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袖振りあうも... 後編  作者: 月のひまわり
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十八  北南電気のバッジをつけた男

 二月に入った。どんよりとして、今にも雪が降り出しそうな日であった。

「こういう日はとかく喧嘩などが起きやすいので、皆さん、心してください」朝のミーティングで所長がそう付け加えた。

 昼前から風が強くなった。ランチタイムが無事に済んでホッとした須賀が外を眺めていた時であった。

「大変です! 岩永さんが怪我を!脚の骨が折れたようで。診療所の車で病院に運ぶよう手配しました。所長の命令です」職員の一人が飛んで来て、須賀に報告した。

「どしてまた?」現場のゲーム室に急ぎながら須賀が聞いた。

「前田さんが岩永さんを突き飛ばしたんです」

 須賀がゲーム室に到着した時、担架に乗せられた岩永が運び出されるところであった。

「僕は岩永さんに付き添って病院に行くから、後を頼むよ」所長が言った。

「はい」と須賀は答えて部屋の中を見回した。

 ゆったりとした椅子に前田が青い顔をして座っている。付近の床にはカップやソーサーが転がり、こぼれたコーヒーが匂いを放っていた。

 前田は入居した頃は物静かな紳士であったが、最近ではちょっとしたことですぐに腹を立て、誰かれ構わず怒鳴り散らすようになっていた。だからと言って前田が簡単に暴力に走る人間には思えなかった。もしかしたら認知症の度合いが進んでいるのかもしれない…。不安な思いをふっ切るように、須賀は努めてさり気なく前田の傍に膝まづいて聞いた。

「どうなさいました?」

「わからん」掠れた声で答え、前田は怯えた目を須賀に向けた。身体が小刻み震えて、極度の緊張状態にあることが見て取れる。須賀は男性スタッフ呼んで、前田を診療所に連れて行くように命じ、それから隅に固まって見ている人達から事情を聞くことにした。

「前田さんが岩永さんを突き飛ばしの」

「お二人は一緒にゲームをしてたのでしょうか?」前田と岩永は、日頃から仲があまり良くない。二人が一緒にゲームをするとは須賀には思えなかった。

「違うわ。岩永さんは私達と一緒にマージャンをしていて、前田さんは木崎さん達とトランプしてたんじゃないかしら」

「そうじゃなくて、前田さんは本を読んでいたのよ一人で」

「誰も相手にしないからね」

「だって前田さん、すぐに大きな声で怒鳴るんですもの」周りのみんなが頷いた。

「岩永さんはどうして?」ほっておくと会話が違う方向に進むので、須賀が遮って聞いた。

「だから、前田さんが比奈ちゃんを突き飛ばしたから」

「違うって。突然、『遅いじゃないか』って怒鳴る声が聞こえたので、私達が振り返って見ると、比奈ちゃんがお盆を持ったまま立ち竦んじゃって……。それで、前田さんがパッと手で払ったからお盆が落ちたのよ」

「それで岩永さんが飛んでったの。あの人、比奈ちゃんをとても可愛がってるからね」

「私達は止めたのよ。ほっといた方が良いって」

 口々に状況を説明する入所者達に、須賀は「それで比奈ちゃんは?」と聞いた。

「怒鳴られたから吃驚したのか、お盆を落したショックからか、顔色変えて飛び出してっちゃったわよね」一人がそう答えると、皆が頷いた。


 事務所に戻った須賀は無線で比奈を呼びだした。何度呼びだしても応答が無い。そこで蓮杖克代を呼びだした。

「なんでしょうか?」入所者に風呂をつかわせていたという克代が、事務所に戻ってきた。

 須賀からざっと事情を説明され、比奈と連絡が取れないと聞いた克代は、ロッカーを調べて比奈の荷物、その中にスマホが入っていることを確認すると、須賀に比奈が建物内に居るかどうかの確認を依頼し、それから徳次にすぐ来るように電話した。

 須賀は全職員に比奈を見かけたら、すぐに事務所に報せるよう無線で指示する一方で克代に、もしかしたら、庭園の広場に居るのではないかと告げた。蜜柑の木々の向うに青い海が見える広場が、比奈が気に入っていることを須賀は知っていた。

「私もそうじゃないかと思います。私は広場に行ってみるので、申しわけありませんが徳次さんが来たら、広場の近くまで車を回すように伝えてもらえますか?」

「事務所の車を出しましょうか」須賀の申出に、克代は、これ以上人手を使うわけにはいかないと断り、一人で探しに行った。

 比奈は徳次に懐いている。恐らく徳次の家に向う可能性が強いと踏んだ克代の予想は的中し、徳次は自宅からシャイニータウンへ向う道筋で、消え入りそうに影の薄い比奈が山道をフラフラと歩いているのを発見した。

