十七 水面(みなも)を走る黄金の矢
クリスマスが終ると、途端に町は正月を待つ風景になった。こののんびりした町でも、行き交人々は忙しなく早足になり、「押し詰まってきましたねえ……」などと挨拶を交わしている。
クリスマスパーティ以降、克代は他の人の遅晩を積極的に代ってあげていたために、帰りが毎晩のように遅くなっていた。だから徳次は、五時に仕事が終わる比奈を迎えにシャイニータウンに行き、二人で山の家で晩ご飯を食べ、それから遅晩の仕事が終る夜九時には克代を迎えに再びシャイニータウンへ行って、比奈と克代をアパートへ送り届ける日々が続いていた。
十二月もいよいよ三十日。その日も迎えに来た車に乗って比奈が徳次の家に着いた時、あたりにはプ―ンとカレーの匂いが漂っていた。
「あ、カレーだ!おじさん作ったの?」比奈がはしゃいだ声をあげた。
「健太じゃねえか」
「エー!健太帰ってきてんの?」車を降りるなり比奈は家の中に駆け込んだ。
狭い台所で、健太が身体を縮めてカレーを作っていた。
健太の作ったカレーはおいしかった。でも、比奈には、『美味しい』という一言がなかなか言えない。考えてみると食事の間中、いつも喋っているのは克代一人なので、克代が居なければ喋る人も無く、三人は黙々としてカレーを食べた。でも顔を見れば、誰もがおいしいと思って食べているのがわかる。
そのうちに比奈は、言葉は別に要らないのだと気がついた。言葉が無くても、此処には通じ合える何かがあった。それって、なんと素晴らしいことだろう……、比奈は思わずにんまりとした。「なんだべ?」徳次は聞いたが、同じ気持ちでいることは、にんまりした徳次の顔でわかった。
食事の後片づけが済むと、徳次が「比奈ちゃんドリル」と言った。
「えー!」比奈が思わず叫ぶ。「今日ぐらい良いじゃん」
「エじゃねえべ」当然のように徳次が言う。
「だってぇ」比奈が健太を見る。
「俺も毎晩、勉強してんだ」そう言う健太が、比奈にはひどくお兄さんのように思えた。
時間になったので、健太も一緒にシャイニータウンに克代を迎えに行った。
帰り支度をして出て来た克代は、車のわきに直立不動で待っている健太を見て飛び上がった。言葉にならぬ音声を発して克代は健太を抱きしめ、車に乗り込んでも元気だったかとか、仕事はどうかとか矢継ぎ早に質問を投げかける。健太が答える暇もなく車はアパートに着いた。
「明日もう一日、私は勤務があるけど元旦はお休みだから一緒に初日を拝みましょ」健太にそう約束して、やっと克代は車を降りた。それでもドアを閉める前に、「徳ちゃん、明日も比奈のことお願いね」と念を押すことは忘れなかった。
年が明けた。克代、比奈、徳次、健太の四人は裸足で夜明け前の砂浜に立った。
水面から続く空は斜めに分れ、対角線の左半分は雲も無く薄っすらと白みがかっていたが、太陽が昇ってくる方の残りの半分には雲が立ち込め、濃い群青色の海面と一つにつながっている。やがて、暗い方の空と群青色の海との境目にオレンジ色の筋が走り、海面と空とをくっきりと分けた。そうすると見る見るうちに群青色の雲の無数の破れ目にも淡いオレンジ色がのぞき、雲の端をキラキラと金色に輝かせた。荘厳な日の出が始まったのだ。丸い姿を現さずとも雲の向うには偉大な太陽があり、祈る一人一人に惜しみなくエネルギーを注いでくれているのを、四人はひしひしと感じていた。
比奈の身体から死霊が出て行くように、と願った後、克代は明良を想った。去年の正月は明良と二人でハワイで迎えたのだった。
明良はもう、離婚届を提出しただろうか……。
克代はこの町に来て、本当に信頼できる人々、比奈は勿論のこと、徳次や史恵、岩永達に出会ったことに心から感謝していた。だから明良にも、自分との暮らしは過去のことと割り切って、奈緒美と新しい人生を始めて欲しかった。何しろその為に離婚届を送ったのだから。
一方、蓮杖明良は世田谷の家で、たった一人で正月を迎えていた。それが『けじめ』だと思っていたからだ。だが、その思いは奈緒美には全く伝わらず、克代と離婚するように迫る奈緒美の口調は、益々激しさを増す一方で、克代から離婚届を送ってきたなどと、とても言えるものではなかった。
不貞を責められ、財産分与や慰謝料を請求されたならまだしも、克代は黙って引き下がり、離婚届まで送ってきたのである。ホイホイと奈緒美を家に迎えたりしたら、罰が当たるではないか。罰が当たらないとしても、そんな図々しい男に明良はなりたくなかった。
