表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
袖振りあうも... 後編  作者: 月のひまわり
3/10

十六  涙々のクリスマスプレゼント

 いよいよ十二月二十日がやってきた。

 列車から降りてきた母の、この間よりかは血色も良く元気そうな顔を見て比奈は安堵した。その思いは史恵にしても同じで、比奈のふっくらした頬や身体を何度も何度も撫でさすっては、「偉い!ちゃんと食べてるのね」と顔を綻ばせた。

「なに買ってきたの?スゴイ荷物だね」比奈は、片手にスーツケースもう一方の手には幾つもの袋をぶらさげている母から、荷物を受取りながら頬を紅潮させた。

 こんな何気ない会話をするのは何年ぶりだろう……。そう思っただけで、史恵の目に涙が浮ぶ。

 商店街の店先は雪の結晶や金色のベル、それにトナカイや赤と緑のリースなどが飾られて、この小さな村もクリスマス一色に染まっていた。

「あのねぇ、イジメられる人ってのは、落ちこぼれなんかじゃなくてむしろ天才なんだってよ!」比奈が頬を赤らめて報告した。

「そうね!そうかもしれないわね」史恵が大きく頷いた。「だけどね、天才って言ってもダイアモンドと同じで、磨かなきゃ花は開かないんじゃない?」

「そうなんだよ」比奈は顔を輝かせた。

「だからね、あなたを磨くのがお母さんの役目なのよ。だからお母さんは」我が意を得たりとばかりに史恵の態度が大きくなった。

「違うんだよ。磨くのは自分自身なんだって。ダイアモンドと違ってね、天才ってのは自分自身で磨かなきゃ駄目なんだって」

 成程と思ったその瞬間、史恵は比奈が暗に自分を非難しているのかと疑った。けれども比奈の態度は恬淡として、悪意など微塵も感じられない。史恵は比奈を磨こうとしてきたこれまでのやり方が間違っていたのかもしれないと思った。間違ったどころか、むしろ、比奈を追い詰めていたのではないか……。そう思うと、これまでの比奈とのいろいろなやり取りが史恵の脳裏に去来し、史恵はいたたまれない思いになった。

 そんな史恵の心の変化に気づくこともなく、比奈はシャイニータウンでの出来事について話し続けている。

「お母さん」気が付くと、比奈が史恵の顔を覗き込んでいた。「どうかした?」

「比奈を蓮杖さんにお預けして、本当に良かったと思って」

「おばさんが蓮杖ホールディングスの社長夫人だから?」

「それどういう意味?」

「お母さんは、おばさんが蓮杖ホールディングスの社長夫人だから信じたんでしょ」

「馬鹿な! 比奈には緊急避難が必要だって蓮杖さんが言うから。私は……、比奈がそんなに追い詰められているなんて……、知らなくて……。だから蓮杖さんを信じて」

「あたしはまた、お母さんは有名人が好きだからさ、それでかなと思ってたよ」

「私は有名人が好きなわけじゃないわ。ただ、この世では成功しなければ、ゴミみたいに扱われて惨めな思いをするばかりだから……」

「でもさ、徳次さんて素晴らしい人だよ。あの人が成功者だとは思えないけど、あたしはね、ああいう生き方って素晴らしいと思う」

「そうかもしれないわね」そういう考え方もあるのかと、素直に頷いた史恵の心に、もしかしたら、知之も此処で一緒に暮らせば、元の優しい夫に戻ってくれるのではないだろうかと、淡い期待が生じた。だが、父親は死んだと言い張る比奈が、知之を受け入れてくれるかどうか……自信は無かった。