「自分さえ良ければ良いんかね?」シャイニータウンには戻りたくないと、道端に座り込んで抵抗する比奈に、徳次は言った。「オラも克ちゃんも、比奈ちゃんが生きていてくれりゃ…、比奈ちゃんが幸せでいてくれりゃ何にも要らねえ。オラだって、此処で比奈ちゃんを見つけるまでは、生きた心地がしねがったぞ。今、克ちゃんがどんな…」いつにない徳次の真剣な表情に、比奈は黙って車に乗った。


 シャイニータウンに着くと、徳次は須賀に比奈が見つかったことを伝え、それから庭園広場に向って車を走らせた。須賀から連絡がいったのだろう、広場近くの舗装された道に大きく手を振っている克代の姿があった。

 克代は助手席側のドアを開けると、小さく丸まっている比奈を抱きしめた。

「ごめんなさい」蚊の鳴くような声で比奈が言った。

「何があったか、言える?」克代にしては珍しく優しい声を出した。

「幽霊……って言われた」消え入りそうな声で比奈が答えた。

「誰に?」克代は驚いて飛び上がった。よりによってなんてことを言うのだ!

「前田さん」

「比奈ちゃん、それ本気にしたの?前田さんはこの所、認知症が進んでるって知ってるでしょうに!目も白内障だし。昔の痩せっぽちの比奈ちゃんなら兎も角、最近じゃ太って血色も良くなって、誰もそんな風に思やしないわよ。何か言われたって、いちいち気にしないの」克代はそう言うと比奈の身体を抱いて後部の座席に移らせ、隣に座った。

「寒いわね。徳ちゃん、ヒーターつけてよ」

 ヒーターは目いっぱい入っているのだ。それでも車内には底知れぬ冷気が漂っている。徳次は何も言わずに、ただ、「はいよ」と答えた。


 比奈が見つかったから良かった。比奈はきっとすぐに立ち直れるだろう。しかし、比奈が『幽霊』と言われたことが広まれば、比奈はシャイニータウンには居られなくなる。口さがない入居者達の顔が次々に克代の脳裏に浮かんだ。さてどうしたものか……、克代は頭を抱えた。

 克代は、比奈を連れて帰るよう徳次に頼んで、一人で事務所に戻った。


 事務所では所長と須賀が対策を検討していた。比奈が失敗して騒ぎを起こしたのは二度目である。

「たかが幽霊と言われた位で、コーヒーを投げ出すかね」苦り切った顔で所長が言った。

「だけど、この話が広まれば大変ですよ。幽霊が出るなんて噂がたったら入居者が居なくなりますからね。今だって空き室が三つもあるんですから」

「幽霊話ぐらいで入居者が減るか?」

「当り前じゃないですか。此処は老人ホームですよ!縁起が悪い!」

「だけどさ、此処だけの話、あの子にはちょっと幽霊みたいなとこがあると思わないか?」

「止めて下さいよ所長まで!可哀そうじゃないですか」

「でも、あの子には何処か暗い所があって、此処には向かないよね。此処はやっぱりアッちゃんのような……ね」所長の斉田は須賀に相槌を求めた。

「比奈ちゃんは素直な良い子です!」須賀は憤然として返した。「それに比奈ちゃんの首を切るとなると蓮杖さんが」

 所長が同意して頷いた。「それにしても、三宅夫人もジャイアンも、前田さんだってそうだろ。折り紙つきのうるさ方が揃いも揃って蓮杖君を贔屓にしてんだよね。なんであんなに人気があるのかね」

 そう言って所長が首を傾げた時ノックの音がして、所長は口を抑えて飛び上がった。

 返事も待たずに克代が入ってきたのだ。

「比奈が御迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」克代が二人に頭を下げた。

「比奈君の様子はどうですか?」

「ちょっとショックを受けていますので、早退させて戴き、家へ帰らせました。本当に申し訳ありませんでした」克代は再び、二人に深々と頭を下げた。「これから、岩永さんと前田さんの所にお詫びに伺います」

「前田さんの所にいらっしゃる前に、ちょっと言い難いんですが……」須賀は言い淀んだ末にキッパリと言った。「比奈ちゃんに幽霊が憑いてると、前田さんが仰るんです。勿論、私達は、そう思ってはいませんけど」

「まあ幽霊なんて。バカな!そんなことをあるわけないじゃありませんか」そう笑い飛ばした後、克代はもう一度神妙に詫びた。「あの子の不注意で、ご心配をおかけして本当に申し訳ございません。お年寄りは視野が狭くなっているから、お飲み物をサービスする時は、必ず、目の前でお出しするようにと常々教えているんですけど、あの子はコーヒーを前田さんの後方からお出ししようとして、前田さまがそれに気付かずに手を動かされて、その手がお盆にぶつかってあんな騒ぎになったのではないかと思います。比奈には、二度とこのような事件を起こさないように重々注意は致しますが」

 真摯に詫びの言葉を述べてきた克代が、ここでヒョいと顎をあげた。此処からが克代の本領発揮である。

「ただですね、あんな年端もいかない子に幽霊なんてとんでもない話です。本当に幽霊なんて言われたんだとしたら、こちらとしてもパワハラを検討させて戴くことになりますしネ」最後の『ネ』に思いっきり力がこもっている。

