十九 肉とジャガイモと玉葱と人参
徳次の方は消え入りそうに震えている比奈をアパートに連れて帰った。何しろ、比奈が凄まじいほどの冷気を発しているので、隙間風の吹く山の家よりアパートの方が暖かろうと考えたのだ。ところが、ストーブをガンガン焚いても部屋は一向に暖かくならない。
比奈は寒さを感じないのか平気な顔をしているが、徳次はくしゃみが止まらない。
「おじさん、風邪、ひいちゃったのかね?」それまでしょんぼりと俯いていた比奈が、立ち上って布団を敷き、「スープ作ろうか」と徳次の顔を見た。
「作れんのけ?」
「馬鹿にしたもんでないよ」と、比奈が笑った途端に冷気が収まった。ほんのりと暖かくなったような気さえする。
「まさか、インスタントじゃあるまいね」
「駄目?」
「駄目じゃねえけど……、やっぱりインスタントか。ほんなら一緒に作るべえか」
徳次の指示で比奈が野菜を切り、ベーコンを炒めてスープが出来上がる頃には、徳次のくしゃみはすっかり止まり、部屋も暖かくなっていた。
「うめえ!しかも、比奈ちゃんのスープは効果絶大だな。くしゃみが止まった」徳次の言葉で比奈の顔がパッと明るく輝いた。
「あたし、どうしたら強くなれるかな……」
「ほーだな……」
「勉強すれば強くなれる?」
「そりゃま、何でも一生懸命やりゃあ自信がつくからな」
「暗算は?」
「暗算も良いけど、そればっかじゃ脳みそが偏っちまうんでないかい」
ふーんと頷き、比奈はドリルを出して机に向かったが、頬杖をついて何か考えている。
「どしたい?」徳次が聞いた。
「勉強ってドリルじゃなくちゃ駄目?」
「ドリルは嫌なのかい?」
「そうじゃないけど、あたし、おじさんに教わって料理の勉強がしたい。今日は寒いからね、おでんを作って、おばさんが帰ってきたら暖ったかいのを食べさせてあげたいんだ」
「ほりゃ良い考えだ」徳次は顔をくしゃくしゃにして頷いた。「ほんなら、おでんの材料を買いだしに行くかね」
「だけどさ、黙って早引きして来ちゃったのに、誰かに見られたらまずくない?」
「まずいことなんかあるもんか。比奈ちゃんは悪いことをしたわけじゃねえ。堂々と胸を張って買い物に行きゃあ良いずら」
けれどもその夜、克代は帰って来なかった。勤務を終えると、岩永が入院している県立病院に行き、その夜は岩永に付き添って病院に泊まったのである。
翌日、比奈は勇気を出して出勤し、「昨日は申しわけありませんでした」と詫びた。
所長からすれば、今後は勝手に帰ることはまかりならんと、と一言言ってやりたかったが、克代から、私の方から厳重に注意をしておくので、何も言わないで欲しいと頼まれていたので我慢したのだった。
それほど克代は、シャイニータウンにとって必要な人材になっていた。兎に角、骨惜しみしないで良く働き、それに、入所者には何を言われても嫌な顔をせずに対応するので、評判が良い。比奈が少々のミスを犯したところでそれを補ってあまりあった。
数日が過ぎて、克代の勤務はやっと普通のローテーションに戻り、待望の休みの日がきた。勤務中も克代の頭からは前田から聞いた話が離れなかった。比奈の身体から立ち昇る青白い光の中に、男の姿が揺らめいていたという話である。しかも、その男は北南電気のバッジをつけていたという。
克代は史恵に電話をかけて、一之瀬知之の写真を送って欲しいと頼んだ。まさかその理由を前田に見せる為とも言えず、知之が健康を回復し、もし承知してくれるなら就職先として、蓮杖ホールディングスを紹介したいからと説明した。
それはまんざら嘘ではなかった。もし、知之の就職がいつまでも決まらなければ、折角、比奈が元気になっても、再び同じことが繰返される恐れがあり、克代としても、知之には一日も早く就職して立ち直って欲しかった。
「離婚届を出すということは、御主人と縁を切るおつもりなのでしょ。それなのに……」そう言って遠慮する史恵の言葉を遮って、「悪いのは主人の方なのに、私が素直に離婚に応じたことで、主人は後ろめたい思いをしています。だから、何かを相談するとホッとするようなんですよ」そう言うと、史恵は大層喜んで、すぐに知之の写真と履歴書を郵送してきた。
「この人に見覚えありません?」克代は誰も居ない時を見計らって、サンルームで本を読んでいた前田に知之の写真を見せた。
「さあ?」前田は写真を見て首を傾げた。
「この前ですけど……、比奈ちゃんの背後に見えたと仰っていらした……、何て言うか」
「どうだろうなあ」写真を近づけたり離したりして見つめた後、前田はキッパリと言った。「やっぱり違うと思う」
前田に否定されて克代は何となくホッとしたが、比奈に憑いている霊が樹海の死体でもなく、知之でも無いとすれば、それは一体全体誰なんだろうか? 誰? 誰? 誰だろう?