 アパートに着くと、既に克代は帰っていた。

「おばさん! まさか、また辞めちゃったんじゃないだろうね」

「やあね。なんてこと言うの。須賀さんが、今日はもう大丈夫だから早く帰って良いって言ってくれたのよ」

「この度はお招き戴きまして」史恵が挨拶をするのに、克代が答え、延々と挨拶の応酬が始まろうとしたとき、遠慮がちなクラクションの音が響いた。

「コンロだ」比奈が飛び出して行った。

 徳次はアパートの前の外階段の所に、鋤焼き用の鍋や食器そして野菜や果物などを次々と下ろしている。史恵も飛び出して来て徳次に長々と挨拶を始めた。

「おじさん、もう運んで良い?」困惑する徳次に比奈は救いの言葉を発した。

「おう。これ頼むで」救われたように徳次がコンロを比奈に手渡す。なにしろ徳次は挨拶というものが大の苦手なのだ。


 荷物を運び終わると、克代と史恵は再び部屋で長々と挨拶を繰り返している。

 徳次は所在なさそうに煙草をふかし、比奈は一人でキッチンに立ってケーキの飾り付けを始めた。台のスポンジは既に購入済みである。

 一通りの挨拶が済むと、克代は改まって徳次と史恵に頭を下げて言った。「折り入ってお二人にお願いがあるのですけれど……」

 克代のその真剣な表情に、徳次までが姿勢を正した。

「なんでしょう?」史恵が首を傾げた。

「実は此処にご署名をお願いしたいのです」克代は離婚届の証人欄を指差した。

 徳次と史恵は当惑して顔を見合わせた。

「主人には何時でもサインするから離婚届を送って、と言ってあったんですけど、なかなか送ってこないので、先日、こちらの役所でもらってきました。なんとかクリスマスには間に合わせたいと思って」

「なんで!」と史恵が叫んだ。

「向こうには子供が居て、来年小学校にあがるそうです。だから、一日も早く籍を入れられるようにと」史恵の言葉を封じるように克代が言った。

「それじゃ、あまりにも向うの思い通りじゃありませんか!蓮杖さんが家を出たのを良いことにして」史恵が頬をふくらませる。

「でもサ克ちゃん、比奈ちゃんはいずれ帰るんだよ」徳次も語調を強くした。

「勿論よ」克代が頷く。

「イヤダ! 私は何時までもおばさんと一緒に居る」キッチンから比奈が飛んで来た。

「比奈のことは兎も角、蓮杖ホールディングスは奥様と御主人の二人で起こした会社ではないんですか。財産分与や慰謝料についてだってお話しになっていないでしょうに、離婚届に判を押すのは、あまりにも性急すぎやしませんか?」

「比奈ちゃんのお陰で私は、人生で最も大切なのは何かを学ばせてもらいました。それだけでもう充分です。今は、この離婚届で幸せになれる人が居るのなら、幸せになって欲しいのです」

「それで良いんかい?」徳次が念を押すと、克代はニッコリとして頷き、この話題はこれで終わりと言わんばかりに、「あんたケーキは?」と、比奈に聞いた。

「今、やってるとこ」答えて比奈は慌ててキッチンに戻った。


 史恵は比奈のケーキ作りを手伝い、克代はテーブルの準備をして、少し早めのクリスマスパーティが幕を開けた。其々のグラスに飲み物が注がれ、誰からともなく『乾杯』の声が上がった時、「その前に」と史恵が言った。

 そして史恵は、赤いリボンの掛った大きな包みを克代の前に、緑のリボンの大きな包みは徳次の前に、ピンクのリボンの包みは比奈の前に置き、「皆様にせめてものお礼の気持ちを」と深々と頭を下げた。

 色とサイズは違うものの、中身は全員同じでダウンジャケットと手袋と厚手の靴下、マフラーの冬のワンセットであった。

「オラにもけえ?」徳次が目を潤ませる。

 克代は早速、ジャケットを着て手袋とマフラーを身につけた。克代と徳次の輝いた顔は母のプレゼントを気に入った証と、比奈はそれが何よりも嬉しかった。

「それでは」克代がテーブルの下から包みを二つ取りだし、一つを史恵の前に置いた。

「お母さま、どうぞお開けになって」克代にそう言われて、史恵が包みを開くとそれは比奈が勉強中のドリルであった。頁を捲る史恵の目がみるみる真っ赤になった。

「エー!それ、あたしのじゃん」比奈が叫ぶ

「そう。あんたの物は私の物」克代が澄まして言った。

「じゃあ、おばさんの物はあたしの物?」

「違う」克代は笑みを浮かべて首を横に振った。「ドリルだけじゃなく、苦労も悩みもあんたのものは全部私のもの。だけど、私のものは私だけのもの。その代わり比奈ちゃんにも素晴らしいプレゼント」克代は金色のリボンのかかった包みを恭しく比奈に渡した。