 所長も須賀もハッと姿勢を正し、「勿論です勿論です」と、何が勿論かはわからずに大きく頷いた。


「この度は、比奈が御迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」診療所の前田の病室を訪れた克代は、前田の顔を正面から覗き込むようにして丁寧に詫びた。

「蓮杖さんか……」前田は起こしてくれと手で示し、克代は電動ベッドのボタンを押した。

 前田がベッドの上で半身を起こすと、克代は再び頭を深く下げて謝罪した。

「つかぬことを聞くけど……、蓮杖さんはあの子と血のつながりは無いんだろ?」個室であるにもかかわらず前田は周囲を見回し、声を潜めて聞いた。

「なんでですか?」克代はわざと明るく答えた。

「いや……、もしかしたら……」そう言って再び前田は辺りを見回し「もしかしたら、あの子は人間じゃ無いんじゃないかと思って……」

「まさか!幽霊とでも?」否定を強める目的で、克代は『幽霊』と言う言葉をあえて使った。たとえそれが事実だとしても、『比奈が幽霊』などと絶対に言わせてはならない。その為には、策略が必要であった。

「そうは言わんけど……」案の定、前田は慌てて顔の前で手を振って否定した。

「実は……、此処だけの話にして、誰にも仰らないでくださいね、実はあの子は」克代は声を潜めて前田の耳元に口を近づけた。

「言わない。言わない」前田は首を振り、真剣な表情で身を乗り出した。

「あの子は私の大切な大親友の孫で、私は出産に立ち会ってるんです」

「見たの?生まれるとこ」

「勿論ですよ」克代はにっこりと頷いた。「私の親友が早くに亡くなって、私は親友の子供の親代わりをしていましたから」勿論、嘘である。

 確信ある克代の話しっぷりに前田は頷いたものの、まだ釈然としない顔をしていた。

「まだ何か?」克代は前田の顔を見た。

「実はね」話し始めた前田は、克代に更に念を押した。「絶対に此処だけの話にしてくれよ」

「勿論ですよ」

「あの子の背後に青白い顔をした男がいて、私を睨んだんだよ」前田は恐ろしそうに身体を震わせている。

 その瞬間、克代の脳裏に樹海で見た死体が蘇った。「年は幾つぐらいでした?」

「わからんよ。ぼんやりしてるんだから」

「だけど、若いとか子供だとか高齢者だとか、あるでしょうよ」

「中年じゃないかな」

「服装は?」

「背広だよグレイの。チャコールグレイかな。まあ、いわゆるドブ鼠色だ」

 克代は密かに胸を撫で下ろした。少なくとも樹海で見た死体じゃなさそうだ。あの死体は確か茶色のスーツに黒い靴だった。

「靴は?」念のために克代は確かめた。

「わからんよ。足なんか無いんだから」前田は一点に目を据えて言った。「ただね……」

「ただ、なんですか?」

「バッジをしてたんだよバッジ!それも我が社の」

「我が社って、前田さん、会社どちらでした?」

「北南電気だ」

「北南電気!超一流じゃないですか」ちょっと自慢げに顔を綻ばせた前田に、克代は追い打ちをかけた。「会社が大きいですからねえ……、いろんなことがあったと思いますが、前田さんは現役時代、誰かに怨まれるようなことはありませんでした?」

「私は無いと思うがな。だけど私は創業者一族でね、爺さんや親父は会社を大きくするために、あくどいこともやってたかも知らん」

「御先祖様ねえ……」克代は納得したように首を振った。「その恨みから、誰かが前田さんの前に現われたってこと……、あるかもしれませんね」

「嫌なこと言うな」

「前田さん、最近イライラしたり落ち込んだりすることありません?」

「それがどうもね、ここんところ妙にイライラするんだよ」

「なるほどね。霊にとり憑かれると人は怒りっぽくなるらしいですよ」

「霊って、俺にか!」前田は飛び上がった。「俺に霊が憑いてるって、言うのか?」

「いえ。まだ憑いてはないと思います」克代は『まだ』を大きく強調して言った。「だから、人を通して見えたんじゃないですか。本質的に前田さんはお優しい方なので問題はないと思いますが、これからは努めて怒ったり怒鳴ったりしないでくださいね」

「そりゃ怒鳴ったりはしないけど、なんで?」

「だから、霊は怒りっぽい人に憑くって言うからじゃありませんか」

「ホントかよ?」

「もし、お気に触ることなどありましたら、怒る前にいつでも私に仰ってください」

 その言葉に感激して、前田は克代の手を握り締めた。

「それから、このことは誰にも言うのはよしましょうね」克代は唇に人差し指をあて、前田に微笑みかけた。

「勿論だよ。私だって変なこと言って、認知症と間違われると困るからサ、蓮杖さんも絶対に誰にも言わないでよ。頼むよ!」



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