その夜、克代は健太に宛てて一通の手紙を書いた。
数日後、健太からの返事が届いた。それは北南電気が不採算部門を整理する為に、大量
の人員削減を実施したときに解雇されて、自殺したという臼井則男についての資料と写真であった。
そのとき臼井は株の失敗で多額の借金を背負い、家を抵当に取られるという状態にあった。それで臼井は妻とダウン症の一人娘を道ずれに自殺を図ったのだった。そして、その時解雇を告げたのが一之瀬知之だったという。
翌日、克代は臼井の写真を前田に見せた。
前田は写真を見るなりブルブル震えて、この男だと頷いた。
その恐怖は克代にも伝わった。否、前田の恐怖よりも、はるかに強い恐怖が克代を襲った。もし、比奈に取りついている死霊がこの臼井則男だとするならば……。会社を怨み、比奈の父親を怨みながら――妻と子供を道連れに死を選んだ男の霊だとするならば、日の出を拝むだけで、本当に退治など出来るのだろうか……。
けれども、臼井が怨んでいるのは比奈の父親の筈だ。恐らく比奈は、この臼井という男にあったことなど無い筈だ。会ってもいないのに、死霊が取り憑くなんてこと、あるのだろうか。念のために、克代は史恵に電話で確かめてみようと思った。
「知之さんの履歴書とお写真は蓮杖に送りました。蓮杖はいつでも良いから会社にいらしてください、とのことでした」史恵にそう告げた後、克代は思い切って本題に入った。
「つかぬことを伺いますけれど、比奈ちゃんは……、あの……、北南電気の何ていう方だったか、亡くなられた方……」克代が言い淀んだ時、「臼井さんのことですか?」史恵が即座に答えた。
「その臼井さんなんですけど、比奈ちゃんがその方に会ったなんてことはありませんよね?」会っていないと答えるに違いないと思いながら訊ねたのだ。
けれども史恵は断言した。「会っていますけど……」
それは史恵としても忘れられない事件であり人だった。今から思えば、あれが全ての始まりだった。
「お母さん、門の所に変な人が居るよ。お父さんに会いたいんだって」学校から返ってきた比奈が史恵にそう告げた。
「変な人?」
「なんだか気味が悪い人だよ」
そんなことを言うもんじゃありませんよ、と比奈を諌めた史恵が玄関を出ると、成程、顔が青白くちょっと薄気味悪い男が門の所にぼうっと立っていた。
「何か?」史恵が声をかけると、意を決したように男が聞いてきた。「奥さんですか?一之瀬室長の……」地の底から聞こえて来るような暗く陰気な声だった。
「はい。でも、一之瀬はまだ帰宅しておりませんが……」
「私は、ご主人と同じ北南電気の臼井則男と申します。是非、奥様に話を聞いて戴きたくて、厚かましくもお伺いした次第です」男は一気に喋って、と深く頭を下げた。
門の前で立ち話をするのも憚られ、史恵は臼井を玄関に招じ入れた。玄関に入るや否や臼井は三和土に土下座して、今、会社を辞めさせられたら私達は生きていくことが出来ないのです、と切々と訴え始めたのだった。
いくら頼まれたところで、史恵に何か出来る話ではない。気の毒にと思って臼井を玄関に入れたが、間違いだったと史恵は後悔した。
そして、その数日後、臼井則男が妻子を道ずれにして自殺したことを史恵は知った。
聞かなければ良かったと、克代もまた後悔していた。臼井と比奈が会っていたと知ったところでどうにか出来る話ではない。相手は既に死んでいるのだ。
いや、ちょっと待て。聞いて良かったのかもしれない。比奈に憑いている霊が臼井則男だとするならば、なんとか除霊をしてもらえば良いのではないか。
克代の脳裏に新興宗教の教祖の顔が浮かんだ。徳次も言ってたではないか、「教祖様が知り合いなら、その人に助けてもらったらどうかね」と。
けれどもそのすぐ後で、克代は、あの教祖は駄目だと首を振った。
貧しい信者達が、爪に火をともすようにして貯めた金を献金させ、その上、壺だ念珠だ掛け軸だと言葉巧みに売りつけて、自分は贅沢三昧に暮らしている人に比奈を救える筈がない。