「なに?なになに?何だろう?」嬉々として包みを開く比奈。が、出て来たのは、新しい数冊のドリルであった。「エー」大仰に天を仰ぐ比奈。

「そいじゃ、オラからのクリスマスプレゼント」皆が笑いに包まれる中、黙って肉を焼いていた徳次が、皆の皿に焼けた肉を入れてゆく。

「だってそのお肉、おばさんが買ったんだよ」比奈が茶々を入れる。

「みんなの物はおらの物……だでね」徳次が澄まして言った。そして、皆の笑いが収まった後、徳次は「これからが、オラと比奈ちゃんの、お二人へのホンマモンのプレゼント」「え!何?」比奈は飛び上がった。徳次からは何も聞いてない。

「では、御破算で願いましては」徳次が比奈の顔を見て言った。「七八足す二六足す一九足す四二足す八三では」

「二四八」比奈が即座に答えた。

「御明算」徳次が言い、数字の書いたメモを史恵と克代に示すと、二人から驚きと称賛の声があがった。

 続きまして、と徳次が幾つもの数字を読み上げると、比奈はそれを暗算して再び正確な数字を答えた。

「いつの間に!」克代が驚きの声をあげる傍で、史恵は涙が止まらなかった。史恵の涙は克代にも伝わり、二人が手を取りあって喜ぶ隣で、徳次が比奈に親指を立てた。「大成功!涙、涙のクリスマスプレゼントになったな」

「プレゼントなんて言うんだもん、あたしはまた、歌でも唄わされるのかと思ったよ」比奈の言葉で、皆は再び笑転げた。誰もが頬を紅潮させ光り輝いていた。


 幸せに満ちたクリスマスもお開きになり、徳次は山の家に帰って比奈も眠った。史恵は後片付けを手伝いながら、途中で思いついた、〈知之も一緒にこの町で暮らしたい〉という案を、顔を輝かせて克代にもちかけた。

 比奈に少々に不安はあるとしても、考えれば考えるほどその案は素晴らしいように思われる。明るさを取り戻した比奈と接した後では尚更だった。これで皆が幸せになれる。まさか、克代が異を唱えるなど予測もしなかった。何故なら、比奈はこのままならばいずれ東京へ帰る。そうなれば寂しくなるのは克代なのだ。

 だが、克代は難しい顔で首を傾げた。

 シャイニータウンでの盗難事件を振り返ると、何かがあれば、比奈は躊躇なく死への道を選ぶだろう。克代はそれが怖かった。藁にもすがる思いで克代は毎朝、比奈と一緒に浜辺に立ち日の出を拝んでいる。けれどもそれは単なるお呪いに過ぎないのだ。

 比奈の自殺願望の直接の原因が知之にあるのならば、今、二人が一緒に此処で暮らすのは無謀といえた。一体、比奈と知之の間に何があったのか……。単なる暴力が引き金とは、克代には思えなかった。

 克代にしてみれば、知之がしっかり立ち直ってから比奈を迎えに来て欲しかった。かと言って、比奈には死霊が憑いているかもしれないと、今、史恵に伝えるのはあまりにも酷に思えた。勤めを辞めた知之に代って必死に働きながら、アル中の夫を更生させようとしている史恵にこれ以上の苦悩を与えたくはない。

