?無事なの?」克代も叫ぶ。

「おばさん花。花に水やって。まっ黄黄の花」

 その瞬間、金髪ゴリラが何か喚いた。マスクの中でくぐもった声は意味不明だが、日置は比奈からスマホを取り上げて慌てて電源を切った。

 健太がふらふらと立ちあがり金髪ゴリラに体当たりする。素早く身を交わした金髪ゴリラがよろめく健太の襟首を掴んで引き寄せ、一発殴ってから部屋の隅へ投げ飛ばす。壁に激突した健太はそのまま床に転がった。

「ケンタ!」比奈の悲鳴が部屋の中に響き渡る。

 金髪ゴリラがサングラスをかなぐり捨てて比奈を睨みつける。残忍な目が異様に光る。

「このアマ!」怒鳴りつけると同時に、金髪ゴリラの太い腕が比奈を横殴りにし、比奈は椅子ごと倒れた。

 その時、比奈の目に象牙の唐獅子が入った。一日たりとて忘れたことの無い唐獅子の根付け。葵からもらった唐獅子の根付けが、今、この巨大な男の腰で鍵と一緒に揺れている。

 咄嗟に比奈は唐獅子に食い付き、鎖を引き千切った。比奈を振り払おうとした金髪ゴリラの目が、その時、飛び出さんばかり見開かれ、唇からうめき声が漏れた。「ア、アオイ」

「葵?」比奈は後ろを振返ったが、何も見えない。

 だが比奈の身体からは青白い炎がメラメラと噴き出し、凄まじい冷気が床を這って広がってゆく。

 腰を抜かした金髪ゴリラが顔を引き攣らせ、吸い寄せられるように比奈の背後にやったその目が恐怖で固まった。

 へっぴり腰のままそーっと出て行こうとした日置が机につまづき、ガタリと音を立てた。

 比奈が見る。比奈の口の端からぶら下がる鎖が微かに揺れる。

「ひえー」日置が怯えた声を出した瞬間に、金髪ゴリラが足をもつれさせてドスンと転がる。へっぴり腰のまま戸口に進む日置。

 立とうとして立てず、そのまま床を這いずって日置の後を追う金髪ゴリラ。

 泳ぐようにしてドアに辿り着き、震える手でドアを開けようとする日置。

 ドアはなかなか開かない。日置のズボンに縋りつく金髪ゴリラ。

 比奈が発する冷気は白い煙となって床を這ってゆく。

 やっとのことで開いたドアから転がるように出てゆく日置と金髪ゴリラ。


 一方、アパートでは克代が明良に比奈が誘拐されたことを話し、一千万円の金策を頼んでいた。明良が出し渋ったら、私が蓮杖明良の妻でなければ、比奈は誘拐されることなどなかったに違いないと言ってやろうと思ったが、明良は黙って承諾した。

「奥さん、花って何ですかね?」ベランダを見回していた桐生が、電話を終った克代に訊ねた。

「花?」克代は首を傾げた。

「お譲さんが言ってましたよね?マッキキのハナって」

「花?マッキキの花?」

「そんなマッ黄黄の頭してって言われたって、健太がな」徳次が遠慮がちに口を出した。

「それ!」克代が飛び上がった。「それよ!健太の花柄シャツ!なんて言ったかしら……?ヒ、ヒ、日向、日陰?」

「日置!日置じゃないですか?」桐生が食いつく。

「そう!」克代は、人差し指を桐生につきつけた。

「よし!至急日置を緊急手配!」部下に命令を下すと同時に桐生は県警本部への連絡に取り掛かった。

「ねえ、史恵さんに知らせなきゃマズイわよねえ?」声を潜めて克代は徳次に相談する。「そりゃマズイべ」

「だけど、これ以上史恵さんに苦労は……」

「けんど知らせないってわけにゃ…」

 克代が史恵に連絡する為にスマホを取りあげた時、桐生が振り向いた。

「日置っていうのはですね、サソリ軍団などと名乗って、県内の中高生を配下にして……」


 日置と金髪ゴリラが出て行った後、比奈は後ろ手に縛られた両手を擦り合わせ、紐の端っこを見つけて指で引っ張った。日置が恐怖に慄いていた為か、結び目は雑で何回か引っ張っているうちに紐が解けた。

 比奈はドアの所に飛んで行き開けようとした。しかし、どんなにガタガタ揺すっても、押しても引いてもドアは開かない。鍵は掛けて行ったんだ。あんなにあたふた出て行ったくせに…、比奈は心の中で毒づき、諦めて健太の傍に戻った。

 声をかければ健太はピクリと動く。でもそれだけで、どんなに大きな声で呼びかけても健太は目を覚まさない。比奈は健太の鼻に手を翳した。

 息はしている。

 良かった!

 比奈は部屋の隅に放り投げられたリュックを取ってきて健太の傍に座り、健太の頭を膝の上に乗せた。コンクリートの床からは寒さがシンシンと伝わってくる。比奈はダウンジャケットを脱いで健太の上にかけ、それから、リュックの中身を一つ一つ床の上に並べていった。

 比奈の知らないうちに克代はいろいろなものを入れたらしい。先ず目についたのは沢山の使い捨てカイロ、そしてチョコレートに飴、水のペットボトル、ティッシュにハンカチ、手帳に鉛筆、おまけにドリルまで入っていて比奈は思わず笑った。そして、ありったけの使い捨てカイロを袋から取り出して、健太と自分の体の身体に貼った後、チョコレートを口に入れた。口いっぱいに広がった甘い味は、比奈から少しだけ恐怖を取り去ってくれた。

 大丈夫!おばさんが必ず助けてくれる、比奈はそう確信した。


「克ちゃん、日置のアジトに心当たりが無いか、健太に聞いてみよう」徳次が克代の耳に囁いた。刑事には聞かれたくなかった。健太は足を洗って必死に頑張っているのだ。

 ところが健太は電話に出ない。しかたなく克代が乾弁護士に電話をかけると、とんでもない答えが帰って来た。健太は、三宅夫人が危篤だと言って休暇を取り、一昨日にはシャイニータウンに向ったというのである。

「あの……先生、実は日置のアジトをお伺いしたくて、お電話を差し上げた次第なのですが……」克代がスマホに話しかけた時、桐生が鋭い目で振り返った。

「日置のアジトに心当たりがあるのですか?」そう言うなり、桐生は克代のスマホをひったくる様にして電話に出た。

 健太がシャイニータウンに向ったと、乾の言葉が克代の脳裏に響く。比奈の誘拐に健太が関わっているのだろうか……?まさかと打ち消しつつも、不安が黒雲のように湧きあがる。

 乾が健太から聞いたという、幾つかの日置のアジトは、メールで桐生や警察に送られてきたが、それらのアジトは既に警察でも把握しており、静岡県警の協力でそこに比奈たちの姿が無いことが確認された。

 比奈はいったい何処に……。


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