克代は思い余って徳次に相談した。
「でも、克ちゃんは元気になったじゃねえか」
「私? 私はもともと元気よ」
「いや、最初に二人で此処に来たとき、オラ、死霊がついてんのは、克ちゃんの方だとばかり思っただよ。真っ青な顔して生気なんか全く感じられなくて……、こりゃどうしたもんかとえれえ心配したもんだ」
「今は?」
「死霊なんぞは影も形も無え。克ちゃんの剣幕に驚いてどっかへ逃げて行ったずら」
「だけど、もし、臼井則男の霊が比奈ちゃんに憑いていたとしたら?」
「そりゃねえべ。比奈ちゃんの父親なら兎も角、比奈ちゃんと臼井則男の間に接点など無えんだから。だろ?」
「それが会ってるらしいのよ」
「ほりゃ……」徳次は当惑して、顎を撫でた。
「それに、臼井則男の怨みは相当強いと思うわ。何しろ前田さんの所にだって現われたくらいだから」
「まあ、怨みほど恐ろしいもんは無えからな……」
「比奈ちゃん大丈夫かしら?」
「あの子には人を思いやる優しい心がある。愛がある。あの日、比奈ちゃんが二度目に居なくなった日のことだが、あの子を連れて帰って来たとき、半端じゃねえ冷気が漂ってただ。克ちゃんも山で、車のヒーターを入れてくれって言ったべ、あん時もガンガンヒーターが入ってたけど、相当な冷気でヒーターなんか効きゃしねえ。此処へ帰って来ても冷気は強くなるばかりだった。オラ、立てつづけにくしゃみが出て止まんねえもんで、あの子がオラの為に布団敷いてくれてさ、それでスープも作ってくれただ」
「そしたら?」克代は思わず身を乗り出した。
「嘘のように暖かくなって、くしゃみも止まった」
「スープを飲んだからじゃないの?」
「いや。冷気が止まったのは、比奈ちゃんがオラのために布団さ敷き始めた時ぐれえじゃねえかな……。それで、克ちゃんの為におでんを作りたいって言った時にゃ、ストーブが効いて部屋ん中は充分に暖かくなっていた。あの子の優しさが冷気を溶かしたんじゃねえかと思うだ。本当に心根の優しい子だもんで」
「それ!」克代はキリッと眉を上げ、立てた人差し指を徳次に向けた。「そこが問題なんじゃない?あの子は確かに優しい。涙が出るほど優しい。だけどあの子の優しさには芯が無い。だから、霊なんかに取り憑かれちゃったんじゃないかと思うのよ。あの子の父親だって、前田さんが見たって言う幽霊だって、心が弱いから皆して不幸になってゆく。優しいだけじゃ駄目なのよ!」悔しくて、克代は拳でテーブルを叩いた。
その時、柱時計が一時を打った。
「わ、もうこんな時間!行かなきゃ」
「まだ早えずら。今日は夜勤だべ?」
「岩永さんとこに寄るから」
「これから県立病院に行くんか」驚いて徳次は時計を確認する。
「岩永さん、そっちは退院してね、今はサンシャインの診療室に居るのよ」
「ほうけえ」徳次は頷いて克代と一緒に立ち上り、土間に下りた。
「岩永さんてスゴイ人よ。損を承知で口を出す」
「なんじゃそりゃ」籠の中の蜜柑を選びながら袋に入れる徳次。
「もの言えば唇寒し……、って昔から言うじゃない。何か言えば損なのよ。だから、関わりの無いことには黙っている人が多い中で、岩永さんは、是は是、非は非とはっきり言える勇気ある人」
「キジも鳴かずば撃たれまいにってヤツか……」
「物事の本質を見抜いているから、はっきり言えるんだろうな」
「じゃこれ、そのスゴイ人に」袋いっぱいに詰めた蜜柑を徳次は差出した。
「徳ちゃんもそうよね」
「そりゃ買いかぶりだ」
「そんなことない。だって昔、徳ちゃんはいつだって私のこと庇ってくれてたじゃない。大きい子達に殴られんのを承知で」
「あれはさ、克ちゃんの言うことが尤もだと思ったからだで。亀を虐めちゃいけないとか……」
「猫でしょ。亀じゃ浦島太郎じゃないの」
「遠い昔の話だ」
「戦地から引きあげて来た兵隊さんの話だけど、もし徳ちゃんが弱い人間だったら、徳ちゃんにも死霊が乗り移ってたんじゃないかしら」