「父親は死んだと、比奈ちゃんは言い張っています。比奈ちゃんは真実を心の奥底に隠して蓋をしているように、私には思えてならないのです。弱い自分を認めたくないから、弱いのは母だと思い込み、何らかの理由で父親を意識から消し去っているのだと思うのです。勿論それは、あくまでも私の推論に過ぎませんが……」

「カウンセラーの先生からも同じようなことを言われました。私も蓮杖さんの仰る通りだと思います」

「だとすれば、今、此処にお父様が現われたら比奈ちゃんは混乱し、再び、自殺願望が首をもたげてしまう恐れがあるのでは?」

「そうですね。私が短絡的すぎたかもしれません」史恵は諦めて頷いた。

「何故、比奈ちゃんがお父様を拒絶するのか…」克代はため息を漏らした。

「実は……、主人が解雇を言い渡した社員が自殺をしたのです。その方には比奈と同じ年頃のお譲さんがいて、そのお譲さんが難病を患っていて一人では動けなかったようなのです。だから、その社員は奥様とお譲さまを道連れにして一家心中をしました。その事件がネットに流れて、一之瀬知之は人殺しと糾弾され、比奈も人殺しの娘と陰口をきかれて口をきいてくれる友も居なくなりました。

 もともと人付き合いが下手な性格ですから、仲間はずれにされていたこともあったらしくて……。相談する友もおらず、自殺に走るようになったのでしょう。

 けれども、主人は会社の命令に従っただけで主人が悪いわけじゃないのです。でも、そんなことはいくら弁解しようとしても、誰も聞く耳など持ってくれません。ここで負けたら、私達は全員が駄目になると思い、私は、二人に、『逃げるな。ここで逃げたら負けになる』と檄をとばしました。今、振り返ってみると、それが、二人をさらに追い詰めることになったのかもしれません」話し終った史恵にもう涙は無かった。

「もう少し……、もう少し二人で頑張りましょう。比奈ちゃんが全てを受け入れる日は必ずきます。そうすれば御主人だって」克代は史恵を見つめ、手を握った。

「いつでしょうか?」史恵の、縋りつくような視線が返ってきた。

「そう……。蜜柑の花が咲く頃には……」確信は無かったが、史恵が哀れに思えて克代はそう言わずにはいられなかった。


 翌日、東京へ帰る史恵を見送った後、克代は徳次の家に寄った。

「可哀そうで……」縋りつくような史恵の視線が頭から離れず、救いを求めるように克代は徳次を見た。

「驚えたな。克ちゃんがそんなこと言うなんて。かけた情けが身の破滅……か」徳次が言葉に節をつけた。

 克代は最初、お経かと思ったがそれは歌だった。何と言う歌だったか……、随分と古い歌だ。

「あ、お富さん!」克代は突然叫んだ。

「克ちゃんのお父がよく歌ってた」

「粋な黒塀 みこしの松にあだな姿の洗い髪 死んだ筈だよお富さん」克代は口ずさみながら考え、「ねえ、かけた情けが身の定めって言うんじゃないの?」

「そりゃ兎も角、情けは時として仇になることがあるでね」

「そうよね。この町に二人で越していらっしゃいって、私、危うく言いそうになっちゃったんだけど……」

「言わんで良かった」

 この人はどんな人生を歩んで来たのかと、克代はふと思った。この村で自然と共に穏やかに過ごして来たのだろうと、今の今まで思っていたのだが……。

「でもね、何時まで我慢するのかって聞かれて、蜜柑の花が咲く頃にはって言っちゃったのよ」

「蜜柑の花が咲く頃か……」徳次は首を捻った。

「無理かしら?」

「焦っちゃなんねえ……。あの日」徳次は上へ視線をはわせた。「盗難騒ぎのあったあの日だ。庭園で克ちゃんがあの子を見っけたから良かったもんの、あのまンま山ン中にでも入っちまってたらどうなっていたか……。焦りは禁物だ。あの子も毎日勉強して、少しっつでも自信が身について来てる。自信がつきゃあ強くなる。そうすりゃ死霊だって好き勝手にゃ出来ねえずら」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