奈緒美とのことは過ちだったとまでは言わないが、奈緒美も克代の存在を承知した上で始まった付き合いである。それでも優香のことは認知した。優香の将来には責任を持つし、奈緒美も一生困らないように出来る限りのことするつもりでいる。でも正妻は、克代以外に、蓮杖ホールディングスを共に成功させた克代以外には居ない。奈緒美にはそのことをわかって欲しかった。己の分を知って欲しかった。
明良のそんな思いを克代は知らなかった。
初日の出を拝み、お雑煮で新年を祝ったあと克代は出勤した。シャイニータウンには盆も正月無い。それでも比奈は元旦だけは休みは貰えたが、克代は自分から出勤を申し出たのだった。
克代が出かけた後、比奈はドリルを抱えて炬燵に入った。
「ほー。偉えな」炬燵に入りながら、徳次が比奈の顔を見た。
「だって毎日やることが大事だって、言ったじゃない」
「確かに!」健太も炬燵に入りながら賛同した。
「健太はどうやって勉強してんの?」
「おばさんからは夜学へ通えって言われたんだけどね、乾先生が試験してくれて…、ペーパーテストもあったけど、大体は口頭でね、先生の質問に答えるんだ。仕事が終わってから一時間位。それが一週間毎日。その試験が終わった後、先生が夜学へ通うよりも自分で勉強して『大学入学資格検定』を受けてみろって。だから、今は仕事が終わった後、自分で勉強してる」
「わかんないところはどうすんの?」
「最初はね、全部わかんねえんだよ。乾先生に何聞かれてんのかもわかんねえ。アルファベットとか、訳のわかんねえ記号が頭ん中でごっちゃごちゃんなっちゃって、グルグル回ってんの。まじ、あせったぜ!学校だとさ、解んない人は解んないままおいてきぼりにされて、他の人はどんどん次に進んでっちゃうじゃん。だけどね、乾先生は、解らない時は最初に解らなかった所へもどれ、って。解らない所は解るまで考えろ、調べろって言うんだ」
「それで、解るようになった?」
「うん。一つ解ると次に解んないとこを見つけて調べるのが楽しくなった。先生はね、解らなくて良いんだって。人間なんか解らないことだらけなんだから、解らない所をとことん調べる癖を身につけりゃ、それで良いんだって」
「ほお……」徳次が感嘆の声をあげた。「すげえ先生だな。比奈も乾先生に教わっちゃどうだい?」
「あたしは此処が良い。それにさ、乾先生もスゴイかもしれないけど、爺ちゃんが言ってることと同じじゃん」いつの間にか比奈は健太に倣って、徳次を爺ちゃんと呼んでいた。
「違うだよ。乾先生は解ってて言ってるけど、オラ、わかんねえで言ってるだ」
「でもさ、わかんない所はわかるまで調べろって、爺ちゃん言うじゃん」
「わかんねえとこをそのまんまにして先に進んだって、何もわかんねえからな」
そこで健太が一つの提案をした。「それじゃさ、俺は乾先生んとこで勉強して、比奈は爺ちゃんと勉強して、一緒に『大学入学資格検定』を受けようようよ。あ、なんかね、今は、『高等学校卒業程度認定試験』て言うらしいんだけど」
「そうすべえ」比奈より先に徳次が答えた。
二日には比奈も克代と一緒に仕事に出かけた。健太は徳次の家の周りを綺麗にし、徳次と二人で畑へ行って、大根や白菜を収穫して干した。畑で何も考えずに野菜を収穫するのは楽しかった。そして、この野菜たちが成長するまでに、どれだけの努力や苦労があったのかを考え、自分が今、こうして平和に生きていられるのは、三宅さんや皆のお陰だと改めて、感謝で胸がいっぱいになった。
翌三日、健太はシャイニータウンに三宅さんを訪ねた。「初月給をもらったから」と、健太からプレゼントを渡され、赤いリボンを丁寧にほどく三宅さんの、綺麗にお化粧した顔には既に涙が一筋二筋とあふれ出ていた。プレゼントは華やかな花柄の小さなポーチだった。三宅さんはいつも食堂に行くときには、小さなポーチにハンカチとティッシュとメガネを入れて持って行くことを健太は知っていた。
それから健太は、蓮杖克代の紹介で乾弁護士事務所の下働きとして働き始めたことを報告し、三宅さんから借りたお金はヤクザに取られてしまったが、今、過払い金の返還請求を行っているので、返還されたらすぐにお返ししますと、深く頭を下げた。
「あのお金は健太ちゃんにあげたお金」と、三宅さんは涙でクシャクシャになった顔をほころばせ、「久しぶりに伊東へご飯を食べに行きたい」と甘えた。
伊東には三宅さんお気に入りのレストランがあるのだ。