「それは無えんじゃねえかい。あの人は戦地で亡くなった兵隊さん達の魂を日本に連れて帰り、さらに全員引き連れて天国へ行ったんだ。今、思い返してみても弱音一つ吐かなかったもんな。よほど強い人だったと思うがな」
「本当に強い人ってそうよね。決して威張ったり無意味に自分を誇示したりしない。一見強そうな人が、本当は弱かったりするものね」靴を履きながら克代が言った。
「車だすよ」徳次が言った。
「要らない。それより徳ちゃん、私、今日は泊まりだから比奈ちゃんのこと頼むわね。あの子、前田さんに幽霊って言われたことにひどくショックを受けてるから」
「なにすぐ立ち直るさ。それより克ちゃんの方こそ大丈夫かいね?そんなに働いて」
「大丈夫よ。なんかこの頃すごく充実してるの」そう言った途端に克代がよろめいた。
「やっぱり乗ってけ」
そう言って徳次は車庫の戸を開けた。徳次の家からシャイニータウン迄、山を下ってそれから別の山を登るので、歩きだと三十分以上かかる。だけど車ならものの十分もかからないのだ。
「悪いわね」
「なに、オラも充実してるでね」
一時過ぎに克代をシャイニータウンに送った後、徳次は比奈を迎えに再びシャイニータウンへ行った。五時を少しまわって比奈が玄関に現われた。ニコニコと、徳次が迎えに来ることを信じて疑わない笑顔。
幸せとはこんな瞬間のことなのか……、ふとそう思った時、徳次は遠い昔のことを思い出した。辺りが暗くなると、外で遊んでいた子供達が、楽しかった余韻を顔に残しながら帰ってくる。手を洗え、茶碗をお膳に並べろと、妻に言われて子供達は騒々しく夕餉の支度を手伝い、やがて全員が揃って食事が始まる。
子供達が高校を卒業すると、或る者は働きに、或る者はその上の学校へ行くために東京へ出て行った。そして妻が死んだ後は、盆だろうが正月だろうが帰ってくる者は居なくなった。寂しいとは思わなかった。子供達は巣立ち、自分の役目は終わったのだ……。
比奈はあまり喋らない。徳次も滅多に口を開くことはない。それでも、隣に誰かが居るとはこんなにもウキウキすることなのかと、車を走らせながら徳次は思っていた。
「おじさん、シチュウ―作れる?」唐突に比奈が聞いた。
「何の料理だ?」
「肉とジャガイモと人参と玉葱を入れて煮るんだよ」
「そりゃ作れるさ。そんなもんわざわざ英語で言わんでも、こっちじゃ肉じゃがって言うんだがな」
隣で比奈がキャッキャッと笑った。
二人はスーパーへ寄ってシチュウ―のル―とその箱に書いてある通りの材料を買い、徳次の家へ着くと早速作り始めた。
「おばさんはね、強く生きるためには信念を持てって言うんだけどね」比奈がジャガイモの皮をむきながら言った。「信念て何なんだか、あたし……解んないんだよ」
「克ちゃんは何て言ったね?」徳次は傍の椅子に座り、ポケットから煙草を取り出しながら聞いた。
「おばさんは、一生懸命に生きていれば解ってくるって言うの。だけど解んないんだよ。自分じゃ一生懸命に生きてるつもりなんだけどね」
「そうさなあ……。この前、比奈ちゃんは克ちゃんの為におでんを作りたいって、そう言ったろ。それが全てなんじゃねえか」
「え、どういうこと?」
「誰だって自分のことは大事にする。だけど、人のことはついつい忘れっちまう。何があっても、先ず、人のことを大切にする気持ちさえ持ってれば、好かれようが嫌われようが、人に何て言われようが気にするこたあ無えってことじゃねえか」
徳次の答えに満足したのかしないのか、比奈は一瞬複雑な表情を浮かべたが、唐突に「あたしって幽霊みたい?」と聞いた。
「自分の足をよおく見て御覧」徳次は、顎で比奈の足を示して言った。「そんなぶっとい足の幽霊なんか何処に居るね。幽霊っちゅうのは足は無えもんだや」
弾けるように比奈は笑った。バカみたいにアハアハといつまでも笑った。そして、笑いと一緒にクヨクヨしていた気持ちがどこかへ消え去ってゆくのを感じていた。